近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪人のマナー 遊郭の現状

2007年03月31日 | 文化
今日は、既に取上げた主題テーマ・大阪人のマナーのうち、これまた置き忘れてしまった”遊郭”について概括してみたい。

“遊郭”は治安や風紀を統制するため、公許の遊女屋を集めて、周囲を塀などで囲った区画で、成立は安土桃山時代に遡る。
16世紀後半、秀吉の治世時代に、道頓堀川北岸で始まった遊郭は、その後京都へ波及し、17世紀になると江戸でも遊郭が誕生したと云う。

大坂の新町・京都の島原・江戸の吉原は三大遊郭と呼ばれた。
これら以外にも、江戸期には全国20数ヶ所に、公許の遊郭が存在したと云う。

江戸時代当初の遊廓は、代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。
富裕な町人や、武家・公家を客とした、上級の遊女は、芸事にも秀で、文学などの教養が必要とされていたと云う。

明治に入り、「芸娼妓解放令」が出され、遊郭を郊外に移転するなど、規制が施行されたが、実態は変わらなかった。

第二次大戦終了後、公娼制度は廃止されたが、“赤線”と呼ばれる通称で残されたままであった。
昭和33年には「売春防止法」が成立し、公娼地域の遊郭は歴史上幕を閉じた。
しかし大阪の飛田新地・松島新地など、当時の趣をそのまま残している地域が幾つかある。





写真は、現在の西成区飛田地区の街並及び料亭・百番の店頭。

飛田遊郭は、難波新地が火災で全焼した後、大正初期に築かれた遊郭で、昭和初期には200軒を超えるまでに繁盛したと云う。
かつては新世界から通天閣へ、そこから南へ飛田新地まで繁華街が続いていたと云う。

戦災により多くが焼失したが、戦後赤線として復活し、昭和33年の売春防止法施行以降は、料亭街として、当時の雰囲気を伝えていると云う。

表向きは料亭の看板を掲げているが、営業内容は以前のままで、料亭に転向したという名目で、実質売春防止法適用を免れているようだ。

このあたりの対応は、業者・顧客とも実利主義本位で、生活のパターン・慣習優先で、法遵守・ルールは二の次と云う、大阪らしい利便性上位の姿が現われている。一部大阪人の快楽志向が黙認されている?????「あほくさ!」







写真は上から、戦前“松島遊郭”であった場所で、現在は松島公園として開放され、その西隣に残る、現在の九条・松島地区の風俗街と風俗店頭。

松島遊郭は、明治初期に近くの川口居留地の繁栄策として営業をスタートさせたが、大坂市中に散在していた非公認の遊所を一ヶ所に集めるためであったらしい。

大正期後半には、楼閣270軒以上・芸妓4000人など、日本最大の花街・大歓楽街であったと云う。

そして明治の大火災・大阪大空襲によって二度にわたり、松島遊郭は灰燼と帰したが、戦後には西隣に松島新地として誕生し、“売春防止法”発布後も、飛田新地と同じく、料亭街として存続している。

この界隈は、昼と夜の顔が一変すると云う。
「ほんまでっか!」



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1 コメント

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亡父は、古墳を観に行きましたが・・・ (みぃにゃん)
2010-03-14 01:59:30
実は、少し、色気目当てのBlogファンの方々を、(削減するのではなく、)どういう趣味・考え方で、あたしのBlogをご覧頂いているか?
探るべく、真面目な遊里・色里・新地記事を、書いてぶつけてみようかと、取材をしていました。
でも、亡父の趣味の一つ、野の仏と、古墳のBlogで、遊郭・色里・新地の記事に当たるとは思いも拠りませんでした。
女には、男の人のわからない部分が、そんな所なのかも知れません。
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