近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪の歴史散歩 水運の歴史

2007年04月04日 | 文化
大阪市域面積の約1割は水面が占め、都市に残された貴重なオープンスペースである市内河川では、治水整備だけでなく、環境に配慮した様々な整備が行われてきた。 





写真は、土佐掘川から直ぐの木津川下流及び木津川大橋の光景。

大阪・京都府境界で桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大河・淀川となるが、古代から為政者たちは、淀川をコントロールしようと治水に力を注いできた。





写真は、大阪周辺を横断する淀川の光景及び川にはつきものの橋で、2号線に架かる淀川大橋。

淀川の治水のはじまりとされるのは、4世紀に仁徳天皇が築造を命じたという“茨田堤(まんだのつつみ)”。「難波の堀江」開削の記述も日本書紀にある。
“茨田堤”は大河・淀川の中洲に堤防をめぐらせて川の流れを分断し、氾濫を予防すると共に、農地開拓と用水確保を可能にしたという。

淀川と大坂を語る上で欠かせないのは豊臣秀吉であり、その秀吉は1594年に、まず宇治川と巨椋池を堤防で分離し、京都-大坂間に文禄堤を築造したと云う。
 堤防は街道としても整備が進み、中心地の京都と大坂を直結する京街道と淀川の舟運で、水陸の大動脈を造り、舟運は江戸時代に黄金期を迎えることになった。

江戸時代の京阪間には、淀川に“三十石船”と呼ばれる貨客船が往来し、客船は毎日50便ほどが京阪を往復していたと云う。

と云うことで、「八百八橋」と呼ばれた大坂は、水路が縦横無尽に張り巡らされ、淀川と市中を結ぶ運河を記した古地図によると、安治川の開削で大坂港も整備が進み、一大物流拠点として、米だけなく各地からの物資が集中した大坂は、「天下の台所」としてゆるぎない地位を占めるに至った。

一方ナニワの「八百八橋」は、川と共に橋の街として名を馳せた。
「天満橋」・「天神橋」・「難波橋」の難波三大橋を始め、淀屋橋・水晶橋などの市内の橋のほか、淀川や大和川という大河に架かる枚方大橋や大和橋があるが、心斎橋・四ツ橋などは地名に名前を残すだけ。

しかし、かくも賑わった水路も、現在ではわずか道頓堀と東横堀川が、かつての名残をとどめているだけ。

そして淀川はやがて土砂で川床が浅くなり、水上交通の往来に支障をきたしたため、導入されたばかりの蒸気船をスムーズに運航させるため、土砂の流出を減らす砂防堰堤構築や植林が必要となった。

 上流の山々は、江戸時代から建築材の切り出しが続いたため裸地化し、大雨のたびに大量の土砂流出を繰り返していた。

一方道頓堀川の開削に伴って、道頓堀川の周辺では、歌舞伎の中座などの芝居小屋が集積し、劇場の街として栄えた。
明治の中頃まで、観劇には屋形船や茶船を利用していたと云う。





写真は、高速道路直下の東横堀川及び堀川通から望む東横堀川にはチョット緑が覗く。

その後、交通の発達や近代化の波は街をのみ込み、かつて栄華を極めた水都の面影を見つけ出すのは難しいほど。
「水都」と呼ばれた、大阪も近代化に伴って、河川は埋め立てられ、川の真上に蓋をするような形で高速道路が造られて、今や川は暗く澱んでいる。

能率と効率を追求した高度成長期にコンクリートと高い堤防で隔絶し、川に背を向けた大阪!
しかし現在では、船の川下りなど水にまつわる取組みがあちこちで始まり、水に対する市民の関心は高まりつつある。国や府、市も水都再生に向けて動き始めた。
失う時は一瞬でも、それを取り戻すには、長い年月と情熱が必要。

下水道整備や工場排水規制による河川に入る前の段階での水質改善のほか、水門操作・水面清掃などの河川における様々な水質浄化関連事業に着手し、以後水質は大幅に改善されつつある。



写真は、現在進行中の道頓堀川水辺整備事業の光景。
例えば、道頓堀川水辺整備事業は、大阪市が掲げるまちづくりの目標「水の都・大阪」再生に向け、道頓堀川の水辺に親水性の高い遊歩道を整備し、潤いある新鮮な空間によって都市魅力の向上に寄与することをめざしている。

水都・大阪の再生こそ、商都・大阪復活の最大の目玉になることは間違いないと確信する!!!!「ええやん!」



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