学問・稽古を打ち止めた1855年、慶喜は19歳にして、一条家の養女・美賀子(21歳)と結婚し、自身も参議に任ぜられた。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hearts_pink.gif)
慶喜12歳の時、一条忠香の娘・千代と婚約したが、千代が疱瘡を患い、アバタ顔になったという理由で、破談になってしまった。
しかし一条家は、慶喜との縁談になお熱心で、代わりに、江戸時代後期の公卿・今出川公久の娘・“菊亭家の延”こと、徳川美賀子を養女に迎い入れ、3ヵ月後には、慶喜との婚約にこぎつけている。
美賀子は、面長で鼻筋が通り、口が小さく、眼もと涼しげで、京人形のように美しく艶やかな娘だったと言う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/5a/1276311ced666d31a91f2cad0fb90113.jpg)
写真は、関白一条家が開山した菩提寺・京都の雪舟寺山門。
一橋家も、あくまで名門・一条家との縁談にこだわったように窺える。
一条家は、五摂家の一つで公家であり、幕末期の当主・一条忠香の三女・美子は明治天皇の皇后になったというように、藤原氏北家に遡る名家。
しかし実際、美賀子との結婚生活は、仲睦まじくとはいかなったようだ。
それと云うのも、結婚間もなく慶喜は謹慎生活を余儀なくされ、後見職になってからも慶喜は京都、美賀子は江戸という別居生活を強いられたことが大きい。
明治維新後、謹慎が解かれると、ようやく静岡へ美賀子を迎えるが、その時には既に側室がそばにおり、子供は全て側室から生まれ、美賀子との間には子供がなかった。二人の側室からは21人の子宝に恵まれたが・・・・・。
何度か身ごもったにもかかわらず、結局みな早世して子宝に恵まれなかったのは、最初の婚約相手・千代姫の呪いという噂まで立てられていたそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/8b/fcf95fe409a262cf8e96d473951d3e13.jpg)
写真は、東京JR日暮里駅前谷川霊園内の徳川慶喜と美賀子の墓所
静岡時代の美賀子は、散歩・花見・紅葉狩り・湯治などで過ごし、美賀子は一人で出かけることが多かったと云う。
晩年、乳癌に冒され、療養のため、一人東京に戻ったが、明治27年、千駄ヶ谷の徳川邸で死没。享年60歳。
最後の将軍の妻であったにもかかわらず、美賀子はあまり知られていないのは、余り知られたくないからかもしれない。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/eq_2.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hearts_pink.gif)
慶喜12歳の時、一条忠香の娘・千代と婚約したが、千代が疱瘡を患い、アバタ顔になったという理由で、破談になってしまった。
しかし一条家は、慶喜との縁談になお熱心で、代わりに、江戸時代後期の公卿・今出川公久の娘・“菊亭家の延”こと、徳川美賀子を養女に迎い入れ、3ヵ月後には、慶喜との婚約にこぎつけている。
美賀子は、面長で鼻筋が通り、口が小さく、眼もと涼しげで、京人形のように美しく艶やかな娘だったと言う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/5a/1276311ced666d31a91f2cad0fb90113.jpg)
写真は、関白一条家が開山した菩提寺・京都の雪舟寺山門。
一橋家も、あくまで名門・一条家との縁談にこだわったように窺える。
一条家は、五摂家の一つで公家であり、幕末期の当主・一条忠香の三女・美子は明治天皇の皇后になったというように、藤原氏北家に遡る名家。
しかし実際、美賀子との結婚生活は、仲睦まじくとはいかなったようだ。
それと云うのも、結婚間もなく慶喜は謹慎生活を余儀なくされ、後見職になってからも慶喜は京都、美賀子は江戸という別居生活を強いられたことが大きい。
明治維新後、謹慎が解かれると、ようやく静岡へ美賀子を迎えるが、その時には既に側室がそばにおり、子供は全て側室から生まれ、美賀子との間には子供がなかった。二人の側室からは21人の子宝に恵まれたが・・・・・。
何度か身ごもったにもかかわらず、結局みな早世して子宝に恵まれなかったのは、最初の婚約相手・千代姫の呪いという噂まで立てられていたそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/8b/fcf95fe409a262cf8e96d473951d3e13.jpg)
写真は、東京JR日暮里駅前谷川霊園内の徳川慶喜と美賀子の墓所
静岡時代の美賀子は、散歩・花見・紅葉狩り・湯治などで過ごし、美賀子は一人で出かけることが多かったと云う。
晩年、乳癌に冒され、療養のため、一人東京に戻ったが、明治27年、千駄ヶ谷の徳川邸で死没。享年60歳。
最後の将軍の妻であったにもかかわらず、美賀子はあまり知られていないのは、余り知られたくないからかもしれない。
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