近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 水資源と住居は?

2007年08月21日 | 歴史
縄文人の命の綱には、“火起こし”と共に、“水と住居”の確保が、絶対必要条件に挙げられる。

縄文人は、泉や川の水を生活水とし、そこを本拠地に海岸線で漁をし、河川を交通路に利用して、狩りなどができる生活拠点を選んだ。



写真は、青森市の小牧野遺跡脇を流れる、八甲田山系の川。

水に関しては、定住地を定める基本条件として、特に自然に敏感であった縄文人は、"泉"を見出すことで、飲料ばかりではなく、ドングリなどの植物質食料のアク抜きなどの加工にも使った。湧き水や川の流れに石を使って囲いを設けるなど、工夫をこらすようになった。



写真は、北海道伊達市の北黄金貝塚出土の“湧水遺構”。
叉"泉"自体は、"湧水遺構"とも呼ばれ、大規模な土木工事により、人工的にも造られた。水場遺構は、生活の憩いの場所でもあった。

"泉"は、「他界との接点」・「霊力の源」とみる思考が背景にあり、なかには、産水や死水を取る目的としても使われていたと云う。

と云うように、“泉”・“湧水遺構”は、思考や目的とも関連した祭祀性が極めて強い施設であったようだ。

次に縄文人の平均的な住居については前述した通り、縄文人の典型的なムラ単位が、円形や楕円形の土地の外周に竪穴住居が7・8戸建てられていた。
その中央に広場が広がる配置が、最小単位のムラで、そのような小さなムラが7・8戸集まって、標準的な大きなムラ社会を構成していたようだ。

中央の広場の大きさは、直径10m~100mくらいで、ある時は神聖な祀りの場となり、叉共同墓地になる場合も多かったようだ。
このように墓地を中心とするムラでは、人々の精神生活の中心に先祖たちの霊がいて、自然の精霊たちと共に、共生していたと云える。

典型的な縄文人の家は、直径5~6m、深さが10cmくらいの穴を掘って床面を作り、柱穴を掘って家を建てる、所謂“竪穴式住居”であった。







写真は上から、東京多摩ニュータウンの“縄文村”にある、縄文前期の復元竪穴住居、東京町田市の“本町田遺跡公園”の壁立ち式住居及び青森県八戸市“風張遺跡”から出土した、下部を土で固めた復元竪穴住居。
竪穴住居復元に当っては、それぞれ想像力を駆使した様子が窺える。

木柱の傷みや、カヤ屋根の補修の必要から、10年に一度くらいのサイクルで建て替えていたと思われる。
家の広さは、畳換算で、5畳~12畳で、2~5人が暮らしていたと見られる。



写真は、埼玉県富士見市“水子貝塚遺跡”の復元円形住居。
写真のように、竪穴を掘らずに細い支柱を円形に並べて建て、屋根をかぶせる“平地式住居”もあったと想像される。







写真は上から、宇都宮市“根古屋台遺跡”の大型掘立柱建物、横浜市都筑区“大塚遺跡”の高床式建物及び新潟県長岡市“藤橋遺跡”の高床式建物など。
写真のように、大型掘立柱建物、壁立ち式の住居、高床式の倉庫などが復元されているが、屋根を葺くのも、カヤばかりでなく、笹・チガヤ・土などをかぶせた屋根もあり、縄文人の知恵の見せ所であったと思われる。

家を建てることは、今も昔も変わらず大変な作業で、土地探しから始まり、木材を石斧で伐採・製材し、樹皮・蔦・カヤなど建築資材の調達、地面の掘り下げ・整地、柱立て・垂木を結び、屋根を葺くなど2~3週間の共同作業を要したと思われる。

縄文人の知恵が、遺憾なく発揮された記念物として、復元された当時の建物を観察することで、往時を偲ぶことができる。



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