桜塚古墳群は、豊中台地の中央、標高20~25m付近の低位段丘上に立地する古墳群。豊中市の中央部、阪急宝塚線・岡町駅を中心に東西約1.2km、南北約1kmの範囲に分布する。1956年5月に国指定史跡となった。
古墳時代前期後半(4世紀)から、中期末・後期初頭(6世紀)に渡って形成されたといわれている。
昭和10年代に実施された土地区画整理事業により、狐塚古墳・北天平塚古墳・南天平塚古墳などの発掘調査が進み、北摂最大の中期古墳群として周知されるようになった。
近年の調査によって発見された桜塚第37号墳から第44号墳までの8基を加えた、合計44基の古墳が確認されたが、宅地開発に伴い39基は破壊され、現存するものは、大石塚古墳・小石塚古墳・大塚古墳・御獅子塚古墳・南天平塚古墳の5基のみ。
北摂の古墳文化の隆盛を物語る大規模な桜塚古墳群があることや日本最大の規模をもつ堺市旧陶邑につぐ須恵器の窯跡が分布しているのは、古代のこの地方がよく開発されていたことを物語っている。
又天武天皇が桜塚の原田神社で勅祭を執り行って以来、桜塚の地は皇族や後の武家に重用されることとなる。桜塚に古墳群が数多存在するのも、古代より豪族との関係が深い証拠。
☆大石塚古墳


写真は、原田神社及び大石塚古墳。
大石塚古墳は、桜塚古墳群中の西端に位置し、南面する前方後円墳。
北側に位置する小石塚古墳と南北方向にほぼ主軸を揃えるなど、計画的に築造されたことがうかがわれる。小石塚古墳とともに、昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。
3段築成、全長80m以上、後円部径約48mで、桜塚古墳群で最も大きな古墳。墳丘には河原の石が葺石として、各テラス面には玉砂利がそれぞれ敷き詰められており、「石塚」の名の由来となったと云われている。


写真は、円筒形埴輪及び埋設円筒埴輪棺。
かつて、墳丘の平坦面には円筒形埴輪と朝顔形埴輪が各々3体一組で配されていた。調査発掘後、それらは豊中市立伝統芸能館に展示されている。
この古墳は古くから原田神社の所領に属し、聖域内に存在することから守られてきたもので、市内ではいち早く昭和31年に国の史跡に指定された。
出土した埴輪類から古墳時代前期後半に築造された古墳とみられ、桜塚古墳群出現時期を位置づける古墳として重要である。
また、4世紀中葉以降の政権中枢部や周辺地域との関係を推察する上においても貴重な資料を提供している古墳。
☆小石塚古墳

写真の小石塚古墳は、大石塚古墳の北側に位置し南面する前方後円墳。
大石塚古墳との間には浅い谷地が入り込むが、主軸はほぼ揃えられている。
昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。その結果、全長49m、後円部2段築成、前方部は1段構成と考えられ、大石塚古墳同様に東側のみに周溝を有する。葺石は用いないが、埴輪は使用している。
埴輪には壷形・朝顔形・円筒形などが認められているが、墳丘の損壊が激しいため、すべて遊離しており、原位置と配置は不明。
後円部墳頂には主軸に沿って埋葬施設(粘土槨)が確認されている。
棺は形状から割竹形木棺で、北頭位で埋葬されていたと想定できる。棺は黄白色の良質の粘土で包まれ、周囲には赤黄褐色の砂礫土が充填され、下部には砂利が敷かれていた。
☆大塚古墳

写真の大塚古墳は、桜塚古墳群の東群を代表する古墳。昭和10年代に周辺一帯に施された土地区画整理事業により北と西の裾部を一部削除された。
昭和50年代に入り、墳頂部より副葬遺物の露出を見るようになり、昭和58年に緊急性を重んじ発掘調査が実施された。高さ約18mの3段築成の円墳で、幅12~13mの周濠を含めると直径約80mに達する。
造成は5世紀初めごろとみられている。墳頂部には南北方向に主軸を採る並列された3体の主体部が存在した。主体部は大きく分けて東槨と西槨と呼ばれているが、東槨は、拳大の石で棺の両端を取り巻くように充填させる特異な構造であるが、そのほとんどがすでに流失していた。
西槨は、盗掘により既に大きく損壊していたが、長さ7.1mにも達する長大な割竹形木棺が2つ南北に並べられていたという。
東槨木棺内部からは、鏡・鉄製甲冑・鉄製剣・盾などの副葬品が出土し、調査発掘後、これらは国の重要文化財に指定された。
大塚古墳は1990年に史跡公園として整備された。
☆御獅子塚古墳

写真の御獅子塚古墳は、南面する前方後円墳で、大塚古墳の50m南に位置する。
桜塚古墳群東群を代表する古墳の一つで、大塚古墳に次ぐ規模を有する。
この古墳も昭和10年代の土地区画整理事業で後円部東側の一部は削除されたものの、幸運なことに大部分は保存された。
その後、南桜塚小学校体育館とプール建設に際し、後円部西側の一部と前方部周濠部が破壊された。自然崩壊も激しかったので、昭和60年と平成2年に史跡整備事業とともに発掘調査が実施された。
周濠を含めた全長は70mである。墳丘は2段築成で2段目斜面のみ葺石を施すという特異な外観を呈する。円筒形埴輪が密に樹立しており、中には須恵質のものも含まれる。形象埴輪片が数多く出土した。
後円部墳頂では主体部が上下で直行する2体検出されていたが、農耕具や馬具類、漆塗り革製盾が良好な状態で出土したほか、勾玉などの玉類も約400点出土。
御獅子塚古墳から出土した鉄製武器・武具類は、大陸系技術導入期の様相を如実に表している貴重な資料。
南天平塚古墳

写真の南天平塚古墳は、昭和10年代の土地区画整理事業に伴う道路計画によって、4分の3が破壊されることとなったため、昭和12年に発掘調査が実施された。
その結果、円筒埴輪列を伴う2段築成、直径約20m・高さ5.5mの円墳であることが明らかになった。
南東部では、円筒埴輪列で囲まれた突出部が検出され、方形区画の作り出しが付設していることも判明。
4分の3が道路によって破壊された後、平成3年に4分の1残りの部分の再調査を実施した。
その結果、一段目のテラスの埴輪列の上に幅7~8mの周壕を有することが明らかになった。そして、墳頂の下2.5mから2個の割竹形木棺が発見された。
それとともに、彷製六獣鏡、鉄刀、鉄剣、短甲、衝角付冑が副葬され、棺蓋の上には革盾をのせた形跡が認められた。

古墳時代前期後半(4世紀)から、中期末・後期初頭(6世紀)に渡って形成されたといわれている。
昭和10年代に実施された土地区画整理事業により、狐塚古墳・北天平塚古墳・南天平塚古墳などの発掘調査が進み、北摂最大の中期古墳群として周知されるようになった。
近年の調査によって発見された桜塚第37号墳から第44号墳までの8基を加えた、合計44基の古墳が確認されたが、宅地開発に伴い39基は破壊され、現存するものは、大石塚古墳・小石塚古墳・大塚古墳・御獅子塚古墳・南天平塚古墳の5基のみ。
北摂の古墳文化の隆盛を物語る大規模な桜塚古墳群があることや日本最大の規模をもつ堺市旧陶邑につぐ須恵器の窯跡が分布しているのは、古代のこの地方がよく開発されていたことを物語っている。

又天武天皇が桜塚の原田神社で勅祭を執り行って以来、桜塚の地は皇族や後の武家に重用されることとなる。桜塚に古墳群が数多存在するのも、古代より豪族との関係が深い証拠。
☆大石塚古墳


写真は、原田神社及び大石塚古墳。
大石塚古墳は、桜塚古墳群中の西端に位置し、南面する前方後円墳。
北側に位置する小石塚古墳と南北方向にほぼ主軸を揃えるなど、計画的に築造されたことがうかがわれる。小石塚古墳とともに、昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。
3段築成、全長80m以上、後円部径約48mで、桜塚古墳群で最も大きな古墳。墳丘には河原の石が葺石として、各テラス面には玉砂利がそれぞれ敷き詰められており、「石塚」の名の由来となったと云われている。


写真は、円筒形埴輪及び埋設円筒埴輪棺。
かつて、墳丘の平坦面には円筒形埴輪と朝顔形埴輪が各々3体一組で配されていた。調査発掘後、それらは豊中市立伝統芸能館に展示されている。
この古墳は古くから原田神社の所領に属し、聖域内に存在することから守られてきたもので、市内ではいち早く昭和31年に国の史跡に指定された。
出土した埴輪類から古墳時代前期後半に築造された古墳とみられ、桜塚古墳群出現時期を位置づける古墳として重要である。
また、4世紀中葉以降の政権中枢部や周辺地域との関係を推察する上においても貴重な資料を提供している古墳。

☆小石塚古墳

写真の小石塚古墳は、大石塚古墳の北側に位置し南面する前方後円墳。
大石塚古墳との間には浅い谷地が入り込むが、主軸はほぼ揃えられている。
昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。その結果、全長49m、後円部2段築成、前方部は1段構成と考えられ、大石塚古墳同様に東側のみに周溝を有する。葺石は用いないが、埴輪は使用している。
埴輪には壷形・朝顔形・円筒形などが認められているが、墳丘の損壊が激しいため、すべて遊離しており、原位置と配置は不明。
後円部墳頂には主軸に沿って埋葬施設(粘土槨)が確認されている。
棺は形状から割竹形木棺で、北頭位で埋葬されていたと想定できる。棺は黄白色の良質の粘土で包まれ、周囲には赤黄褐色の砂礫土が充填され、下部には砂利が敷かれていた。
☆大塚古墳

写真の大塚古墳は、桜塚古墳群の東群を代表する古墳。昭和10年代に周辺一帯に施された土地区画整理事業により北と西の裾部を一部削除された。
昭和50年代に入り、墳頂部より副葬遺物の露出を見るようになり、昭和58年に緊急性を重んじ発掘調査が実施された。高さ約18mの3段築成の円墳で、幅12~13mの周濠を含めると直径約80mに達する。
造成は5世紀初めごろとみられている。墳頂部には南北方向に主軸を採る並列された3体の主体部が存在した。主体部は大きく分けて東槨と西槨と呼ばれているが、東槨は、拳大の石で棺の両端を取り巻くように充填させる特異な構造であるが、そのほとんどがすでに流失していた。

西槨は、盗掘により既に大きく損壊していたが、長さ7.1mにも達する長大な割竹形木棺が2つ南北に並べられていたという。
東槨木棺内部からは、鏡・鉄製甲冑・鉄製剣・盾などの副葬品が出土し、調査発掘後、これらは国の重要文化財に指定された。

大塚古墳は1990年に史跡公園として整備された。
☆御獅子塚古墳

写真の御獅子塚古墳は、南面する前方後円墳で、大塚古墳の50m南に位置する。
桜塚古墳群東群を代表する古墳の一つで、大塚古墳に次ぐ規模を有する。
この古墳も昭和10年代の土地区画整理事業で後円部東側の一部は削除されたものの、幸運なことに大部分は保存された。
その後、南桜塚小学校体育館とプール建設に際し、後円部西側の一部と前方部周濠部が破壊された。自然崩壊も激しかったので、昭和60年と平成2年に史跡整備事業とともに発掘調査が実施された。
周濠を含めた全長は70mである。墳丘は2段築成で2段目斜面のみ葺石を施すという特異な外観を呈する。円筒形埴輪が密に樹立しており、中には須恵質のものも含まれる。形象埴輪片が数多く出土した。

後円部墳頂では主体部が上下で直行する2体検出されていたが、農耕具や馬具類、漆塗り革製盾が良好な状態で出土したほか、勾玉などの玉類も約400点出土。
御獅子塚古墳から出土した鉄製武器・武具類は、大陸系技術導入期の様相を如実に表している貴重な資料。

南天平塚古墳

写真の南天平塚古墳は、昭和10年代の土地区画整理事業に伴う道路計画によって、4分の3が破壊されることとなったため、昭和12年に発掘調査が実施された。
その結果、円筒埴輪列を伴う2段築成、直径約20m・高さ5.5mの円墳であることが明らかになった。
南東部では、円筒埴輪列で囲まれた突出部が検出され、方形区画の作り出しが付設していることも判明。
4分の3が道路によって破壊された後、平成3年に4分の1残りの部分の再調査を実施した。
その結果、一段目のテラスの埴輪列の上に幅7~8mの周壕を有することが明らかになった。そして、墳頂の下2.5mから2個の割竹形木棺が発見された。
それとともに、彷製六獣鏡、鉄刀、鉄剣、短甲、衝角付冑が副葬され、棺蓋の上には革盾をのせた形跡が認められた。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます