天皇の系図を見ると、父の15代応神天皇の和風諡号(しごう-贈り名)は、“ホムタワケ”、その子どもの仁徳が“オオサザキ”で、16代仁徳の子の三天皇(17代履中、18代反正、19代允恭天皇)のうち、二人までが、いわゆる!“ワケ系の諡号”を持っている。
しかし、仁徳はワケ系の諡号を持たない。まずこれが不思議で、元々天皇系図も、一般には真実性にかけると言われているが。
応神天皇(西暦393年崩御)→仁徳天皇(西暦427年崩御)→履中天皇(西暦405年崩御)→反正天皇(西暦410年崩御)と続く、天皇系図に見られる一連性のなかで、和風諡号の点から考えると仁徳天皇だけが違和感がある。
次に生存年数だが、第1代神武天皇の生存年数127歳を代表として、架空と断定されている第9代開化天皇までは、いずれも生存年数が100歳を越えている。
しかもその後も、仁徳天皇までは、生存年数が垂仁天皇の140歳を筆頭にどの天皇も100歳を越えている。
古代にこんな長生きした人がいるだろうかと極めて疑問であり、仮にこのことが事実としても、16代までの天皇全員が100歳を越えるということは、ありえないこと。
一番興味深い謎は、父である応神天皇とその子どもである仁徳天皇は同一人物ではないかという謎。
この2天皇の人物をめぐる説話には、かなり共通した話があり、例えば古事記には、琴の話がよく出てくるが、古事記の仁徳天皇の所に出てくる琴の話が、日本書紀では応神天皇のところに出てきたり、渡来人の話で、同一と思われる人物が、古事記では、応神天皇の時に日本に来たと書き、『姓氏録』では、仁徳天皇の時に来たとされているなど。



写真は上から、仁徳天皇陵正面拝所、応神天皇陵正面入口拝所及び履中天皇陵正面光景。
日本で最大の古墳は大仙古墳・仁徳天皇陵で、第2位は応神天皇陵、第3位が履中天皇陵。
ところが、この三つの古墳を考古学的に比較すると、年代順位がおかしい。
埴輪などの比較研究からすると、履中陵古墳の物は、すべて古い形の土師質埴輪で、応神陵古墳の物は、土師質と須恵質埴輪が混在していて、仁徳陵古墳は須恵質埴輪がほとんどだということがこれまでの調査でわかっている。


写真は左が、典型的な土師器の壷と須恵器の壷。
土師器は弥生土器の名残を持った素焼きの土器で、華麗な文様が影を薄めたのが特徴であり、須恵器に劣る600~750度で焼成される。
一方須恵器は朝鮮半島の技術を取り入れ、1,000度以上の高温で焼いた、青灰色の硬質の土器で、5世紀頃に土師器に取って代わった。
この歴史的事実は、重大なことを訴えている。即ち一番古い古墳は履中陵古墳で、次に応神陵、そして仁徳陵という順番になるが、この順番では、天皇系図上困る。
従来は、大仙古墳が仁徳天皇の陵墓だと言われてきたが、最近では圧倒的にそれを否定する声の方が多い。
現に最近、教科書から仁徳天皇陵の説明が消えつつある。

写真は、神戸市舞子の五色塚古墳、平地から望む三段丘。
本古墳の全長約194m、高さは前方部が11.5m・後円部約18mで、4世紀末から5世紀初頭頃の造営とされる。
時期的にも整合され、大仙古墳に代わり、神戸の五色塚古墳が仁徳天皇陵として取り上げられるようになってきた。
大仙古墳自体が、仁徳陵と断定できなくなってきたからであり、この事実は大変悲しいこと。
世界最大規模の古墳がいったい誰を被葬しているのかが分からないとは!
しかし、仁徳はワケ系の諡号を持たない。まずこれが不思議で、元々天皇系図も、一般には真実性にかけると言われているが。
応神天皇(西暦393年崩御)→仁徳天皇(西暦427年崩御)→履中天皇(西暦405年崩御)→反正天皇(西暦410年崩御)と続く、天皇系図に見られる一連性のなかで、和風諡号の点から考えると仁徳天皇だけが違和感がある。
次に生存年数だが、第1代神武天皇の生存年数127歳を代表として、架空と断定されている第9代開化天皇までは、いずれも生存年数が100歳を越えている。
しかもその後も、仁徳天皇までは、生存年数が垂仁天皇の140歳を筆頭にどの天皇も100歳を越えている。
古代にこんな長生きした人がいるだろうかと極めて疑問であり、仮にこのことが事実としても、16代までの天皇全員が100歳を越えるということは、ありえないこと。

一番興味深い謎は、父である応神天皇とその子どもである仁徳天皇は同一人物ではないかという謎。

この2天皇の人物をめぐる説話には、かなり共通した話があり、例えば古事記には、琴の話がよく出てくるが、古事記の仁徳天皇の所に出てくる琴の話が、日本書紀では応神天皇のところに出てきたり、渡来人の話で、同一と思われる人物が、古事記では、応神天皇の時に日本に来たと書き、『姓氏録』では、仁徳天皇の時に来たとされているなど。



写真は上から、仁徳天皇陵正面拝所、応神天皇陵正面入口拝所及び履中天皇陵正面光景。
日本で最大の古墳は大仙古墳・仁徳天皇陵で、第2位は応神天皇陵、第3位が履中天皇陵。
ところが、この三つの古墳を考古学的に比較すると、年代順位がおかしい。
埴輪などの比較研究からすると、履中陵古墳の物は、すべて古い形の土師質埴輪で、応神陵古墳の物は、土師質と須恵質埴輪が混在していて、仁徳陵古墳は須恵質埴輪がほとんどだということがこれまでの調査でわかっている。



写真は左が、典型的な土師器の壷と須恵器の壷。
土師器は弥生土器の名残を持った素焼きの土器で、華麗な文様が影を薄めたのが特徴であり、須恵器に劣る600~750度で焼成される。
一方須恵器は朝鮮半島の技術を取り入れ、1,000度以上の高温で焼いた、青灰色の硬質の土器で、5世紀頃に土師器に取って代わった。
この歴史的事実は、重大なことを訴えている。即ち一番古い古墳は履中陵古墳で、次に応神陵、そして仁徳陵という順番になるが、この順番では、天皇系図上困る。

従来は、大仙古墳が仁徳天皇の陵墓だと言われてきたが、最近では圧倒的にそれを否定する声の方が多い。
現に最近、教科書から仁徳天皇陵の説明が消えつつある。


写真は、神戸市舞子の五色塚古墳、平地から望む三段丘。
本古墳の全長約194m、高さは前方部が11.5m・後円部約18mで、4世紀末から5世紀初頭頃の造営とされる。
時期的にも整合され、大仙古墳に代わり、神戸の五色塚古墳が仁徳天皇陵として取り上げられるようになってきた。
大仙古墳自体が、仁徳陵と断定できなくなってきたからであり、この事実は大変悲しいこと。
世界最大規模の古墳がいったい誰を被葬しているのかが分からないとは!

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます