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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪府藤井寺市の大鳥塚古墳と赤面山古墳とは!そのⅡ

2011年05月22日 | 歴史
赤面山古墳巡りを続けます。









写真は、大鳥古墳に隣接する西名阪自動車道外壁の光景、同自動車道の高架下に残された赤面山古墳、同自動車道下に覗く赤面山古墳墳丘及び同古墳に隣接する古室山古墳入口。

大鳥塚古墳の北側、西名阪自動車道の高架下に小さな土の高まりがあるが、一見したところでは単なる土の山のようにも見え、うっかりすると見過ごしてしまいそうなのが赤面山古墳。

大鳥塚古墳の後円部に接するように位置する。大鳥塚古墳北側の方墳「国史跡 赤面山古墳」の南側には金堂製の馬具が出土した円墳の「丸山古墳」が存在する。

赤面山古墳は、墳丘の一辺が15mほどの方墳と考えられているが、人を葬った施設などは分かっていない。

大鳥塚古墳と赤面山古墳はともに5世紀前葉に造られたもので、その位置関係から、葬られた人物は相互に密接な関係にあったことが推測できる。

この関係とは一体どのようなものであったか?その謎を解く鍵を古市古墳群全体に視野を広げて考えてみる。

古市古墳群では、津堂城山古墳や古室山古墳が造られた4世紀末から5世紀初頭には、前方後円墳の被葬者はピラミッド形の身分秩序に組み込まれることによって権力者として認められていたと考えられる。そして、各古墳は墳丘の形に関係なく、それぞれが単独で立地していた。

しかし、二つの古墳が造られた5世紀前葉という時期には、それまで単独で立地していた方墳が、前方後円墳の周囲に寄り添うような立地を示すようになる。

このことは、前方後円墳の被葬者がさらに大きな権力を身につけたことの現われであると解釈することが可能で、以前は古墳の墳丘の形と規模とで現わされていた被葬者の身分秩序が、その立地にまで影響を与えるようになったと考えられる。

具体的には、前方後円墳の立地に合わせて、他の墳形の古墳を配置するという方法を採ったのではないか?

いずれにしても、大鳥塚古墳と赤面山古墳が造られたのは、従来の身分秩序が変化しつつある時期で、赤面山古墳の被葬者は、生前、大鳥塚古墳の被葬者に仕えていた人物で、死後もなお、その力関係は、葬られた古墳の墳丘の形と立地関係により、目に見える形で現わされたと考えられる。


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