近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 慶喜・一橋家へ養子

2007年04月26日 | 歴史
1847年、七郎麿(慶喜)が10歳の頃、一橋家当主の早世により、一橋家の養子となり、一橋家を相続することになった。



写真は、東京千代田区竹橋の丸紅本社前に所在する、一橋家屋敷跡の記念碑。

12代将軍・家慶は一橋家の出身であり、病弱な13代将軍・家定に代わって、活発で利発な慶喜を後継者にしたいとの思い入れが強く、慶喜元服の折には、自身の“家慶”の一字を与え、名を慶喜と改めさせたほど。
慶喜の一橋家入りは、大抜擢であり、幕府内に大きな波紋を呼んだとか。





写真は、一橋家屋敷跡脇の皇居外苑平川門の光景及び平川門から望む、丸紅本社前の一橋家屋敷跡。

慶喜の一橋家入りが、幕府内に大きな波紋を呼んだと云うのも、慶喜の血筋を辿ると、家康の11男・水戸家初代藩主の頼房まで戻り、世子相続を原則とする徳川宗家からすれば、はるかに遠い血筋であるため抵抗があった。

加えて、強硬な改革を迫る父・斉昭は、穏健派の幕府・老中たちにとっては、目の上のたんこぶ的存在で嫌がられた。

しかし斉昭にとって、慶喜を一橋家に養子に出すことにより、水戸家に留まっていてはありえない、将軍ポストの夢を賭ける念願が叶うことになった。

一橋家屋敷に移るに当っては、まり・よきほか計4人の付人が、水戸家から移籍することになったが、御三家・後三郷の付人は旗本の子女でなければならず、旗本を借宿に、その親戚として一橋家に入ったと云う苦労話が伝わっている。

一橋家のしきたりは、水戸家とは違い、付人が慣れるまでに苦心をしたと云う。
斉昭は日頃質素倹約を旨とし、又仏教に縁のない生活を信条としていたことから、付人が一橋家の生活風習に慣れるのに、大変戸惑ったという。



写真は、昔懐かしい雛人形の数々。

一橋家では法華経に信心深く、又一橋家伝来の雛人形購入・収集のために多額を出費するなど、家風の違いは如何ともしがたかった様子。

1847年、登城元服してからも、学問はそれまで以上に続けられた。
例えば手習いは一と六の日で、師匠とお相手は具体的に命名され、素読は二と七の日で、同じく師匠とお相手は決められ、剣術は三と八の日で、師範とお相手が決められ、大坪流の馬術は五と十の日で、師範が決められていたと云う。このほかにも、仕舞・弓術・槍術なども師匠が決められていた。
弓術・槍術・剣術について、慶喜は免許皆伝の腕前で、他にも砲術・兵学・絵画・音楽なども師匠の指導を受けていた。

このように一橋家を相続してからの慶喜は、もっぱら学問・術・稽古ごとなどのあらゆる分野で研鑽を積んでいたようだ。

唯一の息抜きの機会といえば、品川に出かけた時に、猟師が打つ投網に感心して、慶喜自身も網を借りて投げてみたが、うまく行かず、その後すっかりはまってしまい、佃島・台場などに出かけては、網投げの練習をしていたそうだ。
こだわり性・はまり性が際立つ慶喜の性格が現われている。

そして1856年慶喜19歳の折、「慶喜の手習い・稽古、御用多きにつき当分これを断る」とある。これこそ、慶喜幼少の頃から続いた学問・稽古の一区切り、いうなれば卒業の日であったと考えられる。

慶喜が一橋家に養子に入ってから約10年間、将に帝王学習得に精一杯勤め上げたことが、隠居後45年にも及ぶ、豊かで風流な隠遁生活に繫がり、今でも語り継がれている慶喜ならではの充実した余生をエンジョイできたと云える。



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