近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 塩の補給ルートは?

2007年08月22日 | 歴史
狩猟民は、獣肉の生肉・生き血などからナトリウムを補給していたが、縄文人も当初は同じように動物を通して塩を摂取していたと考えられている。

縄文早期以降は、海産物の活発な利用により、塩分補給を有利に展開し、内陸部においても、海岸地帯との交易により、各種海産物を入手していたと考えられる。

塩作りの当初は、原始的方法として、海水の入った容器を直接火にかけて煮詰める方法や、その後は海草を利用した“藻塩焼き”と云う方法で、乾燥させた海草を海岸に積み上げてそこに海水をかけて鹹水を取り、これを煮詰めるという方法や、或いは海岸の岩の隙間などに偶然できた海水の結晶化したものを採取するなど、縄文人の知恵比べの歴史でもある。

縄文後期後葉からは、本格的な製塩が行なわれ、仙台湾岸・霞ヶ浦西岸の遺跡からは、製塩土器が多く発見されています。





写真は上から、宮城県の里浜貝塚から出土した製塩土器及び岡山県邑久町門田貝塚から出土した製塩土器。

関東の霞ヶ浦周辺や仙台湾岸に、特殊な薄手無文土器を大量に保有する遺跡が出現した。製塩土器は写真の通り、小型で文様がシンプルで、使い捨ての土器。

食塩を煮しめるために、土器は一回の使用で破損・破壊されてしまう。
例えば、霞ヶ浦西岸の遺跡で製塩が行なわれた立地条件は、①燃料が得やすかったこと、②土器の大量生産が可能であった、③粗塩の運搬距離が短かった、などが挙げられる。

製塩が開始された時期と、東京湾岸の大型貝塚が作られなくなった時期と一致するが、その時期から例えば、千葉市の人口が急減した。

即ち大型貝塚が、製塩土器による製塩大量生産を興す前までは、干しハマグリなどの大量生産・大量供給により、それまでは塩分補給に一役買っていたことになる。

縄文人は海岸で作られる食塩と黒曜石などの矢ジリとの交換が行われたと見られるが、縄文晩期後半には、海岸での製塩大量生産を一切止めている。
何が原因・理由であったか、縄文時代の謎の一つと云われている。

自給自足によったのか、海岸からの遠隔地・洞窟遺跡の岩肌に見られる岩塩などに頼ったのか、入手方法を他の地に切替えたのか、世にも不思議な物語ではある。





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