近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

宝塚市の長尾山古墳とは!

2010年10月19日 | 歴史
ここで、奈良県内の古墳巡りから離れて、10月16日に現地説明会があった、宝塚市の長尾山古墳について、飛び込みで取上げたいが、その前に昨年9月に同古墳を巡り歩いたので、当時の様子から紹介したい。

宝塚市は、兵庫県南東部に位置し、国から“特例市”に指定されている。

宝塚市の「塚」は、正式には点のついた「」を用い、宝塚の「塚」はお墓の意味。
この古墳にまつわる伝承から「たからづか」という言葉が生まれたと云う。

宝塚市の古墳は大きく分けて、武庫川と猪名川の間に挟まれた長尾山丘陵と、武庫川の南西部の段丘上に築かれた古墳群、北部西谷地区の大原野周辺の古墳群にわかれる。







写真は上から、宝塚市山手台の長尾山全景、長尾山古墳の墳頂から望む市街地光景及び墳頂に広がる住宅街。

宝塚市の古墳の90パーセント以上を占めるのは群集墳。

群集墳が最も多いのは長尾山丘陵で、雲雀丘から山本にかけて分布が密になっており、300近い古墳があったと考えられている。

しかし風光明媚な住環境・交通の利便性などから、昭和初頭以降の宅地開発によって、数多くの古墳が破壊されてしまったと云う。







写真は、長尾山古墳内の散策道及び同古墳に散乱している葺石片。

長尾山古墳は1960年代までは前方後円墳と考えられてきたが、1969〜70年に行われた測量調査により、前方後方墳である可能性が指摘された。

この時の調査では、墳丘の規模が長さ36m程度・後方部の長さ約25m・高さ4mほど・前方部の高さ約1.5m。葺石と埴輪も検出されている。

埋葬施設は、主軸をほぼ南北方向に設定された粘土槨と想定され、長さ4.5m・幅1mほどの範囲で黄白色粘土が認められている。

埴輪から5世紀前半の築造と考えられ、長尾山に多数分布する古墳群の中で唯一の中期古墳である。

その後、発掘調査は一切なされておらず、正確な墳形・墳丘規模や造築時期など、詳しい全容は謎に包まれたまま。

前述の発掘調査では、各調査区で葺石の基底石が検出され、西クビレ部や前方部の調査結果から長尾山古墳が少なくとも2段以上の築成であることが明らかになった。

長尾山古墳では2段の葺石が確認され、一段目の葺石斜面と二段目の葺石斜面の間にはテラス面が設けられていた。
このテラス面には埴輪が配置されていたことも確かめられた。

使用されている石材は最大で40cmほどで、基底石には大きな石材が使用されていたと云う。





写真は、長尾山古墳から出土した朝顔形埴輪出土状況及び奈良市杉山古墳出土の5世紀後半の朝顔形埴輪。

埴輪のうち、写真の朝顔形埴輪(朝顔の花が咲いているような形状をもつ埴輪)とみられる頸部(けいぶ)の破片もみつかった。

このような特徴をもつ朝顔形埴輪は非常に少なく、わずかに奈良県天理市の東殿塚古墳、奈良市の杉山古墳や大阪府柏原市の玉手山3号墳などでみつかっているにすぎず、これらはいずれも4世紀初頭~5世紀後半に築造された古墳であることから、この長尾山古墳も同時期に築造された古墳である可能性が高いと考えられる。






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