近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 慶喜の少年期後半から結婚当時の世相は!

2007年04月28日 | 歴史
慶喜が一橋家に養子に迎えられた当時から結婚した1855年頃の政治・社会情勢は、大きく変わろうとしていた。
新たな時代を予兆させる、ハプニングが世の中を震撼とさせた。



写真は、アメリカのペリー提督の肖像画。
先ずは、1853年アメリカのペリーが、4隻の軍艦を従えて鹿児島湾・浦賀にやって来て、開国を要求した。かつて見たこともない黒船に幕府・日本社会全体が驚愕した。
江戸市民は、パニック状態になり、食糧や日用品の買占めが行われ、物価上昇を戒めるお触書が出たほど。

アメリカ大統領から、開国要請の国書を受け取った老中首座・阿部正弘は、開国すべきか否か、悩んだ挙句、江戸市民にアイディアを募集したほど。

第12代将軍・徳川家慶幕府の実験を握っていた阿部正弘は、「開国か攘夷か」という幕府の難題に対して、「譜代大名、外様大名を問わず、連合政権をつくって国難に対処してはどうか」と云うアイディアを提言したことに対して、譜代大名の筆頭・井伊直弼は、「外様大名の発言力が強くなり、幕府は崩壊する」と強硬に反対したと云う。このようにこの時点で、幕府の権威・政権維持力の凋落は明らかであった。



写真は、幕府大老・井伊直弼の肖像画。

翌年1854年には、日米和親条約を締結するに及んで、下田・箱館を開港し、鎖国は破れてしまった。
そして1858年、井伊直弼が米国に貿易許可を約束する、日米修好通商条約を、無勅許(孝明天皇の許可なく)で調印する段に及んで、激震が日本社会を揺るがした。

これを契機に、250年余り続いた徳川幕府の衰えを象徴する事件が続発する。
一方国内の幕藩体制は、長州藩の動向が見放せなくなってきた。





写真は上から、山口萩市の吉田松陰及び桂小五郎の銅像。
特に吉田松陰・桂小五郎の両長州藩士のリーダーシップが、大きく時代を動かしたと云える。

先ず長州藩士・思想家・教育者・兵学者である、吉田松陰は、ペリー艦隊来航を見て、日本の将来を憂えていただけに、外国留学の意志を固め、国禁を犯して密航をアメリカ船に依頼するが拒否され、長州の野山獄に幽因された。

当時松陰は松下村塾を開き、高杉晋作・木戸孝允・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋など80ほどの門人を集め・育成して、幕末から明治にかけて、活躍した長州藩の逸材を輩出した。
松陰は野山獄中でも、学校を開き、多くの囚人たちや獄の責任者の侍なども弟子として教育したと云う。

松陰は封建時代を打ち破り、自由・平等を求めた英雄で、維新前夜に一瞬の光茫の如く時代を駆け抜けた。「安政の大獄」計画を自供した松陰は、若干29歳の若さで、獄中斬首刑に処せられた。

長州藩のもう一人の巨頭・桂小五郎(木戸孝允)は、西郷隆盛・大久保利通と共に、維新の三傑と並び称され、長州藩指導者・外交担当であり、剣豪・開国の勤皇志士は、尊皇攘夷派の中心人物としてテロ活動を決行した。

桂小五郎は、長州藩の尊攘運動の指導者として活躍していたため、幕府は危険人物として、隙あれば捕らえようとしたが、幾度となく危ない局面を逃げ切った強運の持ち主。
いち早く危険を察知して安全なところに隠れるので、「逃げの小五郎」と呼ばれたりした。いたずらな死を避けるため逃げ徹し、生命を全うして国に尽すことを心がけたと云う。





写真は、京都市木屋町の“幾松”で、幕末の風情を今に伝える老舗料理旅館。
幕末の志士が集った元・長州藩控屋敷で、当時、新撰組の度重なる切り込みを受けたという。

桂小五郎が三条大橋の下で、乞食姿で潜伏していた頃、目を見張るような美人が乞食に差し入れしていた女性こそ、後に夫人となる祇園の芸者・幾松であったという逸話は、よく知られている。
ここ“幾松”こそ、桂小五郎とその恋人・幾松とのロマンスの舞台としても知られている。


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1 コメント

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こんにちは (ホットキーワード)
2007-04-28 06:22:24
はじめまして^^

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