桜井茶臼山古墳の副室に関して、隣接するメスリ山古墳について巡って見ます。
メスリ山古墳は、“東出塚古墳”・“鉢巻山古墳”とも呼ばれてきたが、4世紀前半頃に築造された、全長約224mの前方後円墳で、後円部は3段造りで径128m・高さ19m、前方部は2段造りで幅80m・高さ8mほどで、昭和55年に国の史跡に指定された。
箸墓古墳の方が、年代的に先行する。
艸墓[くさはか]古墳の南方に築かれた、西向きの前方後円墳で、北東約1.5kmにある、茶臼山古墳と並んで同時期のものでは最大級の古墳。



写真は上から、メスリ山古墳遠景、同古墳の森風景及びみかん畑越しの同古墳の森。
後円部の各段に円筒埴輪列が巡り、斜面には人頭大の葺石があった。
円筒埴輪は、後円部の三段と方形壇の墳頂部に密集して二列、また、墳頂部では二列の埴輪の間隔をとっている。
後円部の頂に竹垣を巡らしたように、埴輪の囲いがしてある箇所には、長辺約11.3・短辺約4.8m・高さ1m以上の長方形の壇がある。
直径1mもの円筒埴輪は、方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立っている。


写真は、メスリ山古墳の墳頂部光景及び同古墳の竪穴式石室概観。
後円部頂上の中央には、木棺を納めた主石室の竪穴式石室があり、その長さは約8.06m・幅約1.18m・高さ1.76mで、8石の天井石で覆われているが、盗掘によりほとんど遺物を残していない。

写真は、本古墳石室の巨大石組み。
主石室は、盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語っているが、それでも、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、石釧・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、石製合子などの玉類・刀剣、玉石製品では翡翠の勾玉・碧玉の管玉・貝輪を真似た石製の腕輪類・ミニチュア化した石製の椅子・櫛などが出土している。
主石室の横にあった副石室は、長さ約6m・幅約70cm・高さ60~70cmで盗掘を免れている。
また、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り天井部を持つ合掌式の竪穴式石室で、内部には遺骸がなく、武器ばかりが埋納された、格納庫・遺品庫であったと考えられている。
前方部は西に向けて立地し、2段築成で幅約80m・高さ8mほどで、埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在していた。
器台型埴輪は、高さ約2.4m・径約1.3mで日本最大であり、朝顔形埴輪も出土している。
本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳などと共に鳥見山古墳群に属する。
特筆すべき点は、埋葬施設の副石室が、まるで遺品庫の様相を呈していることで、規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。
本古墳墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる。
磐余地域の前期古墳として最大規模を誇り、阿倍氏の祖「オオビコ」の墓説もある。
オオビコに関しては、10代祟神天皇の御代、夷族平定の勅命を受けて全国四方に発せられた四道将軍の内、東国へ向けられたのは孝元天皇の子「大彦(オオビコ)命」とその子「武淳川別(タケヌナカワワケ)命」でした。
オオビコは北陸道を、タケヌナカワワケは東海道を進軍し、この二派が再び落ち合った場所が福島県会津だと言われている。
この東海道を進んだタケヌナカワワケこそが中央の阿倍臣の祖だが、その父であるオオビコも阿倍臣のご先祖ということになる。
メスリ山古墳は、“東出塚古墳”・“鉢巻山古墳”とも呼ばれてきたが、4世紀前半頃に築造された、全長約224mの前方後円墳で、後円部は3段造りで径128m・高さ19m、前方部は2段造りで幅80m・高さ8mほどで、昭和55年に国の史跡に指定された。
箸墓古墳の方が、年代的に先行する。
艸墓[くさはか]古墳の南方に築かれた、西向きの前方後円墳で、北東約1.5kmにある、茶臼山古墳と並んで同時期のものでは最大級の古墳。



写真は上から、メスリ山古墳遠景、同古墳の森風景及びみかん畑越しの同古墳の森。
後円部の各段に円筒埴輪列が巡り、斜面には人頭大の葺石があった。
円筒埴輪は、後円部の三段と方形壇の墳頂部に密集して二列、また、墳頂部では二列の埴輪の間隔をとっている。
後円部の頂に竹垣を巡らしたように、埴輪の囲いがしてある箇所には、長辺約11.3・短辺約4.8m・高さ1m以上の長方形の壇がある。

直径1mもの円筒埴輪は、方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立っている。


写真は、メスリ山古墳の墳頂部光景及び同古墳の竪穴式石室概観。
後円部頂上の中央には、木棺を納めた主石室の竪穴式石室があり、その長さは約8.06m・幅約1.18m・高さ1.76mで、8石の天井石で覆われているが、盗掘によりほとんど遺物を残していない。

写真は、本古墳石室の巨大石組み。
主石室は、盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語っているが、それでも、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、石釧・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、石製合子などの玉類・刀剣、玉石製品では翡翠の勾玉・碧玉の管玉・貝輪を真似た石製の腕輪類・ミニチュア化した石製の椅子・櫛などが出土している。
主石室の横にあった副石室は、長さ約6m・幅約70cm・高さ60~70cmで盗掘を免れている。
また、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り天井部を持つ合掌式の竪穴式石室で、内部には遺骸がなく、武器ばかりが埋納された、格納庫・遺品庫であったと考えられている。
前方部は西に向けて立地し、2段築成で幅約80m・高さ8mほどで、埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在していた。
器台型埴輪は、高さ約2.4m・径約1.3mで日本最大であり、朝顔形埴輪も出土している。

本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳などと共に鳥見山古墳群に属する。
特筆すべき点は、埋葬施設の副石室が、まるで遺品庫の様相を呈していることで、規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。

本古墳墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる。

磐余地域の前期古墳として最大規模を誇り、阿倍氏の祖「オオビコ」の墓説もある。
オオビコに関しては、10代祟神天皇の御代、夷族平定の勅命を受けて全国四方に発せられた四道将軍の内、東国へ向けられたのは孝元天皇の子「大彦(オオビコ)命」とその子「武淳川別(タケヌナカワワケ)命」でした。
オオビコは北陸道を、タケヌナカワワケは東海道を進軍し、この二派が再び落ち合った場所が福島県会津だと言われている。
この東海道を進んだタケヌナカワワケこそが中央の阿倍臣の祖だが、その父であるオオビコも阿倍臣のご先祖ということになる。

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