近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天理市の渋谷向山古墳(続報)とは!

2011年07月26日 | 歴史
渋谷向山古墳は、奈良県天理市渋谷町にある前方後円墳で、現在は宮内庁により景行天皇陵に指定されている。

渋谷向山古墳は、江戸時代には第10代崇神天皇陵とされていたのが、慶応元年(1865年)に景行天皇陵に治定変更された経緯がある。

その根拠は不明だが、『日本書紀』には、崇神天皇陵も景行天皇陵も、「山辺道上陵」と全く同じ名称を用いており、この史書の編纂のころには、被葬者が分からなくなっていたことを暴露している。

このようなずさんな史料を基にした治定など信用できないとしていた。

渋谷向山古墳の築造年代は、現在の崇神天皇陵である行燈山古墳より少し遅れた4世紀後半と推定されている。

天理市の石上神社から桜井市の大神神社までの、山の辺の道を巡ると、天理市布留の石上神宮から桜井市三輪の大神神社までの南北約10kmの途中に、標高586mの竜王山および標高567mの纒向山から延び出る尾根が張り出している。

それらの尾根が盆地の平坦部にとどくあたりに多くの古墳が築かれ、北から順に大和古墳群、柳本古墳群、纒向古墳群と呼ばれている。

西殿塚古墳、黒塚古墳、櫛山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓古墳、茅原大墓古墳などの古墳が見える。







写真は、渋谷向山古墳・景行陵の正面拝所、同遠景及び周濠の様子。

山ノ辺の道沿い古墳群のうち、柳本古墳群は大型の行燈山古墳や渋谷向山古墳を中心に13基の前方後円墳と1基の双方中円墳から構成されるが、いずれも古墳時代前期の築造と見られている。

そのうち、渋谷向山古墳はその中で最大規模を誇り、全国の古墳の中でも、第7位にランクされる。

本古墳の全長約310m・前方部幅約170m・高さ約23m・後円部径約168m・高さ約23m。

墳丘は東西方向に主軸をおき、後円部は正円形で3段築成、前方部も3段で築かれている。後円部頂上は平坦で円形であるが、前方部の頂上も平坦であり、長い台形。



写真は、渋谷向山古墳の上空写真。

本古墳は、後円部後方と前方部前端で比高差が約15mもある急斜面に、300m余りの墳丘を築造し、後円部は真上から見て正円になるように施工している。

正円が「日輪」を象徴し、ヒノミコ(日の御子)たる霊力を具えた権能を象徴していると云える。

本古墳周濠は盾形をなし、墳丘両側の谷を堰き止めて作った階段状の周濠で、周濠への湛水のため、墳丘と外部をつなぐ渡土堤を設置した。

現状の周濠・渡土堤は少なからず後世の改変を受けていると考えられ、調査の結果、その渡土堤のうち、いくつかが古墳造営当初のものと判明している。

「記紀」によれば、大和朝廷の実質的な創始者とされる第10代崇神天皇以下、11代垂仁天皇、12代景行天皇と云うように、最初の3代の天皇が、纏向周辺の三輪山山麓に宮を築いている。

初期の大型前方後円墳もこの地域に集中している。

崇神天皇の墓とされているのは、箸墓から2kmほど離れた山裾にある行燈山古墳であり、行燈山古墳と、箸墓古墳のほぼ中間に、渋谷向山古墳があり、第12代景行天皇陵とされている。

行燈山古墳と渋谷向山古墳のふたつの古墳は、前者が全長242mほど、後者が全長310mで、景行陵の方が崇神陵より大きく造られている。

現在の考古学では、慶応元年以前の比定が正しかった可能性が指摘されている。

宮内庁が2つの陵墓の周濠の土器を調査したところ、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)の方が、行燈山古墳(現崇神天皇陵)より古い形式の土器だったと云い、崇神天皇の墓は、行燈山古墳よりも渋谷向山古墳の可能性が強い。



写真は、南側(写真下)の渋谷向山古墳と北側の行燈山古墳の位置関係地図。

渋谷向山古墳が崇神天皇陵となると、卑弥呼の墓としてきわめて有力になってきた箸墓と、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の墓は、すぐ隣り合ったきわめて近い位置関係にあるということになり、ちょうど纏向遺跡を挟むように南と北に位置しているわけ。

ということで、邪馬台国と大和朝廷は、地理的に距離が近いというだけではなく、時間的にも非常に近いということがわかってきた。

最近の弥生時代と古墳時代の編年研究では、邪馬台国と初期大和朝廷は、時間的にほとんど繋がっているといってもいいほどで、卑弥呼の死(3世紀中頃)を境にして、大和盆地で巨大な前方後円墳が造られ始めるということになる。




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