近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県河合町から広陵町にかけての馬見古墳群とは!

2011年01月22日 | 歴史
馬見古墳群は、佐紀盾列古墳群・大和柳本古墳群と並ぶ大和3大古墳群の一つに挙げられている。

奈良盆地東南の大和柳本古墳群と対峙するかのように佇む古墳群からは、当時の歴史を窺い知ることができる。

奈良盆地西部の葛下川の間、河合町から広陵町・大和高田市にかけて横たわる南北7km・東西3kmほどの範囲に平地との、比高差30mのなだらかな洪積層台地の丘陵が「馬見丘陵」。





写真は、佐味田ナガレ山古墳墳頂から望む二上山・葛城山と奈良市街地光景。

数多くの古墳群を包み込むように豊な自然が広がり、馬見丘陵公園は、歴史と文化遺産や素晴らしい自然環境を整えている。

この丘陵の東側斜面を中心に大型の古墳が多く分布しており、一般的に「馬見古墳群」と称されている。この古墳群は大きく三つのグループに分けられている。

馬見古墳群は奈良盆地西南部の奈良県北葛城郡に広がる馬見丘陵とその周辺に築かれ、北群・中郡・南群の三郡からなる県下でも有数の古墳群。





写真は、河合町から広陵町にかけての馬見丘陵古墳群の上空写真及び馬見古墳群・中央エリアのマッピング。

巨大古墳が数多く存在することで知られる馬見古墳群は、日本を代表する一大古墳群。馬の背に似ていることから「馬見丘陵」の名がついたという丘陵地帯を利用し、4世紀末から6世紀にかけて巨大な古墳が築造された。

これら古墳群は、古代豪族・葛城氏の墓域とみる説もあるが、大王クラスの墓も多く、被葬者についてはいまだ謎が多い。

奈良盆地西部の馬見丘陵に所在する、250基を超える大古墳群のうち、巣山・新木山・築山古墳など大王級の古墳を中心として、さまざまな古墳が分布する。

大和盆地を東西に二分する勢力、天皇家と葛城氏の興亡を背景とした古墳群の盛衰を象徴しているかもしれない。

馬見丘陵は、嘗ては雑木林や竹やぶの間に田畑が存在する、のどかな山村風景で、広陵町にある牧野(ばくや)古墳などは、かつては子供の遊び場であったと云われている。

1960年代、丘陵近くの300㌶が日本住宅公団によりニュータウンとして開発されることになり、奈良盆地のうちで最も変貌の激しい地域となり、開発地域内の古墳について破壊の恐れがあり、地元の保存会が中心となり、古墳については緑地公園として、その多くは保存されることになったが、開発はすざましい勢いで進んだらしい。

中でも、丘陵中央部にある、全長約105mの前方後円墳・佐味田ナガレ山古墳が1975年には土取により前方部の半分近く、全体の4分の1が削り取られ、墳丘は剥き出しになり無残な姿であったが、地元の保存運動により、本古墳を史跡として保存することになり、1976年12月、国の史跡に指定された。

一方乙女山古墳の墳形・築造時期は5世紀前半の築造で、前方部が極端に短い典型的な帆立貝形古墳。墳丘は、北西から南東に延びる尾根を切断して、整形したもので、南側は盛土により外提が築かれている。

帆立貝形古墳とは、古墳の平面の形が帆立貝に似ているため命名されたもので、大和における帆立貝形古墳20基余りあるが、このうち馬見古墳群に6基が集中しており、乙女山古墳のほか、別所下古墳・佐味田狐塚古墳・池上古墳・三吉2号古墳などがある。

帆立貝形古墳は5世紀前半に現れ、同中頃に一端消えたが、同世紀後半に再び現れ、その後は造られなくなっていると云う。

というように、それぞれの古墳にはその歴史や経緯を窺い知ることができるが、ここでは馬見丘陵エリア内外で代表的な古墳群、佐味田ナガレ山古墳・乙女山古墳・佐味田狐塚古墳・別所下古墳・佐味田宝塚古墳・牧野古墳等々順次巡っていく。




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