天皇陵の比定違いとは逆に、既に天皇陵として認知されている事例を紹介します。
現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代までの天皇陵では、天智天皇陵・天武・持統天皇陵など数か所程度とされる。
ここで、天皇陵として認知されている、天智天皇陵と天武・持統天皇陵を以下紹介する。
→都市山科区の御廟野古墳・天智天皇陵
御廟野古墳・天智天皇陵は、京都市山科区御陵上御廟野町に所在する古墳時代終末期の八角墳。
広大な御陵周辺は、地名からして、御陵一色に染められている。天智天皇は、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。
又京都の山科に墓を造ったのは、天智天皇が馬で山科に行った時、行方不明のまま戻らなくなり、沓だけがここで見つかったので墓を造ったという伝承によるとも云われている。
山科は、京都市街地の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を範囲としている。
東海道の街道町で、江戸時代には特に栄えたらしい。東側は滋賀県大津市との県境に接し、南側は伏見区醍醐地区と接している、閑静なベッドタウン。
写真は、琵琶湖から流れる、琵琶湖疏水・山科疎水の風景と、天智天皇陵への誘導路と参道。
天智天皇陵の直ぐ北側には、写真のように、松並木に囲まれた琵琶湖疏水の流れが見えるが、当地は隠れ桜の名所としても知られている。
考古学的には御廟野古墳と呼ばれているが、実際は宮内庁管理下の陵墓であり、上円下方墳で、下段が方形、上段が八角形の古墳。
八角形の規模は、上円対辺長約46m・下方辺長約70mを測ると云う。
写真は上から、御廟野古墳・天智天皇陵の案内板、陵墓正面、側面ビュー、石碑及び天智天皇ゆかりの日時計碑。
周囲に玉垣をめぐらした上円下方墳で、入口に天智天皇が日本で最初に時計を作ったという故事にちなんだ、石造りの日時計がある。
御陵が上円下方墳で、上円部が八角形という特殊性は感じ取れない。
本古墳は、被葬者の実在性について、天皇陵古墳であることに問題がないと云われているだけに、「天智天皇陵」と呼称しても、間違いのない古墳。
このような古墳は非常に稀で、他には天武・持統合葬陵の“野口王墓”があるだけらしい。
八角墳は7世紀の中葉になると、大王墓のみが営むようになり、現在知られているかぎりでは、天智天皇陵のほかは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳の現舒明天皇陵、上述の奈良県高市郡明日香村の野口王墓の現天武・持統陵、一般に文武天皇陵と考えられている奈良県明日香村の中尾山古墳だけ。
日本では初めて大王に、八角墳という固有型式の陵墓が出現したといえる。
第38代・天智天皇は、別名・天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)で、大化改新で知られている中大兄皇子。
天智天皇(626~671年)の皇子時代の名は中大兄皇子で、中臣鎌足らとクーデターを起こして蘇我入鹿を暗殺、大化改新を成し遂げた人物として有名。
663年、百済復興を目指した白村江の戦いで大敗を喫した後、大津へ遷都して大津宮で即位。
歴史的には天智天皇は671年12月、大津宮で崩御。御陵の土地選定中に皇位継承をめぐり、息子の大友皇子と弟の大海人皇子(天武天皇側)との間に壬申の乱が起こり、反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。
天智天皇の死後28年後にようやく御陵造営が始まったらしい。
天智天皇の死は、弟の大海人皇子による暗殺という説もあるらしい。
現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代までの天皇陵では、天智天皇陵・天武・持統天皇陵など数か所程度とされる。
ここで、天皇陵として認知されている、天智天皇陵と天武・持統天皇陵を以下紹介する。
→都市山科区の御廟野古墳・天智天皇陵
御廟野古墳・天智天皇陵は、京都市山科区御陵上御廟野町に所在する古墳時代終末期の八角墳。
広大な御陵周辺は、地名からして、御陵一色に染められている。天智天皇は、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。
又京都の山科に墓を造ったのは、天智天皇が馬で山科に行った時、行方不明のまま戻らなくなり、沓だけがここで見つかったので墓を造ったという伝承によるとも云われている。
山科は、京都市街地の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を範囲としている。
東海道の街道町で、江戸時代には特に栄えたらしい。東側は滋賀県大津市との県境に接し、南側は伏見区醍醐地区と接している、閑静なベッドタウン。
写真は、琵琶湖から流れる、琵琶湖疏水・山科疎水の風景と、天智天皇陵への誘導路と参道。
天智天皇陵の直ぐ北側には、写真のように、松並木に囲まれた琵琶湖疏水の流れが見えるが、当地は隠れ桜の名所としても知られている。
考古学的には御廟野古墳と呼ばれているが、実際は宮内庁管理下の陵墓であり、上円下方墳で、下段が方形、上段が八角形の古墳。
八角形の規模は、上円対辺長約46m・下方辺長約70mを測ると云う。
写真は上から、御廟野古墳・天智天皇陵の案内板、陵墓正面、側面ビュー、石碑及び天智天皇ゆかりの日時計碑。
周囲に玉垣をめぐらした上円下方墳で、入口に天智天皇が日本で最初に時計を作ったという故事にちなんだ、石造りの日時計がある。
御陵が上円下方墳で、上円部が八角形という特殊性は感じ取れない。
本古墳は、被葬者の実在性について、天皇陵古墳であることに問題がないと云われているだけに、「天智天皇陵」と呼称しても、間違いのない古墳。
このような古墳は非常に稀で、他には天武・持統合葬陵の“野口王墓”があるだけらしい。
八角墳は7世紀の中葉になると、大王墓のみが営むようになり、現在知られているかぎりでは、天智天皇陵のほかは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳の現舒明天皇陵、上述の奈良県高市郡明日香村の野口王墓の現天武・持統陵、一般に文武天皇陵と考えられている奈良県明日香村の中尾山古墳だけ。
日本では初めて大王に、八角墳という固有型式の陵墓が出現したといえる。
第38代・天智天皇は、別名・天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)で、大化改新で知られている中大兄皇子。
天智天皇(626~671年)の皇子時代の名は中大兄皇子で、中臣鎌足らとクーデターを起こして蘇我入鹿を暗殺、大化改新を成し遂げた人物として有名。
663年、百済復興を目指した白村江の戦いで大敗を喫した後、大津へ遷都して大津宮で即位。
歴史的には天智天皇は671年12月、大津宮で崩御。御陵の土地選定中に皇位継承をめぐり、息子の大友皇子と弟の大海人皇子(天武天皇側)との間に壬申の乱が起こり、反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。
天智天皇の死後28年後にようやく御陵造営が始まったらしい。
天智天皇の死は、弟の大海人皇子による暗殺という説もあるらしい。
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