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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大東市の宮谷古墳群とは!

2010年04月19日 | 歴史
大東市は、大阪府の東部・河内地方のほぼ中央に位置する、人口13万人ほどの中小企業を中心とした自立都市で、豊かな自然が息づく「金剛生駒国定公園」を境に奈良県に、西は大阪市に接している。



写真は、大東市野崎に残る古い町並み。

古墳時代の大東市は、大半が水域に覆われていたが、当時河内湾周辺であった中垣内・野崎・北条地区あたりに人々が住み着き、農耕を基盤とする集落が形成され始めたと云う。

当時堂山古墳群を始め飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、その麓には当時朝鮮半島からやってきた渡来系の人々が活動をしていた痕跡が見いだされる。

宮谷古墳群は、飯盛山から西へ張り出した尾根の突端部、標高40mほどの宮谷川左岸にあり、直径20mほどの古墳時代後期の円墳。

本古墳は、北条6丁目の丘陵地斜面にあり、現在も横穴式石室の石材が残る。



写真は、移設された片袖横穴式石室。

石室は、円墳の中央部に置かれ、盗掘された痕跡を残していたと云う。

昭和62年に宅地造成に先立って発掘調査が行なわれ、片袖横穴式石室が発見され、玄室の長さ約4.3m・羨道の長さ約4.9mと推定されている。

石室は大東市サーティホール玄関に移設されている。

盗掘されていたというものの、石室内からは、須恵器・土師器・鉄矛・鉄鎌・円筒と象形埴輪・金環・銀環などが出土した。



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