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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府長岡京市の今里車塚古墳とは!

2009年07月16日 | 歴史
今里車塚古墳は、5世紀前半・古墳時代中期に造られた全長約75mの前方後円墳で、幅12mほどの濠を巡らしている。市内では恵解山古墳に次ぐ大規模なもので、葺石で覆われていた墳丘は削り取られ、当時の面影は窺えない。











写真は上から、今里車塚古墳が削り取られた現場の説明看板、本古墳を分断した“今里通り”、道路を挟んで後円部方面及び前方部跡地及び元々の古墳形態イメージ。

残念ながら、住宅や道路が開発され、当時の面影は全く見られない。
長岡京の大路が造られた際に、既に破壊されたらしい。

墳丘規模や出土遺物などから、本古墳は、有力な支配者である首長を葬った前方後円墳。



写真は、本古墳から出土した木製の埴輪片を復元したもので、盾形埴輪の一部と見られる。

周濠の中から陶製埴輪や土器のほかに「木製の埴輪」が出土し、全国的に注目されたと云う。

長岡京市今里の本古墳・第11次調査で、木製の柱列や盾形埴輪などが出土。今回の調査は、1978年以来続いた同古墳の最終調査になる見込みで、「盾形埴輪の確認は初めて。古墳の実態を解明するのに大切な成果をあげられた」としている。

調査地はマンション建設予定地で、前方後円墳の最西端にあたる。

東西約5m・南北約18mを発掘したところ、後円部の墳丘の端の部分や約4m間隔で設置された木製の柱4本が確認され、文様の描かれた盾形埴輪も見つかった。

これら木製品は、被葬者の権威の大きさを示していると云う。同市内の勝竜寺にある恵解山古墳と同じく、乙訓地方を治めた首長の墓と見られる。

柱が発掘された状況からは、柱を立てた後に盛り土や葺石の作業が施されたことが分かるといい、墳墓をつくる最初の段階に、柱を置いたかもしれない。

「今までにも柱は出土していたが、今回の調査から、設計の基準の役割を果たしていた可能性も出てきた」としている。

この辺りの弟国宮(おとくにのみや)は、西暦518年に継体天皇が筒城宮から遷宮した3番目の宮跡の推定地と見られる。付近には乙訓寺が所在するが、この辺りが候補にあげられる。

乙訓寺の乙訓は、長岡・向日・大山崎地域を乙訓郡といい、古くは「弟国」と記されていた。また、乙訓寺周辺の今里からは、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡が広範囲に発見されているらしい。

この辺りには、本古墳のほか、小規模な円墳や方墳で構成される山畑古墳群、福西古墳群、走田古墳群など大小様々な古墳が数多く築かれていると云う。






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