近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 旧幕臣の駿府移住

2007年06月14日 | 歴史
慶喜に代わって幼い“亀之助・家達”が徳川家を継ぎ、70万石の一大名として、駿府藩に封じられた時、江戸から一斉に幕臣たちが、清水(現在の静岡市清水区)・静岡に移住した。



写真は、平成11年、開港100周年記念を祝った、清水港。

1868年7月15日に、駿府新藩主・家達が清水港到着、同23日には、慶喜が到着し、ここに静岡藩(当初は、駿府府中藩)が始動した。

そして旧幕臣の江戸からの大移動は、1868年の夏から秋にかけてピークを迎え、人数は家族たちも含めて約2万人に達したと云う。

藩主家達の下で、静岡藩を支えたのは、中老格の“大久保一翁”、幹事役の“勝海舟”や“山岡鉄舟”らで、いずれも江戸無血開城の立役者となった和戦派の人たちであった。
中でも大久保一翁は、薩長藩から「大久保一翁と勝海舟の他に幕府に人材なし」と評されるほどの人物であった。



写真は、大久保一翁の肖像。
大久保は、江戸城明け渡しの担当者として、幕府の敗戦処理を引受けた後は、慶喜と共に駿府に移住した。ここで徳川家と共に、一生を終えるつもりであったらしい。

その後は明治新政府からの度重なる要請により、大久保は静岡県知事・東京都知事・元老院議官などを歴任した。
しかし11年間にわたる、元老院議官として任務中、会議には出席したものの、一言も発言しなかったと云う。徳川家の遺臣として明治政府には協力できないと、元々の頑固者を通したらしい。



写真は、勝海舟の肖像。
一方勝海舟は、朝敵とされた慶喜の赦免、旧幕臣の生活保護など幕藩体制崩壊による大混乱を最少限に抑える努力を、死去直前までの明治30年間にわたって、続けた。

その結果、例えば当時侘しい村でしかなかった横浜に、江戸幕府瓦解で職を失った士族たちを10万人ほど送り込んで横浜港発展に寄与し、駿府にも8万人ほどの旧幕臣と家族たちを移住させて、静岡茶の生産を日本一に押し上げるなど、勝海舟の江戸難民対策の功績は賞賛に値する。

ところで江戸から大量に移動した幕臣たちのうち、多くは無禄移住者であった。
一挙に十分の一に縮小された徳川家石高では、直参の旗本・御家人たち全員を召し抱えることは到底無理であった。

それぞれの家族たちも含め、収入の道を失った幕臣たちが、いわば難民となって清水・静岡にやって来た。
移住先である、西遠は新居(現在の静岡県新居町)から静岡と清水周辺、沼津周辺に至る各地は、物不足からコメや生活物資が急騰し、大いに迷惑したと云う。

コメ不足の一因には移住者による突然の人口増とは別に、当時芽生えつつあった“兵農分離”の原則を覆そうとする農民の領主への抵抗の動き、商人の中には利得のため領外へ米穀を出荷するなど、商人と農民との経済的対立なども原因で、米価高騰に拍車をかけたと見られる。
経済的に困窮する者が続出し、駿府藩では急場凌ぎに、元の禄高に応じて米塩を支給したほど。



写真は、渋沢栄一の肖像。
財政負担の増大に窮した駿府藩は、殖産興業を担当していた“渋沢栄一”のアイディアを採用して、駿河国産の紙・茶・砂糖・漆器などを売り捌き、財源確保に必死であったと云う。

一方地元の人々は、彼らを“お泊りさん”と呼んで、宿泊場所を提供したり、炊き出しをやったりと、至れり尽くせりの温かい手を差し伸べた。
前述の“清水次郎長”もその一人で、地元の人たちによって語り継がれている。

しかし家康以降、徳川家を崇め・サポートしていた地元民とはいえ、当初2万人、後々の移住民を含めると合計約8万人もの江戸難民を受入れるのには、おのずと限界があった。
無禄移住者の江戸難民が、如何に難民から脱したかは、後述する。



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