近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

聖徳太子の父、用明天皇の宮殿跡など発見か?そのⅡ

2012年01月24日 | 歴史
関西地方で近年発掘調査された、遺跡・古墳などを追跡紹介しています。

日本書紀などは、「磐余」の地名を冠した4人の天皇の宮や池にまつわる物語を伝える。

万葉集は、謀反の罪に問われた天武天皇の子、大津皇子が磐余池の堤で詠んだとする辞世の歌を載せる。

奈良県橿原市で発掘された磐余池の堤や用明天皇の宮とみられる大型建物跡。この一帯は、神々が宿る山として信仰を集めた天香具山を仰ぎ見る神聖な地だ。



写真は、天の香具山遠景。

橿原市と桜井市の境にあり、高さは148mほどで、古代の天皇が相次いで宮殿を築き、皇位継承をめぐる政争が繰り広げられた悲劇の舞台でもあった。

「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(磐余池の鴨を見るのも今日が最後。私は雲のかなたに去るのだろうか)。

謀反の罪で処刑された大津皇子(663~686年)の当辞世の歌は、「磐余池の堤で涙を流して作った」と、万葉集にある。

飛鳥(奈良県明日香村)の都からの護送中に詠んだ「池の堤」が、発掘によって垣間見えた。

日本書紀は「大津皇子は威儀備わり、才学に富み」と記述。皇太子の草壁皇子やその母(後の持統天皇)にとっては脅威となり、謀反は、持統天皇によって仕組まれたともいわれる。

「自由に飛べる鴨と違って、自分はとらわれの身。言いたいことはたくさんあるが、男子として恥ずかしくない美しい最期を迎えたい。そんな気持ちが歌にこもっている」と話すのは、飛鳥時代の作品を手がける漫画家の里中満智子さん。「その舞台が実際に見つかったとは」と感慨深げだ。

「磐余池を詠んだのは、由緒があり、有名な場所だったから」と指摘するのは、上野誠・奈良大教授(万葉文化論)。「現代なら、銀座や道頓堀の灯のようなシンボル的存在を歌に詠むことで、大津皇子の思いを誰もが感じることができた」と解説する。

万葉集や日本書紀に再三登場しながら、場所が特定できずに謎とされてきた磐余池。

和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授は、40年ほど前から、池の堤とみられる人工的に突き固めた層を確認し、「池尻」など池に結びつく地名が多いことに着目。「磐余池だと考えてきたが、ようやく発掘で証明された」と話した。

淀川(樟葉)、木津川(筒城)、桂川(弟国)と計画的に水運を支配していったことがわかる。

三大水系を完全に押さえた継体天皇は、526年にようやく大和入りを果たし、いよいよヤマトに宮を築くことになる。

これが磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で、即位から実に20年目であった。

磐余は飛鳥に隣接する奈良県桜井市の南部地域のことを云う。磐余玉穂宮の所在地は、その桜井市池之内付近とされている。

磐余稚桜神社は磐余池の辺の神社で、住所は奈良県桜井市大字池之内。




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