先ずは、現在の丸山古墳を巡ってみたい。
丸山古墳は奈良県下最大で、国内でも6番目の規模を誇る前方後円墳で、6世紀後半に築かれた古墳と考えられているが、本古墳はあまりにも大きいため、当初円墳と考えられていたようで、橿原市五条野の地名を取って“五条野丸山古墳”と呼ばれていたらしい。
しかし航空写真により、前方後円墳であることが認識されたと云う。6世紀の古墳としては、日本最大の前方後円墳とされている。


写真は、丸山古墳後円部から望む前方部と正面の畝傍山及び民家越しの丸山古墳全景。
古墳の規模が次第に縮小し、巨大な前方後円墳がなくなって行く時代に、この巨大規模は特異な存在で、墳丘は3段に築成され、現在もその形状を窺い知ることが出来る。


写真は、丸山古墳現場に立てられた畝傍陵墓参考地という宮内庁看板及び民家越しに望む丸山古墳の後円部墳丘。
墳丘と周濠の大部分は、国の史跡に指定されているが、木々が繁っている後円部は、陵墓参考地に指定されているため立ち入ることはできない。



写真は上から、丸山古墳前方部の現在の様子、同前方部墳頂の光景及び同古墳周濠跡。
前方部は、橿原市が公園化を進めており自由に散策できる。木を刈り払った平坦な台地の前方部に立つと、写真のように、まるで巨大タンカーの甲板を歩いているような連想が浮かぶ。
葺石や埴輪がまったく出土していないことも、丸山古墳の特長にあげられるが、このことも古墳の広がりに気づけなかった理由かもしれない。
全長約320m・後円部径150m・前方部幅約210m・周濠を含めると約460mと超大型の前方後円墳だが、このことが判明したのは30年程前で、それ以前は大型の円墳と考えられていたらしい。
このため、後円部の高まりが、古くに陵墓参考地となり、被葬者として欽明天皇・宣化天皇・天武天皇が候補としてあげられてきたが、候補がいずれも天皇であるように埋葬施設もそれに恥じない、日本最大の横穴式石室として知られている。
後円部上には南に開口する横穴式石室があり、その全長は、明日香村の石舞台古墳より約9m長く日本最大規模。
石室平面形態は両袖式で、奥壁が幅広くなる羽子板状となっているが、その規模については土の流入が激しいため確定にはいたらず、現状では横穴式石室の全長は28.4mで、全国第1位の規模で、羨道は一枚の長さ4.8mの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1m・幅1m以上・高さ1.5mほど。
本古墳の羨道は、他の古墳に比べ、玄室に対して非常に長く造られているのが特徴の一つ。



写真は上から、丸山古墳の看板と記念碑、同古墳後円部墳丘の様子及び同古墳から出土した、刳り抜き式家形石棺。
玄室の長さ8.3m・最大幅4.1m・高さ4.5mで、二つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれている。
石棺はそれぞれの身部分が流土によって埋もれているが、蓋にある縄掛突起の形態から石室正面に安置されたほうが新しく、その前面に位置しているものが古いと考えられている。
被葬者については、欽明天皇と堅塩媛とする説が有力だが、蘇我稲目とする説もある。
玄室内には約1mの土砂が堆積しており、石棺の身について詳細は不明だが、奥棺は蓋の長さが2.42m・幅1.44m・高さ0.42m。前棺は蓋の長さが2.75m・幅1.41m・高さ0.63mで、材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石と云われている。
1991年5月、古墳近くに住む会社員が子供と遊んでいて、たまたま石室入り口が開いているのを発見、石室内に入って、コンパクトカメラで内部を写した。
それがマスコミに公表されたことで、大きな反響を呼んだ。宮内庁も無視できず、改めて石室内部を測量し、図面や写真とともにその結果を発表するという異例の対応をとったと云う。
資料に限界はあったが、2つの石棺と石室の特長から製造時期が探られた。
石棺は、玄室入り口近く向かって右側の側壁に沿ってひとつ、玄室奥の奥壁に沿ってひとつ、どちらも大型の家形石棺が置かれていた。
蓋近くまで泥で埋まっていたが、蓋に付く縄掛け突起の特長などから、多くの研究者によって、手前の石棺は刳抜式で6世紀の第3四半世紀、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀の製造時期がそれぞれ推定された。
石室は、100トンを越えるような巨石も使われていて、その石積の特長から6世紀末から7世紀初めの構築が有力視されている。
石棺の年代観から、まず6世紀前半にあたる宣化天皇陵説が消え、俄然浮上してきたのが、欽明天皇陵説と云う。
丸山古墳は奈良県下最大で、国内でも6番目の規模を誇る前方後円墳で、6世紀後半に築かれた古墳と考えられているが、本古墳はあまりにも大きいため、当初円墳と考えられていたようで、橿原市五条野の地名を取って“五条野丸山古墳”と呼ばれていたらしい。
しかし航空写真により、前方後円墳であることが認識されたと云う。6世紀の古墳としては、日本最大の前方後円墳とされている。



写真は、丸山古墳後円部から望む前方部と正面の畝傍山及び民家越しの丸山古墳全景。
古墳の規模が次第に縮小し、巨大な前方後円墳がなくなって行く時代に、この巨大規模は特異な存在で、墳丘は3段に築成され、現在もその形状を窺い知ることが出来る。


写真は、丸山古墳現場に立てられた畝傍陵墓参考地という宮内庁看板及び民家越しに望む丸山古墳の後円部墳丘。
墳丘と周濠の大部分は、国の史跡に指定されているが、木々が繁っている後円部は、陵墓参考地に指定されているため立ち入ることはできない。




写真は上から、丸山古墳前方部の現在の様子、同前方部墳頂の光景及び同古墳周濠跡。
前方部は、橿原市が公園化を進めており自由に散策できる。木を刈り払った平坦な台地の前方部に立つと、写真のように、まるで巨大タンカーの甲板を歩いているような連想が浮かぶ。

葺石や埴輪がまったく出土していないことも、丸山古墳の特長にあげられるが、このことも古墳の広がりに気づけなかった理由かもしれない。
全長約320m・後円部径150m・前方部幅約210m・周濠を含めると約460mと超大型の前方後円墳だが、このことが判明したのは30年程前で、それ以前は大型の円墳と考えられていたらしい。
このため、後円部の高まりが、古くに陵墓参考地となり、被葬者として欽明天皇・宣化天皇・天武天皇が候補としてあげられてきたが、候補がいずれも天皇であるように埋葬施設もそれに恥じない、日本最大の横穴式石室として知られている。
後円部上には南に開口する横穴式石室があり、その全長は、明日香村の石舞台古墳より約9m長く日本最大規模。

石室平面形態は両袖式で、奥壁が幅広くなる羽子板状となっているが、その規模については土の流入が激しいため確定にはいたらず、現状では横穴式石室の全長は28.4mで、全国第1位の規模で、羨道は一枚の長さ4.8mの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1m・幅1m以上・高さ1.5mほど。
本古墳の羨道は、他の古墳に比べ、玄室に対して非常に長く造られているのが特徴の一つ。



写真は上から、丸山古墳の看板と記念碑、同古墳後円部墳丘の様子及び同古墳から出土した、刳り抜き式家形石棺。
玄室の長さ8.3m・最大幅4.1m・高さ4.5mで、二つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれている。
石棺はそれぞれの身部分が流土によって埋もれているが、蓋にある縄掛突起の形態から石室正面に安置されたほうが新しく、その前面に位置しているものが古いと考えられている。
被葬者については、欽明天皇と堅塩媛とする説が有力だが、蘇我稲目とする説もある。
玄室内には約1mの土砂が堆積しており、石棺の身について詳細は不明だが、奥棺は蓋の長さが2.42m・幅1.44m・高さ0.42m。前棺は蓋の長さが2.75m・幅1.41m・高さ0.63mで、材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石と云われている。
1991年5月、古墳近くに住む会社員が子供と遊んでいて、たまたま石室入り口が開いているのを発見、石室内に入って、コンパクトカメラで内部を写した。
それがマスコミに公表されたことで、大きな反響を呼んだ。宮内庁も無視できず、改めて石室内部を測量し、図面や写真とともにその結果を発表するという異例の対応をとったと云う。

資料に限界はあったが、2つの石棺と石室の特長から製造時期が探られた。
石棺は、玄室入り口近く向かって右側の側壁に沿ってひとつ、玄室奥の奥壁に沿ってひとつ、どちらも大型の家形石棺が置かれていた。
蓋近くまで泥で埋まっていたが、蓋に付く縄掛け突起の特長などから、多くの研究者によって、手前の石棺は刳抜式で6世紀の第3四半世紀、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀の製造時期がそれぞれ推定された。
石室は、100トンを越えるような巨石も使われていて、その石積の特長から6世紀末から7世紀初めの構築が有力視されている。
石棺の年代観から、まず6世紀前半にあたる宣化天皇陵説が消え、俄然浮上してきたのが、欽明天皇陵説と云う。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます