近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

公家・武将の北畠家ファミリー物語 北畠具行のキャラクター・生涯

2006年12月30日 | 歴史
具行は鎌倉時代末期の公卿であり、北畠師行の子で、村上源氏北畠家の傍流。
北畠親房は具行の従兄弟の子供に当たる。即ち具行は親房の叔父に当たる。

親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進した。又和歌にも優れた文化人で、後醍醐天皇の内裏歌会などに参加していたと云う。
親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、親房の嫡男・顕家が幼少のため、具行はその後見人となった。

1331年の“元弘の変”は、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が事前に発覚して、首謀者が処分された事件だが、首謀者の一人・具行も日野俊基らと共に斬罪となった。

1332年、佐々木(京極)道誉により鎌倉に護送される途中、幕府の厳命により近江国柏原で斬首された。享年43歳。
護送人であった道誉は、近江柏原の清滝寺に具行を留め、1ヶ月余りにわたる、具行助命嘆願も及ばず、当地で生涯を閉じた。




写真は上から、柏原宿から程近い、丘陵山頂付近にある、国指定史跡・具行墓所及び具行の供養塔。

現在でも具行は、地元の人々により、手厚く供養されていると云う。
「バサラ」と呼ばれ、公家を軽蔑していた道誉も、具行の態度には感服して、別れを惜しんだと云う。

1333年には反幕勢力が再び蜂起し、後醍醐天皇も隠岐島から脱島して挙兵し、尊氏が天皇側に寝返って六波羅探題を陥落させ、遂に幕府は倒れたというように、“元弘の変”は討幕のキッカケとなったと云える。



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