新山古墳は、馬見丘陵東麓の自然丘陵を利用して築造された前方後方墳で、周囲に濠を巡らし、現在は溜池として利用されているが、わずか東と北に当初の面影を残し、前方部を南南西に向けている。


写真は、新山古墳東側サイドビュー及び同古墳の北側サイドビュー。
本古墳は、全長約127m・後方部幅約64m・後方部高さ約11m・前方部幅約60mの前方後方墳で、丘陵東麓の隆起部を利用して築造されていた。


写真は、新山古墳の大塚陵墓参考地看板及び同古墳の金網に囲まれた墳丘の様子。
馬見古墳群の一つで、築造時期は4世紀後半とされ、陵墓参考地として宮内庁が管理している。新山古墳は全国に46カ所存在する陵墓参考地の一つで、宮内庁が「大塚陵墓参考地」として管理しているため、立ち入ることはできない。
馬見丘陵の南端墳丘の周囲を濠がめぐり、円筒埴輪列が見つかっている。
明治時代の発掘調査では三角縁神獣鏡などの銅鏡34面のほか、玉類などの装身具している。

写真は、新山古墳出土の龍鏡。
明治18年、後円部に竪穴式石室と組合式石棺状の施設が発見され、三角縁神獣鏡・小形内行花文鏡・車輪石・鍬形石・石釧・中国晋代の帯金具・直弧文鏡・玉類等が出土している。
明治時代には、ここが古墳であることなど忘れ去られていたこともあり、当時の土地の所有者は、この小山に植樹を行おうと考え、あちこちを掘り起こしたと言う。
その際に、後方部中央あたりで竪穴式石室を発見したらしい。



写真は上から、新山古墳の前方後方墳の前方部光景、同古墳の後方墳光景及び民家に隣接した同古墳。
こんもりとした森があり、麓を満々と水を蓄えた池が巡っている、典型的な古墳の光景だが、一方で民家がギリギリ迫っている。
竪穴式石室から出土した金銅製帯金具は、竜文を施す絞具(かこ)と帯先金具の他に、葉文を透彫りした鍔と円形座金具の付く止金具がセットになり、中国晋代の帯金に似ているらしい。
叉34面の鏡の内訳は、直弧文鏡が3面、三角縁神獣鏡が9面、画文帯神獣鏡が3面、方格規矩鏡が4面、内行花文鏡が14面だったと云う。
昭和56年の発掘調査によって、後方部北側から多数の埴輪が検出されたほか、後方部の石室からは、直孤文鏡・刀剣・金銅製帯金具などが大量に出土した。
これらの出土品は現在宮内庁に保管されているが、埴輪の製作時代から、この古墳の築造時期は4世紀中頃と推定され、馬見古墳群のなかでは一番早く造られた墳墓ということになる。

写真は、新山古墳出土の直弧文鏡。
銅鏡34面の内、直弧文鏡の文様は3、4世紀のころに現れ、直線と弧線を組み合わせて形を作る。その作図法は極めて難解らしいが、各古墳の蓋・楯などの埴輪にも表現されていると云う。
銅鏡のうちの変形方格規矩神鏡は、紐の周りを方形に区画した中に十二支の漢字が、文字とは解読できないほど文様化したものになっているらしい。
金銅・銀製の帯金具は、河北省定県のものが最も古く、2世紀に出現していると云う。そのうち銀製帯具は、江南省からもたらされたもので、年代的には紀元300年前後の製作と考えられると云う。
大陸との交流を窺わせる、質量とも充実した出土遺物、大和王朝のシンボル・前方後円墳ではなく前方後方墳であること、築造年代の古さと規模の大きさなどから、大和王朝に背を向けた大王クラスの豪族と考えられ、土地柄から葛城氏一族の墳墓ではないかと想わせる。


写真は、新山古墳東側サイドビュー及び同古墳の北側サイドビュー。
本古墳は、全長約127m・後方部幅約64m・後方部高さ約11m・前方部幅約60mの前方後方墳で、丘陵東麓の隆起部を利用して築造されていた。


写真は、新山古墳の大塚陵墓参考地看板及び同古墳の金網に囲まれた墳丘の様子。
馬見古墳群の一つで、築造時期は4世紀後半とされ、陵墓参考地として宮内庁が管理している。新山古墳は全国に46カ所存在する陵墓参考地の一つで、宮内庁が「大塚陵墓参考地」として管理しているため、立ち入ることはできない。
馬見丘陵の南端墳丘の周囲を濠がめぐり、円筒埴輪列が見つかっている。
明治時代の発掘調査では三角縁神獣鏡などの銅鏡34面のほか、玉類などの装身具している。


写真は、新山古墳出土の龍鏡。
明治18年、後円部に竪穴式石室と組合式石棺状の施設が発見され、三角縁神獣鏡・小形内行花文鏡・車輪石・鍬形石・石釧・中国晋代の帯金具・直弧文鏡・玉類等が出土している。
明治時代には、ここが古墳であることなど忘れ去られていたこともあり、当時の土地の所有者は、この小山に植樹を行おうと考え、あちこちを掘り起こしたと言う。

その際に、後方部中央あたりで竪穴式石室を発見したらしい。



写真は上から、新山古墳の前方後方墳の前方部光景、同古墳の後方墳光景及び民家に隣接した同古墳。
こんもりとした森があり、麓を満々と水を蓄えた池が巡っている、典型的な古墳の光景だが、一方で民家がギリギリ迫っている。
竪穴式石室から出土した金銅製帯金具は、竜文を施す絞具(かこ)と帯先金具の他に、葉文を透彫りした鍔と円形座金具の付く止金具がセットになり、中国晋代の帯金に似ているらしい。

叉34面の鏡の内訳は、直弧文鏡が3面、三角縁神獣鏡が9面、画文帯神獣鏡が3面、方格規矩鏡が4面、内行花文鏡が14面だったと云う。
昭和56年の発掘調査によって、後方部北側から多数の埴輪が検出されたほか、後方部の石室からは、直孤文鏡・刀剣・金銅製帯金具などが大量に出土した。
これらの出土品は現在宮内庁に保管されているが、埴輪の製作時代から、この古墳の築造時期は4世紀中頃と推定され、馬見古墳群のなかでは一番早く造られた墳墓ということになる。

写真は、新山古墳出土の直弧文鏡。
銅鏡34面の内、直弧文鏡の文様は3、4世紀のころに現れ、直線と弧線を組み合わせて形を作る。その作図法は極めて難解らしいが、各古墳の蓋・楯などの埴輪にも表現されていると云う。
銅鏡のうちの変形方格規矩神鏡は、紐の周りを方形に区画した中に十二支の漢字が、文字とは解読できないほど文様化したものになっているらしい。
金銅・銀製の帯金具は、河北省定県のものが最も古く、2世紀に出現していると云う。そのうち銀製帯具は、江南省からもたらされたもので、年代的には紀元300年前後の製作と考えられると云う。
大陸との交流を窺わせる、質量とも充実した出土遺物、大和王朝のシンボル・前方後円墳ではなく前方後方墳であること、築造年代の古さと規模の大きさなどから、大和王朝に背を向けた大王クラスの豪族と考えられ、土地柄から葛城氏一族の墳墓ではないかと想わせる。

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