<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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「これから帰るよ」

と大学生の娘からメールを受け取ったのは夜10:00を過ぎた頃。
電車の到着時間が近づいてきたので自動右車で最寄り駅のロータリーで待っていると到着時間が過ぎても娘が帰ってこない。

「お、もしかして」

娘はよく居眠りをして乗り過ごしていた時期があり、

「しっかりせんか!」

と叱りつけたことがたびたびあった。
久しぶりにやりよった、と思ったのは到着時間を10分以上過ぎてもロータリーに出てこないからで、これは困ったと思った。
というのも時刻が遅くなって乗り過ごすと大阪南部に住む私んちでは、和歌山方向または関西空港方向へ行ったら、向こうから大阪方向へ来る電車の終電が過ぎてしまっている可能性がある。
大阪から関空や和歌山方面へは結構遅くまで電車があるのだが、その逆は早く終わってしまう。

自動車で最悪和歌山まで迎えに行かねばならない。
懲らしめてやる。
と思ったそのとき、娘が自動車のドアを開けた。

「ん〜〜〜、人身事故。電車動かへんし。」

人身事故で電車がストップ。
ダイヤがめちゃくちゃになってしまっていたのであった。

最近どうもいただけない。

「人身事故が発生しましたのでただ今〇〇線は列車の運転を見合わせております。」

というアナウンスや電子表示によく出会う。
これは大阪に限った話ではなく、東京でも頻繁だ。
で、この人身事故の大半が「自殺」。
それも若い人の自死が多く、痛々しさがかなり大きい。

昨夜も私の娘が利用している、というか家族が通常の通勤通学に使っているJR線で人身事故。
聞けば17才になる高校生が電車に飛び込んだのだという。
塾帰りが遅いので心配していた家族が探していた時の出来事だという。
なんという痛ましいことであろうか。

私が高校生の時。
70年代から80年代になる昭和時代終盤のころ。
自殺なんて考えたことは、ちっともなかった。
進学や学校のこと、家族のことで悩みがないなんてことはなかったが自分で死のうなんてちっとも思わなかったのだ。
私の場合、学校には問題はあまりなかったが家庭の方がめちゃくちゃの状況に近く、普通であったらグレていても不思議ではない環境なのであった。

私のクラスにも家庭環境の厳しい友達は少なくなかったように思うのだが、死にそうな奴はいなかった。
学校を辞めてしまったやつはいたことはいたのだが、選択肢に「死」というものはなかった。

なぜこうも自死を選ぶ雰囲気が社会に蔓延しているのだろう。
テレビのニュースで「今日、〇〇で飛び降り自殺があり」というようなものを平気のへっちゃらで流したりするところに大きな原因があるのではないか。
私は世の中がルール主導で融通が効かないというところにもマスメディアの野次馬根性と同じぐらい悪影響の原因があるのだと思っている。

世の中、修正の効かないことなんかほとんどない。
要は大きいか小さいかの違いで、「山より大きな獣は出ず」という言葉があるとおり、どんなことでも着地点があるものだ。
とりわけ若ければ若いほどその着地点は用意されていて、さらに修正ややり直しが効くのが普通であろう。

マスコミを含めて社会はそういうことをアピールすべきであって、事実だけを暗ら〜〜く伝えるのは大きな間違えだ。

「君しにたもうことなかれ。」

私のあまり好みではない、私の出身地大阪堺が生んだ与謝野晶子が日露戦争に皮肉を言った言葉ではある。
が、今こそそう社会が声がけをする時だと人身事故の情報を聞くにつれ強く思う次第なのである。


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