<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地






ミャンマー各地を旅すると、驚くことはどこへ行っても日本人の墓があるということ。
それらは戦没者慰霊碑であることも、一般のお墓であることもあるけれども、かなりの田舎へ行っても「ここに日本人のお墓が有ります」と案内されるのには驚く限りだ。
それだけ戦争中にその地で亡くなった人が多いということでもあり、日本人にとってのミャンマーの関わりの重さがわかってくるというものだ。

戦争で亡くなった人が多いということは、そのまま生き残って日本に還らず、ミャンマーの地にとどまった人も少なくない。
映画にもなった「ビルマの竪琴」はそういう未帰還残留兵を扱った物語だった。
そんな未帰還兵が今も存命している。
この未帰還兵を追ったルポルタージュが松林要樹著の「ぼくと「未帰還兵」との2年8ヶ月「花と兵隊」制作ノート」だ。

タイ・ミャンマー国境に生きる未帰還兵の今日を追った著者自身のルポはとても興味深く、どのような経緯でそこへ残ることになったのか、その一端を伺い知ることができた。
あの遠い異国に残るという選択をした、その背景は何なのか。
私はヤンゴンの街中はもちろん、マンダレー、カロー、ミッチーナ、バガンといったミャンマーの地方の町を訪れて、その土地の空気に肌で接した時、半世紀前に故国に帰らず、また帰れなかった人たちのことがたびたび心に引っかかっていた。
どのようの気持ちで故国から遥か離れたこの土地にとどまることを決断したのか。
なかなか想像だけでは知ることのできない難しい内容だった。
それだけに未帰還兵たちとその家族の一員のように接する著者の体験は、これまた私にも貴重なものであった。

しかしながらルポとしては、いささか情報が偏った部分が少なくないのはともかく、自分の取材をまとめるがために取材対象者に自分が目的としていることを話すように誘導したり、期待するさまは読んでいて気持ちのいいものではなかった。
著者は若く、行動力に富んでいるが、所詮は典型的なテレビ屋の卵なのだとも思えたところがいくつかった。
また、大阪万博が1972年だったというような簡単な情報にも間違いが見られる。

このようなマイナス面は著者自身が語っているように、自身の家族の戦争体験を聞いてこなかった部分が、或いはそういった少しく問題のある主張に影響していたのかもわからない。

とは言え、早く訪ね、聞き歩かなければ戦争体験者、ましてや未帰還兵の記憶を記録することは不可能な時期に来ている。
そういう意味で本書はかなり貴重な内容ではないかと思えるのだ。


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パソコンへのウィルス感染の原因は自業自得なのだという。

CNNによると、そんなことを行っているのがマイクロソフトだというのだから、ちょっとむかっ腹がたったのだが、なるほどと納得できないこともない。
ウィリス感染の原因は、ユーザー自らがイカガワしいサイトにアクセスし、イカガワしいデータをダウンロードした結果、おまけでついて来る。
それが原因で感染する確率は44%とか。

私は自宅でも会社でもMacユーザー。会社ではPCも併用しているが、会社のPCはかなり対策されているので過去十数年というものウィルス感染はほとんどない。

一度だけ友人が送って来たメールに分けのわからないデータが添付されていて、
「なんやろ?」
とダブルクリックしたら無反応。
「変なもん、送って来たんかな」
とドラッグ&ドロップでゴミ箱に捨てた。
翌日、
「メールがウィルス感染していた~。ごめんなさい」
というメールが届き、添付ファイルはウィルスだったことがあるのだが、起動もせずに既にゴミ箱行きになっていたが、同じメールを受け取った他の友人でPCユーザーは、少々処理が大変だったようだ。

このような経験から、ウィルスはPC独特のもの、という印象が強いのだが、そこで「ユーザーの自業自得」と言われると、「あんた、嘗めてんの?」と言いたくなるのも人情だ。

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なんだか気持ちの悪いニュースだと思う。

今日の夕方のニュースによると、「アニメのアプリだと思ってダウンロードしたら、他人から自分がどんなアプリを使っているのかのぞき見されるソフトだった」というようなスマホ用のアプリケーションソフトが、ある程度名のあるソフト会社から出されていたことが顕になった。
今現在、このような行為が犯罪に当たるのかどうか、当局は調査中だという。

が、普通の感覚からすると、どう考えても犯罪以外のなにものでもない。
当事者の同意を得ずに調査するのはどうかんがえても個人情報の流出、しかも質の悪い部類に入るんじゃないかと私は思っている。

そもそも、ネット関係の会社には既存の道徳が通用しにくいところが少なくない。
ネットだと、何をやってもかまわないという風潮が幅をきかせているように感じられてないらない。
国境を簡単に超えられるところからポルノグラフィーも垂れ流し。
著作権のある映像も、法律見整備な国外のサーバーからのアクセスならば合法とばかりに無料で公開。
かなり広範囲に渡り知的所有権が侵害されている。

従って、個人情報でなければ勝手に見に行っても構わない、どうせリアルな世界じゃないんだし、とばかりに出歯亀ソフトをこしらえて知らない間に他人のスマホに潜らせるのも罪の意識はまったくない。
新手のITビジネス程度にしか感じていないに違いない。

ともかく、今回の事件はその気さえあれば、誰にも気付かれず他人のIT機器にスパイを送り込むことが可能であるという何よりの証拠。

中国のスパイ組織が日本の軍需産業関連企業にスパイソフトを潜りこませるのも、このニュースを見ている限り特に難しいことでもなさそうだ。

それにしてもフリーソフトのなんと恐ろしいことだろうか。


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NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」は大阪・岸和田出身のファッションデザイナー小篠綾子の半生をモデル。
そのためかどうか、今年の岸和田は様々な催し物が開催されているようで、それは神事とて変わらない。

岸和田といえば「だんじり祭り」の街として全国に有名だ。
実は私はこのだんじり祭がちょっと苦手。
というのも、雑踏が苦手という生まれながらの性格と、なんで毎年けが人や時には死人まで出す祭りを楽しめるのか、ちょっとばかり理解しがたい部分がある。
かといって岸和田のだんじりが京都祇園の山鉾のように「もっちり」と動くとつまらないとは思うのだが。

また私の生まれ育った大阪・堺市の北部は、大阪府下では少数派のお神輿のエリアで、私は子供の頃から祭りといえば「お神輿」という感覚があり、どうも馴染めないのだ。

とはいえ、岸和田のだんじり祭はそれはそれで盛大で、人口20万人の街に期間中は60万人が訪れるというのだから、関西でも最大の祭りということがいるのかも知れない。

先週、その「だんじりの街」の岸和田で「お神輿の巡幸あがある」という情報をきいたものだから、これは珍しいとばかりにカメラを提げ写真を撮影に行ってきた。
なんでも12年ぶりの巡幸ということで、これを見逃すと次回はまた12年後ということになる。
我が阪神タイガースの優勝シーンよりも見ることのできる確率は高いようだが、それでも12年となるとなかなか難しいし、岸和田のお神輿は話のネタになると思い出かけたのだ。



お神輿は阪和道岸和田和泉ICからほどちかい積川神社というとこのお神輿で、このお神輿が街道を練り歩き7kmほど離れた御旅所まで巡幸するというので、私は途中、久米田寺で待ち受けることにした。
出発から7kmもついて歩くのは、さすがに遠慮させていただいたのであった。

積川神社は地元でも由緒ある神社らしい。
本殿は国宝だったか重要文化財にも指定されているようなお宮さんなので、きっと歴史が長いのだろう。
お神輿の巡幸先のお旅所も白川上皇(12世紀)は熊野に詣でる際に立ち寄られた場所で、ここに書を残したことから、このあたりには額町という名前が付けられている。
岸和田はある意味、そういう歴史の町でもあったのだ。



久米田寺で待つこと1時間半。
なかなかやってこないとイライラしていると、久米田池の土手の上をえっちらおっちらと台車に載せられたお神輿がやってきた。
私はてっきり担がれてやってくるのかと思っていたのだが、お神輿は台車に載せられ氏子の人たちに引っ張られていたのであった。
これでは「だんじり」みたいなもんじゃないかと思ったのだが、それはそれでやはりお神輿。
浅草三社祭お神輿に似たお神輿なのであった。

さすがにお神輿巡幸は珍しいのか、地元のケーブルテレビ局が取材をしているし、私のようなアマチュアカメラマン、その他大勢が張り付いていた。
なかなか壮観だ。

府道13号線沿いにあるお旅所には鳥居があり、そこで神事が執り行わられ、揃いの法被を来た氏子の人々が神輿を担ぐと、そこは祭り好きの土地柄。
大きな掛け声で鳥居をくぐり、突然の通行止めを食らって迷惑顔の自動車の列を横目に見ながら近くの公民館前までパレード。





いよいよゴールなのでカメラを持って私も後を追ったのだが、その時、
「もしかすると」
との予感が走った。
もしかすると「だんじり」が公民館の前にあって「お神輿」とのツーショットが撮影できるのではないかと思ったのだ。
なんといっても、今岸和田はだんじり祭の季節。
珍しいショットは写真撮影には絶好の話題だ。

で、公民館に到着するとやっぱりで、だんじりが公民館前に止めてあり、中では賑やかにお囃子が。
積川神社のお神輿はだんじり囃子に迎え入れられ、無事巡幸は完了したのであった。




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なんでもバッチモンでお馴染みの中国に「孔子平和賞」というものが存在していることを私はちっとも知らなかった。
こっちのほうはノーベル平和賞に対抗して設立されたプライズなのだそうだが、どうしてこうもおとなりの国はオリジナリティに乏しいのか。
迷惑を通り越して気の毒でさえある。

新幹線、地下鉄、戦闘機。
どれもこれも模造品で事故を起こし、社会に波紋を広げているが、その波紋さえも穴を掘って埋めないとも限らないお国柄。
テーマパークもディズニーランドもどきが米国から避難の槍玉に上がったのは数年前。
なんでもかんでも模倣していたら、発売されなかったiPhone5なんかも市場に出回っているというのだから、インチキ商品もここまでくると「インチキというオリジナリティ」を感じてしまう凄みがある。

そこに孔子平和賞なんてのがあると聞くと、中国人、大丈夫アルカ? と訊いてしまいそうだ。

尤も、日本にも「日本アカデミー賞」のうような、訳のわからないプライズも存在しているから、あまり大きなことは言えないような気もするのが、若干つらいところだ。


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アップルコンピューターのマシンは、昔から他のパソコンとちょっと変わっていて、妙に人間臭いことが少なくなかった。

まず、スイッチを入れるとにっこり笑ったMacのアイコンが映し出されたのだが、それが私の誕生日なら「誕生日おめでとう」の文字が表示されるし、お正月三が日は「明けましておめでとうございます」が起動画面に表示された。

難しいソフトを動作させていたり、長い文章を書いていたりすると、突然「爆弾マーク」が表示され、すべてのデータが消えてなくなる、なんてことも1回や2回ではなかった。
私の英会話の講師、カナダ人のGなんかは、書いていたレポートが吹き飛んで以来、マックの顔も見たくない、というWin派に成り果てたが、私はそれでもMacを使い続けた。
ほとんどフリーズしない今のMacからは考えられない時代だった。

絵を描く。
音楽を作る。
写真を加工する。
CGのモデリングをする。
印刷原稿をつくる
などなど。

MSのOSとは明らかに違う何かが私たちを魅了した。

その「何かが違う」はやがてパソコンだけではなく、音楽プレーヤーから携帯電話、ビジネスの仕方まで変えてしまった。
アップル社。

その創業者スティーブ・ジョブスが亡くなったというニュースは、自分でも驚くのだが、読んでいて、涙がでそうになってしまった。
ただ単に、いつも自分が使っているコンピューター会社の創業者の訃報にそんな感情をちょっとでも抱くとは驚きだったのだ。

そしてアップルが一昨日発表した新型iPhoneが「5」ではなく「4S」であったことも合点が行った。

不思議な実業家スティーブ・ジョブス。
享年56歳。
若すぎる。

今、世界中のMac使いがその死を惜しんでいるに違いない。


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iPS細胞の研究で知られる京都大学の山中先生がまたもやノーベル賞を逸した。
これは何かの陰謀か?
そう、きっと陰謀だ、と私は思ってる。

そもそもノーベル賞ほど政治性が強くキリスト教主義、白人主義主導の賞はない。
受賞者の国籍や人種を見れば明らかだ。

山中先生がノーベル賞を獲得するには、iPS細胞を使って画期的技術を開発した「欧米の科学者」の登場を待たなければならないのかも知れない。
それとも山中先生その人が日本国籍を捨てて米国籍か英国籍なんかを取得すれば授与されることになるだろう、と私は思う。

iPS細胞技術は画期的な科学技術。
しかも金になる木のバイオ技術だから、こんなきらめく最先端の名誉をアジアのイエロー日本人だけにくれてやることは、彼らのプライドが許さないのかもわからない。

ところで、iPS細胞技術が完成されると何がいいかというと、医療にいい。
その中でも最も大きなメリットは自分の細胞を使って臓器を製造して、そのまま自分に移植したりできるようになる、ということだ。
つまり心臓移植も、生体肝移植も、網膜移植も自分から派生した人体部品で手術を行うことができるようになる。
実はこれが画期的なことなのだ。
倫理に抵触せずに、自然な移植手術が可能になるからだ。

バイオ技術、医療技術が発達した今日、昔はお伽話かSF映画の話だったことが現実になっている。
例えば1977年作のSF映画「ドクター・モローの島」では、動物のDNAを改ざんし、人間化させたマッドサイエンティストとその博士の島に流れ着いた若い男の闘いが描かれている。
この現実離れした物語が違った形ではあるものの、すでに実用化されているということを、あまり世間の人は知ることがない。
どういう技術かというとネズミやその他動物に人間の胎児の細胞から採取したDNAを植えつけて、人間の生命パーツを動物の上で創り上げるという技術だ。

これは怖い。
正直、科学といってもやっていことと悪いことがあると思う。
胎児の細胞を利用したり、あるいは動物を虐待するような遺伝子操作は、明らかに従来の倫理に反している。
ところが「科学」の名のもとに、何をやっても構わないと思っている人たちがいるのもこれまた事実。
金儲けに奔走する姿はドクター・モローどころの話ではない。

人体臓器の非倫理的製造に始まり、臓器売買、代理出産、試験管ベイビー、クローン、などなど。

このように、この世の中はいったいどうなってしまんだ、と背筋が寒くなってくることがルポされているのがアンドリュー・キンブレル著福岡伸一訳「すばらしい人間部品産業」(講談社)だ。

この書籍には臓器売買から始まって代理出産その他数多くの実例が取り上げられている。
また、代理出産で生まれた子供の親権をめぐる子宮を提供した生みの親と精子を提供した親の側で演じられた法廷争議や人工的手段で生まれてきた子供の心の葛藤、手術で取り出された患者の臓器から高額の医薬品を生み出すと言うような医療産業に対する政府の判断などが取り上げられ、尋常ではないバイオ技術の世界が描かれている。
著者はこのような技術の今日的利用に反対の意見を有していて、それはそれである種のイデオロギーを感じさせるものがあるが、社会的、宗教的、歴史的、そして経済的な問題として、生命に対して何でもできるようになりつつあるテクノロジーに強い警鈴を鳴らしていることには、いたく賛同できる内容なのであった。

「人間部品産業」
書名だけを読んでいると、何かのファンタジーのような印象があるのだが、そういう産業が実際に存在してしまっていることに脅威を感じずにはいられない衝撃のノンフィクションだった。

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10月1日から大阪市営地下鉄が1駅100円のキャンペーンを始めた。
但し、大阪市交通局発行のIC乗車券「OSAKA Pitapa」の利用者に限るのだという。
なんともショボイキャンペーンだ。

私の持っている南海電車発行のMinapitaカードやJR西日本発行のsmart ICOCAも対象外。
もちろん東京都交通局発行のPASMOなんか論外。
非常に疎外感溢れる、キャンペーンで、大阪市の平松市長の肝いりにしては中途半端という誹りは免れないだろう。

そもそも、大阪市営交通を民営化すべき、という橋下徹大阪府知事の主張に反対して市営を貫くためのキャンペーン。
1駅100円にしたら支持も集まろうとは、国鉄の民営化を思い出すと「まだしがみつくのか」と訴えたくなる。
つまり「市営でも100円でやっていけますよ」と主張したいわけだが、知事の主張している「もっとビジネスの幅を広げる民営化」とは、視点が全く異なる。
これは、いけない。

ところで、百貨店業界は再編が進んで現在売上首位は高島屋。
それに三越やそごう西武などが続いている。
小売業界の闘いは激しく、合併、身売り、精算、提携などが繰り返され、いつどこが首位を奪取し、あるいは転落してもおかしくない市場なのだ。
ところが、本当のランクはちょっと違って、首位はホントは高島屋ではない。

ある経済誌の調査によると、ホントの百貨店売上首位はJR東日本が運営するAtre。
アトレ。
首都圏の主要な駅の駅ビルに入店しているショッピングモール。
ここが百貨店なら日本一なのだそうだ。

Atreは百貨店組合にも参加していないし、駅ナカの一種と数えられているので百貨店とみなされていない。
従って、百貨店ランクからは除外されているけれども、実際に行って買い物してみると、明らかに百貨店なのだ。

JRが展開している小売業は東だけではなく、西も好調で、大阪駅に開業したルクアは三越伊勢丹をすっかり飲み込んでしまっているという。

つまり、公営交通が民営化するとJRがいい例を示すように、鉄道やバス事業以外に優位な立地を生かして様々なビジネスを展開し、事業拡大に成功するということ。
大阪市交通局も民営化したら、もっと様々な事業を展開して利用者サービスの質を高められるのに、というのが知事の主張で、1駅100円はいかにも役所の人が考えるチープな作戦。

ちなみに、大阪市営地下鉄はあれだけ多くの乗客が利用しながら駅ナカ、喫茶店、書店など一切ない。
あるのは時間限定でオープンしている売店だけ。
時間によっては新聞・雑誌も定期券も買えないのが、大阪市営地下鉄の現状だ。

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正直言ってどうでも良いイベントだったのが「大阪マラソン」。

何事もオリジナルなことにかけては国内を問わず世界でも一位二位を競う程の我街、大阪。
その大阪が「大阪マラソンをします」と聞いた時は正直言って失望した。

「なんで東京の真似せないかんねん」
というのが私の感想。
「それに、交通規制で迷惑やし」

私の会社の東京オフィスは東京マラソンのコースに隣接しており、はなはだ迷惑していることもあって、大阪マラソンはいかがかと思ったのだ。
なんといっても天皇陛下や外国からの来賓のための交通規制に文句をつける土地柄。
イベントで交通規制は20年に一回程度優勝しては世間を盛り上げる阪神タイガースのパレード以外、あまり有難味を感じない土地柄でもある。

そんな、
「もう、走りたい人は好きに走って」
と言う大阪マラソンに我娘が出場することを昨日知ってビックリした。

「陸上部の長距離は全員出るねん」

今年中学に入学した娘は小学生の時には、おもいっきりドン臭かったにもかかわらず、入学するなり迷うこと無く陸上部へ入部。
以来、長距離選手としてトロトロ走っているのだが、その娘が大阪マラソンとは。
中東が民主化する時代である。
娘が走って何が悪い。

ということで、30日の休日は御堂筋に応援に行かなければならなくなってしまった。
意外に大阪マラソンは身近な存在だったというわけだ。

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「さて、そろそろ大阪に帰ろうか」

と、東京メトロ日比谷駅を下車。
地上に出ると何やら女の子の集団がわんさかいるので「なんだなんだ、宝塚か」と思っていたらジャニーズの某の公演が帝劇で行われていた。
宝塚にしたら客の年齢層が固定されているし、東京なのにファッションセンスが「?」なので、合点がいった。
こんなチャラチャラしたところは早々に通過するに限るわいと思い、時間があったらちょっとだけでも覗きたかった出光美術館も諦めて有楽町駅方向に歩いていくと、左手に東京国際フォーラムのでっかい建物が見えて来た。

「何か、イベントしてないかな」

と中庭を覗いてみると、ガラスの壁面にパネルがズラーと並べられ、なにやら人だかりがしていた。
「なんだなんだ」
と近づいて見てみると、なんと国際建築会議が開かれていて、その作品の写真パネルが展示されていたのだ。
見入っていた人たちは会議に訪れていた世界中からの建築家や学生たちなのであった。

こういうイベント。大阪ではなかなか遭遇することができない。
これが東京と大阪の違いも知れないな、と思うとちょっと悔しい感じがした。
でも、そんな感情も吹き飛ぶほどイベントの展示パネルは興味溢れる建築作品で一杯だった。
気がつくと、私も建築家やその卵たちと一緒になって作品見学に夢中になっていた。

招待券も無いし、建築家協会員でもないので入り難かったが、会場のエントランス迄来ると、宮城大学の学生さんたちがオープンイベントを実施していて、これもまた楽しそうでユニークだった。
そのエントランスホールからガラス越しにエコ関係の建築展示会の様子が伺え、なかなかいい雰囲気。
ひと通り、見て回れる所をさっと歩いて帰ろうと出口にくると、何やらダンボールでできたオブジェがドンと置かれていた。

「これも建築からみかな」
と見てみると、英語の解説と一緒にタイ語が記されていた。
「なんじゃい。タイからの展示かいな」

タイへの旅行の好きな私は違った視点で展示会に興味が湧いて、再度国際フォーラムの中へ歩いって行った。

建築会議のイベントの一つとして相田みつお美術館を借りてタイ王国大使館が「足るを知る哲学」という展示を行っていたのであった。

「足るを知る」
なかなか意味深な言葉なのであった。
説明文を読んでみると、これはプミポン国王の哲学ということで、その趣旨に私はいたく感動し、かつ国王が今日もなお国民から絶大なる信頼を寄せられている理由がはっきりと手に取るようにわかったのであった。

もともとタイはあくせく働かなくとも生活だけはしていける自然の富が備わっていた。
これはベトナムのケースになるけれども「サイゴンから来た妻と娘」の著者近藤紘一はそのエッセイの中で、「東南アジアは自然が豊かで、メコンデルタの中では一日中椅子に座って果物が樹から落ちてくるのを待っているだけで生活することができる。戦争中でも日本と違い市場に食物が溢れている」という意味あいのことを記していた。

タイもこれと同じ。
米なら三毛作、バナナやパパイヤ、椰子の実などは何をしなくてもニョキニョキと育つ。
川には鯰や鰻、その他食べられる魚がうようよいる、
つまり、自然の恵みに溢れている。

しかし、国王はこうもおっしゃる。
利益追求で明け暮れて国土がもつ本来の豊かさを忘れ、権力や欲望に身を任せる風潮が強くなってしまった。
仏教ではひとつのものを持つと、またそのものを持ってしまったという悩みが発生し、それが永遠に続くと説く。
そのために世界中で争いごとが起きてなにも解決しない。
タイはそのような精神的に乏しい国ではない。
というのだ。

ある意味、タクシン一族のような華僑中心の拝金主義へのお叱りの言葉とも見受けられるのが。これまた興味溢れる。

ここで、出てくるのが「足るを知る」という言葉。
なるほど、何でもかんでも欲しい欲しい。
誰にも負けたくないし、権力や金が欲しい、と思い続け欲に任せて走り続けるのは人間として決して美しい姿ではない。

展示会場ではバンコクの中央を貫いて流れているチャオプラヤー川のほとりに建設中の新しい国会議事堂の模型が展示されていた。
説明によると国王の説かれる「足るを知る」の思想を反映した美しい建築になるのだという。

東京国際フォーラムに立ち寄って、建築会議が開催中で、しかもタイ王様の豊かな思想の一端を知ることになった、大変ラッキーな一瞬なのであった。





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