<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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朝からケーブルテレビにチャンネルを合わせると、あな懐かしや、MGMの名作ミュージカルの名シーンばかりを集めた「ザッツ・エンタテイメント」が放送されていた。



チャンネルを合わせた時に丁度画面に映っていたのは、ジュディー・ガーランドとミッキー・ルーニーが出演した往年の青春物がメドレーで流れていたところだった。
ミュージカルだし、最盛期のハリウッド映画だし、相変わらず大仰な作りなのは仕方がなかったが大いに「アメリカ!」というものを感じさせてくれたので、ついつい見入ってしまったのだった。

ついついテレビの映画に見入ったのは「ダイハード」以来だった。

ところで最近のハリウッド映画。
この古い黒白の映画に見られる光り輝く「アメリカ!」というきらびやかさを失ってしまっているように思える。

新聞の記事によると、いまやハリウッド映画の日本支社はGWの書き入れ時はアメリカ製映画を上映リストから外して、元気一杯の邦画を上映するようビジネス路線に変更しているのだという。
なぜ、アメリカ映画がその魅力を失ってしまっているのか。

「ザッツ・エンタテイメント」を見ているとその原因がおぼろげながら見えてくるような気がした。

例えば数多くのスターが集められ、MGM設立何周年かのパーティを撮影したシーン。
数多くのスターがテーブルに並んでいた。
これはハリウッドの映画会社が自社で数多くのスターを抱えていたことを物語っていた。
フレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディー・ガーランド、フランク・シナトラ、などなど。
昔は映画会社がスターを抱えていたのだ。
日本の映画会社も同様に「自社のスター」というものが存在した。
それがテレビ放送の開始や、スターのビジネススタイルの変遷により、映画会社は単なる配給元や劇場提供のみの、一種の不動産屋と化していったのだ。
スターは映画会社のものではなくなり、独自のプロダクションをもつようになり、映画会社とは一本ごと、あるいは複数本ごとに契約を結んで出演する関係に変化していった。

これは現在のデパートとテナントの関係に似ている。
デパートは単なる不動産屋と化してしまって実質的にお客を呼び込んでいるのはテナントという実態だ。
このため一部のテナントの力が強過ぎたり、デパートの総合的企画が通りにくくなったためにデパートそのものが衰退してしまっているのだ。

映画のようなエンタテイメントを生業にする企業は、デパートのようになっては良いものが作れないのだ。

会社とスタッフとスターが渾然一体になり、観客が満足のいくものを製作する。
それがたとえ「芸術的」でないものであったとしても、「エンタテイメント」を表現するものであれば、興行的に成功に導ける何かが生まれ、そしてそれが魅力となって映画が輝いてくるのだ。

ここ数年のアメリカ映画を観ていると、なにか暗く、深刻で、憂鬱なものを感じざるを得ない。
それは9.11だけが原因ではないような気がする。
何か「こういうことを言わなければ」という、理屈が先に立ってしまい、アメリカ映画の根本的な魅力である「エンタテイメント」が欠如してしまっているのだ。

それは映画そのものだけではなく、スター不在というところにも現れている。
実際、ザッツ・エンタテイメントに登場するようなスターは、今や誰一人としていないのだ。

ザッツ・エンタテイメントは、ある意味、ハリウッドの魅力を最大限に伝え続ける「スター」に出会える映画なのかもわからない。

~「ザッツ・エンタテイメント」MGM映画1974年~

なお、この映画の中で「パリのアメリカ人」を紹介するシナトラが「もう、20年も前の映画になってしまいましたが」と話すシーンがあるけれども、この「ザッツ・エンタテイメント」が35年も前の映画になってしまったことに、驚きを感じた。

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