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宇宙エンタメ前哨基地

<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム

ホテルの条件~安ホテルは良いホテル?(その2)

2009-09-23 09:38:40 | 旅_アジア
ある旅でミャンマーのヤンゴンに滞在したとき、安さだけを追求して1泊8ドルの安宿に宿泊した。
その時はできるだけ安く旅行をしようと考え、移動は乗り合いバスで、宿泊は外国人の宿泊できる超安宿で。但しドミトリーは不可。
という条件を旅行社に投げてみた。
するといつもの旅行社が探してきたのがくだんの安宿だった。

このホテル。
ともかく繁華街のど真ん中に位置していて便利なのは良かったが、ともかく喧しい。
ヤンゴンは停電が頻繁に発生し、その都度エアコンのスイッチが切れる。
扇風機を回すこともできないので、暑いから窓を開ける。
窓を開けると夜中でも外の喧騒が飛び込んできて喧しいことこの上ない。
で、暫くすると電気が復旧し、窓を閉めてエアコンのスイッチを入れる。
そして落ち着いた頃再び停電が発生するのだ。

私の部屋はホテルの4階に位置していたがエレベータは当然ないので階段で上り下りしなければならない。
部屋で一息ついて、何かのみたいと思っても、わざわざ階段を下りて飲み物を買い、そしてまた暑い中汗をかきながら階段を上がってこなければならない。
しかも部屋に入ってもエアコンが動いているという保証もなく、スイッチを入れたら停電中だったというような事態になっている。

スタッフは愛想よく親切でも有り、ホテルの清潔度も高かった。
しかし騒々しくて安眠することができず昼間外を散策しているよりも、夜、ベッドで寝ている方が疲れるという飛んでもないことになってしまったのだ。

ミャンマーというある意味日本と比べると随分と特殊な条件下での滞在なのだったが、価格が安けりゃ良いホテルという論理はここにめでたく崩壊したのであった。

ホテルの条件~安ホテルは良いホテル?(その1)

2009-09-22 23:22:44 | 旅_アジア
良いホテルの条件とはいったい何だろう?

安いホテル。
駅に近いホテル。
部屋が広いホテル。
などなど、人によって様々だろう。

バックパッカーの場合は安宿を好む習性があり、バックパッカーではないが私も旅を始めた当初は安宿が大好きだった。
というのも、2度目の東南アジア旅行で訪れたタイのバンコクでは1泊30ドルほどのホテルが日本の中級ホテルに匹敵する設備を有していることを知ったからだ。
「もっと安くてもいけるのでは(=まともな宿泊ができるかも)」
とさらに安いホテルを探し出すことに躍起になった。
ちなみに初めての東南アジア旅行はシンガポールでそこそこのホテルに泊まったため1泊100USドルほどかかった。

バンコクでバックパッカーが集まるカオサンのような場所は好きではないので別の場所で探してみるとニューロードと呼ばれる地域で、1泊1800円程度の宿を見つけることができた。
さっそくインターネットで予約して宿泊してみた。
部屋はさすがに狭く、窓の外はすぐに隣の建物の壁、といった具合だったが、室内は清潔で冷蔵庫もあり、なんといってもスタッフが気さくで親切で、レストランの料理や飲み物も安かった。

そんなこんなで暫くそのホテルを定宿としていたが、ある年突然経営者が代わったといううことでスタッフも無愛想になった。
宿泊料金は変わらなかったのだが、スタッフの給料は安くなったのかも分からない。
そんなこんなで不愉快だから別のホテルに定宿を移すことにした。
それが今の定宿となっているサービスアパートだが、良いホテルの条件がなにも料金の安さではないと気付いたのはこの時ではなかった。

つづく

ベトナム大冒険(1)

2009-09-20 18:22:10 | 旅_アジア
今回の旅の目的地がベトナムになったのはそれなりに理由があってのことだった。
ハネムーンになる旅行だから、ということで私はいつもとは違った特別な旅を計画。
目的地にアメリカのニューヨークを希望した。
ブロードウェイミュージカルやジャズを楽しみ、大阪でも東京でもないNYのスタバでお茶をして、地下鉄に乗って数多くのギャラリーなどを見て回ろうと思っていたのだ。
普段、東南アジアばかりを旅している私にしては大胆な計画で、これも休みを多めにとっても文句を付けられにくいハネムーンという特別な旅行だからだ、と考えてのことだった。
かなり張り切った旅で未来の嫁さんも即座に賛成してくれていた。

ところが、この目的地ニューヨークがベトナムに変わるのに時間はさしてかからなかった。

私の嫁さんになった女性には十歳になる娘が一人いた。
ホニョ(もちろん仮名)という名前でノホホ~ンとした大変性格がおおらかで良い娘だった。
幸いなことに早い時期からホニョが私に懐いてくれたことで、私も人生における最大の決意、つまり結婚することを決めるに至ったのだ。
このホニョ。
大変おとなしく、勉強の出来も悪くなく、時にものすごくお喋りで陽気な性格をしているのだが、いかにせん現代の日本娘。
かなりおっとりしている。
それもあまりにスローし過ぎているために、どうも「シッカリしていない」という印象がぬぐえないことが多い。
ポジティブな性格は大いに大切にしてあげるべきだが、大人になってもノホホ~ンでは困る。
親としてこちらは心配するばかりだが、なんとかそのノホホ~ンとした性格を矯正するための良い方法はないものかと検討した結果、次のようなアイデアが浮かんだ。

東南アジアに行けば経済的な事情で十歳にもなれば街に出て働いて家計を助けなけばならない子供たちが沢山いる。
いや、十歳どころか日本で言えば幼稚園年長組ぐらいの頃から兄弟姉妹の面倒を見ている子供たちも少なくない。
私の父母や祖父母の代ではそんな光景は日本でも珍しくなく、六十年代生まれの私でも家業を手伝う小学生の友達は少なくなかった。
私も夏休みなどは父の会社の倉庫の手伝いなどをしたものだ。

ところが今の日本は恵まれすぎているのか狂っているのか、子供が現実の社会に触れる機会が著しく少ない。
そこで、私はホニョを東南アジアの国に連れていき、自分と同じ世代の子供が堂々と家事を手伝い、街で働いている姿を見せカルチャーショックを受けさせてやろうと考えたのだ。
このアイデアに未来の嫁さんも即座に同意してくれた。
彼女も自分の娘に同じ思いをもっていたのだ。

早速、どこへ行くかの吟味が始まった。
まず私は、ここ数年の間、何度も訪れて大のお気に入りになっているミャンマーへ行くことを考えた。
ここであれば孤児院を併設しているお寺も知っているし、地方や少数民族の子弟を預かり教育に努めているお寺も知っている。
とりわけ後者のお寺は私自身寄進もしたことがあり、80歳を超えるご住職は立派な方で説法を受けるのも大変勉強になると思ったのだ。

ところが嫁さんが「ミャンマーは怖い」と言うのだ。
なんでも数年前に日本人ジャーナリストが殺害されたような自由の無い、軍事独裁の国家は危険が一杯で子連れの旅などしたくないと言う。
これには私は困ってしまった。
テレビやラジオ、新聞が伝えるミャンマーの姿は真実とはほど遠く、まして一昨年のデモ騒ぎで殺害された日本人ジャーナリストがいかに迷惑な御仁であったかなど、まったく伝えていないのだ。
自信を持ってミャンマーの都市部は安全だと断言できるのであったが、さすがにアジア旅行の経験のない嫁と娘を伴ってのミャンマーはかなりタフなものになるに違いない。
私はミャンマーを訪れることをとりあえず断念した。

次に私は「タイはどう?」と訊いた。
なんといっても微笑みの国、タイ。
在留邦人は10万人以上。
バンコクはここ数年で驚くほどインフラが良くなり移動にも困らない。
現地の食事に飽きたらマクドナルド、ミスド、8番ラーメン、すし屋、居酒屋など日本でもお馴染の味にも困らない。
ホアヒンのようなリゾートに行くとリラックスできること太鼓判である。

ところがタイも否定されてしまったのだ。
なぜなら昨年末からバンコクを中心に再三繰り返されている元首相タクシン派と反タクシン派の政争による空港閉鎖などが危惧されてしまったのだ。
日本国内は不況でリストラの嵐が吹き荒れているのに、もし空港閉鎖で何日も足止めを受けたりしたら帰国しも仕事がなくなっているかも知れない、というのが心配の理由だった。

で、残されたのがベトナム。

最近のベトナムは中国の影響もあり経済が急速に発展していて日本でもポジティブな話題が多い。
女性誌では盛んにエステやリゾートが話題になっているようだ。
私も5年前にサイゴンだけを訪れていて、ちょっとは雰囲気を知っている。
もちろん、社会の構造は他の東南アジア諸国とも似通っている。
それに食事が日本人の舌にマッチしている。
娘のためにもなりそうだ。

そんなこんなでハネムーン旅行の行き先は無難なベトナムに決まったのであった。

つづく

5年ぶりのベトナム

2009-09-14 21:15:49 | 旅_アジア
久しぶりにベトナムを旅してきた。
前回訪れてから5年間の、かの国の激変ぶりに驚いてきたのだ。

この間、私の方も激変しており、ベトナムも私もええとこ勝負なのであった。
ベトナムは急速な経済発展で前回2004年に訪れたときに感じた活気を何倍にも増幅したような、それはもう、めちゃくちゃなエネルギーで、度肝を抜かれた。
こっちはこっちで前回のチョンガーの一人旅から、嫁さんと娘を連れた家族旅行に変貌。
ブログでは暫しお話していなかったが、なんとつい最近、私は子持ちの女性を嫁さんをもらってしまっていたのであった。
尤も旅のスタイルは従来のバックパッカーを少しばかり豪華にした勝手気ままな個人旅行に変わりはない。
でも、単独の旅行から家族旅行に変わった変化は小さくなかった。

それにしてもベトナムに満ちあふれているエネルギーはなんなのだろう。

輝き。
飛躍。
希望。

私たち日本と同様に千年以上も歴史のあるこの国が、まるで生まれたての若者の国のように活気に満ちているのだ。
人々のまなざしは希望に燃え、ニートがどうしたの、格差社会がどうのこうの、と、どこかの労働組合みたいにヘタレな人々が増え続けている我が日本とは大違いなのだ。
かといって、すべてがすべてエネルギッシュな人々で占められているかというと、そうでもないのもまた事実。
しかし、成熟し、心身共に老齢化している日本よりは遥に力がみなぎっているように感じられた。

それは街の景色に端的に現われている。

まず、バイクの数が半端ではない。
前回の2004年の時もそのバイクの数に驚いたのだったが、今回はそれどころではない。
バイクだけでサイゴンの街の大通りは渋滞が頻繁に発生しているのだ。
もともとバイクの洪水はこの国の名物のはずだが、それにしても少なくとも前回の1.5倍はあったと思う。

そして、もろ中古車が消えていた。
前回は路線バスの多くがハングル文字そのままの韓国の中古バスだったが、今度はそんなバスは1台も見かけず綺麗に塗装された普通のバスが走っていた。
そしてミャンマーなら今でも見かける小型のオート三輪もすっかり姿を消し、そのかわりに日本車を巧みにコピーした韓国の小型トラックや、本物の日本車(多分タイかベトナムでの現地生産品)が走り回っていたのだ。

高層ビルが建ち並び、バブル期の日本のようにビル建設のクレーンが林立している。
5年前はとんと見かけなかったコンビニまで現われていた。

ということで、独身から娘を持つお父さんになってしまった私はベトナムの姿を家族と共に体験し、そして少しばかりだが、そのエネルギーを受け取ってくることができた。
私の旅は新たなステージへと踏み出したのだ。

ということで、まもなく久々に旅行記を連載しようと思っている。
題して「サンゴンへ来た妻と娘」。
と、いうのは冗談。
近藤紘一の名著に失礼になるのでパロディにするのは避けるとして、「ベトナム大冒険」という感じで「ミャンマー大冒険」シリーズの自著のパクリ題名なんかで書いていきたいと考えているのだ。

なお、子持ちといっても嫁さんはシシャモではない。

雨安居の季節

2009-07-21 08:17:45 | 旅_アジア
梅雨の末期。
どういうわけか、毎日朝夕雨が降る。
それも豪雨と言ってもいいほどの強い雨が降るのだ。

思い起こせば、梅雨の時期の集中豪雨は1982年の長崎水害あたりから酷くなってきているような気がしないでもない。
地球温暖化に伴う日本の熱帯化。
なんとなく空気の肌触りが朝夕は東南アジアのバンコクやヤンゴンにいるような錯覚を覚えることも少なくない。

ところで、日本に雨を降らせている梅雨前線はどこで生まれ、どういうふうに流れてくるのか。
私はミャンマーへ旅するまで、そんなことはちっとも考えたことがなかったのだ。

「ベンガル湾で発生した梅雨前線は、このように本州の南側にかかってきています」

初めてのミャンマーへの旅に出かける直前に注意していたNHKの天気予報で、梅雨前線がインド洋で誕生してミャンマーからラオス、中国南部を通り、台湾から始まる日本列島にかかることを初めて知ったのであった。
梅雨の雨に東南アジアの香りがするのは、このためかも分からないと今も時々思っている。

ところで、梅雨の時期。
日本では7月に終了するが、ミャンマーやタイでは9月まで長雨が続く。
この時期を「雨安居」といって、仏教のお坊さんが外出せずに勉強に励む時期になっている。

雨期の初めと終わりにしかこの地域を旅したことはないが、その雨量はすさまじいに違いない。
毎年、タイ北部では多くの家が水に浸かる大洪水が発生。
私も一昨年、ミャンマーのバゴーで大雨に遭遇し、国道のほとんどが水没して危うくヤンゴンに帰れないのでは、という事態を経験した。
その帰りにバンコクに立ち寄ると、チャオプラヤ川の水が溢れそうになっており、地面の同じレベルの水面を大型の艀やチャオプラヤーエキスプレスが行き来するのを「なんやなんや」と興味深げに眺めさせていただいた。

外出など、できる季節ではないのだ。

雨安居の季節。
雨の音を聞きながらじっくり読書でもしたいところではある。

A330-200・ジェットスター、お前もか

2009-06-11 23:03:37 | 旅_アジア
関空発豪行きエアバス、出火で緊急着陸…けが人なし(読売新聞) - goo ニュース

大阪からシドニーへ向っていた空飛ぶ乗り合いバス「ジェットスター」のA330-200で小火が発生。
場所はなんとコクピット。
慌てたクルーはグァム島に緊急着陸した。
乗客はグァム島でアメリカ合衆国に入国し、豪州からの迎えの便を待つのだという。

これって、
「オーストラリアに行く筈だったのに、グァム島にも寄れてラッキー」
と思うか、
「冗談じゃない、死ぬかも知れないところだっんだぞ」
と怒りを発するか、乗客の性格の分かれるところだ。

私なら、時間に余裕のある場合は前者だろうし、時間に余裕がなければ、
「すいません。飛行機にトラブルがあって暫く帰れません。」
と会社に電話して、ゆ~~~~~くりとリゾートを楽しむことだろう。

それにしてもA330-200。
この機種なんか問題があるのかも知れない。

先週、大西洋上で行方不明になったエールフランスの旅客機もA330-200。
破片が発見されているので落っこちたことは間違いないが、その原因は未だ不明。
もしかすると、今回と同じくコクピットで火災でも発生して消火できずに墜落したのかもわからない。

今回はグァムのような着陸することのでき飛行場があったから良かったものの、これがエールフランスの事故のように大西洋の真ん中であったり、ハワイ便のように太平洋の真ん中だったらどうなったか分からない。

「電気系統に異常」
エールフランスのA330は最後にそう連絡してきて消息を絶った。
火災で電気系統がイカレタのか。
なんにしても不気味だ。

めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(9)

2009-02-25 19:00:00 | 旅_アジア
意外にも、預けていた荷物は早く受けとることができた。
ほっと一息ついた私は空港の出口でガイドのTさんと迎えの車が来るのを待っていた。

空港前のロータリーは超混雑状態であった。
私のような到着便の乗客とそれを迎えにきた人々と、ポーター、警備の兵士、なにやらさっぱり正体のわからないやじ馬のような人々が、わんさか溢れていたのであった。
道路は道路でワゴン車やタクシーなどでメチャクチャ混雑していた。

正直言って、ひとりでここに来ていたらタクシーを探し出せていたかどうか果たして疑問だ。
まず、どれがタクシーなのか皆目検討がつかない。
メータータクシーなんぞ姿はないし、リムジンカウンターさえ、ぼや~とした私の目には見つけることができない。
つまりタクシーと一般車の区別がつかないのだ。

よくぞ、今回ばかりはガイドさんとタクシーをチャーターしたものだ、と普段は完全なバックパッカーである自分自身を褒めてやった。

「ちょっと待ってください。ここでは駐車できないので.....いま車がきますから。」

それにしてもTさんの日本語は完ぺきだった。
普通の日本人と話しているような感覚があり、どうしてもTさんがミャンマー人だなんて思えないくらいだ。

その日本語スキルは正直言って、ネイティブな日本人より上手いくらいなのであった。

そもそもミャンマー人は容姿が日本人と極めて似ているため、まるで日本人と話しをしているような錯覚をする。
Tさんがもしロンジーというスカートに似たミャンマーの民族衣装を身につけていなければ、日本人と言っても、多くの人は信じてしまうに違いない。

「日本語がお上手ですね。」
と私は言った。
「ありがとうございます。」
こういうところが日本人ではないところなのかもわからない。
日本人だと、
「いえいえ、そんなこと」
などと、しょーもない謙遜なんぞをしたりなんかするのだ。

で、Tさんは続けた。
「学校で勉強しました。」
「日本の学校でですか?」
と、私。
「いいえ。ヤンゴンでです。日本には行ったことがありません。」

学校で勉強するだけで、これだけ流ちょうに外国語を話せるようになるとは、素晴らしい。
彼女にはもともと日本語をマスターするだけの素養があったのか、それともミャンマー人一般がそうなのかはわからない。
しかし、かなりのレベルだ。

よくよく聞いてみると彼女は日本語検定二級に合格していて漢字もそこそこ読むことができるそうだ。

日本では多大の学習費を支払い、豪、英、米など英語圏の国へ「短期語学留学」と称して遊びに行き、
「私、英語得意やねん。」
と宣ってくれるパープーお姉さん、お兄さん方をよく見かける。
しかし、こういうお上りさんたちは、いざ話しだすと英語はおろか、母国語である日本語でさえまともに話すことができない輩が多い。
嘆かわしいことではないか。

それに比べるとここミャンマーはどうだ。
凄いではないか。

かくいう私なども英会話スクールに通うようになって十数年が経過するが、未だにフランス語が話せるようにはならない。

当たり前か。

で、そうこうするうちに、迎えの車がやって来た。

迎えの車はメタリックグレーの中古のトヨタマークトゥー。
一応タクシーのはずなのであったが、普通の日本の中古車だ。
運転手は目つきの鋭い、しかし気の良さそうな痩身の男であった。
そして彼ももた、ミャンマーの民族衣装ロンジーを身に付けていたのだった。

つづく

めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(8)

2009-02-10 06:32:47 | 旅_アジア
日本のバスがそのまんま、ヤンゴン国際空港の搭乗用バスとして利用されていることに度肝を抜かれた私がぼう然とするなか、ガイドのTさんは検疫カウンターを通るように促した。

ここでは機内で配られた健康申告書、つまりSARSについての問診表を手渡すだけだった。
熱はありますか? 下痢はしていませんか? 咳はありませんか? 最近中国へは行ってませんか?
というあれである。

だいたいSARSが流行ったのは去年のこと。

機内でこの問診表が配られた時、なんで今さらと思ったが、ともかくチェック項目に印を入れた。
なかには意味の分からない英単語の病名が二つほど記されていたが英和辞典など持ち合わせていないので、ともかくすべてNOのボックスにチェックを入れ、問診表を仕上げた。

「こっちへ来てください。」

検疫カウンターから出てくるとガイドのTさんはそこから数歩先にある田舎の駅の駅長室のような木造の狭いオフィスに私を連れていった。

オフィスにはグレーの古いスチール製の事務机が置かれていた。
私はその前の椅子に腰を掛けるように指示をされた。
なんだか昔の刑事ドラマの事情聴取のシーンみたいだ。

奥からゴリさんや山さんが出てきそうな気がする。
頭の中で往年の人気シリーズ「太陽にほえろ」のテーマが流れた。
しかし七曲署の刑事の代わりに事務所に入ってきたのはやっぱり入管職員の若い男だった。

「写真、持ってきてますか?」
Tさんは言った。

「はい、パスポートに使うサイズのを三枚。」
「二枚で結構です。」

Tさんが私の写真とパスポートを入管職員に渡すと、彼は写真を手元にあった書類にホッチキスで留め、パスポートをパラパラと捲り、白紙のページを開いた。そして年末の郵便局に置いてあるような四角い大きなスタンプをおもむろにとりだしドンと捺印した。

これでビザは完了。

アライバルビザはやっぱり存在したのだった。

入国審査の列に並ぶように言われて、大勢の外国人が並ぶ列の一番後ろに並んだ。
入国審査官のオッサンが座っているカウンターはまるで風呂屋の番台のようだ。しかもその番台は二つしかなく入国しようとする我々外国人で長蛇の列ができていた。
私の最前列では壮年の白人のオッサンガ難しい顔をして入管職員の作業を番台越しに見つめている。
入管職員は持っているボールペンでパスポートの一部を指さしオッサンになにやら話している。
書類に不備があるのか、職員の言っていることが分からないのか、オッサンはいっそう難しい表情になった。

ミャンマーへの入国は難しい、と聞いていたが事実のようだ。
この様子ではなかな前に進みそうにない。
困ったなと思い横を見るとTさんとさっきの入管職員のお兄さんが若い入管職員のお姉さんとなにか話しをしている。

「すいません。もういちどパスポートかしてもらえますか?」

とTさんが言うので、パスポートを渡すと、入管職員のお兄さんがお姉さんにページを開いて見せている。お姉さんは大きく頷いてTさんと私に向かって何か言った。

「あのー、こっち通ってくださいって。」

Tさんは入国審査の番台の背中側を指さした。

「ビザと入国のスタンプは押したんで、あっちへ行ってもよいそうです。」

なんと、私は列に並ばずに、入国審査カウンターの裏を通って行っていいというのだ。
裏口入学ならぬ、裏口入国である。
尤も私はパスポートにちゃんと入国のスタンプが押されているのでれっきとした合法入国である。
ということで、列をなした大勢の外国人をしり目に、番台、もとい入国審査カウンターに座っている入管審査官の後ろをすり抜けて入国したのであった。
大勢の旅行者たちの「なでや?あいつら。」という視線を浴びながら。
なんとなくそれは友達がバイトしている場末の映画館に顔パスで通用口から無理やりタダで入れてもらったような感じだったのだ。

つづく


めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(7)

2008-12-30 14:15:33 | 旅_アジア
元産経新聞の記者で現在は週刊新潮などにコラムを連載されている高山正之氏の著書によると、かつてヤンゴン国際空港は東南アジア随一の栄華を誇り、タイのバンコク国際空港などまったく相手にならないほど賑わっていという。
多くの国際線がヤンゴン国際空港をハブ空港とし、極東線、欧州線を飛びまわっていたというのだ。

それが長い政治的、経済的な停滞で、今では完全なド田舎にある一地方空港のような姿になってしまった。

飛行機の窓からの眺めは空港の周りに広がるジャングルだけ。
暗い空港だ。
滑走路からタクシングウェイに進入したが照明が乏しくよく見えない。
寂しいところである。

やがてターミナルビルが見えてきたが、空港の名前を示す看板のライトアップでさえ薄暗い。
駐機されている飛行機はミャンマーの国内線の1、2機ぐらい。それも真っ暗に近いので、シルエット程度しか見えない。
外国の航空会社の機体はまったく見当たらない。

私の乗っていたタイ国際航空のA300型旅客機はその薄暗いターミナルビルに機首を向けるとゆっくりと停止した。
エンジンの音が弱まると乗客たちが我先と立ち上がり、天井のボックスから荷物を下ろし始めた。
その物音に景色をじっと見ていた私は我に返った。そして重い気持ちが甦ってきた。
アライバルビザの件を思いだしたのだ。
ついに入国審査だ。
ここでもし入国審査官から、

「アライバルビザってな~に?」

と言われたりするとどうすればいいのだろうか?
私は使い方がよくわからないであろうミャンマーの公衆電話に駆け寄り、現地の旅行社になんとかコンタクトを取って助けを求めなければならないだろう。
インターネットのメールで届いていた旅行社からの連絡によると、入国審査場前にガイドさんが私のネームプレートを掲げて待ってくれていることになっている。
しかし、ここでずっと疑問に思っていたが、わざと触れなかったことがある。
それは入国審査のゲートの内側にどうやってガイドさんが入って来るのか、ということである。
入国審査からこちら側、つまり飛行機の搭乗口ないし降りてくる方は、その国であってその国でない。
それはヤンゴン国際空港だけではなく、関空や成田、羽田も同じ。
いわば無国籍地帯。
資格のあるものしか入れないはずだ。

ガイドさんが客を迎えるだけのためにそんなエリアに入ってこれるのか。
私にはここへ来るまでそれが心の奥底でずっと引っ掛かっていたのだが、思いだすとアライバルビザの件が心配になってくるので考えないことにしていた。

飛行機から出てタラップの階段を降りると暗がりに2台のバスが止まっていた。
この空港にボーディングブリッジはない。
エプロンの路上は雨上がりか濡れていた。
リュックを背負い、ほぼ満員のバスに乗り込んだ。
乗客の中に日本人は見当たらない。
というよりもどいつが日本人なのかミャンマー人なのかタイ人なのかインド人なのかわからない。
ともかく異国の雰囲気たっぷりのバスだった。

しかしこの異国情緒溢れるバスが、実は飛んでもない純和風のバスであったことはすぐがすぐに判明した。

バスに乗ったばかりの私はつり革に捉まり車内を見回していた。
やっぱり薄暗いが、それはバスのこと。
仕方がない。
ふと窓際を見ると、緑色の押しボタンの下に日本語で注意書きが書かれていた。

「バスを降りる時はこのボタンを押してください。」と。

「ふーん、バスを降りる時、あのボタンを押すのか。」

私は何も疑問を抱かずにぼんやりと日本語表示を眺めてた。
普通の感覚であれば、
「これはおかしい」
と思う筈だが、私は疲れていたのか、それともアライバルビザの件が頭をもたげていたのか無感覚になっていたのだ。
そして、今私が乗り込んできた入り口近くに目を移せば弁当箱ぐらいの赤いボックスが壁に掛かりその上に、

「非常時はこのなかのレバーを引いて扉を開けてください。」

とこれまた日本語で書かれていた。

「親切なバスだな~」

と思い、さらにその扉のガラス戸を見ると丸ゴチック体の漢字で、

「非常口」

と書かれている。

「?」

どこかで聞き覚えのあるブザーが鳴り、ドアが閉まるとバスはターミナルビルに向かって走り始めた。

空腹とアライバルビザへの不安感で鈍くなっている私の頭も、ここにきて、ある事実に気づくのであった。
なんじゃこりゃ。日本の乗り合いバスやないか、と。
車内をよく見ると、運転席のすぐ後ろには「つぎとまります」の表示がある。
窓を見ると「東京なんとか交通」のシールが貼られている。
ヤンゴン到着早々に日本のバスに乗るとは思わなかった。
まさか、ここは羽田ではないだろうな。
頬をつねりたい心境で窓の外を見ると、今降りてきたばかりのタイ国際航空エアバスA300型機のでっかい機体がどっしりと座っている。
ここは間違いなくヤンゴンだ。

ショックで真っ白になった頭のまま、バスは到着ゲート前で停止した。
ふらふらとバスを降りるとターミナルビル入り口の柵の向こう側に出迎えの人たちがいる。
日本人の名前を明記したプレートを持つ人が三人ほどいた。
その中に、私の名前が書かれたプレートを持つガイドのTさんがいた。
私は小柄な彼女に近付き、柵越しに言った。

「ガイドのTさんですか?」
「そうです。Kさんですか?」
「はあ、あのー、日本のバスです。」
「は?」
「ヤンゴンの空港。日本のバスが走ってるんですね。」

つづく

めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(6)

2008-12-24 06:44:28 | 旅_アジア
出発3日前、NHKのニュース番組で天気予報を見ていると、

「ベンガル湾から続いている帯のような雨雲がこのように日本列島に梅雨のような雨を降らせているのです。」

と予報官のオッサンは言った。

ベンガル湾?
どこやったかな?そこ。

私はヤンゴンへ向かう飛行機のシートに座って、前方に見えるビデオスクリーンを眺めていた。
そこにはナビゲーションシステムの地図が映し出され、現在の飛行機の位置、目的地、主要な都市が示されていた。
そのなかにBengal Gulfと書かれた文字が目に留まった。

Bengal Gulf。
ベンガル湾か......。

そう、ベンガル湾とはインド、バングラディッシュ、ミャンマーに囲まれたインド洋の一角だったのだ。
つまり、日本列島に雨を降らせていた雨雲はミャンマー沖のベンガル湾で発生し、ミャンマー中部、中国南部を通過し、台湾から日本列島にかかっていたのだった。
ということは、どういうことを意味しているのかというと、ミャンマーは雨だということだ。

雨。

私は急に憂鬱になってきた。

私はカンカン照りの紺碧の空が広がるミャンマーを夢想していた。それだけに、現地は雨なのかと思うと、すごく悔しくなってきてしまったのだった。
でも天気予報は3日前の情報だ。
今日あたりから、もしかすると雲が切れ、雨が止んで晴れてきているのではないかと、私は今飛行している地域を考慮してお釈迦様に祈った。
しかし、その祈りもむなしく、飛行機がタイ・ミャンマーの国境を越える頃には、雨雲の中を飛行しているであろう独特の揺れが始まったのである。
この揺れの中、果敢にも客室乗務員たちは機内食のサービスを行っていた。

国際線とはいえ、たった一時間少々のフライトで夕食が供されているのだ。
あっぱれと言えよう。
2時間を超える沖縄~大阪路線でさえ簡単な飲み物しか出さない暴利むさぼるショボイ日系航空会社とはえらい違いである。

それにしても、少々の揺れがあっても怪我を覚悟で料理を配っていかなければならないのはなぜか。
そうでもしないと短い飛行時間で、配る、食べる、回収する、のローテーションが全うできないのだろうか。
彼らはふらふら揺れながらもサービスを継続していた。
当然のことながらアテンダントは私のところへもやって来て夕食のトレイを差し出した。
一応受取ったものの、私はこの機内食は食べないつもりでいた。
なぜなら、私はミャンマーへ入国後、ヤンゴンのレストランでミャンマー料理を食べることになっていたからだ。
ただ、私が機内食に手をつけずにおこうと思ったのには、もう一つの理由があった。
出発前にミャンマー料理についての情報をあれこれ調査してみると、そこには「ミャンマー料理は脂っこく日本人の舌にはあいにくい」と一様に書かれていたからだ。
そこでミャンマーの人たちには失礼だとは思ったが、私は念のため空腹感を維持させて「舌に合いにくい料理」に備えることにした。
だから機内での食事は控えることにしたのだ。
しかし、いかにせん腹が空いていた。
最後の食事は正午前に関西空港を離陸してすぐにでてきた機内食だった。
それにたった半日前に大阪を出発したばかりで、体内時計は日本時間で動いている。
そういうわけで腕時計の針はミャンマー時間で午後6時過ぎであったとしても、私の生理的な時間は午後9時前であるから、腹が空いていても仕方がないのだった。

そしてさらにもう一つの試練があった。

タイ航空の機内食は他のエアラインと比べると総じて美味しい。
私はいつもこの機内食が美味いことを理由に大阪からバンコクまでの移動にタイ航空を利用している。他のエアラインより若干割高であることを承知の上でである。

エッヘン!

このバンコクからヤンゴンの便も軽い夕食とはいえ、とても美味そうなのであった。
アルミホイルのかかった長方形のお皿を見てみると、卵とチーズが使われた卵焼き風の料理がほこほこと湯気を上げて、いい香りを発している。
その隣には小さな透明のプラスチック容器にグリーンサラダが入れられ、その上にはチョコレートケーキが鎮座している。
私は誘惑に負けてナイフとフォークの包みを解いた。
卵料理風の塊をちょこっとつつき、破片を口に運んだ。

美味であった。

グリーンサラダにドレッシングをかけて、アスパラガスとレタスをフォークで突き刺し、口へ運んだ。

これも微妙に脂っこいが美味であった。

もう2口ほど卵料理を口に運び、私は勇気を振り絞って、皿のアルミホイルを閉じ、コーヒーを注いでもらったカップを手に取り、固形物を胃の腑に入れることを中止したのだ。
隣の席では上品なタイ人のおばさんが一心不乱に食事と格闘していた。
一方、中途半端に食べてしまった私の空腹感はいっそう増したのだった。
やがてトレイが慌ただしく回収されると、すぐにベルト着用のサインが点灯し、飛行機は高度を下げ始めた。
やはり天候がすぐれないのか、かなり揺れている。

そろそろヤンゴンの街並みが見えてきても良さそうな頃合いだ。
私は窓から下界を見下ろし、ヤンゴンの夜景が見えてくるのを待ち続けた。
しかし、天候が悪いので、地上の景色はなかなか見えてこない。
いや、飛行機は雲の中を飛んでいるのではない。
よくよく目を凝らして眺めると、点々と街灯の明かりが見える。
市街地はずっと空港から離れた場所にあるのか、飛行場近くは街灯は少なく、とても暗い。

やがて飛行機は大きく旋回した。
さらに高度が下がり、暫くして暗やみを流れるような鬱蒼と茂る木立のシルエットが現れると、私を乗せたエアバスA三〇〇型機はドスンとヤンゴン国際空港に着陸した。

つづく