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宇宙エンタメ前哨基地

<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム

めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(5)

2008-12-14 09:01:59 | 旅_アジア
やがてヤンゴンへの便は四番ゲートから出発することディスプレイに表示された。
何もすることがない私は、出発ゲート前のベンチで待つことにした。

実のところ私はバンコクからヤンゴンへは近いこともあり、さほど大きな飛行機が飛んでいるわけではないだろうと勝手に思い込んでいた。
ローカルな国際線なので、きっと利用者も少ないのだろうと思っていた。
ところがこれは大きな間違いなのであった。

時間が経過するに従って、ヤンゴン行きの出発ロビーには客の人数が増えてきた。
やがて大阪からバンコクまでと負けず劣らずの混雑に膨れ上がってきたのだ。
ローカルな国際線とはいえ、やはり首都どうしを結んでいる路線だ。
私の思い込みは、途上国甘く考えた失礼なものなのであった。
大いに反省すべき点なのであった。

出発三十分前になり、搭乗が始まると、カウンターの前は大勢の乗客で長い行列ができた。
私は夕暮れの景色が見たくて窓際の席を押えていたので、早めに乗り込んだほうが都合がいい。
そこで気分アビジネスクラス、しかし現実はエコノミークラスの私は不本意ながら長い行列に率先して並ぶことに決めたのだった。

「パスポートを拝見します。」

搭乗口のもぎりのお兄さんが私のパスポートを手に取りパラパラ捲った。

「ビザはどうしました?」
「あ、ビザはアライバルビザを申請してます。」
「アライバルビザ?」

お兄さんはけげんな顔をした。
そこで私はすかさず旅行社からのミャンマー語と英語の書類を手渡した。
お兄さんは書類を受け取ると首を傾げ、傍らでコンピュータをチェックしているお姉さんにその書類を差し出した。
お姉さんはミャンマー語の書類を見て「読めないわよ」というそぶり。
そしてコンピュータの画面を指さし、なにやらお兄さんとタイ語で二言三言話しを交わした。
どうやら、
「この男、ビザ不所持のため注意すべし。」
という知らせが関西空港から届いていたらしい。

「こちらへ寄ってください。」

列から外されて、私はチェックを受ける身になってしまった。

他の客たちが怪訝な顔をして私を見つめ、搭乗ゲートをくぐっていく。
おいおい、私は不審なイスラム原理主義者ではない。
少々色が黒くて図体はデカイが、日本人なのだ。

ここで初めて私にアライバルビザに対して不安が生まれた。もしかしたらアライバルビザは発行できないんじゃないか、それとも私が騙されているんではないか、と。

ミャンマーの首都ヤンゴンへの空路はタイのバンコク、チェンマイとマレーシアのクアラルンプール、シンガポールからのものがある。
残念ながら現在のところ関西からの全日空の直行便は運休している。
この中で、もっとも一般的なのが1日に2本以上もの便数があるバンコクからの便だ。
機体も300人乗りの大型機。
私の乗る予定の便もほぼ満員。

これだけ大勢の旅客がいるにも関わらず、ドンムアン空港の職員がアライバルビザについて首を傾げるというのは、よっぽとミャンマーのアライバルビザは一般的でないか、はたまた聞いたことがないか、またはこの職員にとって今日が初めての出勤日だった、この職員は偽物だった、ということ以外に考えられない。

次々に搭乗口を抜けてバスへ乗り込んでいく乗客をしり目に、私は不安な目で職員のお兄さんの作業を見つめていた。
やがてお兄さんはニヤッと笑い、パスポートと二枚の書類をポイっと私へ返し「マイペンライ、行っていいよ」というそぶりをみせた。
そのニヤッとした表情で私の不安は増幅した。

だいたいタイ人の「マイペンライ」という言葉ほど、彼らのステレオタイプを表現した言葉はない。

よく聞く嘘のような本当の話に次のようなものがある。
タイのある日系企業でタイ人の従業員がとんだミスをしでかした。お客さんはかなりのおかんむり。そのクレームを収拾するために日本人の上司は四苦八苦。
額に汗してクレーム処理に当たっているその日本人上司に向かって、ミスをおかしたタイ人部下は言った。
「マイペンライ。気にしないで。」

かくのごとく、タイというのは微笑みの国と呼ばれているだけに、天真爛漫で困った時も明るく、マイナス要素も気にしない性格を有しているように思われている。
だからして搭乗口で、職員のお兄さんから行っていいよ、といわれた時は「入国できなくても気にしないで、マイペンライ。」と言われたような気がしたのだ。

つづく

めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(4)

2008-12-07 08:45:33 | 旅_アジア
バンコクのドンムアン空港での乗り継ぎ待ち時間は2時間半だった。

「本日、バンコク国際空港は大変混雑しております。皆さまには大変ご迷惑をお掛けしますが当機はターミナル2に到着いたします。入国手続きおよび荷物のお受け取りはターミナル一にお越しください。なお、国内線でチェンマイ、チェンライ、プーケット、ハジャイへ乗り継ぎのお客様は........。」

ふつう、タイ国際航空はターミナル一に接続することになっている。
東南アジア屈指の空港であるドンムアン空港はいつも混雑しているが、今日はとりわけ忙しいらしい。
私の乗った飛行機はターミナル2の一番端に到着した。
ターミナル1まではかなりの距離があるが、その長い通路をのろのろと歩いた。なんせ2時間半も時間潰しをしなくてはならない。のろのろと歩くのもその時間潰しの一環である。

ムービングウォークもベルトを持ち、立ち止まって流れのままに任せた。
ムービングウォークに立ち止まって乗る、ということはイラチの関西人である私にとって、とても苦痛なことである。
関西人にとってムービングウォークの上は歩くかまたは小走りするものであって、決して立ち止まり機械の成せるままにゆだねるものではないからなのだ。
阪急電車の梅田駅コンコースもしかり、地下鉄心斎橋駅クリスタ長堀の通路もしかり、羽田空港や東京駅京葉線コンコースなど関東へ行ってもその習慣は変わらない。

通路を歩いてロビーへ出ると、出発予定を示すモニターを見た。

ヤンゴン行きが何番ゲートから出発するのか確認したかったのだ。
しかし出発2時間半も前なので、まだ私の便はまだ表示されていない。
関空よりも、もしかすると成田よりも忙しそうなドンムアン空港の国際線出発の表示は5分から10分置きに出発する数多くの出発便で占められていた。

この乗り継ぎ待ちの間に、私は昨日までの仕事の疲れを癒そうと、空港内でタイマッサージを受けることを考えていた。
1時間程度マッサージを受けていると2時間半の待ち時間などあっという間に過ぎ去るだろうと思っていたからだ。
これまで私はドンムアン空港内のマッサージ料金がいったいいくらなのか調べたことがなかった。だからバンコク市内と比較して、ちょっと高いくらいだろうと考えていたのだ。

しかし、これは甘かった。ものすごく安易な考えだったのだ。

空港内のマッサージの価格はちょっとぐらい高い、ではなく、消費者金融の延滞金利のように猛烈に高いのであった。
私の見た店は1時間800バーツ。
私がいつも通っているバンコク市内のスクウィンビット・ソイ・エマカイというところにある視覚障害者がマッサージ師を務める店は2時間300バーツ。
ということは、ここは市内の4~5倍も高いということになる。

よくよく考えてみると日本でもJRの駅の立ち食いキツネうどんは250円だが、関空や羽田のそれは600円以上する。
つまり同じボッタクリなのだ。

で、あまりにアホらしいのでマッサージを受けることは諦めて、素直にいつものように読書をして時間を潰すことにした。

つづく

めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(Cafe time one)

2008-11-23 07:56:43 | 旅_アジア
ミャンマーという国を初めて意識したのは小学生の時に三国連太郎主演の映画「ビルマの竪琴」をテレビで見た時だった。
もう40年近くも前のことになる。
14インチくらいのモノクロのテレビ画面で見たビルマの竪琴はなにやら陰惨な雰囲気を醸し出してた。

「ビルマではたくさんの兵隊さんが死んだんや」

という両親の解説もあいまってついには陰惨を通り越し凄惨な感じで怖くなり、画面をじっくりと見ることができなくなったことを今も覚えている。

ビルマは怖いところ。

すでに戦争が終わって30年近く経過していたにも関わらず怖いという印象が残ったのだった。

やがて中学生になったころ、ビルマが江戸時代の日本のように鎖国をしていることを知った。
正確には鎖国ではなくて、他国との交易や外交を著しく制限した「ビルマ式社会主義」という政治体制なのだったが、たかだか中学生の私にはまったく関係はなかった。
実際、鎖国といいながら日本はビルマと通常の外交関係があり大使館もヤンゴン(当時の名称はラングーン)にちゃんとあった。

「鎖国している変な国」

行きたくても行けない国、ビルマ。
不思議な国だと思ったものの、関心度はそれでもそんなに高くは無かった。
ビルマへ行くならアメリカのユニバーサルスタジオに行きたかった時代だ。

ビルマが三度私の目に留まったのは大学生の時。
総選挙を実施したビルマで与党が大敗。
これに危機意識を持ったネ・ウィンの独裁政権は民主勢力と武力衝突して多くの学生が亡くなった。
この時登場したのがアウンサン・スーチーで、独立の英雄オン・サンの娘だということで若者たちに担ぎ上げられていた。
なんか胡散臭い女の人だな、と思ったが、本当に胡散臭いとわかったのはミャンマーへ旅で通うようになってからだった。
ネ・ウィンは混乱の責任をとって失脚し、それに代わり軍隊が政権を握った。
選挙で勝った野党が政権をとらずに、関係ない軍隊が政権を担った。
現在まで続く評判の悪い軍事政権がこれだ。

この頃からビルマから国名が変更され、ミャンマーとなったこの国に関する書籍がポツポツと出回るようになってきた。
ちょうど私が東南アジア旅行にハマり始めた頃だった。

いくつかの本を読んでいるうちに、2種類の意見があることに気がついた。
ミャンマーの軍事政権悪玉説と軍事政権擁護説の2つだ。

こんなユニークな国があるだろうか。
見る人によって完全に性格の異なる国。
私の中のミャンマーへの関心が高まり始めた瞬間だった。

やがてミャンマーが世界有数の親日国であることを知った頃、私は初めてミャンマーという国に接することができた。
それはタイの北部の街メーサイを訪れた時だった。
小川ひとつ挟んで向こう岸がミャンマーのタチレイ。

「勝手に向こう側へ行かないでくださいね」
というタイ人ガイドさんの忠告を「痛いとこ突いてくるな」と思いつつ、タイ側メーサイからタチレイの街をしばし眺めた。
メーサイへはたった2時間ほどの滞在だったが国境を検査もなく越えてくる少数民族や子供たちが妙に印象に残った。
メコン川の川岸で洗濯をする人々の姿にも引きつけられるものがあった。

ミャンマーへの訪問を計画してみると、予算がかなりかかることがわかった。
初めてミャンマーへ行こうと思った当時、全日空の関西空港からヤンゴンまでの直行便があり、それが往復約13万円。
いつもタイへの旅行を総予算10万円以下で楽しんでいた私にはかなりの高額だった。
それにミャンマーでは外国人は入国の際、200米ドル相当を兌換紙幣に交換する制度が存在した。
費用に躊躇してミャンマーへの旅を断念していたのだった。

しかしいつまでも躊躇していると一生行くことはないと思い、数年後、GWの連休を利用してミャンマーへ行くことに決めた。
料金はできるだけ抑えるために安い宿、滞在期間はわずか5日。
但し、一生に一度だけの旅になると思ったので日本語のできるガイドさんを雇うことにした。

こうして私のミャンマーへの一回ぽっきりになる筈の旅はスタートしたのであった。
もちろん旅は一回どころでは済むことはなく、すでに6回も旅をすることになるとは、関西空港でアライバルビザの件でタイ航空の地上スタッフとやり取りをしていたときは夢にも思わなかったのであった。


めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(3)

2008-11-18 06:19:21 | 旅_アジア
「旅行社から届いた、アライバルビザ発行の許可書があるんですが。」
「拝見させていただけますか。」

困惑顔のお姉さんは、私が差し出した許可証を一目見て、いっそう深刻な表情になった。
なぜなら、その許可証は私のパスポートナンバーを除いてすべてミャンマー語で書かれていたからだ。

「やっぱり読めませんか?」

関西空港のタイ国際航空のチェックインカウンターに勤務する英語堪能なお姉さんでもミャンマー文字で書かれたミャンマー語は理解できないらしい。

「............。」

お姉さんは書面を見たまま考え込んでしまった。
軽い殺気を感じて振り返ると私の後ろに並んだ客がちょっとイライラしている。
なんとなく嬉しい。

「旅行社から英文の書類も届いているんですが、見ます?」

と私が言うと、

「拝見させていただきます?」

と笑顔を維持したまま、しかし「なんで早よ、それを言わんのかい」という語調でお姉さんは言った。
私が英文の書類を手渡すと、お姉さんは先に手渡したミャンマー語の書類と見比べている。
読めもしないミャンマー語の書類と見比べて果たして分かるのか、理解に苦しむところだが、お姉さんの職責上、目を瞑ってあげるのが得策であろう。

「あの~、コピーをとらせていただいて構いませんか?」

とお姉さんは言った。
私に拒絶する理由がないので「どうぞ」というと、お姉さんはコンベアベルトを大股で渡り、コピーを取りに行った。

「これが関西空港からバンコクまでの搭乗券。」

カウンターに戻ってきたお姉さんは書類を私に返却し、搭乗券を発券してくれた。

「そしてこれがバンコクからヤンゴンです。」
「どうも。」
「ただ、私共もミャンマーのアライバルビザについては把握しておりませんので、入国できるかどうかの保障はいたしかねます。」
「わかりました。」
「そこのところ、ご承知おきください。」

ミャンマーのアライバルビザはまだ一般的ではないので注意してください、という旅行社のコメントは本当であった。

つづく


めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(2)

2008-11-14 06:23:57 | 旅_アジア
ミャンマー領事館は帝国ホテルに隣接する帝国アネックスという、帝国ホテル直営のスポーツクラブのビルの一階にある。
とってもブルジョアなところだ。
よくよく考えてみれば、帝国ホテルのようなハイソな場所に市バスで行く奴などいないことくらい早く気がつくべきであった。
やっと帝国アネックスの前まで来たのはいいが、入り口がわからない。
ガイドブックに書いていた住所によると、確かこの建物の一階に領事館があるはずだ。
しかし、ぱっと見では玄関らしいものが見当たらない。
そして、よくよく目を凝らして探してみると、お情け程度の小道が、前庭の植え込みから建物方向に続いているのを見つけた。どうやらここを訪れる客はハイヤーかBMWやメルセデスなどといった高級車でそのまま乗りつけるようになっているようなのだ。だから徒歩の客用の入り口はショボイらしい。
ますます市バスカーストの私などには縁のないところだ、と思わざるを得なかった。
整備された小奇麗な芝生と庭木。
美しくゴージャスな建物。
静かな雰囲気。
なにもこそこそと警備員の視線を気にしながら小道を歩く必要はないのだが、徒歩で建物に向かう貧乏人は私一人しかおらず、どことなく九回の裏、逆転ホームランを浴びて救援に失敗したリリーフエースのような心境でアネックスの中へ入って行ったのだった。
建物の玄関脇に「ミャンマー政府観光局」というサインを見つけたときは嬉しかった。人類未踏の雪山へ初登頂に成功したような感じだった。
やっとたどり着いたと一息つき、さて、いよいよビザの申請だと意気込んで事務所の玄関口に回り込むと、入り口の扉には一枚の張紙が掲示されていた。
「九月十一日に発生いたしました同時多発テロのため、安全を考慮し、暫くの間、大阪総領事館の業務を休止いたします。ご用のある方は東京のミャンマー連邦大使館へお越しください。」
なんてことだ。
せっかく仕事をサボって、市バスやJR線を乗り継いで、大阪市内を彷徨し、苦心惨憺してここまでやって来たというのに「業務を休止」?。
言うべき言葉を失い私は暫し唖然としていた。
我に返り、人の気配を感じて傍らを見やれば、私と同じ年格好の男が手に鞄を持ち呆然と張紙を見つめていた。
ご同慶の至りである。
しかし、どうして「九月十一日」なのか。
ミャンマーという国が、イスラム原理主義テロ集団アルカイダから狙われるということは考えにくい。
どちらかというとミャンマーは、やれ人権がどうの、やれ軍事政権がどうのこうのと、日頃米英にいじめられている立場である。ということはアルカイダから同情されることはあっても、攻撃される心配はないはずだ。
しかも三年近くも前の事件で未だに休止されているということは、それを理由にして財政緊縮の一つにし経費を削減しているとしか考えられない。
もうこうなると腹を立てようが、地団駄踏もうがどうすることもできないので、私は肩を落としてトボトボと帰るより仕方がなかった。
でも、どうしよう。
航空券はすでに購入しており、しかも今回は現地旅行社にガイドさんの手配をしてもらっている。
出発は一ヶ月後に迫っており、東京の大使館へ郵送でパスポートや申請書類を送り、受領後大阪に送り返してもらうには、若干期間が短すぎるような気がする。
どこかで手違いがあればビザはおろかパスポートも手元にない、などという不測の事態が発生しかねないのだ。
料金も東京に郵送でビザ申請すれば手数料や送料などを含めて六千円から七千円がかかり、旅行社に頼むと一万二千円から一万五千円もかかってしまう、ということがわかった。
それに今さら予定の変更などできない。
このせち辛い世の中で、ゴールデンウィークでも盆暮れの休日でもない普通の日に、遠慮しいしい連続休暇を申請しているというのに、予定変更で再申請したら、どんな皮肉を言われるかわかったものではない。
下手をすると「休暇取りやめ。ボーナス大幅カット。トイレ掃除して。」などと言われかねない。
そこで私は、ガイド手配を依頼した現地旅行社にアライバルビザが取得可能かどうかを問い合わせたのだ。
するとヤンゴンの空港でのビザ取得は可能で、料金は六十USドルだという。
ミャンマーの物価から考えるとえらくバカ高だが、私は直ちに、このアライバルビザを申し込むことにしたのだった。

つづく

めざせ!ミャンマーのゴールデンロック(1)

2008-11-13 21:29:32 | 旅_アジア
思えば初めてミャンマーを訪れてから5年半が経過した。
ブログも古いところから、この「宇宙エンタメ前哨基地」などという、わけのわからないタイトルのブログに引越を試みている最中である。
それに今年は仕事が忙しく一度も海外脱出を図れていないことを鑑みて、これから初めてミャンマーを訪れた時の旅行記を連載したいと思う。

連載したい、と言いながら、その実「手抜きブログちゃうの?」と言われてしまいそうだが、それもまた、事実かも知れない(汗)。

ということで、日本国内のテレビ番組でも度々紹介されている、ミャンマーのあのゴールデンロックことチャイティーヨーパゴダへの旅行記の始まり始まり。

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「あの...ビザがありませんね。」

タイ国際航空のチェックインカウンターのお姉さんが私のパスポートをぺらぺらと捲って言った。

「ビザがないとミャンマーまでの搭乗券は発券できないんですけど。」
「あ、ビザね。アライバルビザ申請してますから。」
「アライバルビザ?」

ひと月前、ミャンマーへ旅行することを決めた私は観光ビザを取得するために大阪のOAPにあるミャンマー連邦大阪総領事館を訪れた。

大阪アメニティーパーク。

このOAPという所は大変不便な場所で、地下鉄は通っていないし、最寄りのJRの駅からもかなりの距離を歩かなければならない。
帝国ホテル大阪という高級ホテルがあり、三十階建ての高層ビジネスタワーがある割には、まったくといっていいほどの陸の孤島なのだ。
ここ陸の孤島へ向かうには市バスが一番歩かずに済む交通手段だ。しかし、どこから、そしてどこ行きのバスに乗車すればいいのか、さっぱりわからない。わかるのは市販の地図に載っている停留所の名前だけである。
ともかく私はその日、地図に示された停留所へ「これなら行くだろう」と目星を付けたバスに大阪駅前から乗り込んだのだ。

バスは途中まで順調にOAPに向かって走っていた。ところがOAPまでまもなくというところにある大きな交差点で予想外の方向に曲がり、まったくあさっての方角に向かって走り出したのだった。
それでも暫くは、きっと一方通行や大型車通行止めなどの理由で遠回りをしてるんだ、と考えたりしていたが、次第にどんどん離れていっているような気がしないでもなかった。
そして出発地点の大阪駅から眺めるよりも遥か遠くにあるOAPタワーを望むにおよび、慌てて降車ボタンを押して下車したのだった。
ちょうど降りた停留所の近くに地下鉄の駅があり、そこから地下鉄に乗って振り出しの大阪駅へ戻った。

再度市バスにチャレンジすべきか。私は迷った。

ここでバスで行くことを諦めてしまうと、なんとなく大阪市交通局に敗れたような気がするので悔しい。
しかしあれこれ思案した結果、JRの電車に乗って最寄りの駅で下車し、かなりの距離を歩いてOAPに行くことにした。
始めから素直に電車を利用していれば三十分ほどで着いていたのに、全線定期を持っていてタダだからという理由で、わざわざ慣れぬ市バスに乗ってしまったために二時間近くもうろうろしたことになった。

急がば回れである。

なぜこうまでしてミャンマー領事館へわざわざ出かけたかというと、やはりビザは領事館で自ら取得するのが一番安上がりだと考えたからだ。
昨年、ベトナムへ行くために観光ビザを取得した。
このとき航空券を買った旅行社のオバハンは
「うちでビザを、お取りしましょうか。」
と言ってくれたのだが、いくらかかるのか訊いて見ると一万円だといった。
手数料がかかるとはいえ一万円は高すぎると思った。
そこで仕事をサボって自ら堺筋本町にあるベトナム領事館を訪れるとわずか五千円でビザを発行してもらえた。
ミャンマーにしても同じだろう。
だから今回も安くビザを入手するためにくどいようだが仕事をサボってミャンマーの領事館を訪れたのだ。

つづく