<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



今ではバンコクで白タクを利用することなど全くない。
自分自身が宿泊するサービスアパートメントでは白タクは屯しておらず、移動にはもっぱら近くの駅からスカイトレインを利用する。
スカイトレインの走っていない方向であれば、路線バスか、あるいはトゥクトゥクを利用するのだ。
しかしこの時、バンコク初心者の私は土地勘もなく、頼りになるのはガイドブックだけ。
街の歩き方もよくわからない。
いざ出発とばかりにホテルから出て来るとすぐに私は白タクの運ちゃんに話しかけられた。
「ドコイクの?」
と、なぜか日本語で。

白タクは日本では違法だが、タイでも違法というようなことを聞くが結構たくさん営業しており、私のようなカモを見つけては声をかける。
しかも日本語で。
この白タクの運ちゃんは痩身でヨレヨレの白いシャツを着ていて怪しげな笑顔を向けてきたのだが、暑いのと慣れていないのとで私としてはどうすればいいのやら判断に苦しんだ。
でも、その笑顔が悪くなさそうだし、白タクの原則として最初に価格交渉をはじめたことから、私はその白タクに乗って手近な観光をすることに決めたのであった。
その結果として、あちらこちらの観光スポットを案内してくれたのだが、運ちゃんが話せる日本語は原則として、
「ドコイクの」

「イイコいるよ」
の2つしか無いことがやがて判明し、なんじゃこれは、ということになったのは言うまでもない。
運ちゃんはひっきりなしにそういうお店のカードを見せては、
「イイコいる」
と売り込んでくるのだが、私には全くその気がなかったので、
「いらない」
とその都度撥ねつけた。
しかし、数分もすれば再び、
「これどう?」
という感じで別の店のカードを見せては、
「イイコいるよ」
と言うのには参ったのであった。
その都度ニコニコしているので、微笑みの国とはこういう「あっち系娯楽の勧誘」で駆使され磨かれたものなのであろうか、と感心したものであった。

ある程度は真面目な面もあり、観光スポットはちゃんと回ってくれた。
しかし回った観光スポットも後にバンコクの地理に明るくなると、それらは王宮近辺を中心とする2km四方に集中していたことがわかった。
ようは近場をグルグル回っていただけなのだ。
バンコク都内は渋滞が激しく、その頃はまだスカイトレインも地下鉄もなかったので移動はすべて自動車という時代だった。
だから、渋滞は慢性的で今よりもひどかったように記憶する、

結果的にフーゾク店への執拗な勧誘と、複数の土産物屋店への無意味な訪問を除けばボッタクられることもなく、平和裏に3時間ほどの白タクツアーは終わったのだった。
しかし、これも後日、現地の事情に明るくなってからこの白タクツアーは大変危険なものであることを知った。
というのも、微笑みの国バンコクでもタクシー犯罪は少なくないという。
とりわけメータータクシーや白タクでのトラブルは現地の新聞ならずとも、時々日本の新聞を賑わす事件を発生させている。
例えば、数年前にJALの客室乗務員が繁華街で拾ったタクシーでホテルに帰ろうとしていたところ、タクシーの運ちゃんが強盗に豹変しピストルを一発ズドンとされた事件が発生した。
この時は、確か客室乗務員は怪我をしながも機転を効かせて逃げることに成功したが、タイへの訪問に慣れているはずの客室乗務員がそのような犯罪に巻き込まれるのだから、必ずしも安全とはいえない。
できれば流しのタクシーは利用せず、ホテルやショッピングモールで正式に客待ちをしているタクシーを利用するのが得策なのだ。

私が利用した白タクは白タクなのであったが、ロイヤルホテルという中の下のホテルの玄関先で常に客待ちをしているタクシーだったので、ある意味安全だったのかもしれない。
もし宿泊客に何かあれば、彼はそのホテルの前で客を捕まえることができなくなるからだ。
どうして彼がロイヤルホテルの前でいつも客待ちをしていたのかを知っていたというと、あくる日も、そのまたあくる日も、私の顔を見つけてはニコッと笑い、
「イイコいるよ」
と言ってきたからなのであった。
3日目の朝にホテルをチェックアウトした時に彼は、
「エアポート?」
と言ってきた。
私は16:00発のシンガポール行きに乗る予定だったし、なんとなく彼がタイにおける初めての知人のようにも思えたので、
「OK、あとでな。」
と英語で言って別れたのだが、結局はホテルに戻らずあるお寺の前でタクシーを捕まえてドンムアン空港に向かったのであった。
その捕まえたタクシーは流しのタクシーなのであったが、運転手が「超」安全運転をするので、「もしかして」と思ったのだが、ただ単に「超真面目」だっただけで、犯罪性はまったくなかったのであった。
犯罪性があったというと、高速道路を使わずにトロトロと一般道を走って空港へ向かい、
「乗り遅れんるんちゃうやろか。急いで~」
と言っても言葉が通じず、イライラさせたことはある意味悪気はなくともお客さんへの犯罪であったと言えるかもしれない。

つづく

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昨年末。
エクアドルを新婚旅行中の新婚カップルが賊に襲われ夫が殺され妻も重傷を負った痛ましい事件が発生。
報道によると二人は流しのタクシーを通りでひらい、それが災いして命を落としたという。
タクシーの運転手が盗賊と結託して急ぎ働きのような強盗殺人を犯すことが頻繁に発生していたのだという。

海外でのタクシーの利用を考えさせるような出来事なのであった。

海外旅行をした時に、タクシーを利用することは少なくない。
国内でさえ知らない土地に行ったら場所がわからないのでタクシーを利用することになる場合があるけれども、海外であればなおさらだ。
初めて訪れた国で公共交通を利用して目的の場所にたどり着くのは容易ではない。

私の場合、1978年の8月にアメリカのロサンゼルスに行ったのが最初の海外旅行であった。
当時まだ高校生だった私は日本交通公社のLOOKというツアーに入れられて、ロサンゼルスでの移動はほとんど日本交通公社が段取りしたツアーバスなのであった。
ツアーの間の自由時間はロサンゼルスに住んでいる日系人の親類の伯父さんとおばさんが私をあちらこちら連れ回してくれた。
したがって初めての海外旅行はまったく公共交通を利用することが無かった。

初めて海外で公共交通を利用したのは20年前に初めてシンガポールを訪れた時であった。
使ったのは、地下鉄。
地下鉄なので迷うこと無くホテルの近場の駅から乗ってオーチャードまで買い物に出かけた。
この時は友達の結婚式に出席するために行っていたということもあり、同行の知人友人も少なくなかった。
だから一緒に路線バスに乗ってジョホールバルからシンガポールまで移動したり、シンガポール国内でも路線バスに乗ったりしたのだが、そういうことが出来た最も大きな原因には英語が話せるようになっていた、ということがある。
1978年のアメリカ訪問の時には英語などからっきし話せなかったのだ。

シンガポールではタクシーも利用したが、タクシーを本格的に利用したのはタイを訪れてからであった。



タイを始めて訪れたのは、前述のシンガポール在住の友人宅へ行く途中に「ついで」で寄ったのが初めてだった。
当時は大阪発バンコク経由シンガポール行きのシンガポール航空が飛んでいて、バンコク途中下車でもチケットが同じ料金だったのでバンコクに立ち寄ったのであった。
なんといっても、シンガポールへ行く目的が「飲もか」という、梅田か心斎橋へ行って飲もかという感覚で出かけたので、荷物は小さなリュックに着替えを2着。
あとはカメラを1台。
宿の予約もせずに数日前に旅行社で格安チケットだけを購入し、関空からシンガポール航空に乗った。
宿はバンコクのドンムアン空港のホテル予約窓口で確保。
「ロイヤルホテル」
という名前のホテルを予約したのだが、名前に反して一泊料金はわずか900バーツ。
日本円にして3000円ほどなのであった。

初めての国を訪れるというのは小さな緊張感がある。
まして一人で訪れると結構緊張するので、喉も乾いたことだし、まずは小銭も欲しいことからドンムアン空港の売店でコーラを注文して飲んだ。
このコーラに氷が入ってったのだが、飲み終わってから、
「おおおお、氷入ってたけど、大丈夫かいな」
と氷の清潔度を心配する有り様なのであった。
その時私はバンコクの衛生度を非常に悪く考えており、ガイドブックに書かれている「生水は飲まない」「氷の入っているものは食べない」などということをストレートに信じており、到着後早くも氷入りコーラを飲むくらい緊張していたにも関わらず、その氷に対する配慮がすっかりのけ落ちていたのだった。
なお、当然のことながら、そんな程度で腹をこわすわけもなく、猛烈な暑さでぶっ倒れそうになったことを除けば、至って元気に家に帰ったのであった。

問題はドンムアン空港からバンコク都内の、そのロイヤルホテルへはどうやって行くかなのであった。
ガイドブックには空港からはバス、タクシー、鉄道などの手段があるように書かれていたが、バスは空港バスなら乗れないこともないのだが、緊張していることと、文字がちっとも読めないこととなどが重なり、めんどくさくて乗る気がしない。
鉄道は空港ビルのすぐ前の高速道路の向こう側に駅が見えるのだが、田舎にあるJRの田舎の駅みたいで、
「これも、大丈夫か」
と不安感が先立った。
結局タクシーでロイヤルホテルやらに向かうことにして、空港からタクシーの列にならび黄色のタクシーに乗り込んだのだった。

「ロイヤルホテルまで行って」
と英語で行ってみた。
通じるかどうか心配だったのだ。
なんといってもタイの公用語は当然のことながらタイ語であり、シンガポールのように英語ではない。
したがって。
「もし、言葉が通じなければ、どうするどうする」
とビクビクのもなのであったが、
「ま、なんとかなるやろ」
との感覚があったのであった。
幸いなことに「ロイヤルホテル」は空港で登録されているくらいのホテルなので、タクシーの運転手は頷いて走り始めた。
車窓から眺める初めてのバンコクは異国情緒たっぷり。
シンガポール以外の東南アジアの国に来たのは初めてだったので、興味津々だった。

高速道路の横にはパナソニックの看板が並んでいた。
「お~、やっぱりタイは日本企業が多いんやな」
と感動していると、次にイオンの看板が見えてきて、
「お~、イオン、ってなんや」
と、当時は大阪にはイオンのジャスコやイオンモールなんぞはとほとんどなかったので、イオンが日本の会社であることに、
「たぶん、タイで有名な日本企業なんやろな」
と勝手に思っていたりしたのであった。

ロイヤルホテルは
「王宮に近いところ」
と空港の窓口でリクエストした結果選ばれた。
別に名前で選んだわけではない。
実際タクシーは王宮前のロータリーをグルっと半周して、北東角の王宮前広場がすぐ見えるところにある古ぼけたホテルに到着した。
かなり年季の張っているホテルだったが、確かに立派な外観で、王宮前で「ロイヤルホテル」。
なかなかな宿なのであった。

料金を払ってタクシーを降りた。
蒸し~とした熱気が私を包む。
暑い。
めっちゃ暑いやないかい。

すでに緊張感はどこへやら。
ホテルに着いたのでチェックインをしてさっさと散策をはじめなければならない。
バンコクでの滞在はたった2泊だったので、見て回る時間はあまりない。
もう二度と来ることもないタイなのだから、しっかりと見て回る必要がある。
と私は思った。

ホテルの入り口には弛緩した表情をした男が数人屯していた。
あるものはバイクにまたがり、あるものは車のボンネットに肘をついてタバコを飲んだりしていた。
実は彼らはタクシーの運転手なのであった。
それも、白タクの運転手で、私はうかつにも、このうちの一人を選んでしまい、バンコク観光に出かけることになるのだ。

つづく

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タイが再び大変なことになりつつある。
デモが拡大し、バンコク都内では一昨々年と同じような対立による大きな混乱が起こりそうな気配だ。

新聞報道によると9日の日本人学校はおやすみ。
バンコクの日本人学校と言えば、今時国内でも滅多に見かけないマンモス校で、ここに通う生徒は1500人を超える。
「わーい、学校休みや」
と喜んでも、都内は危険ということになっているので、どこにも出かけられない児童が不憫だ。

今回の騒動では、前回と同様タクシン派と反タクシン派の対立でデモが発生しており、武力を伴った対立に発展しそうな雲行きなのだ。
タイと言えば日本と同じ立憲君主国。しかし、王様への国民による絶対的信望は極めて篤く、王様のひとことが国全体を動かしてしまう。
そんな力を持っているのだ。
ところが、前回も、今回も、王様が「やめなさい」と言っても対立を止めない。
これはいったいどうしたわけなのか。
理由は王様の権力が低下したからではなく、この対立が単なるタイ人同士の国内問題でもないからなのだ。

タクシン派は「華僑が操っている集団」という感覚がきっとあり、それに対して反タクシン派は「華僑はつぶさねば国が危ない」と思っている。つまり王様もあぶない、となっているのだと私は確信している。
というのも、日本ではなかなか報道されないが、国家追放されているタクシン元首相は華僑で、己が権力を利用して稼いだ莫大なお金を外国であるシンガポールに蓄財し、税金逃れに資産隠し、と好き放題なことをしていた。
そのために各方面からやり玉に当てられ、国にいることが出来なくなり、クーデターをきっかけにタイ国外に脱出したのであった。

このタクシン元首相の蓄財については強引な政策を伴っていて、各方面から非難が出ていた。
その非難は至極真っ当なもので、騒動が次第に大きくなっていったときに、プミポン国王自らがタクシンを呼び出し、

「国民の声に耳を傾け、自制しなさい」

と諭されたことは、当時日本の新聞にも掲載され、

「おー、国王がついに動かれたか」

とことの収束を期待したのだったが、タクシン首相は国王の苦言を無視する形で自分の政策を継続。
結局軍部に追い出される格好になってしまったのだった。

この2006年のクーデター。
久々のタイ名物クーデターの発生だったので、マスコミも大きく騒いだものだった。
都内の各大通りには戦車も出現し、びりびりした雰囲気に思えたが、その直後、実際にバンコクを訪れた私は大きな交差点で銃を構え、しかしノホホーンとした軍人と、いつものような大渋滞を見る煮付け、

「この国は変わっているけど大丈夫」

と思ったものであった。

このように、タクシン派と反タクシン派の対立の構図にはタイ中の対立がある。
東南アジアの国々はタイだけではなく、どこへ行っても華僑とその他の人々の対立は少なくない。
私のタイ語の先生は。
「中国人は、アホです」
と真顔で言ったものでった。

経済の多くを中国系が握っているため、生粋のタイ人はかなり不満がたまっている。
そこへ王様の言うことも耳を傾けないタクシンが私服を肥やして外国の、しかも華僑の国シンガポールに蓄財していたとなると、これはちょっとやそっとでは解決しない問題なのだ、
病院のドンから5000万円を受け取ってヤバいとおもって「すぐ返しました」と言っている、どこかの知事さんとはスケールが違うのであって、国民の怒りも宜かるなのであった。

で、何が言いたいかというと、中国人は、どこへ行ってもトラブルメーカーだということだ。
タイが日本と仲良しなのは、なにも日本企業が多いからでも、秋篠宮さまが公務でもプライベートでも訪泰し皇室王室といったハイレベルで仲が良からという理由でもないのだ。

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カンボジアのアンコールワット。その北東40kmほどのところで、アンコールワットを上回る巨大な規模のクメール遺跡が発見されたという。
日米欧の考古学チームがレーザー測定器を使用してジャングルの地形を測定したところ、遺構跡などが発見され、かなりの規模の遺跡であることが判明した。
アンコールワットは11世紀の遺跡だが、新たに発見された遺跡はそれよりも古く、なんと9世紀。
カンボジアというクメール人の栄華のほどが偲ばれるニュースなのであった。

カンボジアのニュースを聞く度に感じるのは、民族と文明の栄枯盛衰だ。
かつてカンボジア、つまりクメール帝国はインドシナ半島において広大な領土を占めていた。
現在のタイ、ラオス、ベトナムの南半分を占める領域で現在でも数多くのクメール遺跡がこの地域には存在している。
例えば、バンコクからバスで3時間ほど北に向かったところにあるロッブリーにはクメール式の寺院の遺跡がある。
小アンコールワットといった趣の遺跡が国鉄の線路横にあり、多くの観光客が訪れているのだ。

そもそもタイの最初の王朝であったスコタイ王朝のラームカムヘーン大王はクメール帝国の地方行政官の一人であったという。
タイ族そのものが今の中国の雲南省に源があり、漢族の南侵にともなって押し出されるようにインドシナ半島に流れ込んできたのだ。
この話。太古の話ではなく、たった1000年ほど前に起こった歴史なのだ。
以来、クメール帝国はシャムの建国により版図の半分近くを失うことになった。
ラオスは18世紀にヨーロッパの、とりわけフランスの植民地政策によりタイが生き残りのために切り離した領土なのでタイと同一と言ってもいいであろう。
この18世紀にクメール帝国の版図から切り離されたのが現在のベトナムの南半分。
かつて南ベトナムであったエリアで、これはベトナム人の侵攻によるものと確か耳にしたのであった。
例えばベトナム最大の街ホーチミン市には歴史の古い順に4つの名称がある。
最初がクメール帝国時代のプレイノコール。
次がベトナム人が移り住んでからのザーティン。
その次がフランス人に制服されてからのサイゴン。
そして南ベトナム解放後のホーチミンだ。

この間、クメール帝国はどうなったかというと版図の縮小に伴い力を失い、1970年代から1980年代に渡る赤いクメール時代に大量の民族虐殺を発生させ国力を限界まで喪失してしまったのであった。

今回の遺跡の発見で改めて感じたのは、国家のありかたであった。
いかに優れた文明国家でも、歴史の流れから逸脱すると版図は極限まで小さくなり、やがて無くなってしまうことも考えられるということだ。
国土や国政に無関心になり、多民族に行政を任せるとどうなってしまうのか。
現在の日本の国のカタチに照らし合わせると無視できない。
そんなことを考えてしまうニュースなのであった。

そういえばカンボジアはまだいい。
小さくとも国が残っている。
モン族のペグー王国(ミャンマーの一部)、チャンパ族のチャンパ王国(ベトナム一部)は今は跡形が残るのみだ。
1000年後の日本はどうなるのだろうか。


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エジプトのルクソールで発生した気球事故は、遺跡などを空から眺める気球ツアーが、やはりかなりの危険を伴ったものであることを改めて感じさせる出来事ではなかったと再認識されるものになった。

そもそも空を飛ぶ乗り物の中で気球ほど不安定なものはないのではないだろうか。
飛行機や飛行船は自力で方向を定めて飛行することができるが、気球は風まかせ。
多少のコントロールは効くけれども、突然の気象の変化や緊急事態ではなかなか思うようにいかない。
その制御精度はたぶんスカイダイビングのパラシュート操作よりも低いのではないか、と思うところ少なくない。

かくいう私も気球に乗れる機会はこれまで何度かあった。
そのうち最も可能性が高かったのはミャンマーのバガンを訪れた時で、この時は気球に乗ろうかとさえ思ったほど、その遺跡群の景色は素晴らしいものがあった。
だが、気球に乗ることを思いとどまらせる強い要素が存在した。
料金がUS200ドルもしたのだ。
そもそもミャンマーの物価は東南アジアでも最も安く、例えばシャン麺というラーメンのような食べ物が1杯10円ぐらい。
スイカも1玉10円から20円。
労働者の賃金が日当100円から200円。
そんな国で200ドルも取る気球に乗るがものすごくアホらしく思えたのであった。
200ドルといえばミャンマーでは医大の半年分の学費と同等である。

しかし、この高直な費用が気球搭乗を回避した最大の理由ではなかった。
最大の理由は、私は高所恐怖症であることであった。

時々言われるのだが、
「あなた平気で毎週のように飛行機に乗って出張しているけど、ホントに高所恐怖症なの?」
と質問をぶつけられる。
しかし、高所恐怖症であっても飛行機は乗れるのだ。
だいたい飛行機は飛ぶように作られており、嵐の際は怖い思いをするけれども、大体においては科学の粋を集めた「安全」という安心感があり、そもそも飛んでいる飛行機から自分が落っこちるなんてことは不可能なのだ。
そういう意味ではスカイツリーでも通天閣でも中にいるぶんには恐怖は感じない。
なぜなら落ちようがないからだ。

しかしながら、吊り橋、煙突、電柱、ドドンパのたぐいは自分のミスで、もしかすると落っこちてしまうかもしれない、という恐れがあり、それが高所恐怖症を煽るのである。
気球も畢竟、籠に乗ってお空に登るなど、正気の沙汰とは思えず、ついつい思い出すのは気球にのって太平洋横断を試みた気球おじさんのような運命を辿るのではないか、という恐怖心と滑稽さだけがのこることになるのだ。

ということで、私にとっての気球はロイカートンで飛ばす玩具の熱気球であって、ホントに乗って飛ぶのは映画の中だけにしたい乗り物なのである。

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先日の旅セミナーでは関空でもLCCの活発な営業状況がレポートされ出席者の注目を集めていたが、もう一つ話題になったトピックが、
「最近の若者は~~~~旅行に行かん」
というものなのであった。

「なんで、旅行に行かんのでしょうか?」
という質問には簡潔な答えが戻ってきた。
「携帯電話ですよ。なんでもかんでも携帯使うから旅に回せる小遣いがない」

なんということであろうか。
電車の中や教室やオフィスやそこらかしこで携帯片手にネットサーフィン、Eメールに熱中している若者は旅には無関心なのだ。
可愛い子どもには旅させろ、と昔から言うが現実は親が与えた小遣いは大部分が携帯電話に消え去っているのだ。
そもそも大学生はもちろんだが、高校生でもスマホの料金を月々何千円も支払っていると、その他のものに回す予算は出てこないのが当然で、そういう子供が世間を何も知らずアホになっていくことも宜なるかなであろう。

そんな時代。
若者に旅をさせるにはどうすれば良いのだろうか。
きっとJTBや近ツーあたりが最も知りたい問題かもしれない。

そもそも、私が子供の頃から大学生にかけての時代、つまり1970年代80年代はテレビでも旅行を題材にした番組は少なくなかった。
海外旅行が珍しい時代には、
「さあ、10問正解してハワイへいきましょう」
というような番組が脚光を浴びていて、憧れのハワイへ行きたいもんだとだれもが思ったものであった。
紀行番組も優れものが多く、オーソドックスな「兼高かおる世界の旅」から、マニアックな「NHKシルクロード」まで様々、
クイズ番組も「なるほど・ザ・ワールド」「世界まるごとハウマッチ?」など、海外に憧れるような気持ちを抱かせるものが少なくなかった。

一方、現在。
テレビ番組なんか、そもそも見なくなってしまった。
紀行番組もNHKのBSで放送、なんていうかなりマニアックなチャンネルでしか見られなくなってきている。
国内旅行を呼び起こす「寅さんシリーズ」も無くなって久しい。
頼みの綱は大河ドラマや朝ドラだが、そんなものをいつまでも観光材料にしていると、その町が「古臭い所や」とせっかくの番組が敬遠される材料になってしかねないのだ。

頼みの綱は読書かもしれないが、読書の方はテレビよりも深刻で、そもそも今の若者は紙に印刷されている活字に触れる人は、かなり少ないのは言うまでもない。
それでも、書籍には優れた旅物が少なくなく、私としては以下の書籍に刺激されて旅を楽しんで貰いたいと思っている。

■当ブログ推薦の紀行もの書籍のメリットとデメリット

1:「深夜特急」全巻(沢木耕太郎著)
    メリット=いまさら言うまでもない海外バックパッカーの聖書的作品。乗合バスでデリーからロンドンまでの企画は今ではテロや紛争が頻発している地域を通るため実現不可能な旅になっている。しかしながら20代の若者がたっぷりの時間を使って世界を見て回るきっかけになるには十分すぎる作品だ。
    デメリット=この紀行をホントに真似て良好し、行方不明になってしまう危険性が潜んでいると同時に、本当に行方不明になった人もいるみたいだ。

2:「チベット潜入記」(河口慧海著)
    メリット=チベットへ初めて入った日本人としてのその勇気と僧侶としての視点は素晴らしいものがあり、しかも中国に侵略される前のチベットを紹介した数少ない書籍として貴重でもある。
    デメリット=真似をすると深夜特急同様、行方不明になったり、中国公安に捕まって共産党の教育施設に入れられる可能性がある。

3:「脱出記 シベリアからインドまで歩いた男たち」(スラヴォミール・ラウイッツ著)
    メリット:ロシアのラーゲリの怖さを知ることができる。
    デメリット:真似したらシベリアのツンドラ地帯で凍死するか、ゴビ砂漠で熱射病死するか、ヒマラヤで雪男に襲われる可能性がある。

4:「エディアランス号漂流」(アーネスト・シャクルトン著)
    メリット:危機に瀕した男たちの立ち向かう勇気を学べ、ひとつの生き方を見出すことができる。
    デメリット:金にもならない冒険家を夢見るようになり、大学卒業後親の反対を押し切って就職せずに土方のアルバイトをしながら秘境を目指すフリーターになる可能性がある。

5:「東南アジア四次元日記」(宮田珠己著)
    メリット:素直に旅は楽しいもの、と思えるようになる。
    デメリット:真面目なことで茶化して面白いものと思うようになり、素直な旅ができなくなること。

ということで、若者よ!旅に出よ!



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ミャンマーへ旅行する時は準備する通貨はUSドル。
私はいつも両替は大阪難波のM銀行の窓口で行なっているのだが、その時の注意点は「小額紙幣をたくさん入れてもらう」こと。
1ドル札や5ドル札、10ドル札をたくさん入れてもらって100ドル札はできるだけ「使わない可能性のある」枚数だけ両替してもらうことにしている。

発展途上国を旅行するときの鉄則かも知れないが、だいたいミャンマーで100ドル紙幣などを持ち歩くとろくなことはない。
使い途に困るだけなのだ。
なぜ使い道に困るかというと、金額が大きすぎて困ることになる。

ミャンマーのミンガラドン国際空港に到着すると、まず旅行会社が迎えに来てくれているであろう。
渡しの場合はミャンマー人経営の某旅行代理店でガイドさん兼通訳さんをお願いしている。
私がガイドさんや通訳をお願いするのはミャンマーだけで、タイもベトナムもシンガポールも台湾もアメリカも、通訳やガイドは現地ツアーを除いて頼んだことがない。
この理由は話せば長くなるのだが、ミャンマーだけはそれが習慣になってしまっているのだ。
そもそもシンガポールやアメリカは言語が英語なので困らないし、タイやベトナムもなんとかやりくりして過ごしてしまう。
タイに至ってはタイ語を勉強し、
「安くして」
「高い高い」
「美味い!」
「まずい!」
「バス停はどこですか?」
「シーロム通りを右に曲がってください」
「ホアランポーン駅まで50バーツで行けますか?」
など、旅行会話を少しばかりマスターしたぐらいだ。

台湾に至っては英語も必要なく、多くの場合日本語が素で通じてしまうので、
「ここどこ?ホンマに外国か?」
という感覚に陥ったことがあるくらいだ。

ガイドさんを伴って旅をすると現地の言葉を覚えないという悪弊が生じてしまい、あまり良くないと私は勝手に思っている。

で話が完全に横道にそれてしまったが、ガイドさんに迎えに来てもらい、ミンガラドンの空港では両替をせず、ヤンゴン市内のマーケットで両替をしてもらうことになる。
この両替がなかなか難しい。
というのも、いくら両替すればいいのか、悩むのだ。

100ドル両替したら、だいたいが大金持ちになったような錯覚に陥る。
なぜなら、財布はもちろん、ちょっとしたポーチなんかに入らないくらいの札束になるからだ。
そしてこの100ドルは詰まらない買い物をしない限り、だいたい10日間はゆーっくりと過ごせるだけの価値がある。
ホテルや旅行者への支払いはUSドルになるので、現地通貨のチャットでは食費やちょっとしたバス、チップくらいにしか使うことはなく、食費が日本と比べても極端に安いミャンマーでは100ドルはなかなか使い切らない大金なのだ。
そもそも日給が1ドル未満のこともあり、100ドルと言えば数カ月分の生活費になる可能性もある。

このような経験は初めてベトナムへ行った時にも経験した、為替マジックの代表例なのだ。

ミャンマーの場合、為替が実勢と正式の2通りがあり、この2通りに10倍近くの差があるため、なおさら為替の価値はマジックに影響されることになる。

このミャンマーでクレジットカードが使えるようになるという。
日経新聞によると、JCBが先頭を切って現地の銀行と文書を交わし、ミャンマー国内でカードサービスの展開を開始するのだという。
カードを使うということは正式のレートとなり損をしそうに思うのだが、ホテルやエアラインチケット、ツアー費用には有効かもしれない。

とはいえ、カード決済された側のホテルは正式レートでしかチャットに両替できないことになり、ともすれば料金値上げに至る可能性もあるだけに注意が必要だ。


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スマトラ島沖地震が起こった時、シンガポールの高層コンドミニアムが大きく揺れて、当時シンガポール在住だった友人は慌てて階段を駆け下り1階のピロティに出た。
周囲を見渡すと同じように慌ててコンドミニアムから避難してきた人たちが大勢いたのだが、そのほとんどすべてが日本人だったという。

かように日本人は海外にいても地震に敏感だ。
それはきっと日々災害の脅威にさらされているという歴史に基づくものだとよく言われている。
たとえば、日本人が他宗教からは「原始的」と言われる神道をなんとなく信仰しているのも、他宗教からは「あれは哲学や」と言われる仏教を慕っているのも、自然災害が日常的に身近に存在するからに違いない。
災害に遭うのに貧富の差はなく、誰もが辛い目、ひどい目に遭う可能背がある。
だからヤクザでも庶民のための炊き出しを行い、他人のものは盗まず、殺さず。
暴動もまず、起こらず助け合いで乗り切るのだ。
事実、統計上も地球上で発生する自然災害の3分の1は日本列島周辺で発生しているらしく、科学的にも納得できる数値なのかもしれない。

一方、こと地震に関しては海外での大きな災害は、とりわけ米国の西海岸を除いて先進諸国では少ない。
これを原因に日本人も「外国は地震が少ない」という固定概念にとらわれているところも少なくない。
だからたまにスマトラ島沖地震のような大災害が発生すると私の友人のように慌てふためくことになる。
また、海外の地震が怖いのは、日本ではなんてことない規模の揺れでも簡単に建物が崩壊してしまうことで、シンガポールで揺れを感じたら、まずは建物崩壊が頭を過るのだろう。

実際、タイのバンコク都内でも高速道路を走りながら周囲の建設中ビルを眺めてみると、建物の柱はやたら細いし、床も薄い。
建物の強度には関係ないが、ヘルメットも被っていない作業者が木で組んだ足場を歩いているのを見ると建物の品質を大いに疑いたくなるのも宜なるかなといったところだ。

ミャンマーで一昨日、M6.8の地震が発生。
旧都マンダレーやタイのバンコクでも揺れたという。
エヤワディ川に建設中の橋は倒壊。
多くの死者を出しているという。

今注目のミャンマーは実は地震が少ないくないところで、例えばヤンゴンのボータウンパゴダには日本軍と英国軍の戦闘でできた壊れ以外に地震で壊れた部分があり、この国が決して地震に安全なところでないことがよく分かる。
度々サイクロンもやってくるし、雨季の集中豪雨は半端ではない。
ミャンマー人に接すると、とってもメンタル面が日本人に似ていることに気がつくのだが、仏教思想を基本とした倫理観が影響しているだけではなく、もしかすると災害が多さも関係しているのかもわからない。

(写真:今回の地震のあった震源から100kmほど西にあるモンユウの巨大仏像群。壊れていないかどうか心配だ。)

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万里の長城トレッキングツアーで死者が出た。
ツアーを企画したのは3年前に遭難死亡事故を出したアミューズツアーという登山客向けの旅行会社。
今この旅行会社に非難が集中しているが、晩秋の北京郊外で何が起こるのか。
気象予測をあまく見た結果の悲劇だが、果たして旅行会社の杜撰な計画だけが原因と言っていいのかどうか。
十分に考慮する必要のある事故といえよう。

そもそも尖閣諸島で日中が揉めている、というか中国が一方的にクレームを付けて日本に対して暴力に訴えている状態で、
「万里の長城にトレッキング」
を実行する人っていったいどういう考えを持っているのか。
新聞は読んでいなかったのか。
テレビのニュースは見ていなかったのか。
中国についていいことしか書いていない朝日新聞の読者だったのか。
注意不足では済まされないものがある。
「現地では十分に気をつけて。用のない外出は控えるように」
というのが中国出張に頻繁に出かけるメーカーや商社の現実的な話なので、今回の事故の発生以前に旅行会社はもちろん、当の旅行者自身にも世間から疑問が投げかけられてもおかしくない事故だったのだ。

そもそも、旅行というのは国内であろうが国外であろうが、旅行者自身が十分に安全を考慮して楽しまなければならない「娯楽」だと私は思っている。
自分の生活している場とは違うところへ出かけるわけだから、どのような事態が発生するのか、当然のことながら想像することは難しい。
飛行機や電車に乗り遅れたどうしよう、金やパスポートを盗まれたらどうしよう、という基本的なことから、インチキ賭博に引きこまれて「金を出せ」と言われた後に「ありません」と言ったらヤクザが出てきたらどうするのか、滞在している街でクーデターや大規模テロが起こったらどうするのかという応用編まで、十分に注意しなければならない。

ご存知のように私は時々ミャンマーやタイ、ベトナムへ旅行をしている。
バックパッカー的旅行は私の最もお気に入りの気分転換方法でもある。
とりわけミャンマーがお気に入りなのだが、ミャンマー旅行はタイを旅行するよりも、より多くのことに注意を払い自己責任で行動できるように心がける必要がある。

今でこそミャンマーへのツアーは日本旅行やJTBといった大手旅行社がこぞって企画しているが、民主化前のミャンマーにはこれら会社はその支店さえ現地になかった。
私のような旅行者は個人旅行か、どうしてもツアーを選ぶなら現地のツアー会社か、国内でもアミューズツアーのようなマイナーな旅行代理店しか選択肢がなかった。
保険は効きそうにないし、危険な要素もたくさんある。
従って、メジャー旅行代店はリスクを恐れてツアーを組まなかったのだ。

ミャンマーへ行くたびに、いつも私は念の為に海外旅行保険に入ることにしていた。
旅費をケチっていつもなら海外旅行保険に入ることは稀なのだが、もし万が一事故にでも遭ったらシャレにならない。

例えば、ミャンマーで自動車事故や転落事故に遭って重症を負ったとする。
足の骨を複雑骨折して臓器破裂、脊髄に損傷の可能性がある、なんていうシリアスな状態になった場合、ミャンマー国内では十分な治療を受けることができない。
十分なケアを受けるためにはバンコクやシンガポールなどの大きな技術もあって信頼出来る病院まで運んでもらう必要があるのだ。
インフラは民主化後の今も大変だ。
停電、洪水、その他トラブルに日常的に備える必要がある。
例えば、懐中電灯は必携で、夜、ヤンゴン市内を歩くだけでも突然の停電で周囲が見えなくなることがあるので懐中電灯は安全に歩くために欠かすことのできないアイテムである。
また、ミャンマーだけではなく、トイレットペーパーが常備されていない国も多い。
タイやミャンマーなどは「手で洗う」というのが習慣で、むしろ紙を使うのは世界の3分の1ほどでしかないという。
従って突然の便意に備えるためには、そのへんの備えも大切だ。
とりわけ田舎では重要になる。
さらに、列車、バス、タクシーなどが機械的なトラブルで停止することも多く、万一に備えて移動手段を複数用意しておくことも重要なのである。

最近の日本人は、なんでも他人に頼ってしまうという悪いくせがついている。
生活に困れば生活保護。
失業すれば失業保険。
災害に遭えば、消防署や警察、果ては自衛隊が到着するまで待っているだけ。
税金を他人のお金とでも考えているのか、なんでもかんでも他人任せで他人の責任。

旅についても同じように言えるわけで、北海道で8人も遭難死者を出した旅行社を選択するのも、それに営業免許を与えている国のせい。
現地の状況を把握していないのも旅行会社のせい。

江戸時代後半、現在と同じく多くの人々が日本全国を旅していたが、安全性は自己責任。
役所は旅人に通行手形を発行し、宿場町を整備して、各藩や代官所に対して旅行者の安全を司るよう治安維持を指示していた。
しかし山道突破、渡海、夜間行路などはすべて自己責任で、もし山賊に遭遇して身ぐるみ剥がされても、時化に巻き込まれてアメリカ大陸に流れ着いても、だれも政府に文句は言わなかった。

ということで、少なくとも海外旅行に出かける人は江戸時代の日本人以上の自己責任と覚悟と知恵が必要ではないだろうか。

(写真:黄金の三角地帯を流れるメコン川から撮影したミャンマー側 2003年撮影)

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(日本の中古車が走りまわるヤンゴン市内。なんといっても「新宿行き」のバスがそのまま走っていたりしてビックリする。歩道の穴ぼこに足を取られないように歩くのがコツだ)

海外旅行に出かけて、何が不便に感じるかというと、コンビニがない国に入った時は結構不便に感じることがある。

10年ほど前に初めてベトナムを訪れたき、コンビニがなく久しぶりにコンビニの無い都市というものを経験し、
「ほほー、コンビニってないと、意外に不便なんだ」
と新鮮に感じたのだ。

考えてみれば私が子供の頃の昭和40年代はコンビニなんかなかったのだ。
パンや駄菓子、その他もろもろを買うためにお使いに出される時は近所にあった八百屋もやっているシキシマパンのお店があって、十円玉や百円玉を握って、

「おばちゃん、コロネちょうだい」

とか言って買い物をしたものだ、

コンビニが初めて近所に登場したのはいつの頃だったか。
今ではすっかり忘れてしまったが、昭和50年代中頃の中学生だったか、高校生だったころのように記憶している。

今ではコンビニは日本の津々浦々。
かなりの田舎へ行っても背の高い看板を掲げて夜でも煌々と灯りを照らして営業しているコンビニを目にし、いささかしらけ感も感じつつ便利な世の中になったことを空気のように、無関心でいるものだ。

東南アジアでもタイではセブンイレブンとファミリーマートがいたるところにあって、ちっとも不便を感じない。
コンビニは言葉ができなかったも買い物ができる便利さがありがたいが、ちっとも日本と同じ店構えに似たような陳列だとちっとも面白くなく、バンコク滞在時の私はあえてコンビニに立ち寄らず、一般商店で買い物にトライし、恥をかいてはいい思い出を作るように努力しているのだ。

ベトナムでも2年前に行った時は、コンビニが出現していて愕然としたものだ。
経済発展とコンビニチェーンの展開は表裏一体なのかもしれない、とも思った。

このコンビニの無い、東南アジア唯一の大国がミャンマーだった。
私はミャンマーが好きで度々訪れては、
「ヘンなところに行くね」
と物珍しがられていたのだが、昨年から始まった急激な民主化で注目が集中。
もとからの親日国ということもあって、ビジネスチャンスとばかり相当数の日本人が押しかけているのだという。

そこで登場するのがコンビニチェーン。

先週の新聞報道でこのミャンマーにローソンが出店するのだという。

先述したようにバンコクにはファミマ、セブンイレブンがいたるところにあり、
「ここは日本か」
と文句を言いたくなるときがあるのだが、ミャンマーにもローソンがあちらこちらに出来上がるとなんとも無粋でいただけない。

黄金のパゴダ。
緑あふれ、色とりどりの花が色づく公園。
民族衣装ロンジーと白いワイシャツが目に眩しい、陽気な人々。
真っ青な空。

そこにローソンの看板は、旅行気分を台無しにされるんではないかと、いささか歓迎しない、私なのであった。

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