<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地




(日本の中古車が走りまわるヤンゴン市内。なんといっても「新宿行き」のバスがそのまま走っていたりしてビックリする。歩道の穴ぼこに足を取られないように歩くのがコツだ)

海外旅行に出かけて、何が不便に感じるかというと、コンビニがない国に入った時は結構不便に感じることがある。

10年ほど前に初めてベトナムを訪れたき、コンビニがなく久しぶりにコンビニの無い都市というものを経験し、
「ほほー、コンビニってないと、意外に不便なんだ」
と新鮮に感じたのだ。

考えてみれば私が子供の頃の昭和40年代はコンビニなんかなかったのだ。
パンや駄菓子、その他もろもろを買うためにお使いに出される時は近所にあった八百屋もやっているシキシマパンのお店があって、十円玉や百円玉を握って、

「おばちゃん、コロネちょうだい」

とか言って買い物をしたものだ、

コンビニが初めて近所に登場したのはいつの頃だったか。
今ではすっかり忘れてしまったが、昭和50年代中頃の中学生だったか、高校生だったころのように記憶している。

今ではコンビニは日本の津々浦々。
かなりの田舎へ行っても背の高い看板を掲げて夜でも煌々と灯りを照らして営業しているコンビニを目にし、いささかしらけ感も感じつつ便利な世の中になったことを空気のように、無関心でいるものだ。

東南アジアでもタイではセブンイレブンとファミリーマートがいたるところにあって、ちっとも不便を感じない。
コンビニは言葉ができなかったも買い物ができる便利さがありがたいが、ちっとも日本と同じ店構えに似たような陳列だとちっとも面白くなく、バンコク滞在時の私はあえてコンビニに立ち寄らず、一般商店で買い物にトライし、恥をかいてはいい思い出を作るように努力しているのだ。

ベトナムでも2年前に行った時は、コンビニが出現していて愕然としたものだ。
経済発展とコンビニチェーンの展開は表裏一体なのかもしれない、とも思った。

このコンビニの無い、東南アジア唯一の大国がミャンマーだった。
私はミャンマーが好きで度々訪れては、
「ヘンなところに行くね」
と物珍しがられていたのだが、昨年から始まった急激な民主化で注目が集中。
もとからの親日国ということもあって、ビジネスチャンスとばかり相当数の日本人が押しかけているのだという。

そこで登場するのがコンビニチェーン。

先週の新聞報道でこのミャンマーにローソンが出店するのだという。

先述したようにバンコクにはファミマ、セブンイレブンがいたるところにあり、
「ここは日本か」
と文句を言いたくなるときがあるのだが、ミャンマーにもローソンがあちらこちらに出来上がるとなんとも無粋でいただけない。

黄金のパゴダ。
緑あふれ、色とりどりの花が色づく公園。
民族衣装ロンジーと白いワイシャツが目に眩しい、陽気な人々。
真っ青な空。

そこにローソンの看板は、旅行気分を台無しにされるんではないかと、いささか歓迎しない、私なのであった。

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今年の春の初め頃、買い物に出かけた先のDIYショップで「唐辛子」の苗を見つけた。
1つ200円ほどだったの3つ買い求めてきて家の裏庭に植えて育ててみることにしたのだった。

「どこに植えたん。こんな近くに植えたらえらいことになるで」

園芸、というものを全く知らない私は、3つの苗を20センチ間隔くらいに植えて叱らた。
大きくなったときに収拾がつかなくなるのだという。

「そんなこと知るかい!」

とは思ったものの、確かに20センチ間隔だと大きくなったら隣通しが混み混みで大変なことになってしまうな、と思って植え変えたところ、1つ枯れて死んでしまったのであった。

幸いなことに残りの2つは元気に育ってついに花が咲き実をつけるまでに成長。
先週最初の収穫をしたところだ、といっても片手の手のひらに乗るほどの量しかなかったけれども。

で、どうして庭いじりなどしない私が唐辛子を育てたのかというと、ふと、6年ほど前、ミャンマーのヤンゴンからマンダレーまでを旅行した時のことを思い出したからなのだった。

その時私はヤンゴンからマンダレーまで列車で移動し、その後、船でエヤワディ川(日本ではイワラジ川とも言う)を川下りして遺跡の街バガンを訪れようと思ったのだった。
この列車プラス船の旅が苦難に満ちたことは時々紹介しているのでご存知の方も多かろうと思う。

この時、十時間以上遅れて走っていた列車の車窓というか、開けっ放しの扉からぼんやり眺めていた沿線の風景で最も印象に残ったのが延々と続く「唐辛子の畑」なのであった。



実のところ、ミャンマーへ行くまで私は唐辛子が育てられているのを実際に見たことがなかった。
子供の頃によく岡山の祖父母の家へ遊びに行ったので、都会育ちの私も田植え、稲刈りの経験はあったのだが、唐辛子の育っているところを見たことがなかった。

「あれ、唐辛子の木ですよ」

とボンヤリと景色を眺めている私に教えてくれたのはガイドのTさんなのでった。
クリスマスツリーと似たり寄ったりの大きさの緑の木。
あれが唐辛子なのかと、初めて見た唐辛子に異国を感じた。

ミャンマーはあちらこちらへ訪問したのだが、どこへいっても唐辛子を育てているところは多く、田舎の道に筵を広げて唐辛子を天日干ししている様子を頻繁に見かけた。

赤。
黄。
橙。
緑。
などなど。

唐辛子はカラフルで美しい植物なのであった。

裏庭に無事唐辛子が実り、たくさんの実をつけた様子を見ると、来年はもっとたくさんの唐辛子を育てて、ミャンマーのあの車窓の景色や、田舎道の景色のように、色とりどりの「夏」を演出できれば楽しいのではないか、と思うのであった。

なお、我が家の唐辛子の味は、まだ試していない。

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もうかれこれ15年ほど前になるけれども、友人の結婚式に出席するため初めてシンガポールを訪れたとき、マレー鉄道に乗車した。
その区間、わずかにシンガポールから海峡を超えたジョホールバールまでの1区間。
シンガポールの地下鉄ではなく、モノホンの鉄道に乗ってみたくて日本から一緒に出かけていた友人数人を誘っての乗車だった。

マレー鉄道。
まずはその南端、シンガポール駅の人気の少なさにびっくりした。
立派な駅なのに利用者が少ないため、閑散とまではいかないけれども日本のターミナル駅と比べると随分対照的な駅なのであった。
それでもポッカの自動販売機でなにやらメチャ甘なジュースを買って駅のベンチに腰を掛けると様々な思いが駆け巡った。

「この鉄道がアジア版オリエント急行の終着駅か」
とバンコクからシンガポールまで走っていた豪華列車の旅を夢想したり、
「銀輪舞隊とは別に、ここに列車で到着した日本軍もおったんやろか」
と第二次世界大戦のシンガポール攻略戦を想像したり、
「国際列車、初めて乗るけどどんなんやろ」
と、初めて列車で国境を越えるという体験に胸ワクワクしていた。

そんなマレー鉄道に乗り込んでユックリユックリ走り始めると、もうそんな夢想はどこへやら。
線路両側の熱帯並木に気を取られ、すっかり鉄路の旅人に変わっていたのであった。

尤も、そんな鉄道の旅もわずか数十分で終了。
ジョホール水道を渡るとすぐにジョホールバール駅に到着。
下車した。

駅前は当時工事中で、大成建設の看板がかかり、駅前の横断歩道の信号機は日本の中古信号機と思われる人の図が描かれた日本と全く同じ信号機。

やれやれ、日本の影響の強いこと。
それでも駅周辺をてくてく歩き、小さなショッピングセンターで涼をとってからバスでシンガポールに戻ってきた。

ジョホールバールの駅で印象的だったのは、イミグレーションカードを書く代書屋が多数店を構えていたことで、
「字の書けない人が大勢マレーシアからシンガポールに行くんだな」
と、これもまた現地に行かなければ知りえない貴重な体験になったのであった。

そのマレー鉄道も先日終点がシンガポールからジョホールバールに変わった。
シンガポール国内の鉄路が廃止されてしまったからなのであった。

あの日、車窓から流れこんできた涼やかな風は、もう体験することはできないのだ。

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今、東京電力の計画停電が話題になっている。
原発をはじめ多くの発電所がストップしてしまっための電力不足が原因だ。
たぶん、こういうことは戦中を除いて日本では恐らく無かった出来事なのに違いない。

数カ月前に読んだ「スマートグリッド」という新書の中で、先進諸国の中でも日本の停電率は群を抜いて低く、欧米先進諸国の平均が年間20秒程度なのに対し、日本はほんの0.数秒であるという驚くべき技術力が記されていた。
その文章を読んだ時、自分の国の知られざる技術力に「どんなもんじゃい」と思ったものだが、その日本で計画停電。

自然の猛威は人の叡智をはるかに超える恐ろしさを示したのであった。
しかし、この難局を乗り越えることができるも人の叡智であることに代わりはない。
停電制度はいつかは終わる。
それも何十年も先の話ではなく、多分、長くても1年ぐらいの話だろう。
それだけ日本では電気は通じ続けるのが当たり前の存在になっていたのだ。

とはいえ、昔はイレギュラーな停電を度々経験したものだ。それに、今でも海外へ出向くと停電が日常茶飯事の国は少なくない。

昭和40年代の終わりごろ。
初めて我が家にエアコンが入った。
室外機式のエアコンで、当時ではなかなかな性能であったと記憶している。
「ぐい~んぐい~ん」
という音が騒々しかったものの、当時は騒音でイライラするよりも、真夏に涼しい風にひたれるという快適さのほうが優先し、ちっともうるさいなどとは思わなかったものだ。

ところがこのエアコンにはひとつだけ大きな欠点があった。
昔のエアコンであるため電源が単相100Vである上に、消費電力が他の電気製品と比べると途方もなく大きかった。
このために度々家の分電盤のヒューズを飛ばしてしまうという困ったトラブルを引き起こしたのだ。

「あ~~~~涼しいな~~~~」

と油断をしていると、なんの拍子か突然家の中が真っ暗になり、エアコンもテレビも冷蔵庫も全部ストップしてしまうというトラブルに見舞われたのだ。
当時は分電盤にブレーカーなどという洒落たスイッチはついていなかったのでヒューズの取り替えが必要になった。
ヒューズは素人では交換が難しく、その都度関西電力に電話を入れて、修理に来てもらったのを鮮明に憶えている。

中学校に上がるころに、家に単相200Vの電源が引きこまれエアコンの電力が別系統になり、分電盤が最新のブレーカー設備に交換されたことなどから、ヒューズ「ポンッ!」による停電は起こらなくなった。
停電が起こらなくなって、それはそれで少々寂しい気もしたものだが、私も子供だったから停電を楽しんでたのだと、今になっては冷静に考えるたりもする。

今や日本で停電を経験することは殆どなくなったが、アジアの乏しい国々を旅行すると度々停電を経験し、それはそれで「旅の出来事」として面白いと思っている。
住んでいると大変だろうけど。

私が度々訪れるミャンマーも停電頻発国のひとつ。
停電どころか、電気の通じていない地域もあるぐらいで、非常に乏しいインフラなのだが、人々のメンタリティーが日本人にとてもよく似ていて明るく真面目なのが大いに気に入ってるところではある。

この国の電力は昭和40年代に日本が設置した発電所がメインになっているため、度々停電する。

ヤンゴンで一泊10ドルのホテルに宿泊したときは、その停電で度々目を覚まされ、熟睡できずに苦労した経験がある。

ホテルそのものは安全だったし、比較的清潔でもあった。
スタッフは愛想が良いし、食事も美味いので気に入っていたのだが、いかにせん、停電が頻繁に起こる。

夜、寝ようとしてエアコンを入れる。
しばらくするとブチッとすべての電源が切れて真っ暗になる。
当然、エアコンもストップする。
すると南国のこと、蒸し~とした生暖かい空気が部屋の中に漂い入ってきて、そのジメジメした暑さで眠れない、ということになる。
数分後、不意に電源が復活して電灯がつくが、エアコンはなかなか復活せず、時間がかかる。
やっとのことエアコンが息を吹き返し、涼しい風を送り始めると、またまた停電が発生する。
という、大変な状況の繰り返しなのだ。

ヤンゴンの繁華街を夜歩くときも懐中電灯は必携品で、突然街中が真っ暗になり歩くこともままならぬ状態になったりするので、懐中電灯を持っていないと、ボロボロの路面の道路に足を取られたり溝に落っこちたりしていしまう恐れもある。
幸い、ミャンマーは乏しく軍政というけったいな政府をいただいている、悲しい側面もあるのだが前述したように人々は仏教的な優しさでメンタリティーが高く、大変治安の良い国で犯罪にはとても巻き込まれにくい環境だが、それでも真っ暗になるのは気持ちの良いものではないのだ。

ヤンゴンから西に向かって飛行機で一時間半。
バングラデシュとの国境まで数百キロというところにシットウェーという大きな街がある。
かつてアキャブと呼ばれていた街で、有名な日本陸軍の加藤隼戦闘機隊の加藤隊長が戦死した街でもある。
日本に関係が深いところなのだ。
ここから船に乗ってさらに8時間から10時間かけて北にさかのぼるとミャウーという街がある。


(ミャンマーのミャウー。自動車の数は少なく、馬車が活躍。)

仏教の巨大な遺跡群が点在する街なのだが、いかにせん、行きたくても、とても行きにくい場所にあるために、あまり有名ではない。
しかし、その遺跡群を見たらあっと驚くことまちがいなしの遺跡の街。
そのうち有名になって世界中から多くの観光客が訪れることまちがいなしと思えるのだが、今はまだ年間にここを訪れる日本人は200人程度。
外国人をトータルしても非常に少なく、私が訪れたとき、この街にいる外国人はホテルの人の話によると私と国連の職員だけなのであった。

そんな街でも電気が通っていた。
人口1万人。
2階建て、3階建て程度のビルもあるし、学校も市場も当然あった。

午後2時にシットウェーを出発して到着したのが午後11時前。
川をさかのぼり日が沈んでからは真っ暗になったのだが、ミャウーの方向の空がうっすらと明るく、

「あ、あっちに街があるんですね」

とガイドさんや船頭のおじさんと話しをしていた。
もちろん船頭のおじさんはガイドさんと英語の話せる若い学生アルバイトの青年の通訳で話した。
すると午後10時になったとたん、そのうっすらとした明かりがバシッと消えたのだ。

「なんじゃあれ?」

町ごと停電した瞬間なのであった。

ミャウーは午後6時から午後10までだけ電気が通じていて、その間だけ街の上空に明かりが射しているというわけだった。

船がミャウーの港に着くと町の人々は停電した真っ暗な街中で、発電機を回したりろうそくやランプを灯して、しっかりと生活していたのであった。

計画停電の日本。
それも発電能力の復活するまでの短い期限付き。
ミャンマーやベトナム、ラオスでは今も電気の制約された多くの場所が存在し、それでも人々は力強く生活しているのだ。

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ニュージーランドの地震被害をテレビのニュースで見ていると、海外旅行中に災害に遭遇したらどのように対処したら良いのか、はたまた日本の家族はどうしたらいいのか。
と、考えさせられる。

海外旅行をする時、私は掛捨て型の海外旅行保険をインターネットで申し込んでから出かけるようにしている。
クレジットカードでも旅行特約のついた、1ランク上のものを1枚だけ持っていて、それも所持して出かける。
実のところ、なんの役にも立たないように思うのだが、無いよりはマシで、私自身の安心のためというよりも、留守を預かる家族が多少とも安心するから契約するといっても間違いではない。

実際にいざ災害や事故に直面すると、それらの保険は気休めでしかなく、結局は自分で心して対応しならければならないのが旅先での災難であると思う。

私にはちょっとしたクセがある。
海外の空港に到着して空港から最寄りの市内に向うバスやタクシーの車窓から沿道の景色を眺めると、いつも建物の柱の大きさを観察するというクセなのだ。

建築中のビル。
1階が駐車場のビル。
無人のビル。
などなど。

知らない間に、「あの柱、細いな」などと考えているのだ。

これは大学を卒業してから暫くの間、建築関係の会社に勤めてヘルメットをかぶって現場仕事をしていたことが影響しているのかも知れないが、一番大きな要因はやはり阪神淡路大震災の経験がそういう目で街を観るクセを付けさせているのだろう。

あの日。
阪神大震災が発生した当時、私は大阪府堺市に住んでいた。
神戸から直線距離で40km程度離れているのだが、それでも本棚がひとつ倒れて書籍が散乱。
コレクションしていた模型や置物が壊れた。
大切にしていた宇宙船USSエンタープライズ号のプラモデルが映画と同じように致命的ダメージを受けたのもこの時なのであった。

公共交通が全てストップし、復旧がいつになるのかわからなかったので古い50ccのバイクに跨がり大阪市内の会社に向った。

途中、橋の付け根に段差ができていたり、交通渋滞のすさまじさに驚いたのだが、もっと驚いたのは連絡のつかなかった西宮市内の同僚の安否を確認するために、50ccのバイクで西へ向った時だった。
各所で家が傾き、潰れていた。
甲子園の前の高速道路は橋げたから橋りょうが落下していた。

「日本は地震に強い国であるはずなのに」

と、常識が通用しないことを痛感しながら西に走った。

海外、とりわけ東南アジアを旅していると、ビルディングの柱の細さが気にかかる。
細い柱で5階建て、6階建てといった建物が建設されていて、時折モルタルのはがれた壁面からは心材である赤レンガが見える時がある。

「地震が来たら、一巻の終わりやな」
と考えながら移動をする。

タイのような、地域の中の先進国でもそんな光景を目にするものだから、ミャンマーやベトナムなんかではもっと簡易な建築を目にして「もし」を考えることが多い。

私自身は海外で災害に遭遇したことはないけれども、事故に遭うかもしれないと思ったことは何度かある。
その都度、

「事故に遭ったら、あそこに連絡して、あの街の病院に運んでもらえるようにして、それでもだめならバンコクかシンガポールの日系の病院かに運んでもらって.....」

と順を追って想像するのだが、そんなことがイザと言う時に役立つとも思えないのが難しいところだと思う。

海外では日本なら手すりがついていると思えるような高地でも、手すりがなかったり、猛スピードで自動車が走ったり、バスの天井やトラックの荷台に乗ったりすることもままあるが、そんな状態で事故に遭っても保証はないし、どこでどう措置をしてもらったら良いのか判断に苦しむ時も少なくない。

「この国は地震がありません。」
と言われたり、
「地震ってなんです?」
と訊かれる国も中にはあったりする。

「へー、地震はほとんどないんですか?」
「ありませんよ」

と話していた後で訪れた遺跡に地震の跡があったりするので、やはり判断するのは自分次第。

宿泊するホテルは中級以上の頑丈な建物のホテルにするのか、モルタルボロボロの一泊1ドルのドミトリーにするのかも、自分の責任だ。

もし海外で災害に遭遇したら。
全て自己責任。
というのが、旅行する方も、留守を守るものも心にしなければならない決まりだと思う。

ついでながら、災害に遭ったからといって紛争地への救出任務でもないのに政府専用機を使う、使わせろという話しを持ち出すのは、大いなる筋違いだと思う。

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(写真:バンコクのワットプラケオにあるアンコールワットのミニチュア)

東南アジアではいろんな国を旅をした。
タイ、ベトナム、ラオス、シンガポール、マレーシア、そしてミャンマー。
どの国も良い印象が残っていて大好きだ。

それでもインドネシアとブルネイとカンボジアには未だ足を踏み入れたことがない。
理由は特にないのだが、インドネシアは得意先の社長が仕事で時々出かけたときの話をするので、それで十分なような気がしてしまい、未訪問。
ブルネイも多分にビジネスと天然ガスの匂いがつきまとい、行こうと思えず。
カンボジアはアンコールワットに行ってみたいのだが、テレビや写真で観光客がウジャウジャ群がる光景を見ていると、観光シーズンの明日香村を思い出し、訪問する気が失せてしまう。
雑踏見たらサヨウナラ、と言った感じだ。

尤も、カンボジアには国境まで2kmという地点までせまったことがあり、ともすれば入国することも可能だった。
それは初めてベトナムを訪れたときで、カオダイ教の総本山があるタイニンの街に行く途中、

「あの丘の向こうはカンボジアです」

とガイドさんが教えてくれたので。

「ほー、カンボジアが近いんや」

と何故か感心したことを思い出す。
帰って地図をよく見ると、この付近のベトナムとカンボジアの国境は複雑に入り組んでいて、ややこしい地域なんだと確認したものだ。

ややこしいといえば、カンボジアとタイの仲もややこしい。
ちょっと目を離すと国境線沿いでドンパチを始める中の悪いのがこの二国の関係だ。
1970年代から80年代は紅いクメールに追い立てられた数万の難民がタイ側を占拠。
国税は使わなければならなかったし、治安は悪くなるしでタイにとっては迷惑だった。

私にタイ語を教えてくれていたM先生は、ときどきタイとカンボジアに国際問題が生じると授業中にカンボジア人の悪口を言った。
数年前、タイ人の歌手の発言でタイとカンボジアで揉めたことがあったけれども、そのときも柔らかくではあるが、語彙的には結構厳しくカンボジアのことをこき下ろした。
普段物静かな、いかにもマイペンライなタイ人なのに、と驚いたものだ。

歴史を遡ると、そもそもタイ人はカンボジア人にとっては使用人の身分だった。
10世紀だったか9世紀だったか忘れたが、雲南省あたりに起源を発するシャムの人たちは漢族の侵入に逃亡を余儀なくされた。
中国人は今も昔も周辺民族の厄介者という意味では変わらなかったようだ。
で、シャム人が新天地として逃げてきたのが隆盛を誇っていた大帝国のクメール大国。
今の、カンボジア。
その版図は今のカンボジアはもちろんのこと、ラオス、タイ、マレーシアの一部に南ベトナムなどが含まれる広大なものなのであった。
シャムの人たちは、この繁栄する新天地で底辺から再スタートを切り、王国のかなりの地位まで上り詰める。
そしてついに、分離独立し自分たちの国家を建設。
それが11世紀に建国されたスコタイ王朝なのであった。
やがてクメール王国は衰退し、今のカンボジアへと縮小する一方、シャム(タイ)は隣国のビルマ王国やモン王国なとと覇権を競いながら域内最大の国家に成長。
タイと国名を改めた今は、東南アジアの枢軸国にまで発展した。

歴史上のそのヘンが事実がややこしくしているのだと、私は考えている。
正直、どうっちゃでもええやないか、と思うのだが、民族意識というのは妙なコンプレックスを生むものだ。
アンコールワットの最寄りの街、シェムリアップはシャムを征服した街という意味で、ロシアのウラジオストックを彷彿させる国家の野心と歴史を感じさせる。

ということで、国境紛争のニュースはカンボジアのアンコールワットには是非ともバンコクから2泊3日のバスツアーで訪れてみたいと思っている私にとっては、またまた当分、カンボジアには行けない状況が生じてしまったというのが、正直なところだ。

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(写真:サクラタワーから臨むヤンゴン市内)

ノーベル平和賞の授与式に中国の民主活動家劉暁波が出席できなかったばかりか、家族も出席できなかった。
おまけに中国は自分の息のかかった国や、同じような「政治的悩み」を抱えている国に「授賞式に出席しないように」と働き掛けた。
おかけでフィリピンやキューバなどが出席を取りやめ。
おかしなことになっている。

中国国内ではノーベル賞のニュースが流れそうになると、海外テレビがシャットダウンして何も映らなくなるというのだから、その検閲方法は徹底されている。
さすが、人治国家だけのことはある。

中国という国はほんとおかしな国だ。
やっていることはかつての全体主義国家と変わらない。
異民族の住む隣国(例:チベット、ウィグル)を侵略し、自分の領土に組み込んで、そこへ自国民族(漢族)を移住させ、もとのネイティブな人たちは他の地域に移住させる。
市長や町長、村長といった他の国にも存在する行政の長もいるに入るが、選ばれ方が不明瞭。
第一、共産党員でなければ公務員たる行政の長にはなれない仕組みになっている。
したがって、法はあって決定するのは人次第。
共産党に気に入られなければ、何も決定することができない仕組みになっているのだ。

街にも毛沢東という、大変な人物の肖像画が掲げられている。
20世紀希代の殺人者だ。
毛沢東は1950年代、1970年代に大躍進、文化大革命と称しながら、気の向くままに数千万人の自国民を死に追いやっている。

どこの国でもだいたいそうだが、対立する国の人々は死に追いやっても自国民は大切にするものだ。
ところが毛沢東はそうじゃない。
自国民の命を簡単に奪ってしまう人だったのだ。
そういう人の肖像画を「罪はない」と今も掲げる中国という国の神経を疑う。

そういう国に、どの企業も、どの国も、投資を惜しまず進出している。
「色々買ってくれてありがとう」
というところだ。
質より量の人口が、消費社会にとってはなんとも魅力的に見えるのだろう。

一方、小国ミャンマー。
ノーベル平和賞受賞者のスーチー女史が軟禁されたら、先進諸国はこぞって経済制裁。
輸出入を制限し、軍事政権に圧力をかけた。
おかげで街は英国支配当時そのままで、最大都市ヤンゴンでも停電が頻繁に発生。
雨が降るとすぐに下水が溢れて洪水になる。

麻薬取引に明け暮れる少数民族を退治したら、
「マイノリティーの弾圧だ」
といちゃもんをつけられ、さらなる経済制裁。
そもそも少数民族に麻薬栽培を教え込んだのは植民地時代の英国政府と商人で、ミャンマーにして見れば、
「お前さん方だけには言われたくない、民族問題」
というところだろう。

このミャンマーは多少インチキしても選挙をする国。
先述の中国と違って民主的だ。
事実、20年前には真面目に選挙をした実績も持っている。

地球の歩き方には「政治的発言はしないように」と戒めているが、案外、人々が影では政府の悪口を言っているのもミャンマーの民主度か。

ということで、結局にたような物かも知れないが、ミャンマーを訪れるたびに、どうして中国は投資先でミャンマーがそうならないのか。

国際社会の矛盾点をひしひしと感じるのだ。

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数年前、ミャンマーの北部カチン州を訪れた。
国内線のプロペラ機でヤンゴンからへーホー、マンダレーを経由して約3時間。
ミッチーナ空港への着陸態勢に入った機内からの眺めは、他の地方とは一種異なったものがあった。
どういうわけかミャンマーならどこでも見られる金色に輝くパゴダが少ないのだ。
その代わり、十字架の墓標があちこちに散見された。
カチン州の州都ミッチーナは異教の街なのであった。

誰でも知っている通りミャンマーは仏教国で国民の9割は仏教徒と言われている。
これは同じ仏教国のお隣タイ王国よりも多い比率だ。
その仏教国であるはずのミャンマーでもカチン州はキリスト教。
その昔、仏教を信仰していない少数民族を感化するために英国が持ち込んだ植民地化政策の名残なのだ。

「今も宣教師の人たちは『キリスト教に改宗したらヨーロッパへ連れて行ってあげる』と言ってカチン族の人たちをキリスト教にしていっているんです。」
とガイドのTさんは言った。
ミャンマー人のTさんは熱心な仏教徒で、宣教師にいいイメージを持っていない。

空港からタクシーに乗ってミッチーナの街に入ると、やはりそこはミャンマー。
黄金色のパゴタがあちらこちらに見られるが、キリスト教の教会も多い。
中国からの輸入品で賑わう市場の周辺にはパゴダとキリスト教の教会とイスラム教のモスクが通りを挟んで隣接しているところがあり、この地域の複雑さを窺い知ることができた。
ともかく、ややこしいのだ。

こんなところだから争い事は当然起こっていた。
「起こっていた」というように、すでにカチン州での武力衝突は過去のものになっていた。
中央政府である軍事政権とカチン州民族政府は10年ほど前、お互いに話し合いをして妥協点を見出し解決し、平和な状態を作り出していた。
軍事政権もカチン族の自治を認めているようで、それを象徴するような博物館もちゃんとある。
民族の象徴であるトーテンポールのようなオブジェも飾られていた。

ということで、話は現在報道されているミャンマー。
なんでもミャンマー国境からは中央政府と少数民族の衝突で1万人以上がタイに避難。タイ側の国境の街メーソートにもロケット弾が飛んできて負傷者が出ている様子だ。
その負傷者の中に日本のマスコミ関係者も含まれていたものだから、ちょこっとばかし大騒ぎしている。
やれ軍事政権はカレン族を弾圧しだしているとか、ワ族が反旗を翻しただとか、叫んでいるのだ。
まるでカレン州の少数民族やワ族が一方的に弱者の正義で、中央政府である軍事政権が一方的に悪者という定形の図式に落とし込もうとしている。
カレン州の少数民族やワ族が麻薬栽培の重要な役目を担っているということには知ってか知らずかまったく触れようともしないのが、いかがわしい。

報道によると「国境警備隊に入って欲しい」と中央政府が少数民族集団に話した結果、戦闘に発展したという。
私なんかは、こういうケースを聞くと少数民族の方がおかしいんじゃないかと思うだが、マスコミは違うようだ。
国境警備隊に入ること、つまり政府に帰順することは麻薬やその他イリーガルな金儲けができなくなることも意味するのかも知れず、少数民族武装集団はそういう利益を享受することができなくなるので銃を取って戦っているのかもわからない。
しかも軍事政権が言う「国境警備隊に入って欲しい」という姿勢はカチン州の武装勢力と妥協して今の平和をもたらしている方法と同じ。
「もういい加減、喧嘩はやめようや」
という姿勢だと思う。

タイミング的に少数民族武装勢力が発起したタイミングが秀逸で、非難轟々の総選挙の時期に戦闘を始めて難民がでたら、さも、「軍事政権の仕業。人権無視」として報道してもらえるという魂胆なのだろう。

ということで、カレン州にも将来カチン州のように平和が訪れることを期待したい、と希望するのであった、が麻薬が絡んでいる限り、ちと難しいと言わねばなるまい。

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ミャンマー入国は正規の手続で。
尤も、ミャンマーでなくても、どの国でも正規の手続で入国するのが当たり前。
そんなことがわからない人がいるのが日本のマスコミだ。


「今度はモーリャメンに行ってみたいんですけど。」
「モーリャメン?なんでそんなところに行きたいんですか?」
「つまらないんですか?そこ」
「何もありません。」
「でも、行きたいんです」
「どうしてです?」
「はあ、泰緬鉄道のミャンマー側の始発駅なんです。」
「泰緬鉄道、ですか」

ガイドさんTさんはミャンマーを初めて訪れてから毎回お世話になっているミャンマー人のガイドさんだ。
ヤンゴンより北側にある大きな街のほとんどを訪問した私は、いよいよ泰緬鉄道のミャンマー側の始発駅モーリャメンを訪れようと思ったのだ。

「で、どうやって行きたいですか?」
と尋ねるTさんは若干不服そうだ。
「どうやってって?やっぱりバスか列車です。」
「ダメです」
「だめ?」
「行くなら飛行機になりますけど」
「どうして。陸続きでしょう」
「途中ゲリラが出るところがあって外国人は通過を許可されないところがあります」
「ゲリラ、ですか」

と、Tさんが指摘したゲリラ出没地帯が、今回APF通信の代表が拘束されたカイン州のことだった。

このカイン州。
ミャンマーの観光地としては最も有名なゴールデンロック近くからタイ国境まで広がる州なのだが、深刻な民族問題を抱えていて武力衝突が絶えない。
私がミャンマーを訪れた時も、カイン州で路線バスがゲリラに襲われ多数の乗客が殺される、という事件が発生したばかりだった。
Tさんが「なんで行きたいんですか?」と尋ねたのも尤もなことなのであった。

このように、ミャンマーは今も多くの少数民族問題を抱えている。
かつて、この民族問題が原因となって内戦状態になった歴史がある。
すべて英国植民地であったときの負の遺産なのだ。

このような特殊な事情は日本では紹介されることはほとんどなく、とんちんかんなマスコミが少数民族イコール弱者イコール正義という図式で報道するので日本国内の人に軍事政権が一方的に悪いのではないかという印象を与えている。
軍事政権は非難されるべきところもある(とりわけタンシェ議長は)が、中国の軍事政権イコール共産党政権よりは遥かにマシであることは断っておく必要があると思う。
ミャンマーの軍事政権のことをボロクソに書く、例えば朝日新聞やAPF通信のような変わった性格のマスコミも中国共産党のことになると大切に敬いの心で書くのだから訳がわからない。

「こういう時にこそ入国し取材するのが私達の使命だ」
と言って拘束されたAPF通信の代表は、次回は是非、ウィグルやチベットへ潜入して取材していただきたいものだ。
多分拘束されたら命はない。

なお、APF通信って名前はAFP通信の偽物か。
まるでHOGNDA(中国製でおなじみHONDAの偽もの)のバイクみたい。
益々、変わった通信社ではある。


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世界中で洪水が発生して大きな被害を出している。
中国では鉄砲水で街が土砂に埋まって大変だ。

「二階、三階まで汚泥に埋まって....」

とラジオのニュースが伝えていたけれども、二階三階まで土砂が来るのはどんな災害なんだろう。
現地では数千人の住民が行方不明になっているといい、人民解放軍が救助作業に当たっている。

洪水で大変なのはヨーロッパも同じだそうで、ドイツやオーストリアではかなりの人々が洪水で亡くなっているのだという。

「三峡ダムのせいじゃ」

と、私の父は酒を飲みながら呟いた。
なんでも、三峡ダムの巨大開発が地球規模の環境異変を引き起こし、世界中で異常気象を発生させているのだという。

さすがに、私の住む大阪府南部で洪水の話はめったにない。
ましてや生まれ育った堺市では洪水騒ぎは待ったに起きない。
親類の住んでいた門真市や守口市というところは台風が来るたびに床下浸水していたものだが、
「なんで、そうなるの?」
と子供のわたしはコント55号の欽ちゃんの物まねでよく、そう言ったものだ。

したがって、私は長い間、洪水、というものを体験したことがなかった。

洪水を初めて体験したのは、初めてミャンマーの首都(当時)ヤンゴンを訪れた時であった。
滞在最終日前日、次の日の夕方便でバンコクに帰る予定の私は、ガイドさんがコーヒーをご馳走してくれるからということで、市内中心地のJドーナッツを訪れた。
Jドーナッツはヤンゴン市内にある数少ないファーストフード店のひとつで、早い話がミスタードーナツのコピー店なのであった。
店内の作りはミスタードーナツと同じ。
メニューもフレンチクルーラーなど定番の製品が揃っていて、これもミスタードーナツと同じ。
聞くところによると、JドーナッツのJはJapanのJであるとのことで、日本のドーナッツ、ミャンマー版「ミスタードーナツ」なのであった。
ちなみに、このような模倣店はミャンマーには多く、ミスドの他に「マックバーガー」(マクドナルドのコピー)、「Tokyo Frid chicken」(ケンタッキーのコピー)などが存在している。
お隣のタイには全部オリジナルが存在することを思えば、米英の経済制裁恐るべしである。

で、そのJドーナッツでガイドさんと話をしている僅か数分の間に、雨が降り出し、気がついて約15分後外に出てみたら、通りは辺り一面水没していたのであった。

「えらいこっちゃ」

と思う私を尻目に、ガイドさんが、

「排水溝をちゃんと掃除しないから、こうなっちゃんですよね。ゴミもあちこち捨てるし」

と説明してくれた。
その説明が妙にリアルで思わず笑ってしまったのであった。
水はなかなか引かずどうしようかと思っていたら、タクシーがまるで川の中を進む船のように水煙をあげながら走ってきたので、それに飛び乗り、水の無いところまで移動したのであった。

以来、ミャンマーを訪れるたび、とりわけそれが6月なんかだったりすると洪水に遭遇することになっている。

なかなか雨でマトモに参拝できなかったゴールデンロックへの三度目のチャンジの時も、雨なのであった。
しかも豪雨。
ヤンゴンからゴールデンロックへ向う途中の街バゴーもまた、かなりのところが水没していたのであった。

洪水はテレビで見ただけではただの災害だが、近寄ってみると非常に汚い災害であることがわかり、たまらない。
「洪水になったら泳いで移動したらええねん」
と小学生ぐらいの知恵の人は言うかも知れないが、とんでもない話だ。
泳いで移動する、なんて論外で、下手をすると誰のものやらわからないウ○コと道連れになってしまう可能性もある。
洪水は病気の原因も運び込んでくるから恐ろしい。

ということで、世界中が洪水続きで大変だ。

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