<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





スマトラ島沖地震が起こった時、シンガポールの高層コンドミニアムが大きく揺れて、当時シンガポール在住だった友人は慌てて階段を駆け下り1階のピロティに出た。
周囲を見渡すと同じように慌ててコンドミニアムから避難してきた人たちが大勢いたのだが、そのほとんどすべてが日本人だったという。

かように日本人は海外にいても地震に敏感だ。
それはきっと日々災害の脅威にさらされているという歴史に基づくものだとよく言われている。
たとえば、日本人が他宗教からは「原始的」と言われる神道をなんとなく信仰しているのも、他宗教からは「あれは哲学や」と言われる仏教を慕っているのも、自然災害が日常的に身近に存在するからに違いない。
災害に遭うのに貧富の差はなく、誰もが辛い目、ひどい目に遭う可能背がある。
だからヤクザでも庶民のための炊き出しを行い、他人のものは盗まず、殺さず。
暴動もまず、起こらず助け合いで乗り切るのだ。
事実、統計上も地球上で発生する自然災害の3分の1は日本列島周辺で発生しているらしく、科学的にも納得できる数値なのかもしれない。

一方、こと地震に関しては海外での大きな災害は、とりわけ米国の西海岸を除いて先進諸国では少ない。
これを原因に日本人も「外国は地震が少ない」という固定概念にとらわれているところも少なくない。
だからたまにスマトラ島沖地震のような大災害が発生すると私の友人のように慌てふためくことになる。
また、海外の地震が怖いのは、日本ではなんてことない規模の揺れでも簡単に建物が崩壊してしまうことで、シンガポールで揺れを感じたら、まずは建物崩壊が頭を過るのだろう。

実際、タイのバンコク都内でも高速道路を走りながら周囲の建設中ビルを眺めてみると、建物の柱はやたら細いし、床も薄い。
建物の強度には関係ないが、ヘルメットも被っていない作業者が木で組んだ足場を歩いているのを見ると建物の品質を大いに疑いたくなるのも宜なるかなといったところだ。

ミャンマーで一昨日、M6.8の地震が発生。
旧都マンダレーやタイのバンコクでも揺れたという。
エヤワディ川に建設中の橋は倒壊。
多くの死者を出しているという。

今注目のミャンマーは実は地震が少ないくないところで、例えばヤンゴンのボータウンパゴダには日本軍と英国軍の戦闘でできた壊れ以外に地震で壊れた部分があり、この国が決して地震に安全なところでないことがよく分かる。
度々サイクロンもやってくるし、雨季の集中豪雨は半端ではない。
ミャンマー人に接すると、とってもメンタル面が日本人に似ていることに気がつくのだが、仏教思想を基本とした倫理観が影響しているだけではなく、もしかすると災害が多さも関係しているのかもわからない。

(写真:今回の地震のあった震源から100kmほど西にあるモンユウの巨大仏像群。壊れていないかどうか心配だ。)

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



« 海外旅行の安... ニッセンとナ... »
 
コメント
 
 
 
Unknown (ダル)
2012-11-16 15:41:27
他宗教からは「あれは哲学や」と言われる仏教…そうなんですか?
3・11の時大阪のキリスト教団体の皆さまのあまりに献身的な活動に驚き感動しました。どこからあの精神の源はなにか、この年になって初めて聖書を手にとりました。艱難辛苦の末一応読み終えたけれど、そして彼らの集会にも参加、神様のお話も聞いた…。しかし60年のお釈迦さまへの信頼は結局揺るがなかった。
仏教は人間の煩悩をいかにかわしながら、そしていかに生きるべきか、を教えてくれるんだなぁと、哲学的だなと思った。
 
 
 
考える宗教 (監督@とりがら管理人)
2012-11-16 23:30:14
ダルさん、こんにちわ。
「仏教は宗教ではなくて哲学だ」とは題名は忘れてしまいましたが有る新書にかかれていた言葉です。
確かに仏教は他のあらゆる宗教と異なり「神」の存在を規定せず、「神が定めたルール」も存在しません。
お釈迦様を神と当てはめる人もいますが、実際のところ何かを信じるというよりも、お釈迦様の悟った考えや言葉を参考に自分で考えることを促すから宗教ではなく哲学と呼ばれるのだと思います。

私自身、仏教に興味を持ったのはタイやミャンマーを旅するようになったからで、とりわけミャンマーのお寺でご住職から簡単な講話を聞いたたことが少なからずショックでした。
お坊さんの役目というのは人生に迷っている人や、困難に直面している人に対して「答え」を与えることでも「お釈迦様の考えを正解として伝えること」でもなくて、人々が自分自身で考え、納得のいく答えを導き出す手助けをすること、というのにも新鮮な驚きを覚えました。
また仏教は不変なものを否定しますね。
当たり前ですが世界に変わらないものなど絶対なく、どんなものにでも必ず終わり(死や破壊)が存在します。
地球にも終わりがあり、宇宙にも終わりがあります。
従って全知全能な存在がもしあったとしても、必ず終わりがあるので全治全能ではないわけです。

人の一生には必ず、死、病、老、生の4つの苦があるという考えもなっとくできます。
死、病、老が苦であるというのは容易に理解できますが、生きることも苦であるというのは、いかにも仏教的であると思います。

実は死を考えることで人は優しくなれるし、生きることを頑張るのだ、ということもこの時気づいたんです。
日本人が本来、他人に優しかった、そして今も基本的に優しいのは多分にこういう考え方を長年にわたって教え伝えられている一種にDNAなのかも。

何か悪いことをしたから神様が天罰を与えるとか、いいことをしたからお釈迦様が褒美をくれる、というのは仏教的ではないんですね。
考えること。
それが仏教であるんだな、と思っています。

ながいフォローになってしまいました。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。