Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【聖体の黙想】聖体はわがしもべである

2020年06月25日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

人である聖体

聖体はわがしもべである

 礼拝 『わがしもべを見よ』。天父のこのお言葉は、イエズス・キリストの他のみ名を示すものである。私たちはこのみ名を拝し、このみ名の中に愛と憐れみとの他の証拠を発見する。昔はしもべとはむしろ奴隷の意味であった。主イエズスは天父のみ前においてご自分を奴隷のようにみなしておいでになり、また、私たちに対してもこのようにふるまわれたのである。
聖パウロの証言によると『天主と並ぶことを盗みと思いたまわざる主は、へりくだりて奴隷のかたちをとり』たもうたのである。 しかしこのため、すなわち天父と人々との目に奴隷のようになられるためには、主はアダムの罪によって堕落したありさまの人間の性をおとりになればそれで足りた。なぜなら、人が、天主の富を受け継ぐ天主の子として天主の恩恵に浴していたあいだは、彼の霊魂は天主に服し、彼の肉体は霊魂に服して、そこに麗しい調和があったが、罪に汚され天主の家を追い出されてからは、天主はもう人間を子とみなされず、ただ、そむいた奴隷として、なんらの報酬をも約されないで苦役に従うことを命じられたからである。
天主の御ひとり子のおいでになったのは、このような状態においてであった。彼は人となって、苦しみと死と、その他一切の天主の正義の懲罰を受ける者として、絶対的君主である天主のみ前に、その全生涯と全存在とを少しも余さないで捧げるところの従順な奴隷となられたのである。
イエズスは奴隷であることを示すために、旧約の預言者の口を借りて『なんじはわが耳を貫きたまえり』と仰せになった。ローマ人のもとで、奴隷は耳を貫いて輪をはめ、これに紐(ひも)を通していた。これは彼が主人の僅少の命令にも従順であることをあらわす象徴であった。
主は、ご幼少の時から三十才に至るまで、大工小屋で労働に従事された。その御手は材木を運び、大工道具を使用するために荒れて、醜いたこができていた。
また、そのご教訓と奇跡とをもって、人類の無知と傷とを癒されたあとにも、主は裾を端折り前掛けを掛け、御腕をまくり、たらいに水を汲み、人々の前にひざまずいて彼らの足を洗われた。人々、すなわち奴隷のうちに最も卑しいもの、奴隷の家に生まれて自分の罪によって最も低く堕落したもの、それが主の主人たちであった。『人の子は仕えられるためならずして、仕えんために来たれり』とは、この時における主の御言葉である。
次に主は、食卓において弟子たちに給仕された。主は、かつて、そのご教訓と汗と祝福と功徳とを、彼らをはじめすべての人々に与えられたが、今度はさらに進んで、主ご自身を人類にお与えくださった。しかも、奴隷が主人の意のままに物品のように取り扱われ、どんな待遇にも甘んじるように、天主の御子、永遠の大王は、御身を聖体と化して、これを全く私たちの手に委ねられたのである。
ああ、わが魂よ、この奥義を理解するよう努め、これを驚嘆しよう。沈黙し、礼拝し、この奥義の中に没入しよう。光栄の大王が奴隷となられたのは、私たちを恥じさせ、私たちに自分の虚無を悟らせるためである。

感謝 大能の天主の奇跡は不可思議であるとともに、常に諧調に富んでいて、一見非常に矛盾するように、また最も普遍的な観念、最も確実な法則と衝突するようにみえるときにも、甘美な魅力を有して、いとも愛すべきものとなる。イエズスが人々の奴隷となられたというその驚くべきへりくだりも、同様に愛と柔和と親切と同情との空気に包まれて、そのために私たちは驚嘆するよりも、むしろおのずから感謝の念に打たれるのである。
『終わりまで愛したまえり』と福音書にあるように、主のこの最後の御へりくだりも、またその絶大な愛から出るものであった。このように主は、私たちが愛と感謝とをもって、主のご奉仕を受け入れることをお望みになる。ちょうどヤコブがおとめラケルの愛を得ようとして、その父ラバンに仕えたように、主は私たちを愛し、私たちの霊魂を望まれるあまり、私たちに仕えられるのである。主はまたこのご模範によって、天主と隣人とに対しての私たちの奉仕を、主と同様に愛によって任意的になされるものとし、必要に際しては英雄的犠牲行為にまで至らせようとお望みになるのである。主はこのために、特に聖体の秘蹟に数多い愛すべき奉仕の特徴を与えられた。
ホスチアの中にいらっしゃる忠実で愛すべきしもべを見よう。彼は昼夜をわかたずそこにとどまり、常に謙遜で尊敬の態度を失わず、貧しい衣を着して、沈黙を守り、常に注意深く、常に準備をととのえ、熱心に私たちの命令を待ち、決してこれにそむかれず、また、躊躇されない。彼はすべての主人に仕えられる。よい者もいれば悪い者もおり、親切な者も残酷な者もいる。まことに十人十色のあるじであるのに、主は同じくその命に服され、同じく彼らに献身的に仕え、よき者の仕事を助け、あしき者のためには祈りと償いとをもってその改心をお待ちになる。主は、柔和で同情に富み、善意にあふれ、私たちに仕えるのを喜んで、私たちのしもべであることを最大の幸福となさっていることを、その御言葉から、またそのご態度から私たちに感じさせてくださる。
ああ、聖体の中にいらっしゃる愛すべきしもべよ、人々から主の聖心が理解され、賛美と愛とをお受けになられるように。

償い 主のご模範をみるとき、天主のご命令にそむくことが、いかに傲慢で憎まねばならないものであるかがわかるであろう。主の謙遜で英雄的な服従と比べるとき、私たちの傲慢と不従順とが、どんなに大きな罪であるかが明らかになる。人は天主に対し『われはなんじに仕えじ』との傲慢無礼な冒瀆の言葉を発して、その罰として悪魔という最も残忍な主人の奴隷とされた。主はこれに反して『父よ、われはなんじのしもべなり、みよ、なんじのおぼしめしをなさんがために来たれり』と仰せになった。この対照に注意しよう。イエズスの従順は、私たちの傲慢と不従順とをいっそう明白にし、私たちの刑罰をいっそう重くするものである。
しかしまた同時に、聖体の中において万人の奴隷となられるイエズスのご模範は、私たちが兄弟に仕え、彼らの多くの欠点を忍ぶために、いかに大いなる教訓であろうか。
すべてのホスチアの上には次の文字が書かれている。『なんじらはわれを師または主と呼ぶ、そのいうことやよし、われはそれなればなり。しかるに主たり師たるわれにしてなんじらの足を洗いたれば、なんじらもまた互いに足を洗わざるべからず』と。
これは非常に大切な糾明の一点である。私たちは自分のわざを反省して、これを改めるとともに、天主に赦しを願い、必要な償いをしなければならない。

祈願 聖体において、私たちのしもべ、奴隷とさえおなりになる救い主であるキリストに、いとも忠実に仕える決心をして、主に必要な恩恵を願おう。主を使役するのはよい。しかしあなたもまた主に仕えなければならない。主はこれに価し、これを待ち望んでおられる。主があなたにお仕えになるように、あなたもまた主にお仕えして、奉仕に報いるに奉仕をもってしよう。少なくとも絶えず主を眺め、主を愛する者は、いかに奉仕するかを学ぼう。

実行 絶えず聖体中においでになる主であり天主である御者に自分を捧げ、今日なすわざ、また忍ばなければならない苦痛を、主への奉仕のために用いる決心をしよう。






「3つのお知らせがあります」 2020年6月21日、聖心の荘厳祭に東京で録画した小野田神父のメッセージ

2020年06月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年6月21日、イエズスの聖心の荘厳祭に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

https://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo

https://www.marchforlife.jp/

https://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimage

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。


司祭の心は救い主の心「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与えること」

2020年06月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

イエズスの聖心の神秘を黙想しましょう。

皆様にYouTubeで「イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭の説教」の動画の書き起こしをご紹介いたします。

6月聖心の聖月を良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

+++

「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、

今日は私たちは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭を祝っています。ですから一緒に、イエズス様の聖心の神秘を黙想致しましょう。

【聖心の思い:私たちへの愛】

この祝日のミサの入祭唱にはこう歌います。

“Cogitatiónes Cordis eius in generatióne et generatiónem : ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame.”

「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」

天主は、私たちを救う為に、私たちに天主の命と、喜びと、至福の幸せを与える為に、全てを尽くされました。聖ヨハネはこう言っています、「天主は愛である」と。

天主の愛はとてつもなく大きく、私たちの想像を全く超えるものです。まさかそこまで、と思われるほど、信じられないほどの超絶した愛を、私たちに与えてくれました。私たちはこれを素直に、感嘆しつつ信じます。“Credidimus caritati.”「 私たちは天主の愛を信じた。」

聖パウロはこう言っています。

“scire étiam supereminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei.”

「計りしれないキリストの愛を知りさえする、あなたたちは天主の全き充満によって満たされる為に」と。

イエズス・キリストの聖心は、私たちの代わりに死を受け、御自分の十字架による死で、私たちに命を与えようと欲したのです。

私たちを力づけ、私たちを守り、将来の命の保証を与える為に、御自分の体で私たちを養う事を欲しました。

「キリスト教は、愛の宗教、愛の教えだ」と言われています。何故かというと、「天主が私たちをどれほど愛しておられるか、信じられないほどの巨大な愛の事実を、私たちに教えているから」です。そして天主は、愛によって私たちを、御自分の喜びに引き寄せようと欲しておられます。

私たちはこの真理、天主の愛をどれほどよく知り、認めて、これに御礼し、愛し返さなければならない事でしょうか。

特に、イエズス様が生まれた「馬小屋」、イエズス様が私たちの為に犠牲となった「十字架」、イエズス様がこの世の終わりまで私たちと共にいらっしゃる、真にまします「御聖体・御聖櫃」、この三つが、天主の愛、イエズスの至聖なる聖心の愛を、私たちが深く知るよすがとなる場所です。

私たちはどれほど、私たちに救いの道を教え、そして救いの手段を下さる天主に従わなければならない事でしょうか。そしてその道を歩み、その手段を有効に使わなければなりません。

私たちの主が制定した「七つの秘蹟」、これが私たちの霊魂の救いの為に、天主が私たちに与えて下さった必要な手段です。

残念な事に現代では、この秘蹟がないがしろにされています。秘跡の大切さが信じられていません。顧みられていません。この秘跡が大切にされていない事を御覧になるイエズス様は、どれほど御悲しみになる事でしょうか。

【聖心:最高司祭の心】

第2のポイントとして、私たちに対する聖心の愛の頂点は、「御聖体」と共に、「カトリックの司祭職である」という事を黙想致しましょう。

イエズス様の聖心、それは新約の大司祭の聖心です。何故かというと、イエズス・キリストは新約の大司祭であり、そして同時に天主の子羊、天主に屠られる天主のいけにえであるからです。全ての聖寵、秘蹟の全ての御恵みは、カルワリオの犠牲(いけにえ)、イエズス・キリストの至聖なる愛の聖心に由来しています。

「主の聖心の想いは、代々に:私たちの霊魂を永遠の死から奪い取り天国に導き、霊的な飢えにおいて、私たちを御自分の御体で養う」事を考えておられました。

その為に、イエズスの聖心の愛は、ある特別の人間を選び、御自分に似せる事を欲し給うたのです。この彼らに、第二のキリストとなる特別の権能を与える事を望まれました。十字架の上で主と共に自分を屠り、キリストのペルソナにおいて、カルワリオの犠牲を継続させる事を望まれました。そしてイエズスの御自分の御体を、イエズス・キリストに代わって、イエズス・キリストの名前で、信徒たちに糧として与える権能を授与する事を欲しました。

これが、私たちの主イエズス・キリストの愛の神秘です。カトリック司祭職の神秘です。

イエズスの聖心の愛の極みは、人類の聖化の大事業に、「人類の救霊」という永遠の大事業に、貧しい、つまらない被造物を使う事を望まれました。贖われて、そして赦された弱い罪びとに、御自分の司祭職の霊的な刻印を刻み込んで、永遠に刻み込んで、消せる事ができないように刻み込んで、救霊の業に協力させようと意志されました。

この決して消し去る事ができない霊の刻印は、霊魂に刻まれた司祭たちは、カトリック司祭たちは、聖変化の言葉を有効に、実効的に発声する事ができるようになります。天使たちでさえもできない、天使たちでさえも感嘆と讃美とそして感謝の言葉をするだけのとてつもない権能が、ちっぽけな人間である司祭に与えられました。愛の、イエズスの聖心の愛の知恵と、全能の業です。

残念ながら、現代教会では、これに反する事が広まっています。「洗礼を受けた人は、皆司祭だ、キリストの司祭職に参与している。だから私たちはミサで聖体も配れば、色々な事をする」と。

しかし、これは間違っています。平信徒には、キリストの司祭職の霊的な刻印が刻まれていないからです。叙階の秘蹟を受けていないからです。

1)司祭としての霊的な刻印を受ける事によって、叙階の秘蹟を受ける事によって初めて、司祭は人々に教える権能を受けます。天主の十戒を教え、福音を教え、そして道・真理・命であるイエズス・キリストを教え、十字架に付けられたイエズス・キリストを、福音を宣べ伝える、という権能です。

ところで、聖パウロはそれと同時に、こうも警告しています。「よい折があろうとなかろうと、くり返し論じ、反駁し、咎め、すべての知識と寛容とをもってすすめよ。人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快い事を聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」ところで、今、この健全な教えを忍ばない時がやってきたかのようです。

イエズス・キリストの2000年間教えてきた、イエズス・キリストの教えた2000年の聖伝の教えを、もはや忍ばない時がやって来たようです。健全な教えに耳を傾けず、新しい作り話に耳を傾ける時が来てしまったかのようです。

例えば、真理と誤謬を同じレベルに置く、全ての宗教を同じレベルに置くエキュメニズム。キリストを信じなくても人々は救われているという主張。真理や誤謬が区別されないでごちゃごちゃになっている信教の自由、何でも信じる事ができるという自由。天主への義務のない人権。パチャママ、その他偶像を天主の教会内に置こうとする宗教無差別の主義。天主が大地と決定的に一致したと主張するようなエコロジー、などです。

これらの作り話しは、イエズス・キリストの聖心から、イエズス様の制定された秘蹟から、御聖体への愛から、カルワリオへの参与から、イエズス・キリストの十字架から、イエズス・キリストの御母、天主の御母聖母から、人々の心を引き離そうとする作り話です。

2)叙階の秘蹟を受ける事によって司祭は、人々を聖化する権能を受けます。秘蹟を執行する事によって、特にミサ聖祭を捧げて、御聖体を授ける事によって、また同時に、告解の秘蹟を執行する事によって、人々や物を祝別祝福する事によって、人々と家庭と社会を聖化します。

カトリックの司祭という聖別された手には、どれほど偉大な宝が委託されている事でしょうか!どんな素晴らしい名医であっても、お医者様であっても、どれほど力がある金持ちの国の大統領であっても、たとえ天皇陛下であっても、天群の天使たちであってもできない、天主からの罪の赦しを与える、というこの権能を受けているのですから。

しかも、パンをイエズス・キリストの真の御体に聖変化させ、イエズス・キリストの本当の聖なる御体を信徒たちに与える事ができる、というのは、誰にもできない、カトリック司祭だけに与えられた、特別の天主からの特権です、権能です。

ミサ聖祭は、単なる共同体の集いではありません。単なるパンを分かち合う会食でもありません。ミサ聖祭とは、カトリックの教えによれば、「パンと葡萄酒の二重の聖変化によって、秘蹟的にキリストの屠りを執行して、カルワリオの十字架の犠牲を今ここで、現実化して、現存させる事」です。ミサ聖祭とはまさに、「カルワリオの犠牲(いけにえ)そのもの」です。同じ司祭、同じいけにえ・犠牲です。

カトリック司祭とは一体何であるか、そのアイデンティティーを、私たちの先祖の神父様方々はよくご存知でした。たくさんの例があります。

例えば、福者ジュリアン中浦神父様。大迫害のさなかに、口之津(くちのつ)を拠点として九州各地の信徒たちに、悔悛の秘蹟、そして御聖体の秘蹟を授ける為、信徒の霊的な世話に奔走しておられました。足が悪かったのですが、毎年4000名以上の信徒の告解を聞いていました。大迫害の真っ只中です。そして最後には、10ヶ月にわたる厳しい取り調べと拷問を受けて、ズタズタになって、最後には穴吊るしを4日間、「この大きな苦しみを、天主への愛の為に」と耐え忍んで、殉教していきました。

他にもあります。例えば、福者ペトロ・カスイ岐部神父です。岐部城主左近大夫(さこんたゆう)の子供で、もちろんお殿様になる事もできました。しかし、「自分は司祭になりたい」と、19歳の時から、司祭になる為の訓練を受けました。そして司祭になる為に、ローマまで歩いて行きました。インドのゴアからローマまで歩いていました。そして1620年、ローマで司祭に叙階されました。叙階の後に、ローマの有名なグレゴリアン大学で神学を学び続け、イエズス会の修練院で修練期を送ります。

もちろんローマは素晴らしい大きな都です。キリスト教の総本山です。美しく、大聖堂が多くあり、人々は優しく親切で、安全で、司祭として祈り、勉強し、そして修道生活をする、信徒たちに囲まれてローマで活躍する事は、全く問題なくできたはずです。楽園のような、天国のようなローマで、そのまま一生を安全に終える事もできたはずです。

しかしこの福者ペトロ岐部神父様は、イエズス会の総長に懇願したのです、「お願いします。日本に行く許可を与えて下さい。」

「お前の命は危ないぞ。ここにいた方がいいんじゃないか。」

しかし、ペトロ岐部神父様の決意は誰にも揺るがす事ができませんでした。なぜかというと、「霊魂の救いの為に、日本にいる霊魂の救いの為に、命をかけて自分は働きたい」と願っていたからです。「霊的に養いたい」と思ったからです。1630年、43歳の時に、総長の許可を得て、16年ぶりに日本に帰国します。

福者ペトロ岐部神父様は、特に仙台領で命がけで信徒たちの世話をし、秘跡を与え、御聖体を与え、告解の秘跡を施し、そして1639年、江戸で穴吊るしにあって、殉教しました。どんなに尋問を受け、どんな拷問を受けても、決して転びはしませんでした。

日本だけではありません。朝鮮でもそうでした。聖金大建アンドレア。中国大陸を横断して、マカオまで移動して、そして勉強し司祭に叙階された後、命の危険を冒して朝鮮に戻ります。その理由はたった一つです。秘蹟を信徒たちに授ける、ミサ聖祭を捧げて御聖体を与える、告解を聞く、その為です。信徒たちの救霊の為に。

司祭の心は、救い主の心。

「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える」という事。

【最後に:イエズスの聖心を愛そう】

では最後に、私たちはこのイエズス様の聖心の熱い想いと、そしてイエズス様の聖心に倣うカトリック司祭の想いを黙想した後に、遷善の決心を立てましょう。

イエズス様の聖心の広さ、その深み、その高さ、これを垣間見て、この愛に愛で答える事ができますように、お祈り致しましょう。また、イエズスの聖心に倣う多くの聖なるカトリック司祭が生まれるますように、召命が生まれますように、お祈り致しましょう。

ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。ファチマの聖母は1917年6月13日、人類にご自分の汚れなき御心をお見せになりました。それは、イエズスの聖心と全く同じ御心でした。

汚れなき御心によって、私たちもイエズス様の聖心に倣う事ができますように、そしてイエズス様の聖心に倣う司祭たちが与えられますように、イエズス様の聖心をますますお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。

「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える事。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




【聖体の黙想】聖体は私の兄弟である

2020年06月24日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

人である聖体

聖体は私の兄弟である

 礼拝 私たちは聖体の中にいらっしゃる私たちの兄弟であるイエズスを堅固な信仰をもって礼拝し、深い感謝の念をもって敬わなければならない。愛と、やさしさと、熱心とに満ちたイエズスは、私たちと結ばれた兄弟の契りを永遠につなごうとして、今ここに聖体の中においでになるからである。
私たちは真心から、イエズスが私の兄弟であることを信じているだろうか。天主の御ひとり子が、その被造物の兄弟となるまでにへりくだられたことを信じているだろうか。被造物である人間が、創造主の兄弟とされるまでに高められたということを、まことに信じているだろうか。ああ、しかし、それはまことにそうであったのである。
聖アウグスチヌスは次のようにいった。『彼こそは造られざる御父の御胸の中に永遠から永遠においでになる天主の御ひとり子であった。ところが私たちの兄弟となるために、私たちと同じ被造物の性を受け、御母の胎内を過ぎて、天からおくだりになったのである』と。
このようにして、ひとつのペルソナのうちに人性は天主性と合わされ、天主の御子は人の子となられた。それゆえ天主の御子は、人として同じ性、同じ血を有している多くの兄弟をもたれるに至ったのである。天主の御ひとり子は人類の兄となられた。すべての人、人である以外には主と共通するものを何ひとつ持たない者でも、主の弟とされたのである。そればかりではない。主はご自身がおとりになった同じ人性をもっている私たちに、ある意味でその天主性をも分け与えて、私たちを天主の子らとし、なお完全にご自身の弟とされた。これによって、私たちは主と人性を同じくするばかりでなく、主と同じ天主の生命にあずかって、天国の家督をいっしょにする身分となった。聖書に『天主は予知したまえる人々を御子の姿にあやからしめんと予定したまえり。これ御子が多くの兄弟のうちに長子たらんためなり』とあるのはこのことである。
だから私たちとイエズス・キリストとの兄弟的関係は、人性と恩恵とのふたつの基礎の上に建てられている。すなわち主が私たちからとられた人性と、私たちに与えられる天主性とのふたつ、言いかえるなら主がおいでになって私たちとお分かちになったこの朽ちるはずの生命と、現世においては恩恵をもって、天国においては光栄をもって私たちを飾られる天主の生命とのふたつによって、 との兄弟的関係が成り立つ。 そしてこの関係は、聖体によって継続され、保証される。すなわち、よみがえられたイエズスは、私たちと同じご肉身と御血、人としてのご霊魂と、また人であるすべての性とを聖体の中に有しておられ、聖体によって天主の性を私たちに与え、これを保護し、これを養われるのである。
私たちは、私たちの最上の光栄、最大の幸福である、このように真実で尊い兄弟の契りを結ばれた主に深く感謝しながら申しあげよう。『イエズスよ、天主の御言葉、いと高き者の御ひとり子、わが天主なるイエズスよ、主の光栄は限りない。これに反して私たちは、いともあさましく虚無であるのに、御身は私たちの兄とおなりになった。主は聖であって、私たちは罪人なのに、御身と私たちとは同じ肉体をもつことになった。私たちは天において御身と同じ父をもち、地においてもまた同じ母をもつ光栄を与えられた。ああ、わが兄よ、わが骨肉よ』と。

感謝 主の信じがたいほどの御いつくしみ、私たちを兄弟としてくださる最も真実で、偽りない愛を考えよう。なんのために主は私たちの兄弟となられたのか。それは義となさる主と、義とされるであろう私たちとが、同一の聖徳を分けるためではないだろうか。まさにこのためにだけ、主は私たちのひとりとなって私たちを兄弟と呼ぶことをいとわれなかったのである。主は兄弟の名にふさわしくなるため、また、聖パウロもいったように、私たちの弱点をいたわるために、『罪を除くのほか、万事において、私たちと同じく試みられる者』となられたのである。
実に、主のご生涯を見るなら、どれほどそれが私たちの生涯と同一であったかがわかるであろう。主は私たちの貧しい家、粗末な食物、困難な労働をお分かちになった。主は飢えと渇きと暑さと寒さをお感じになった。さらに特別に私たちの試練と艱難、すなわち憎悪、讒言(ざんげん)、迫害、憂い、恐怖、疲労などをも知り、いろいろな心の苦悩、たとえば忘恩、背信、遺棄、別離の悲しみなども経験された。またそのご肉身に加えられた暴力については、主の受けられた無法な打擲(ちょうちゃく)、非道な取り扱いのありさまは、かつて人間が受けたことがないほどのものであったといっても言い過ぎではない。
光栄のうちにおいでになる今日でも、主はなお私たちの兄弟であることをお望みになる。主は私たちがこれをよく理解するために、復活のあと、御墓に行った婦人たちに、すぐに、『行きてわが兄弟たちに告げよ』とおっしゃった。そして聖体の秘蹟をもってこの荒涼たる地上に戻られたのである。主は弱く、貧しく、無力にして、反対を受け、讒言(ざんげん)され、迫害され、裏切られ、捨てられ、冒瀆されながら、どこにおいても私たちのひとりとして存在を続けられる。
実に、主は私たちの兄弟、私たちのひとりである。主は兄として私たちを導き、私たちを保護し、私たちを助け、天のふるさとと、そこにおいでになる私たちの天父とを私たちに語られる。そして、懐かしい天国にはいる日まで、主の御家、すなわち教会は、主とともに私たちを宿し、主の食卓はまた同時に私たちの食卓でもあって、私たちが主とともに分けるパンは、主が最後の晩餐にあたってまず最初に食されたパンである。
これ以上に真実な、親密な、そしてまた幸福な兄弟の生活が他にあるであろうか。私たちは聖櫃の中においでになる主を兄弟として愛し、聖体拝領によって主を求め、主と一致するようにしよう。

償い イエズスが兄弟たちに売られたのは、ただしるしとしての旧約のヨゼフの物語としてだけでなく、実に悲しむべき現実であった。
だれが主を銀三十枚で売りたてまつったのか。それは主と同じ屋根の下に眠り、食卓を共ともにし、一緒に親しく生活して主に兄弟と呼ばれた者のひとりではなかっただろうか。だれが主を今日聖体の秘蹟において、あるいは自分の卑しい欲情に、あるいは憎むべき冒瀆者の手に裏切っているのか。ああ主の食卓に列し、平和の接吻を主になし、ともにパンを裂きながら、アベルよりも正しく、ヨゼフよりも罪のない主の御血を悪魔にわたす偽兄弟は、いったいなんぴとであろうか。
これらすべての憎むべき背信の行ないが今も行なわれていることを思い、兄弟としての愛とまこととを主に示して、尊い兄弟の悩む聖心をお慰めしよう。

祈願 肉身の兄弟に対すると同じような真実、熱心、献身的な愛をもって隣人を愛することができるよう、愛徳の賜物を主にこいねがおう。そのためには、犠牲をいとわず、謙遜、親切でなければならない。イエズスは聖体の秘蹟の中で、どのようにあなたに対されるだろうか。『わがなんじらを愛するごとく、なんじら互いに相愛せんことを。これわが命なり』とおっしゃったのは、主が聖体を定められたときのことであった。だから聖体拝領に際して、特に隣人に対する愛徳の賜物を求めなければならない。
 
実行 互いに熱心に祈ろう。特に目下の者のために。




【再掲】洗者聖ヨハネの賛歌 Ut queant laxis resonare fibris

2020年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

6月24日は洗者聖ヨハネの祝日です。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌にまつわるお話をご紹介します。

Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の翻訳をご紹介します。

ラテン語

Ut queant laxis resonare fibris
mira gestorum famuli tuorum,
solve polluti labii reatum,
Sancte Iohannes.

このラテン語に一番正確なフランス語の訳は次の通りです。

« Afin que les serviteurs (de Dieu) puissent clamer à pleine voix les merveilles de tes actions, ôte l'erreur de leurs lèvres impures, saint Jean. »

インターネットで見つける訳では、本当は、gestorum tuorum (あなたの行為(複数)の)という意味なのに、リズムの関係で famuli tuorum となっていることに引きずられてか、famuli tui (あなとのしもべたち)という意味で訳したもののコピペが氾濫しています。

洗者聖ヨハネには、しもべたちがおらず、これは天主のしもべたちが、あなた(つまり洗者聖ヨハネ)の驚くべき生涯を歌うことができるようにして下さい、という意味なのです。そのところをこのフランス語はちゃんと理解しています。

英語で凝った訳として、ラテン語のリズムを生かして訳した次のものあります。

Let thine example, Holy John, remind us
Ere we can meetly sing thy deeds of wonder,
Hearts must be chastened, and the bonds that bind us
Broken asunder.

あるいは、

O for thy Spirit, Holy John, to chasten,
Lips sin-polluted, fettered tongues to loosen,
So by thy children might thy deeds of wonder
Meetly be chaunted

ベネディクト会のシスターであった Cecile Gertken, OSB (1902-2001) は次のように、ド・レ・ミという音を生かして訳しました。英語では Do が「ド」ではなく「ドゥ」ですけれど。

Do let our voices
resonate most purely,
miracles telling,
far greater than many;
so let our tongues be
lavish in your praises,
Saint John the Baptist.

日本語では、次のような意味になります。

しもべらがゆるやかな声帯で
御身の驚くべき行為を歌い響かせ得るように
けがれた唇の罪を赦したまえ
聖ヨハネよ。



韓国語の訳は次の通りです。

세례자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

中国語では、次のようです。

神的僕人以誠摯的歌聲
讚美令人驚嘆的神蹟,
以除去他們言語間的罪惡,
啊!聖若翰我們讚美你。

==2016年12月19日追記==

洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネ、の「ヨハネ」は、日本語では同じですが、中国語では(そして韓国語でも伝統的に)、別人だということを区別させるために、別の言葉で訳します。

天主教(カトリック教会)では、中国語訳(汉譯)として、
洗者聖ヨハネを「圣若翰洗者」と「若翰」とし、
福音史家使徒聖ヨハネを「约翰」として訳し分けています。

プロテスタント(新教)では、どちらも「约翰」とされているようです。

韓国語では、現代伝わるカトリックの教えは中国語経由で導入されたので、当時の漢字の韓国語読みを採用し、洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネとでは「ハン」に当たる漢字が別に当てられていたために、

洗礼者聖ヨハネを、요안
使徒聖ヨハネは 요왕
と訳し分けていました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

==追記終わり==


では、日本語をもう一度ご紹介します。
聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。

【晩課】

Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を響かせることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。

Nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。

Ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。

Ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。

【朝課】

Antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。

Praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった

Ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。

Non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。

【讃課】

O nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!

Serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ

Nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ

Ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。

Laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis.  贖われた者たちを容赦し給え。

Sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも

Amen.アーメン

韓国語の訳もご紹介します。

세레자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

저높은 하늘에서 내려온사신
위대한 주님탄생 알려주시고
이름과 생애까지 일러주시며
낱낱이 아버지께 예고하였네

그약속 의심했던 당신아버지
그즉시 언어능력 잃으셨으나
당신이 이세상에 태어나시자
잃었던 목소리를 돌려받았네

어머니 모태속에 숨어계실때
태중의 임금님을 알아보시니
양친도 당신덕에 눈이밝아져
놀랍게 숨은사실 드러내셨네

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

높은덕 빛나시는 세례자요한
죄없이 눈과같이 깨끗하시네
사막의 은수자요 크신예언자
용감한 순교자로 복되시도다

꽃으로 곱게꾸민 빛나는화관
성인들 머리위에 올려지나니
어떤이 이중화관 받아쓰지만
당신은 삼중화관 받아쓰셨네

무수한 공로세운 능하신이여
저희의 굳은마음 녹여주시고
함한길 고르시어 평탄케하사
굽어진 오솔길도 곧게하소서

만물을 지어내신 우리구세주
마음의 어지러움 물리치시고
깨끗한 저희마음 찾아오시어
거룩한 당신거처 마련하시리

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

아멘.









テニエール神父著『聖体の黙想』 聖体降福式に対する義務

2020年06月23日 | カトリックとは

 

テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より THE ADORATION OF THE BLESSED SACRAMENT by Father Albert Tesnière
聖体の顕示に関する黙想 The Exposition of the Most Holy Sacrament
   
聖体降福式に対する義務 XIL Our Duties in Regard to the Exposition of the Most Blessed Sacrament. 
   
 礼拝 I. Adoration. 
   
 天上における諸天使、諸聖人、地上における母なる教会とともに、愛の玉座の上に座したもう最上の主を礼拝しよう。どこでも、主のおいでになるところ、主の光栄の表にあらわれるところには、主の側からは豊かな恩恵、私たちの側からは重大な義務が存在する。 Adore your Lord and your King upon the throne of His love, in union with the angels in heaven, and with holy Church upon earth. In all places where He manifests His presence and His glory, He imposes duties at the same time that He sheds down blessings. 
   
主は天上では、ご自分を少しも隠すことなく示される。すなわち、天主性と人性、すべての恩恵と御稜威(みいつ)、完徳と功徳とがあるがままにあらわれ、天使と聖人とは主のみ前にふさわしい礼拝をささげ、そのご期待にそうのである。 In heaven, where He is in the full and perfect manifestation of all that He is, where He is seen not only in His holy, glorified humanity, but revealing the treasures of graces, of virtues, of merit, of the dignity of His august person, in heaven where He is seen, where all that He is, is acknowledged by all the angels and saints, who render Him that exterior and interior homage which His humanity and His divinity merit, the worship accorded Him fully equals His expectations. 
   
天上の礼拝のありさまを想像しよう。天軍の絶え間ない賛美の調べと偉観とは、誰も言葉に言いあらわすことができない。彼らは、あるいは立ち、こうべをあげて主を仰ぎ、あるいはひざまずいてそのおもてをおおう。地上に伏して礼拝する者もあり、自分の冠を玉座の前に投げている者もいる。あるいは黄金の香炉をゆり動かし、あるいは歌い、あるいは黙している者もいる。しかし、この時の沈黙は言葉と同じく礼拝なのである。玉座にいて微動もしない者もあれば、小羊のあとに従って進む者もいる。 It is all homage, rendered in perfect harmony, with unfailing perpetuity, and astonishing abundance; splendor which no one can estimate; glorious praise, canticles, songs, acclamations. They are standing, they are contemplating, their heads are raised; they are on their knees, and they are veiling their faces; they prostrate themselves with their foreheads in the dust; they cast their crowns at the foot of the throne, they wave their golden censers; they speak, they are silent, and their silence is adoration as well as their speech; they stand motionless around the throne, and they march triumphantly in the train of the conquering Lamb; lastly, from their soul, their heart and their whole interior being, filled with light, with love, with divine strength, issue without ceasing, all that perfect homage which the elect can offer to their divine King. 
   
彼らの霊魂と心、いや、彼らのすべてが、光と愛と力とに満ち満ちて、かの完全な賛美をなすのである。 Such is the glorious adoration of heaven : angels and saints give themselves up to it without reserve; all the duties of the creature towards the King of glory are accomplished by them in the utmost perfection. 
   
地上においても、恩恵の玉座の上にまします主は、私たちから同じ礼拝を期待される。いうまでもなく、たとえ恩恵を保有していたとしても、私たちは、主のお望みになるような完全な礼拝を捧げることができない。 The same King, upon His throne of grace, claims those duties in which we are instructed by holy Church. The earth, even when filled with grace, is certainly very powerless to honor the ever-present God, as He desires, but the religion of grace will one day be completed by that of glory, and God will have received, from His redeemed creature, all that He desires to receive. 
   
しかし、せめて典礼儀式に関する教会の規則を守り、その精神に従って、祭壇の上においでになる憐れみの主に向かい、礼拝の義務の最善を尽くさなければならない。 Meanwhile it is in following the rules of the Church with regard to her religious ceremonies, it is by entering into the spirit of her councils, it is by aiming to reach perfection, for the purpose of honoring and worshipping the royal Spouse, that we may accomplish the duties of a Christian towards the King of grace exposed on our altars. 
   
だから、聖会とともに主の教えられる一切の真理を信じ、聖会とともに献身的で忠実な愛を持とう。また聖会の典礼を尊重し、聖式に際して尊敬を失わないようにしよう。すなわち怠慢、無頓着は、いうまでもなく不敬の極みであるが、世俗的な音楽、悪趣味な電気装飾なども、また同様に不敬である。 Adore then, with the faith of the Church, believing firmly, explicitly and lovingly. Adore with her love and her generosity, that of a perfect bride, heroically devoted to her Spouse; follow strictly her liturgy, in order to adore in union with her. Give splendor, maintain reverence; take care that the praiseworthy desire of making a beautiful, dazzling, imposing display, does not make you lose sight of the awful majesty, the adorable holiness, the august and holy attributes of Him whom you adore. Negligence constitutes a shameful irreverence; worldly pomp, theatrical or profane music, illuminations such as are used in worldly festivals, constitute another. 
   
だから聖体降福式は荘厳で典礼的で、敬虔と信心とに満ちたものでなければならない。目に深い印象を与えるとともに、心に感激を起こさせるようなものであることを必要とする。 Let the worship of the exposition be royal; let it remain liturgical; let it be of great solemnity; let it excite much interior religion in souls; let the eyes be impressed; but above all, let hearts be given. 
   
感謝  II. Thanksgiving. 
   
教会の精神を重んじて典礼を守り、規則に忠実なることは、至聖なる聖体の秘跡を尊敬することであるとともに、この聖式に参列する人々に、最も有益な効果を与えずにはおかないのである。 Besides, in this fidelity in following the rubrics of the Church, in entering into her spirit in everything that she ordains, and in fulfilling her counsels in so far as is possible to us, the worship of the exposition will produce all the fruits of her teaching in our souls. 
   
この時、聖式のために犠牲と労苦とを少しも厭(いと)わなかった人々は、主がそれらを喜んで受け取られた徽(しるし)として、彼らの心に注ぎ入れられるまことの深い喜悦を味わうであろう。また、この聖式に忠実な教会は、モイゼがイスラエルの民に与えた賛辞を自分のものとして誇ることができるであろう。『なんじらは主なるわれらの天主に命じたまいしごとく、わがなんじらに掟と律法とを教えたることを知れり。これを守り、これを実行せよ。これぞ諸国の前におけるなんじらの知恵と悟りなる。彼らはこれらの掟を聞きて「賢くして理解に富みし大いなる国民よ」というべし。われらの天主のごとく、その神々を近くに有する民は他にあらざるなり』と。 It is then that all those who have consecrated to it their cares and their labors will enjoy the real pleasure which the divine Master infuses in souls when He is pleased with His children. It is then that we shall merit the eulogium, traced by Moses for the people of God, and which is so great an honor for a parish, an association or a town: "You know that I have taught you statutes and justices as the Lord my God hath commanded me. . . , And you shall observe and fulfil them in work. For this is your wisdom, and understanding in the sight of nations, that hearing all these precepts they may say, Behold a wise and understanding people, a great nation. Neither is there any other nation so great that hath gods so nigh them as our God is present to all our petitions." (Deut. iv. 5-7.) 
   
償い  III. Reparation. 
   
聖体降福式は、愛の天主を敬い、聖櫃中においでになる救い主に対して人類の忘恩を償うための最上の方法であるが、しかし悲しいことに、この償いにもまた償いの必要があり、この聖式の日でさえも、主は数々の御苦しみを受けられるのである。 Although the exposition has solely as its object the honoring of the God of love, and although it is one of the best and most efficacious reparations which can be offered to Him for the ingratitude and the outrages committed against His beneficent presence in the tabernacle, it must nevertheless be sorrowfully stated that this very reparation itself requires reparation, and that it is necessary to weep over the negligence Christ suffers, even on the days of the most pious solemnities. 
   
その証拠に、主は聖体の大祝日の八日目、聖女マルガリタ・マリアにおあらわれになって、この祝日およびそれに引きつづいて行なわれる聖体降福式の間に受ける忘恩不敬を償うため、聖心を礼拝せよとお命じになった。 Our Lord appearing to Blessed Margaret Mary at the end of the octave of Corpus Christi, asked of her the worship of His heart as a compensation for the ingratitude, the irreverence, the outrages with which He had been afflicted during the days of His royal manifestation. 
   
だから、人々が不従順、もの惜しみ、無頓着などによって礼拝を怠った不敬に対し償いを捧げよう。聖体降福式の間には、深い沈黙と大いなる信心がいるにもかかわらず、たびたびこれに十分な注意がはらわれていない不敬に対して償いを捧げよう。聖体降福式に与ることを拒む者、または人前をはばかって、外面的にはこれに与り、また聖体を拝領するが、自分の霊魂をこれにふさわしく準備しない者の大不敬に対しても償いを捧げよう。 Make reparation then for irreverence committed in His divine worship, by disobedience, by parsimony, by negligence in maintaining an uninterrupted adoration before the throne; by the small degree of reverence shown by the faithful in the Church, the Holy Sacrament exposed requiring a more profound silence, a more perfect recollection; by the contempt of those who will not yield to the exhortations of pastors begging them to receive the King on His triumphal visit; by sacrilegious communions of some whom human respect perhaps has induced to celebrate the solemn adoration by receiving Christ's body and blood, and who have not had the courage to put their heart in unison with their outward show of religion. 
   
償いは必要である。主は光栄ある凱旋の日にも苦しみを受けられることが多いからである。イエズスのエルサレム入城の日に、群衆は狂喜し、喝采した。しかし、その陰に、主を罵(ののし)り、主に対してつぶやくファリザイ人がいた。同様に黄金の聖体顕示器も時として、主にとって恥辱の冠となり、四方に放射する光の中にも、尊いみ頭(かしら)を傷つける棘(とげ)が混じっていることがあるのである。 Oh yes! make reparation: for even His triumph is not devoid of pain for the divine King. As the Pharisees murmured and insulted Him in secret whilst the people were celebrating His triumphal entrance into Jerusalem, so now the golden crown of the monstrance is, for our King, a victim even in His glory here below, a crown of ignominy; and the rays which radiate from it enclose more than one thorn which pierce His adorable head. 
   
祈願  IV. Prayer. 
   
聖体降福式に関する教会の規定を守り、典礼の精神を尊重しよう。 Make the resolution always to observe, in so far as is possible, everything that is suggested by the holy Roman Church in regard to the worship of the exposition; never to do anything or assist in doing anything that you know is forbidden by her or contrary to her spirit. 
   
祈りと信心とによって、この聖式の普及をはかり、聖体による王国の拡張をはかろう。 Have in all your prayers, in the whole of your religious life, a fixed and invariable intention to pray for the extension of the reign of the King of the Eucharist by means of the worship of the exposition. 
   
実行  Practice. 
   
聖体に対する信心が常に聖会の祈り、また典礼と合致するよう努力しよう。 Endeavor in your devotion to the Blessed Sacrament to be more and more imbued with the sentiments and the formulas of prayer and of worship of the holy Roman Church. 


福者中浦ジュリアン神父がローマの総長顧問マスカレニャス神父に宛てて書いた手紙(1621年)

2020年06月23日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

チースリク神父様著の『キリシタン時代の日本人司祭』から、少し引用して、福者中浦ジュリアン神父がローマの総長顧問マスカレニャス (Nuno Mascarenhas) 神父に宛てて書いた手紙(1621年)をご紹介いたします。また、同じ手紙の英語訳と中国語訳もご紹介いたします。

===引用開始===

また1620年の『日本年報』では、筑後と豊前への巡回について、次のように述べられている。

できるうちは遠隔地への巡回も、怠らず決行した。日本人神父の[福者]中浦ジュリアンは筑後および豊前を遍歴し、到る所で、わがイエズス会の通常の務めをできるだけ入念に果たした。キリストの教えのために追放されたキリシタンを、そこで多く見出した。そのなかに殉教者加賀山ディオゴの息子がいた。

その巡回の際におとずれたキリシタンたちについては、詳細に語られている(1620年12月21日付け、ボネリの書簡)。

1621年には肥前地区に三人の日本人司祭が配置されていた。すなわち、口之津に[福者]ジュリアン、不動山(佐賀藩)に伊予シスト、長崎に[福者]石田アントニオであった(1621年10月9日付け、ボッロの書簡)。もう一人の日本人司祭[福者]木村セバスティアンは、すでに大村の鈴田牢に入れられていた。

その年、ジュリアン神父はみずからローマの総長顧問マスカレニャス神父に宛て、有馬地方での活動について次のような手紙を書いた(岡村良知氏の訳を参考にした)。

ローマからお書きくださった台下の御書簡を非常にありがたく存じました。そして海港である口之津でそれを落掌しました。パアデレたちが日本から追放せられ、全国の諸地方でキリシタンの脱落を企てられた総体的な迫害のこの年に、私は長上の命令で口之津に身を潜めておりました。そしてそのようにして今まで当地のキリシタンたちを助けております。この年に諸地方で私たち〔の会〕に壮烈な殉教者が少なからずあったことは、台下もそのうちにご承知になるでございましょう。その大部分は当高来(たかき)地方で〔生じたので〕ございます。そのようにしてこの〔口之津〕港だけで二十一人の殉教者がありましたが、そのほかにも刑の執行者たちがこの町のキリシタンを絶滅しようと望まないだけで、同様の殉教の責め苦や瀕死の虐待と負傷とを受けた〔者もあります〕。なぜなら当地にはそれらの衷心からのキリシタンとともに、〔ことごとく〕今日では信仰のために起こるどんな苦しみにも身を挺しているからでございます。敬虔極まるいろいろのことを書いて私にお送りくださった御書簡を私は快く受け、キリシタンたちにも崇敬させて、彼ら〔キリシタンたち〕をもご懇情〔を蒙る〕仲間に加えました。そして彼らは、私にお書きくださった台下の書簡にあるとおり、ひとり私だけではなく、日本国民全部についても忘却くださらぬことを感謝しましたし、それを理解しました。聖なるローマの都、教皇聖下、枢機卿の方々、カトリックの重立つ方々、ならびに私がヨーロッパを旅したときに経験したそれらの方々の御恩顧と御慈悲との想い出を鮮やかにしまして、私の悦楽は決して小さなものでございませんでした。されば、遠いローマからこの日本へまで、親愛のしるしをこめて私にお書きくださった御書簡では台下に対し、私は深謝し奉ります。〔これこそは〕 キリストにおける愛を永久に忘却しないものとして当地では実にありがたいことの〔一つとなりましょう〕。
私は会の保持するキリシタンたちの練磨に働くように、天主様のおかげをもって、常に健康であり、まだ気性も頑強でございます。そのようにして、当国諸地方に私たちが分散してもっている宣教〔の任務〕の上に、毎年私の責務で四千人以上にゆるしの秘跡を与えております。
本年の年報として〔台下へ〕認められる現今の出来事は、今もなお決して終わらない、毎日毎時少しの休養をも私たちに与えない迫害に関するいろいろのことでありましょう。台下へあてた本書簡を認めようとしてもなお、私に少しの安静もございませんので、キリシタンたちは〔私のところへ〕参り、私の任地をもっと安全な所へかえてはどうかと申しました。当領内から福音の教えを駆逐しようとしている領主独自の迫害について、キリシタンたちの得た情報では、日本の君主たる天下の命令に反しても誰かがそれを守りとおすことでございます。畢竟は私たちに堅忍と勇気とを与えてくださることを御主たる天主様にお任せいたしましょう。そして台下には、御祈りの折に私を想い起こしてくださるように乞い奉り、あわせて台下のミサ聖祭にお縋り申しあげます。
   一六二一年九月二一日
不肖の下僕  中〔浦〕ジュリアン

同じ1621年の12月21日に、ジュリアン神父はイエズス会の最終誓願を許された。通常なら、荘厳な儀式をもって行われるものであるが、このときは美しい聖堂もなく、にぎやかな祝賀会も行われなかった。管区長フランシスコ・パシェコ神父の隠れ場であった加津佐のミゲル助右衛門の家で、いたって簡素に行われた。外面的な豪華さはまったくなかったが、内面はいっそう深い愛と献身の念に燃えていたに違いない。ローマのイエズス会文書館には、そのときジュリアン神父が署名した自筆の誓願文が保存されている。文章はラテン語で、イエズス会の通常の誓願文を用いているので、ここに改めて載せる必要はないが、その最後を次のように結んでいる。

日本において、迫害の最中、加津佐の里、ミゲル助右衛門の家にあるイエズス会の聖堂にて、
一六二一年一二月二一日。

1624年にジュリアン神父は筑前と豊前へ出かけて、博多、秋月、小倉などのキリシタンたちを訪れ、新たに勃発した迫害に対して、彼らに秘跡を授け、天主の恵みと助けを与えた、と同年の「日本年報」は報告している。

===引用終了===

【参考資料】
福者中浦ジュリアンの手紙(日本語) 結城了悟訳

【英語】
Letter of Bl. Nakaura Julian,sj, (Martyr in Nishizaka,1633) from Kuchinotsu, September 21, 1621.

To: Most Rev. Fr. Nuno Mascarenhas, Assistant of the Society of Jesus Rome.
From: Japan.

May the grace of Christ and the prayers of Mary be yours.
Most Rev. Father,

Your letter from Rome, which I received in June 1621 at the seaport of Kuchinotsu where I had been sent by my superiors, gave me great joy. I have been hiding here since the year of the great persecution when all the fathers were expelled from Japan and every effort was made to persuade Christians to abandon their faith. Since that time I have stayed here trying to help the Christians. Your Reverence must have heard of the solemn martyrdom that occurred this year and of many more that followed in different parts of this region. However, most of the martyrs were from the Takaku area. From the town of Kuchinotsu alone there were 21 martyrs. Other people suffered torture some of whom died later from their wounds. Some were spared because the executors did not want to annihilate the entire population of the town. I can assure you dear Father that the people here are all fervent Christians and face numerous trials because of their faith. So all of us rejoiced at the receipt of your letter and treated with great reverence the religious articles you sent us to help strengthen our faith. These gifts enabled us to participate in the benevolence of your Reverence. Knowing from your letter that you remember the people of Japan in your prayers, we are comforted and give thanks. Your letter brought back fond memories of the Holy City Roma, the Holy Father, the Cardinals, Catholic Princes and all the kindness and care shown to me when I visited Europe. I thank your for your letter dear Father and assure you that the memory of your charity will always remain with me.

Thanks be to God I am in good health and physically strong enough to carry on the work of the Society of Jesus. I look after more than 4000 Christians, hear their confessions and also visit missions in different parts of this region. The persecution is ongoing. The annual reports will no doubt give many accounts of it. There is little time for rest. Just as I was finishing this letter the Christians came saying I should move to a safer place, as they had news that the local lord had started a new persecution aimed at wiping out Christianity in the Takaku area. We are confident that Our Lord will give us perseverance and courage. In conclusion I ask Your Reverence to intercede for us in your prayers, and I commend myself to your Masses.

September 21, 1621
Your unworthy servant
Nak(aura) Julian

【中文】
中浦信的原文
最尊敬的神父:

您從羅馬的來信,我的長上在1621年6月在口之津町的港口收到了並轉給了我。這信給了我極大的喜悅。自大迫害開始以來,當局使盡所有的努力逼迫和勸使信徒放棄基督教的信仰,所有的神父都被驅逐出日本,從那時起我一直躲藏至今。我呆在這裡試圖幫助基督徒們。閣下必定聽說今年在這裡和其他不同的地方發生的悲壯的殉道,大部分的殉道者都是來自島原的高津,僅在口之津町就有二十一名殉道者,還有一些人因為傷勢嚴重而不久死去。

有些人倖免於難,因為行刑者不想毀滅整個村莊的人口。我向尊敬的神父保證,這裡所有的人都是熱忱的基督徒,他們為了自己的信仰面對着無數的考驗。在接奉您的信以後,我們所有的人都無比高興,將它視為最尊貴的宗教文獻,您使我們的信仰得到了堅固。這些禮物能夠使我們體會到閣下的仁愛。從您的信裡我們得知您心中掛念着日本的人民,我們感到安慰與感恩。您的來信將我帶回到對於聖城羅馬、聖父教宗、樞機主教、親王們的美好回憶之中,正是他們,在我訪問歐洲的時候給了我關心和慈愛。我感謝您親愛的神父的來信,並向您保證您的仁慈將永遠留在我們的記憶之中。

感謝天主,我身體健康、體魄健壯,能夠承擔耶穌會的工作。我照顧着四千名信徒,聽他們的告解,訪問這個地區不同的傳教站。大迫害仍然在繼續,年度報告無疑會提到這些事情。我沒有時間可以停留,就在我寫這封信的時候,基督徒們前來告訴我應該轉移到更加安全的地方去。因為有消息說當地的領主將要開始新的迫害,目的是要掃除高津地區的基督教。我們堅信我主將賜予我們堅韌和勇氣。最後,我請求閣下在祈禱中代我們向上主求情,我將自己託付給你的彌撒。

您的卑微的僕人中浦 • 朱利安1621年9月21日

【スペイン語】

Muy Rdo. en Cristo, Padre.

Estimé mucho una de V. R. escrita de Roma que recibí este año de 1621, en junio, en Kuchinotsu, un puerto de mar donde me quedé sólo escondido por orden del P. Superior el año de la persecución universal, cuando desterraron a los Padres de Japón y pretendieron hacer caer a los cristianos en todas partes del Reino. Y estoy de la misma manera aqu.í ahora, ayudando a estos cristianos. Ya habrá sabido V. R. de los solemnísimos Mártires que, en gran número el mismo año tuvimos en diversas partes, y la mayor parte de ellos eran de esta tierra de Takaku. Y así, solamente de este puerto fueron unos veintiún mártires, a más de los que volvieron del mismo martirio maltratados y heridos mortalmente, por no querer los ejecutores acabar con todos los de este pueblo. Pues aquí con estos cristianos de corazón, que hoy en día están
ofrecidos a toda manera de vejación que viniere, por amor de la fe, recibí con alegría la carta de V. R. con los objetos devotísimos que me envió, y los hice venerar, haciéndolos participantes también a ellos de su benevolencia, y quedaron agradecidos por el recuerdo no solamente de mí, mas de toda la nación japonesa, como por la carta que V. R. me escribió entendieron. No fue pequeño mi placer y consuelo al refrescar las memorias de esa santa ciudad romana y del Sumo Pontífice y de los Cardenales y príncipes católicos, y de las mercedes y muestras de amor que de ellos experimenté en el tiempo que anduve por esas partes de Europa, y así quedo agradecido a V. R. por la carta que me escribió desde tan lejos, desde Roma a este Japón, con sus muestras de amor en cosas tan estimadas aquí, para que no nos olvidemos nunca del amor en Cristo.

Yo gracias 2 Dios siempre estoy con salud y con fortaleza suficiente aún para trabajar en este cultivo de la cristiandad que la Compañia tiene; y así a mi cargo tengo más de cuatro mil de confesión cada año, a más de las misiones que nosotros tenemos acá repartidas por diversas partes del reino. Las noticias de este año que se escribirán en la carta annua serán muchas y varias por causa de esta persecución que nunca hasta ahora acaba. que cada día y cada momento no tenemos descanso alguno. Aun para acabar ésta para V. R. no pude tener un poco de tranquilidad, pues vienen a decirme los cristianos que quiera cambiar mi puesta a lugar mas seguro, por la noticias que de nuevo tuvieron de una persecución particular del Señor de la tierra, que quiere arrancar de esta tierra la ley evangélica si es que alguien la conserva aún contra la orden de la Tmka, es decir el monarca de Japón. En fln, confiemos en Dios N. S. que nos dará perseverancia y ánimo, y ruego a V. R. que se acuerde de mí en el tiempo de su oración; en los Santos Sacrificios de V. R. me encomiendo mucho.
Hoy a los 21 de septiembre de 1621.

Siervo indigno
Julián Nakaura

 


キリシタン時代の日本人司祭の名簿一覧(41名)

2020年06月23日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

キリシタン時代には、日本人司祭が41名おりました。

日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルは、1549年に日本の鹿児島に到着し、日本の優れた文化と日本人の高度な教養を見て、最初の日本人司祭候補者を養成しようとしました。
鹿児島出身のベルナルドと山口出身のマテオの二名をヨーロッパに送ろうとしました。しかし、山口出身のマテオは、渡航中にインドで病に倒れてしまいました。鹿児島出身のベルナルドは無事にリスボンに着てからコインブラで過ごした後、最初はローマで、のちにコインブラで勉強を始めましたが、長旅の疲れから衰弱して1557年にコインブラで死去しました。

その後は、日本人司祭養成のためにヨーロッパ留学は困難で危険であったので、日本での司祭養成のためにセミナリヨを設立しました。

1601年に最初の日本人司祭が叙階され、合計41名の日本人司祭が誕生しています。チースリク神父様著の『キリシタン時代の日本人司祭』から、日本人司祭の名簿一覧をご紹介いたします。

  キリシタン時代の日本人司祭一覧   生年 出身地 叙階年 叙階地 没年 没地 備考 列福 列聖
  ミゲル・アントニオ 教区司祭 不明 長崎 1604 長崎 不明 不明 母が日本人
  ロレンソ・ダ・クルス 教区司祭 不明 不明 1606 長崎 不明 不明 . . .
  村山フランシスコ・アントニオ 教区司祭 不明 長崎 1606 長崎 1615 大坂 大山等安息
  バウロ・ドス・サントス 教区司祭 不明 不明 1606 長崎 1637 コーチシナ . . .
  藤村ジョアン・ルイス 教区司祭 不明 不明 1613 長崎 不明 不明 . . .
  ペドロ・クレメンテ 教区司祭 不明 不明 1613 長崎 不明 不明 . . .
  トマス・ドス・アンジョス 教区司祭 不明 志岐 1613 長崎 1631 マカオ . . .
  荒木トマス 教区司祭 不明 不明 1613 ローマ 1646 長崎 背教・改心 .
  後藤ミゲル 教区司祭 不明 長崎 1618 マニラ 不明 不明 背教 . .
福者 城ジェロニモ・デ・ラ・クルス 教区司祭 不明 豊後 1619 マニラ 1632 長崎 . 1867 .
  宮崎ジョアン 教区司祭 不明 不明 1619 マニラ 1633 長崎 . . .
  アンドレ・ロベス 教区司祭 不明 不明 1619 マニラ 不明 不明 . . .
福者 本村セバスティアン イエズス会 1565 平戸 1601 長崎 1622 長崎 . 1867 .
  にあばらルイス イエズス会 1564 長崎 1601 長崎 1618 シナ海 帰国中難破 .
  伊東マンシショ イエズス会 1570 日向 1608 長崎 1612 長崎 遣欧使節 .
  原マルティノ イエズス会 1568 波佐見 1608 長崎 1629 マカオ 遣欧使節 .
福者 中浦ジュリアン イエズス会 1570 中浦 1608 長崎 1633 長崎 遣欧使節 2008 .
福者 辻トマス イエズス会 1572 彼杵 1610 長崎 1627 長崎 . 1867 .
福者 石田アントニオ イエズス会 1576 島原 1610 長崎 1632 長崎 . 1867 .
  平林マンショ イエズス会 1566 豊後 1613 長崎 1615 長崎 . . .
  式見マルティノ イエズス会 1576 有馬 1615 マニラ 1639 江戸 背教? .
  コンスタンティノ・ドウラード イエズス会 1566 諫早 1616 マラッカ 1620 マカオ . . .
  伊予シスト・トクウン イエズス会 1570 長崎 1616 マラッカ 1633 長崎 . . .
福者 結城ディオゴ イエズス会 1575 阿波 1617 マニラ 1636 大村 . 2008 .
福者 岐部ペドロ・カスイ イエズス会 1587 豊後 1620 ローマ 1639 江戸 . 2008 .
  松田ミゲル イエズス会 1578 志岐 1623 マニラ 1632 長崎 . . .
  牧ミゲル イエズス会 1581 高槻 1624 マカオ 1627 マカオ . . .
  町田マティアス| イエズス会 1581 口之津 1624 マカオ 1634 マカオ . . .
  山田ジュスト イエズス会 1570 長崎 1624 マカオ 1629 カンボジア 飾屋と称す .
  斎藤パウロ イエズス会 1566 丹波 1624 マカオ 1633 長崎 . . .
  ミゲル・ミノエス イエズス会 1591 美濃 1626 ローマ 1628 リスボン . . .
  小西マンショ イエズス会 1600 長崎 1628 ローマ 1644 大坂 . . .
  西ロマノ イエズス会 1570 有馬 1631 マカオ 1639 カンボジア . . .
  フランシスコ・マルケス イエズス会 1611 長崎 1641 マニラ 1643 長崎 大友宗麟の曾孫?
  ペドロ・マルケス イエズス会 1612 長崎 1644 1670 カンボジア 大友宗麟の曾孫?
福者 笹田ルイス フランシスコ会 1600 京都 1621 マニラ 1624 放虎原 . 1867 .
聖人 西トマス・デ・サン・ハシント ドミニコ会 1590 平戸 1625 マニラ 1634 長崎 六左衛門 1981 1987
聖人 朝長ヤコボ・デ・サンタ・マリア ドミニコ会 1582 大村 1626 マニラ 1633 長崎 . 1981 1987
聖人 塩塚ビセンテ・デ・ラ・クルス ドミニコ会 1577 長崎 1619 マニラ 1637 長崎 . 1981 1987
福者 トマス・デ・サン・アゴスティン アウグスティノ会 1602 大村 1627 セブ 1637 長崎 金鍔次兵衛 2008 .
  ミゲル・デ・サン・ホセ アウグスティノ会 不明 府内 1628 マニラ 1637 長崎 . . .




パリのサン・ニコラ教会での聖体行列(2009年)

2020年06月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2009年のサン・ニコラ教会での聖体行列の動画を御紹介いたします。









新しいミサの50年(2) ローマ・ミサ典書の発展

2020年06月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

新しいミサの50年(2) ローマ・ミサ典書の発展を御紹介いたします。


新しいミサの50年(2) ローマ・ミサ典書の発展

2019年12月13日 FSSPX.NEWSサイト
半世紀前、教皇パウロ六世は、ミサの改革を命じましたが、これを「第二バチカン公会議のミサ」と呼ぶことができるでしょう。このミサは直ちに二人の枢機卿によって批判され、このミサへの反対意見は弱まることはありません。この悲しい記念日は、このミサの歴史を振り返る良き機会です。

パウロ六世の典礼改革と新しいミサを考察する前に、ローマ・ミサ典書の歴史を通して見てみることが適切です。なぜなら、この改革が、過去の発展と同質の発展であると主張されているからです。これには大いに議論の余地があります。歴史の距離をとって見れば、それを簡単に理解することができます。

ローマ・ミサ典書の発展の歴史の概観の第一部は、11世紀へとさかのぼります。新たな決定的段階が、トリエント公会議と聖ピオ五世教皇によって実現されました。これについて、この第二部で紹介します。

12世紀から16世紀まで

ローマ教皇庁のミサ典書は、11世紀には確立していました。12世紀から「改革」の精神が導入されましたが、それは典文の急増を抑制し、とりわけ聖務日課における特定の慣習を制限しようとするものでした。この運動は、在俗会でも、カルトゥジオ会、シトー会、プレモントレ会といった修道会にも見られました。シトー会の典礼改革は最も特筆すべきものでした。各修道会の目的は統一でした。この運動の結果、ローマ世界全体にわたる典礼の調和が進みました。

13世紀においては、ローマ自体にいまだ複数の形式のローマ・ミサ典書が存在していました。ラテラノ大聖堂版、リベリウス・バシリカ版、聖マリア大聖堂版、その他です。ただそれらの違いは非常に小さなものだったということを強調しなければなりません。しかし、最終的には、教皇庁のミサ典書が勝ち残ったミサ典書となりました。そして1230年ごろには、ローマ・ミサ典書はもう修正されることのない段階にまで到達することになるのです。

ピエール・アベラール(1079-1142)の誤謬の排斥を含む全実体変化に関する議論、および聖体礼拝の拡大によって、ホスチアの奉挙―これは最初に13世紀初頭のパリで―、その後カリスの奉挙が行われるようになりました。これらの奉挙は、13世紀の終わりには広く行われるようになりました。聖トマス・アクィナスがご聖体の聖務日課とミサを作ったのは、このころでした。

インノチェンチオ三世(1198-1216年)は、すべての役務者の動作や動きを解説した儀式式次第を含む、通常の教皇ミサのOrdo Missae[ミサ通常文]を発行しました。この時以来、教皇礼拝堂が模範と参照元になりました。そして、この広く配布された教皇庁の典礼書が標準となりました。

最初の印刷されたローマ・ミサ典書の日付は1474年12月6日です。これはミラノで制作されました。それは1277年にニコラオ三世の下で出版されたミサ典書とほとんど同一のものでした。この印刷術が新たな安定的要素となったため、教皇庁のミサ典書が広まり、更に広く普及するようになったのです。

しかしながら、無知のためにある種の典礼上の乱用が起こり、また更にプロテスタントの宗教改革の影響を受けて自由考察の精神が、いまだ忠実であった聖職者たちによってさえ導入されたため、規律の明確化が必要となりました。これが、トリエント公会議(1545-1563年)の役割となったのです。

この公会議は、自らプロテスタントの異端と闘うことを目的と定め、数多くの教義上の教令を公布しましたが、また、重要な規律上の教令も発布しました。

ミサの聖なるいけにえ」に関する第22総会期間中の1562年9月17日の教義上の教令と、それに関わる第25総会の禁書目録、並びにカテキズム、聖務日課書、ミサ典書に関する教令(1563年12月4日)が、トリエント公会議による典礼の法典化の端緒です。

トリエント公会議は典礼書の改訂を準備していましたが、必要な文書がその場になかったため、その仕事を終えることができませんでした。この理由のため、公会議は教皇にこの任務を託したのでした。この会議の荘厳さ、聖体とミサの聖なるいけにえに関する重要な諸教義の再確認は、この改訂に対して特別な輝きを与えることになりました。

この任務は、「新しいミサ典書」をつくることではありませんでした。回勅「メディアトール・デイ」(1947年)においてピオ十二世によって批判された「典礼問題における骨董趣味」によって、すでに消え去ってしまった古代の形式を復活させるという口実の下にパウロ六世のミサ典書の作者たちがしたような「新しいミサ典書」をつくることとは異なります。

聖ピオ五世の任務は、種々の原典を比較して、ローマ・ミサ典書のできうる限り最良の版を確立させることによって、聖伝に立ち戻ることにありました。聖ピオ五世は、いくつかの随意ミサを廃止し、祝日を優先させんがために脇に置かれる傾向のあった主日の典礼を復興させることで自らを納得させました。ところで、この主日の典礼の復興は、後に聖ピオ十世の改革によって再開されることになります。

このドミニコ会士の教皇[聖ピオ五世]は、200年以上、固有の典礼が存在していることを証明できないすべての教会では、彼の出版したミサ典書を使用するよう命じました。ほとんどの司教や司教座聖堂参事会は、彼ら自身のテキストや地方の典礼上の慣習が十分に古いものであることを立証でるにもかかわらず、トリエント・ミサ典書を受け入れました。「聖ピオ五世」のミサ典書はこうして一般的に使用されることになったのです。それでも、将来の混乱の源となる多くの特別な典礼様式が残っていました。このミサ典書は1570年に出版されました。

またこの改訂には、ミサの間に行われるべきすべての儀式を記した詳細なルブリカ(典礼法規)が含まれていました。この典礼の明確化の責務は典礼省に託され、同省はミサ典書の守護者となり、4世紀の間、価値ある回答や数多くの説明を与えました。トリエント・ミサ典書に最も偉大な貢献を残したこのルブリカの法典化は、ラテン典礼全体のローマ化に貢献することになったのです。

最後に、教皇庁での実践の例に基づき、なされるべき典礼上の動作を説明したテキスト書の普及が、ラテン典礼世界全般にローマの精神を広げることとなりました。

トリエント公会議の任務は、1568年から1614年の間にすべての典礼書の改訂を公布することをもって完了しました。そのすべてローマ典礼による典礼書には、聖務日課書、ミサ典書、殉教録、司教用定式書、司教用儀礼書と典礼書があり、あらゆる形式の下での典礼上の規則を簡単に見つけることができるようになったのです。

(Source : FSSPX.Actualités - 07/12/2019)










日本での聖伝のミサのご案内【2020】

2020年06月22日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。 2020年の御ミサのスケジュール(前半)をお知らせいたします。 スケジュールについては、やむを得ず予定の変更がある場合があるかもしれません。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

修正がある場合は、この『日本での聖伝のミサのご案内【2020】の記事も更新いたしますので、随時どうぞご確認ください。 この記事はスマートフォンでも、【カテゴリ】聖伝のミサの予定 でいつでもご確認できます。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【東京】 4月12日(日)から、東京では会場がしばらく変更になります。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

これまでの会場は「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

**** 2020年6月の予定  ****
 【大阪】

 6月1日(月) 聖霊降臨の月曜日(1級)赤  午前6時半ミサ聖祭

 6月5日(初金)  聖霊降臨の四季の斎日 金曜日(1級)赤  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月6日(初土)  聖霊降臨の四季の斎日 土曜日(1級)赤  午前10時ロザリオ及び告解  午前10時半ミサ聖祭
 6月7日(日)  聖三位一体(1級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月8日(月)  聖霊降臨後の平日(4級)緑  午前6時半ミサ聖祭

 6月11日(木)  御聖体の祝日(1級祝日)白  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭 ←追加されました

 6月12日(金)  証聖者聖ファクンドの聖ヨハネ(3級祝日)白  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月13日(土)  教会博士証聖者パドゥアの聖アントニオ(3級祝日)白 午前10時ロザリオ及び告解  午前10時半ミサ聖祭
6月14日(日)  御聖体の祝日の荘厳祭 白  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月15日(月)  聖霊降臨後の平日(4級)緑  午前6時半ミサ聖祭

 6月19日(金)  イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白 午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月20日(土)  聖母の土曜日(4級)白 午前10時ロザリオ及び告解  午前10時半ミサ聖祭
 6月21日(日)  聖霊降臨後第3主日(2級)緑  午後5時半ロザリオ及び告解  午後6時ミサ聖祭
 6月22日(月) 証聖者司教聖パウリノ(3級祝日)白  午前6時半ミサ聖祭

 【東京】

主日は、しばらくミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

 6月7日(日)   聖三位一体(1級祝日)白  午前09時ミサ聖祭 午前11時ミサ聖祭 午前12時半ミサ聖祭

6月14日(日)  御聖体の祝日の荘厳祭 白 午前09時ミサ聖祭 午前11時ミサ聖祭 午前12時半ミサ聖祭

6月21日(日)  イエズスの聖心の祝日の荘厳祭 白  午前09時ミサ聖祭 午前11時ミサ聖祭 午前12時半ミサ聖祭

7月以降は、決定しましたら掲載いたします。いましばらくお待ちください。


【聖体の黙想】聖体は霊的生活の糧である:主よこの砂漠のただ中にあって、彼らはまことの糧となるべき食物をもたざるにより、願わくは彼らをあわれみたまえ』

2020年06月22日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の制定された理由

聖体は霊的生活の糧である

 礼拝 秘蹟の外観のもとに隠れながら、まことに生きたもう天主にして人なるイエズス礼拝しよう。
主はかつて次のようにおっしゃった。『われは生命のパンなり。われに来る者は飢えず。われは天よりくだりたる生けるパンなり。人もし、このわがパンを食せば、とこしえに生くべし。しかしてわが与えんとするパンは、この世を生かさんためのわが肉なり。わが肉を食しわが血を飲む人はわれにとどまり、われもまたこれにとどまる。われを食する人はわれによりて生きん』と。主はいとも尊い望ましい霊的生命そのものを、このように固くあなたに約束なさった。

あらゆる生命の唯一の源は天主である。人間の自然の生命、すなわち感覚的並びに理性的生命もこの源から流れ出る。しかし天主のみもとには、より高い、より尊い超自然の生命が存在する。それは天主ご自身の生命であって、聖徳の生命、光の生命、愛の生命、無限の幸福の生命とも呼ばれるものである。天主は人に自然的生命を与え、なおそのうえ、超自然的生命を与えられたが、このよりよい生命の賜物は決して創造主の義務ではなかった。しかし私たちの霊魂は、これをお受けすることのできるものであったから、創造主の無限の御慈悲によって、人祖の霊魂にこれが与えられたのである。ところが人間は罪を犯してこれを失ってしまった。だから私たちの霊魂は、もともと霊的生命に適したように造られ、かつては実際にこれを受けながら、不幸にして失ってしまったその生命の消えない記憶と、それを取り戻したい限りない望みと、その喪失から生ずる癒されない落胆とから出る深い悲しみを抱いているのである。しかしなんぴとがよくこれを私たちに取り戻してくれることができたであろうか。それは最初にこの霊的生命を私たちに与えてくださった天主でなければ不可能であった。実際最初の賜物をくださったのは父なる天主、これを取り戻してくださったのは子なる天主であったのである。このようにして私たちが洗礼の秘蹟によって主の御血で清められた瞬間に、私たちの霊魂の中に新しい生命の芽が萌え出て、これが私たちの霊的生命のはじまりとなったのであるが、この生命を保ち、育み、この生命をしてそのすべての歓喜を味わわせ、聖なるわざを豊かにするためには、それを規則的に成長させる食物が必要であった。この食物こそ生命のパン、聖体のパンなのである。ああ、だから礼拝しよう。あなたにおいでになる永遠の生命、幸いな生命、聖なる生命、天主の生命を。あなたに約束され、聖体のパンによって強められ、確かめられた生命を。私たちの霊魂の中に霊的生命の生きた養いとなったイエズス・キリストを。

感謝 もし私たちが、霊魂の滅びの恐ろしさと、永遠の生命の尊さをまことに知るならば、私たちのために聖体を工夫し、これを私たちに与えたもうた主の聖心の愛を、どうして絶えず祝福し、感謝しないでいられよう。

霊魂が肉体の生命の根源であるように、天主は霊魂の生命の源である。天主が永遠の生命を与えようと定められたにもかかわらず、私たちが現世の自然的生命だけで満足し、超自然的生命に達しようとしないのは、ちょうど茎だけで満足し、花を咲かせようとせず、あるいは、花を咲かせても実を結ばせようとしないのと同様である。このたとえはまだ足りない。私たちは原罪をもっているほかに、数々の罪を犯して霊魂の生命を失い、天主から遠ざかり、天主の御怒りと罰とに価した。これこそまことの死、永遠の死、恐れなければならない死ではなかろうか。

だから私たちはここに安堵(あんど)し希望をもって喜ぶことができる。それは失ったところを補い、道をたやすくし、修業を助け、霊魂の生命を育み、これを支える糧があるからである。これこそ聖体のパン、生命のパンである。忠実にこれを食べる者は決して死ぬことがない。たとえ罪を犯して倒れることがあっても、このパンの力によってまたよみがえることができるのである。ああ生命のパン、私たちの弱さに力を添え、天主ご自身の生命の功力を私たちにお伝えになる者よ、ああ誉れと栄えとのパンよ、御身は卑しい罪の底、虚無の淵から私を天に導き、王子らとともに王の御食卓に列席させてくださるのである。ああ平和と慰めと愛と光明とのパンよ、もし私が忠実に御身の御力によりすがり、御身に導かれていくならば、必ず到達することのできる永遠の幸福のいくぶんかを御身はすでにこの世でも私に味わわせたもうのである。あらゆる人々の感謝を受け、永遠に愛され、祝され、賛えられますように。

償い しかし世間はこの生命の賜物をまことに心から歓迎しているであろうか。私たち自身はどうであろうか。私たちは、はたして聖体による霊的生命の効果をあげているであろうか。
ある人々は、救い主の慈愛にあふれるこの賜物を知ろうとも信じようとも欲しない。悲しいことに、このような人々は決して少なくないのである。彼らは主の御食卓から遠ざかり、あわただしい動物的生涯を送り、あるいは悲哀と過失との入りまじった理知一方の生活に満足する。彼らは自分の霊魂の滅びを知らない。傲慢によって心の耳をふさぎ、邪悪な心をもって尊いパンを拒み、頑固にも主が御からだをお与えになるこの最上の賜物を追い退けるのである。

また、これよりも卑劣な悪人がある。かの偽善者らは、罪悪の生活を送りながら聖体を受け、天主の御食卓に連らなりながら同時に悪魔の招宴にも応ずるのである。すなわち心を照らす信仰もなく、罪を清める愛徳ももっていないし、罪の為に腐敗した自分の霊魂の中に、この生けるパンを受けるのである。しかしそれは、もっと大きな天主の怒りを招くばかりで、さらに惨めな死の墓に葬られることになるのである。

さて私はどうであろうか。私は果たして天主の生命を霊魂の中にもっているだろうか。私の思念は天主の思念に導かれているだろうか。主の愛が他の被造物の望みを規定しているであろうか。もし私が霊的に生きていないなら、それに私がこの天来のパンから十分養いを取らないためであろうか。あるいは必要な準備もせず、ふさわしくないのにこれを迎えるためではなかろうか。聖体によって生きるか、生命のパンを食べないで死んでしまうかの生死の問題であるにもかかわらず、人々はこれに頓着しない。たびたび聖体に近づくよう熱心に勧める教会の教えも聞かず、ただ年に一度の復活祭の務めをやっと守るという者があるのは実になさけないことである。

祈願 不思議な生命のパンの御約束を聞いて『主よ、常にこのパンを与えたまえ』と叫んだ人々にならうがよい。主はこの言葉を主禱文中に取り入れて『われらの日用の糧を今日われらに与えたまえ』と祈ることをお命じになった。あなたは、あなたの周囲にある悩める人、飢える人、病む人、死んだ人の大群をながめ、彼らが自分の過失あるいは無知から、この生命のパンから遠ざかっていることを嘆き、かつて使徒らが主のあとに従った群衆の飢餓をあわれんだときのように彼らのために主に願おう。『主よこの砂漠のただ中にあって、彼らはまことの糧となるべき食物をもたざるにより、願わくは彼らをあわれみたまえ』と。

実行 忠実に主の御招きに応じ、よい準備をもって生命のパンを受けるよう努めよう。




2020年6月21日の聖伝のミサの報告

2020年06月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
ヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんばんは!今日は、東京ではイエズスの聖心の荘厳祭を行いました。78名の方々がミサ聖祭に与ることができました。天主に感謝いたします。

大阪では18名の方々が祭壇の犠牲に与りました。大阪ではほとんどの方々がイエズスの聖心の祝日にミサに与っておられましたので、聖霊降臨後第三主日のミサを行いました。

今回は、東京の二回目と三回目のミサで、また大阪のミサで短い生の説教をしてみました。

愛する兄弟姉妹たち皆様に御報告を紹介いたします。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

09:00のミサ
男: 14人(内、子供2人)
女: 12人(内、子供2人)
計: 26人(内、子供4人)

11:00のミサ
男: 14人(内、子供2人)
女: 14人(内、子供4人)
計: 28人(内、子供6人)

12:30のミサ
男: 10人(内、子供0人)
女: 17人(内、子供1人)
計: 27人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの3人を除く)
男: 36人(内、子供4人)
女: 42人(内、子供7人)
計: 78人(内、子供11人)




以上は、東京での写真です。









以上は大阪での写真です。



【聖体の黙想】聖体は天主の正義の御怒りを防ぐ楯である

2020年06月21日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の制定された理由

聖体は天主の正義の御怒りを防ぐ楯である

 礼拝 慈悲深い救い主イエズス・キリストが絶えず尊い司祭の任務を尽くし、また、世の罪のために生贄(いけにえ)とおなりになるその祭壇の前にひれ伏して、大いなる信仰と尊敬と、聖なる畏れとをもって聖体を礼拝しよう。主はここに十字架上でなされたと同じく、天地の間にあげられ、無力な被造物と創造主との間に立って、天主の御怒りをお和らげになるのである。黙示録によれば、主は、天にあってもやはり屠られた羊として、御身を祭壇の上に横たえになるというが、それはこれによって天父の光栄と、人類の救霊とのために、十字架上の生贄となることを天父に絶えずお示しになるためにほかならない。

天国には天父の御怒りの源となり、また恩恵の喪失の原因となる罪がない。しかし、それにもかかわらず、やはり天主の小羊の生贄が、そこに続けられているなら、地上ではなおそれが必要なことは明らかである。犠牲なしに地上に平和はありえないのである。ああ、わが天主よ、人々は腐敗し、御身の聖名は汚され、御身の権利は認められず、あらゆる悪はたやすく行なわれ、霊魂の救済は、すっかり忘れられている今日、もしも御子の祈り、償い、犠牲が地上になかったならば、すなわち、絶えず御血を捧げ、御身の光栄のために御自らをお供えになるイエズスが、おいでにならなかったなら、この世はどんなになっていることであろうか。
至聖なる秘跡の陰に隠れ、贖罪の司祭職を執行されるイエズス・キリストを礼拝しよう。主は司祭に必要なすべての資格をそなえておいでになる。主は純潔にして聖、罪を厭(いと)い、天父の光栄のほかなにもお求めにならず、世間を軽んじ、しかも罪人に対しては無限の慈悲をもっておいでになり、実に理想的大司祭の資格をすべて完全に具備しておられる。それは、主が限りなく完全な天主の御子に在すからである。
聖体の中での主は、また完全な生贄である。これ以上にすぐれた生贄が他にあるだろうか。光栄の主が一塊のパン、一杯のぶどう酒の外観のもとに隠れ、秘跡の中に身を落として、天父にお捧げになるものはなんであろうか。そのご霊魂、ご肉身、御血、ご生涯、ご権能、ご自由のすべてではないだろうか。
ああ、主を礼拝しよう。たぐいなき大司祭、たぐいなき生贄なる主をひれ伏して礼拝しよう。

感謝 主が聖体の中で絶えずお捧げになるすべての生贄を、深い感謝の念をもって眺めながら、愛によって主の成し遂げられたこのたえなる発明についてよく黙想しよう。主が人となって、死、しかも十字架の死に至るまでおのれを虚しくされたあとに、さらに聖体の秘跡の中に隠れ、祭壇上での生贄となられたのは、決して他から強いられたのでもなく、また、こうしなければならない義務があったからでもない。それは全く主ご自身のご選択によるものであって、純粋に主のあわれみ深い聖心から最初に流れ出た愛が一瞬ごとに繰り返されて生ずる常に新しい賜物であるということができる。そして私たちの罪と反逆と忘恩とによって絶えずそこなわれている天主の御稜威(みいつ)と正義とが、いつも必要以上に償われているのは、全くこの生贄のおかげである。

救い主が天地の間に立って執り成したもうのは、天父の御怒りをなだめて天主と人との間に平和を回復し、この世に生を受けるすべての人に十字架の救済を教えて、自然の生活と超自然の恩恵との間に仲介をされるためである。聖体は義人にとっては罪に陥る危険の防御となり、罪人にとっては再起のために必要な力となり、臨終の人にとっては安んじてともに永遠の休息にはいる伴侶となり、全世界にとっては最上の祝福となるのである。
絶え間なく罪が犯されているために、聖体は世の終わりまでその存在を続け、また罪の破壊のあとを償うよう、罪のあるところへはどこまでも従いゆかれるために、聖体は地上にくまなくおいでになるのである。
ああ、聖体の中に在したもう救い主の御執り成しは、いかに甘美で愛にあふれ、いかに忍耐に富み有力であることだろう。ああ、平和の祭壇、大司祭にして生贄なるイエズスの聖体よ、御身がとこしえに祝せられ賛えられますように。

償い この世における罪の憎むべきありさまに注意しよう。天主の小羊が世の罪を贖うために御身を供えられる祭壇の前で、やはり罪悪が続けられ、このたぐいない愛も、驚くべき屈辱も、すべてが無益であるかのようにみえている。

人間はイエズス・キリストの御生贄をあなどり汚して、忘恩をもって愛に報い、いっそう天主の怒りを招く。世界中どこにも聖体がおいでになるのだから、全世界が大神殿と化した今日、罪人の冒瀆は実にこの神殿の中で行なわれるわけである。罪を防ぎ、罪を償われるために、聖体が勧告、助力、生贄、贖罪をおやみなくつづけ、ますます奮発されるにもかかわらず、いや、ますます奮発されるほど、人々は、なお天主にそむくのである。ああ、私たちは、いかなる罰を期待しなければならないだろうか。
だから、よく自分を省みて今までの大罪を思い起こし、それがどんなに重く、どんなに大きいかを糾明しよう。主が二千年になんなんとするあいだ、聖体の中におとどまりになっているその愛の大きさと、あなたの罪の重さとを比較しよう。主を愛するために、主がお嫌いになるようにあなたも罪を忌み嫌い、主の御慈悲の賜物なる聖体を天主にお捧げしよう。もしあなたが、なおも主の愛を軽んじ続けるならば、あなたの受ける審判は、いかに厳しく恐ろしいものであろうか。

祈願 たびたび聖体のみ前に出て、聖体のみそばでお祈りしよう。これは最もよき執り成しの大司祭、世の罪の贖いなる最上の犠牲によって祈ることである。この大司祭、この生贄が常に聖体の中においでになることを記憶するように。あなたは罪に汚れた不忠実な自分の霊魂のために、なだめの生贄の御取り次ぎを頼み、また、あなたの親族、恩人、友人を同じく聖体のご保護のもとにおかねばならない。親鳥の翼の下にかくまわれる雛は荒鷲を恐れる必要がない。私たちもまた聖体のご保護により頼むとき、地獄の攻撃に破れることなく、したがって天主の御怒りを招く憂いはないのである。

実行 特に誘惑を感じる場合、あるいは危険に臨み、困難に際しては大きな信頼をもって聖体に祈ろう。






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】