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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】【ニュース速報】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐アメリカ合衆国教皇大使)のトランプ大統領への書簡(2020年6月7日)

2020年06月09日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐アメリカ合衆国教皇大使)が、トランプ大統領に書簡を送りました。この中で、現在のコロナウイルス疫病やアメリカでの暴動は、善と悪との闘いという霊的な戦いの一部である、トランプ大統領には「光の子ら」の側に立って戦い続けてほしい、と訴えています。

日本訳が存在していること(リンク先はここです)を知らされたので、愛する兄弟姉妹の皆様にも参考資料として転載してご紹介いたします。


大統領様

2020年6月7日
聖三位一体の主日

 この数ヶ月、わたしたちは二つの相対立する陣営の動向を目の当たりにしてきました。わたしはその両者を聖書のことばで光の子と闇の子と呼ぶことにします。光の子は人間性のもっとも顕著な部分から成り立ち、闇の子は絶対的な少数者を代表します。にもかかわらず前者は差別を受ける対象となり、しばしば行政や政治や経済やマスコミの中で戦略的な立場を保持する敵対陣営からは道徳的に劣る者と決めつけられています。明らかに不当なやり方で、悪人たち及び自己の利益のためかあるいは不安から悪人に手を貸す者たちによって、善は人質にとられています。

 これら二つの陣営には聖書的な性質があり、それぞれを女の子孫と蛇の子孫とにはっきり分けることができます。一方には、欠点や弱点も数々有しているのだけれども、善を行ないたい、正直でありたい、家族を養いたい、仕事に励みたい、祖国に繁栄をもたらしたい、弱者を助けたい、神の摂理に従いたい、天の国に値する者でありたいという欲望に駆動される人たちがいます。そして他方には、自分自身に仕え、道徳的な原則は何も持たず、家族や国を破壊し、あふれる富を自分自身のものとするために労働者を搾取し、内部分裂や戦争を煽り、力と金を蓄積しようとする者たちがいます。その者たちの一時しのぎの快楽にすぎない偽りの幻想はーもし彼らが悔い改めることがないのならーある日とつぜん暗転し、神から遠く離れた永遠の地獄に堕ちるという恐ろしい運命に身を任せることになるでしょう。

 大統領様、この二つの相対立する現実が永遠の仇敵として、まるで神と悪魔が永遠の仇敵である如く、社会に共存しているのです。闇の子らを、貴方が賢明にも反発し、また昨今、猛然と貴方に戦いを仕掛ける「ディープ・ステート」(国家内国家)と同一視するのは容易なことですが、彼らは今やその計画が明るみに出されてしまったので、ついに切り札を出す決心をしたかのようです。彼らは、あらゆるものがすでに支配下にあることを自負するあまり、今までは少なくとも部分的には彼らの真の狙いを隠しとおしてきた用意周到さを放棄してしまったようです。すでに着手されている諸々の調査によって、ヘルスケアの領域のみならず、政治や経済そしてメディアの世界でこのコロナ危機を招いた真の責任が誰にあるか明かされることになるでしょう。社会を操るこの巨大な力の中にいる、市民の意志に反する行動を正当化する権限と国政における代表権を不当に主張しながら人間の運命を決定してしまう者たちの存在が明らかになるでしょう。

 また昨今の暴動は、ウイルスが不可避的に衰え、パンデミックに対する社会の警戒心が弱まってきた状況を見て、必然的に騒乱を引き起こさざるをえなくなった者たちによって引き起こされたことが明らかになるでしょう。なぜならそうした騒乱を制圧することは、合法ではあっても人民に対する不当な攻撃と非難されることになるからです。同じ事が完全な同期のうちにヨーロッパでも起きています。路上での抗議行動という手段が、次の大統領選で「ディープ・ステート」の理想を具現化し、忠実に、かつ信念をもってその理想を表明する候補者が選ばれるのを心待ちにしている者たちの目的に適っていることは明白です。こうした破壊行動や暴力の背後に、「溶かして固めよ(Solve et Coagula)」というフリーメーソンの格言が教えるとおりの自由なき世界を打ち立てることを目論み、社会秩序の崩壊によって自分たちに利益がもたらされるよう算段する者たちが潜んでいることを、ここ数ヶ月のうちに再び思い知らされることになったとしても驚くに値しないでしょう。

 信じ難いことかもしれませんが、いま記したような敵対する勢力の動向は、宗教界においても同様です。キリストの群れのために身を捧げる忠実な牧者たちがいる一方で、金に目が眩んで信仰を捨てた偽牧者たちがいて、彼らは進んで群れを散らし、羊を手放して獰猛な狼どもに貪らせようとするのです。彼らが闇の子らの一派であり光の子らを憎むものであることは驚くに値しません。国家の中に「ディープ・ステート」があるように、教会の中にも本来の奉仕を裏切り、神の御前にふさわしい役務を踏みにじる「ディープ・チャーチ」があるのです。こうした「見えざる敵」は、公の場では善き支配者たちからの反抗を受け、教会の内部では善き牧者たちの反抗に遭っているのです。先にわたしが5月8日に著した緊急提言で述べたとおり、これは霊的な戦いなのです。

 合衆国は歴史上はじめて、勇気をもって生命の権利を守り、世界中で起きているキリスト教徒への迫害を臆することなく非難し、公にイエズス・キリストと市民が自由に崇敬する権利について語る貴方のような大統領にめぐまれました。貴方がマーチ・フォー・ライフに参加されたこと、最近では4月を「児童虐待防止月間」として宣言されたことは、貴方がどちらの側で戦おうとされているのか確固たるものにしてくれました。そしてわたしは、この戦いにおいて、手にする武器は違えども、お互いが味方同士であることを強く確信しています。

 そういうわけで、貴方が聖ヨハネ・パウロ2世大聖堂を訪れた後に浴びせられた攻撃は、人種差別と戦い社会秩序をもたらしたいのではなく、ただ状況を悪化させたいだけであり、正義をもたらしたいのではなく、暴力と犯罪行為を正当化したいだけであり、真理に仕えるのではなく、一つの政治的立場を支持したいだけのマスコミが作り出した物語の一部であることがわかります。そして、そこに司教たちが加わっていることに愕然としますが、昨今わたしが非難したそうした司教たちが、敵対する陣営に属していることは彼らの言動から明らかです。彼らはディープ・ステートに、グローバリズムに、同胞的思考に、ニュー・ワールド・オーダー(NWO)に、そして彼らがもっと頻繁に口にする「普遍的兄弟愛」に仕えるものですが、それはキリスト教とは何の関係もないどころか、法廷から、学校から、家庭から、そしておそらくは教会からさえも神を追い出すことで、この世界を支配しようと目論むメーソン的な思考の押し付けにほかなりません。

 アメリカ国民は十分成熟しており、主要メディアが真実を伝えたいのではなく、真実を語らずに真実を歪曲することを、彼らメディアの支配者の目的に適うよう嘘を撒き散らしていることをわかっています。しかしながら、多数派であるはずの善が倦怠感から目覚め、少数派にすぎない不遜な目的に向かっている不誠実な者たちに欺かれるままにさせておかないことが重要です。善である光の子らが一つに集まり、自分たちの声を上げることが必要です。大統領様、そうするために、貴方を、合衆国を、そして、この仇敵の恐ろしい攻撃から全人類を守ってくださるように、主に願い求める祈り以上に有効な手だてがあるでしょうか? 祈りの力の前では、闇の子らの欺瞞は瓦解し、その企みは暴かれ、その裏切りは見抜かれ、そのおぞましい力は無に帰すことでしょう。光がもたらされ、その正体が悪魔の欺瞞であることが明かされるでしょう。

 大統領様、わたしの祈りはつねに、愛すべき国アメリカに向けられます。この国にわたしはベネディクト16世から教皇大使として遣わされる使命と栄誉に与りました。この劇的な、全人類にとって決定的なときを迎えるにあたって、わたしは貴方と、合衆国政府において貴方の味方であるすべての人のために祈りつづけます。アメリカ国民が、全能の神への祈りのうちに、わたしと貴方に一致することを信じています。

 人類の見えざる敵に対する一致のうちに、わたしは貴方とファーストレディ、そして愛すべき国アメリカと善意のすべての男女を祝福します。

十 カルロ・マリア・ヴィガノ
ウルピアナ名義大司教
前・駐アメリカ合衆国教皇大使

原文はコチラ


来る2020年6月11日は、御聖体の祝日(一級大祝日 白)です。大阪では聖伝のミサが捧げられます。 2020年6月14日(主日)は、日本(東京と大阪)では御聖体の祝日の荘厳祭を行います。

2020年06月09日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

来る2020年6月11日は、御聖体の祝日(一級大祝日 白)です。大阪では聖伝のミサが捧げられます。
2020年6月14日(主日)は、日本(東京と大阪)では御聖体の祝日の荘厳祭を行います。

【東京】
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【大阪】
18:00 ミサ聖祭 歌ミサ

御聖体の祝日(一級大祝日 白)
聖木曜日において、拝すべき聖体制定の記念を祝った。しかし、その時はご受難中であり、充分盛大に喜びを表すことができなかった。この祝日が定められたのは、十三世紀、ベルギーのリエージュの、聖ユリアナ・ド・コルニヨン修道女によってである。後にウルバノ四世教皇と、クレメンテ五世教皇とによって、全教会の祝日と定められた。この日のミサと聖務日課とは、アクィノの聖トマの作である。
【ミサ聖祭】
〈書簡〉において聖パウロは、救主のご受難と御死去の記念である聖体制定を語り、清い心をもってこれをうけるべきであるといましめている。アクィノの聖トマによる美しい〈続誦〉は、聖体に関する神学の要略であるといってよい。

IN FESTO SANCTISSIMI CORPORIS CHRISTI ご聖体の祝日 耶稣圣体
I Classis 一級大祝日 一等复式【白】
Ant. ad Introitum. Ps. 80, 17. 入祭文 詩篇、80ノ17 进台咏 咏80:17
Cibávit eos ex ádipe fruménti, allelúia : et de petra, melle saturávit eos, allelúia, allelúia, allelúia. 天主は、かれらを肥えた小麦で養い給い、アレルヤ、そして岩から出た蜜にかれらを飽かせ給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 主用麦子的精华,养育了祂的子民。阿肋路亚。祂用盘石流出的蜜,使他们果腹,阿肋路亚,阿肋路亚,阿肋路亚。
Ps. ib., 2. 詩篇、80ノ2 咏80:2
Exsultáte Deo, adiutóri nostro : iubiláte Deo Iacob. 私たちの救いなる天主に喜び踊れ、ヤコブの天主に喜びうたえ。 你们当向天主——我们的力量,高声颂扬,向雅各布伯的天主要欢呼欣乐。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦) 光荣归于父……。
Cibávit eos ex ádipe fruménti, allelúia : et de petra, melle saturávit eos, allelúia, allelúia, allelúia. 天主は、かれらを肥えた小麦で養い給い、アレルヤ、そして岩から出た蜜にかれらを飽かせ給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 主用麦子的精华,养育了祂的子民。阿肋路亚。祂用盘石流出的蜜,使他们果腹,阿肋路亚,阿肋路亚,阿肋路亚。
Oratio. 集祷文 集祷经
Deus, qui nobis sub Sacraménto mirábili passiónis tuæ memóriam reliquísti : tríbue, quǽsumus, ita nos Córporis et Sánguinis tui sacra mystéria venerári ; ut redemptiónis tuæ fructum in nobis iúgiter sentiámus : Qui vivis et regnas. 驚くべき秘蹟のもとに、御受難の記念をわれらにのこし給うた天主よ、願わくは、我らをして御身の御体と御血の玄義をかくも崇敬し、御身の贖いの実りをわれらにおいて常に感ずるをえんことを。聖父なる天主とともに・・・。 天主,祢藉着这个奇妙的圣事,将对祢受难的纪念留给了我们,求祢恩赐我们能如此虔敬祢体血的神圣奥迹,以致我们常常感受祢救赎的恩效。祢和天主父……。
Léctio Epistolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corinthios. 使徒聖パウロの、コリント人への書簡の朗読 书信
1. Cor. 11, 23-29. コリント前書、11ノ23-29 格前11:23-29
Fratres : Ego enim accépi a Dómino quod et trádidí vobis, quóniam Dóminus Iesus, in qua nocte tradebátur, accépit panem, et grátias agens fregit, et dixit : Accípite, et manducáte : hoc est corpus meum, quod pro vobis tradétur : hoc fácite in meam commemoratiónem. Simíliter ei cálicem, postquam cenávit, dicens : Hic calix novum Testaméntum est in meo sánguine. Hoc fácite, quotiescúmque bibétis, in meam commemoratiónem. Quotiescúmque enim manducábitis panem hunc et cálicem bibétis, mortem Dómini annuntiábitis, donec véniat. Itaque quicúmque manducáverit panem hunc vel bíberit cálicem Dómini indígne, reus erit córporis et sánguinis Dómini. Probet autem seípsum homo : et sic de pane illo e dat et de calice bibat. Qui enim mánducat et bibit indígne, iudícium sibi mánducat et bibit : non diiúdicans corpus Dómini. 兄弟たちよ、実に私があなたたちに伝えたことは、主から授かったことである。すなわち、主イエズスは裏切られた夜、パンをとり、そして感謝してのちそれをさき、「これは、あなたたちのための私の体である。私の記念としてこれをおこなえ」とおおせられた。食事を終えてから、同じように杯をとり、「この杯は私の血における新しい契約である。これを飲むごとに、私の記念としてこれをおこなえ」とおおせられた。まことに、あなたたちはこのパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるまで、主のご死去を告げるのである。だから、ふさわしい心を持たずに、主のパンを食べ、その杯を飲む者は、主のおん体とおん血とを犯す。だから、そのパンを食べ、その杯を飲むごとに、おのおの自分をしらべなければならない。主のおん体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである。 弟兄们:我所传授给你们的,是主告诉了我的,那就是:主耶稣在被出卖的那一夜,拿着饼,祝福了分开说:“你们拿去吃吧,这是我的身体,将为你们而舍于人的,为了纪念我、你们要这样作。”同样、吃了晚餐以后,祂拿了爵说:“这爵是由我的血而缔结的新盟约。你们每次喝它时,你们为了纪念我、要这样作。”你们每次吃这饼,喝这爵,就是宣告主的死亡。直到祂来临为止。所以谁不正当地吃饼,或喝主的爵,对于主的体血有罪。人要先自省,然后吃饼喝爵。对于不辨别主的体而不正当地吃喝的人,便在吃喝着自己处罚的判断。
Graduale. Ps. 144, 15-16. 昇階誦 詩篇、144ノ15-16 台阶咏(咏144:15-16)
Oculi ómnium in te sperant, Dómine : et tu das illis escam in témpore opportúno. 主よ、すべての目は、御身に希望する。御身はかれらに、適宜の時に食べ物を与え給う。 上主啊!一切人都举目瞻仰祢,祢赐给他们,应时的食粮。
V/. Aperis tu manum tuam : et imples omne animal benedictióne. V/.御身は御手を開き、すべての生けるものを祝福で満し給う。 祢伸开祢的手,使一切有生气的,都随意饱食。
Allelúia, allelúia. V/. Ioann. 6, 56-57. Caro mea vere est cibus, et sanguis meus vere est potus : qui mandúcat meam carnem et bibit meum sánguinem, in me manet et ego in eo. アレルヤ、アレルヤ、V/. ヨハネ、6ノ56-57 私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲物である、私の肉を食し、私の血を飲む者は、私に留まり、私もまた彼に留まる。 阿肋路亚,阿肋路亚。(若6:56-57)我的肉真是食粮,我的血真是饮料。谁吃我的肉,喝我的血,他在我内,我在他内。
Sequéntia. 続誦  (ラウダ・シオン) 继抒咏
Lauda, Sion, Salvatórem,  シオンよ、救い主を讃えよ、 1. 熙雍啊,你该颂扬你的救主吧!
lauda ducem et pastórem  指導者を、牧者を讃えよ、 并以各种的诗章和赞歌,
in hymnis et cánticis. 賛歌と頌歌によって。 称颂你的领袖和你的善牧!  
Quantum potes, tantum aude :  おまえが出来るかぎり、それだけ大胆になれ、 2. 你该尽你所能,殚心竭力的向祂颂赞:
quia maior omni laude,  全ての賛美に優る方であるが故に、 因祂是赞不胜赞而
nec laudáre súffícis. 単なる賞賛では足りぬ。 你总不能充分足量称颂祂的。  
Laudis thema speciális,  賛美の特別のテーマは、 3. 我们今天所应讴歌颂扬的
panis vivus et vitális  命を与える生けるパン、 原本主题,
hódie propónitur. これが、今日、提示される。 便是施与生命栩栩的活粮。 
Quem in sacræ mensa cenæ  聖なる晩餐の食卓で、 4. 这个活粮,是在最后的晚餐席上,
turbæ fratrum duodénæ  十二の兄弟たちの群れに  由基督亲自分授
datum non ambígitur. 明らかに与えられたそれだ。 十二位宗徒的。 
Sit laus plena, sit sonóra, 賛美は満ちあふれ、響きわたれよ、 5. 愿你的颂赞成为美满的,又响亮而又踊跃的,
sit iucúnda, sit decóra 喜びにあふれ、歓喜の精神の 愿你内心的愉快成为不胜欣喜
mentis iubilátio. 美しさよあれ。 而溢于分外的。
Dies enim sollémnis agitur,  実に、それは荘厳な日のこと、 6. 因我们今天所庆祝的节日,
in qua mensæ prima recólitur  その日に、この制定が 便是追忆耶稣
huius institútio. 食卓の最初の実り【聖体】を収穫した 当初建立者圣宴的盛典。 
In hac mensa novi Regis, 新しい王のこの食卓で 7. 在新王的筵席上,
novum Pascha novæ legis 新しい法の新しい過ぎ越しは、 被呈献的是新的巴斯卦羔羊,
Phase vetus términat. 古い過ぎ越しを終わらせた 从此旧的巴斯卦便告结束。 
Vetustátem nóvitas, 新しきは古きを  8. 新的祭礼祛逐旧的仪式;
umbram fugat véritas, 真理は影を追い払い 事实取消预像;
noctem lux elíminat. 光は夜を除去した。 光明消除黑暗。 
Quod in cœna Christus gessit, キリストが晩餐で行われたことを、 9. 基督在最后晚餐中所履行的,
faciéndum hoc expréssit 御自分の記念として  正是祂命了宗徒为纪念祂
in sui memóriam. これを行うよう命じられた。 而应重行的事。 
Docti sacris institútis, 聖なる制定により教えられ  10. 我们祝圣饼酒
panem, vinum in salútis パンとぶどう酒とを 作为救赎我们的牺牲,
consecrámus hóstiam. 私たちは救いのホスチアと聖別する。 是由于基督圣训所指示的。 
Dogma datur Christiánis, キリスト者たちに、ドグマが与えられた、 11. 麦面饼成为基督的身,
quod in carnem transit panis パンが肉となり、 葡萄酒变作祂的血,
et vinum in sánguinem. ぶどう酒が血と変化する、と。 这是基督徒当信的道理。 
Quod non capis, quod non vides,  あなたが理解せず見えないことを、 12. 用悟司而不能明了,用眼目而不能见到,
animosa fírmat fides,  ものごとの秩序の外にあることを 这是超乎物外的常态,只有活泼的信仰,
præter rerum órdinem. 生き生きとした信仰は堅固にする。 提供我们确实的肯定。  
Sub divérsis speciébus,  いろいろな外見のもとに 13. 肉眼所见到的是饼是酒,
signis tantum, et non rebus,  しるしだけのもとに、現実のもとではなく、 然而这些都是外表的形式罢了,
latent res exímiæ. 貴重な現実が隠れ給う。 内中所隐藏的,却是奥妙的事实。  
Caro cibus, sanguis potus :  肉は食べ物、血は飲物に、 14. 饼形内基督的身充为食粮,酒形内祂的血作为饮料,
manet tamen Christus totus  しかし、全キリストは  然而整个的基督,
sub utráque spécie. 両形色のもとましまし給う。 却在饼或酒的形内。  
A suménte non concísus,  拝領者によって、切断されず、 15. 领圣体的人是领整个的基督,
non confráctus, non divísus :  裂かれず、分かたれず、 祂是不得损割,
ínteger accípitur. 完璧に領受される 不得破碎而又不得分裂的。 
Sumit unus, sumunt mille :  一人が拝領しても、千人が拝領しても、 16. 无论一人或千人领之,
quantum isti, tantum ille :  この人が受けたように、あの人も同じく、 各人所领到的全属均等,
nec sumptus consúmitur. 尽き果てることがない。 基督决不因被人领食而遭受消耗的。  
Sumunt boni, sumunt mali  善人が拝領するのと、悪人が拝領するのとでは、 17. 善人领主与恶人领主完全相同,
sorte tamen inæquáli,  しかし、命の或いは内的な 然而结果却大相差别:
vitæ vel intéritus. 結果は異る。 一则是生活,一则是死亡。  
Mors est malis, vita bonis :  悪人には死が、善人には命が 18. 善人因而得生,恶人因而死亡,
vide, paris sumptiónis  同じ受領が、どれ程の異なる結末と 你当注意,他们同样领食
quam sit dispar éxitus. なるかを見よ。 而结果有如此的不同。  
Fracto demum sacraménto, ついに秘跡がさかれても、 19. 当饼形剖分之时,
ne vacílles, sed meménto, ゆるがされずに、思い出せ、 你该记着,切勿怀疑,
tantum esse sub fragménto,  一片のもとにも、 整个的基督怎样存在于全的饼形内,
quantum toto tégitur. 全体のもとと同じように、包まれている。 同样的存在于饼形的各分内。  
Nulla rei fit scissúra :  現実はさかれない、 20. 的确,圣体是不得分裂的,
signi tantum fit fractúra :  しるしだけが砕かれる、 所分的只是形像。
qua nec status nec statúra  それによって意味された方の 形像的大小与式样可能更改或变动,
signáti minúitur. 状態も背丈も小さくならない。 而基督的圣体,却绝对不得增损。  
Ecce panis Angelórum, 見よ、天使達のパンを、 21. 这是天神的食粮,
factus cibus viatórum :  旅人の糧となったこれを、 成为旅世的人之养料,
vere panis filiórum,  正に子らのパンであり、 真是天主子女的食物,
non mitténdus cánibus. 犬へ投げやってはならない。 不得投给狗群的。  
In figúris præsignátur, 前表において、既に予告されていた。 22. 关于这奥迹,古时有了象征的史迹,
cum Isaac immolátur : イザクが屠られるとき、 有依撒格的被作祭品,
agnus paschæ deputátur :  過越の子羊が食されるとき、 有巴斯卦羔羊的被宰,
datur manna pátribus. 太祖らにマンナが与えられるとき。 有赐给我们祖先(依民)的玛纳。  
Bone pastor, panis vere,  よい牧者よ、まことのパンよ、 23. 身为善牧和真粮的耶稣,
Iesu, nostri miserére :  イエズスよ、われらをあわれみたまえ。 求祢矜怜我们吧!
tu nos pasce, nos tuére :  われらを牧し、われらを守り、 请祢养育我们,保护我们,
tu nos bona fac vidére  生きる人々の地において、 并使我们在永生者的
in terra vivéntium. 我らをして善を見させ給え。 天乡获享真福。  
Tu, qui cuncta scis et vales :  御身は、すべてを知り、おできになり給う、 24. 祢是全知又是全能的,
qui nos pascis hic mortáles :  ここで死すべき我らを牧し給う。 祢是养育在世为人之我们的,
tuos ibi commensáles,  あそこで御身と共に食卓に着く者として 求祢使我们在天作祢的同席者和祢的同继承者,
coherédes et sodáles  共に天の遺産の相続者としてまた友人として、 并使我们偕同祢的诸圣同
fac sanctórum cívium. 諸聖人の市民として我らをなさしめ給え。 为天国的公民。
Amen. Allelúia アメン、アレルヤ。 阿们。阿肋路亚。
+ Sequéntia sancti Evangéli secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦 福音
1. Ioann. 6, 56-59. ヨハネ 6ノ56-59 (若6:56-59)
In illo témpore : Dixit Iesus turbis Iudæórum : Caro mea vere est cibus et sanguis meus vere est potus. Qui mandúcat meam carnem et bibit meum sánguinem, in me manet et ego in illo. Sicu misit me vivens Pater, et ego vivo propter Patrem : et qui mandúcat me, et ipse vivet propter me. Hic est panis, qui de cælo descéndit. Non sicut manducavérunt patres vestri manna, et mórtui sunt. Qui manducat hunc panem, vivet in ætérnum. そのとき、イエズスは、ユダヤ人たちにおおせられた。「私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。生きておられるおん父が私をつかわし、そのおん父によって私が生きているように、私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてもなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。 那时候,耶稣向犹太人群众说:“我的肉真是食粮,我的血真是饮料。谁吃我的肉,喝我的血,他在我内,我在他内。如同生活的父遣我来,如同我因父而生活;照样,吃我的,也将因我而生活。这是自天而降的粮食,不像你们祖先所吃过的——他们死了。谁吃这粮食,将永远活着。”
Credo 信経  
Ant. ad Offertorium. Levit. 21, 6. 奉献文 レヴィ記、21ノ6 奉献咏(肋21:6)
Sacerdótes Dómini incénsum et panes ófferunt Deo : et deo sancti erunt Deo suo, et non pólluent nomen eius, allelúia. 主の司祭は、天主に香とパンとをささげ奉る、これがために、かれらは天主に対して聖なるものとなるだろう、彼らは天主の御名を汚さぬ、アレルヤ。 上主的司祭奉献天主馨香和食品,所以他们对于他们的天主,应是圣洁的,不应污辱祂的名号,阿肋路亚。
Secreta. 密誦 密祷经
Ecclésiæ tuæ, quǽsumus, Dómine, unitátis et pacis propítius dona concéde : quæ sub oblátis munéribus mýstice designántur. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御身の教会に一致と平和の賜を憐れみ深く与え給え、その賜物は捧げられたいけにえのもとに神秘的に意味されるなり。天主として、(…)。 主,我们所献上的礼品(饼、酒),便是统一与和平的玄妙象征,求祢将此两恩,赐给祢的教会。因我们主……。
Præfatio de Ssma Trinitate (in Dominica in solemnitate) 主日の荘厳祭では 三位一体の序誦 天主圣三的颂谢引
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes :  主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属于我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣……
Ant. ad Communionem. 1. Cor. 11, 26-27. 聖体拝領誦 コリント前、11ノ26-27 领主咏(格前11:26-27)
Quotiescúmque manducábitis panem hunc et cálicem bibétis, mortem Dómini annuntiábitis, donec véniat : itaque quicúmque manducáverit panem vel bíberit calicem Dómini indígne, reus erit córporis et sánguinis Dómini, allelúia. あなたたちがこのパンを食し、この杯を飲む毎に、主のご死去を告げる、彼が来給うまで。それ故、ふさわしからず、主のパンを食し、その杯を飲む者は、主の御体と御血とを冒涜する被告となる、アレルヤ。 你们每次吃这饼,喝这爵,就是宣布主的死亡,直到祂来临为止。所以谁不正当地吃主的饼或喝主的爵,对于主的体血有罪,阿肋路亚。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经
Fac nos, quǽsumus, Dómine, divinitátis tuæ sempitérna fruitióne repléri : quam pretiósi Corporis et Sanguinis tui temporalis percéptio præfigúrat : Qui vivis. 主よ、願わくは、我らをして御身の天主性を永遠に味わわせ給え、この世における御身の尊き御体と御血との拝領はその味わいを前兆するなり。聖父なる天主と・・・。

主,求祢恩使我们永远饱享祢的天主性:如今领受祢的圣体圣血,即此享受的预像。祢和天主父……。

 


【聖体の黙想】聖体は天国における光栄の王である

2020年06月09日 | カトリックとは

テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体礼拝の理由 The Motives of the The Eucharistic Adoration
   
聖体は天国における光栄の王である III The Eucharist is Our Lord Crowned King of Glory in Heaven. 
   
 礼拝 聖体の秘跡の中にこもっておいでになる御者が、天国での光栄のうちに宇宙を統治されているキリストご自身にほかならないことは、信仰箇条の示すところである。 1. Adoration. It is a truth of faith that Christ enclosed in the bread of the Sacrament is absolutely and personally the same as the triumphant Christ reigning in heaven. 
イエズスは悪魔と死とを征服されて天国にのぼり、天使の群に囲まれて天父の右にお座りになっている。そこで、太陽よりもまぶしく光り輝く王冠をお受けになったのは、地上で卑しめられ、侮(あな)どられた主の人性である。かつて、ののしりや暴言を聞かれたキリストは、今では、絶えない賛美と感謝の歌を耳にされ、すべての天使と聖人が御前にひれ伏して、最上の礼拝をささげるのをごらんになるのである。 Jesus ascended to heaven by right of conquest; He is seated upon the throne of God the Father, surrounded by all the angelic hierarchies. He reigns there as supreme Master. It is His humanity, so often humiliated and so maltreated upon earth, which is crowned in heaven with glory, surrounded with light more dazzling than that of the sun; it is the Christ, formerly blasphemed and insulted, who listens to praises, canticles, and ceaseless acclamations; who sees the angels and saints prostrating themselves and casting their crowns at His feet, in sign of supreme homage. 
さて、今、聖体の中においでになるのが、この光栄の王なるキリストであるなら、ここでも天国と全く同じ支配権をもっておられ、また人類から全く同じ礼拝と賛美と服従とをお受けになるはずではないだろうか。 Well! if the crowned Christ resides indeed in the Sacrament, He has the same rights to reign there, there to be obeyed, adored, honored, and praised. 
だから、あなたもまた理性と心と意志とをもって主の御前にひれ伏し、天国で主が絶え間なくお聞きになる賛美歌を歌おう。『屠られたまいし小羊は、権威と富と、英知と能力と、尊貴と光栄と祝福とを受くるにたえたもう者なり。アーメン』と。 Give utterance then, whilst prostrating your mind, your heart, and your will at His feet to adore Him in the Sacrament, give utterance to the praises to which He listens uninterruptedly in heaven: "The Lamb that was slain is worthy to receive power, and divinity, and wisdom, and strength, and honor, and glory, and benediction," forever and ever. Amen. 
   
感謝 天国の光栄ある大王が、この秘跡によって、地上で いともあわれみ深く柔和な王となられたことを心から感謝しよう。天父のみ旨に従い、霊魂の救いのために地上におくだりになって十字架上で死なれた天主の御ひとり子が、世の終わりまで聖体の中におとどまりになるため再び地上に立ち戻られたのは、いちずに、その無限のご慈愛によるのである。 II. Thanksgiving. With all the powers of your soul give thanks to the glorious King of heaven, for having willed to make Himself the gentle and sweet King of the earth ki the Sacrament. It is indeed through sheer goodness that the Son of God, who accomplished His task here below by living and dying in the service of God and for the salvation of souls, has returned anew to remain on the earth, in the Eucharist, until the end of time. 
天国の王は、人間のまなこが、天主のご光栄の輝きを見るにたえず、人間の耳が天軍の賛歌を聞く能力のないのを知っておられたから、私たちを恐れさせないように、その御顔の光を隠し、御目のほのおをおおい、聖体の甘美な雲の中に最上の威光を閉じこめられたのである。このようにして、天国の所在は近くなった。すなわち、逐謫(ちくたく)の地はある意味で天上の故郷(ふるさと)と化し、戦いの教会は勝利の教会と一致することになったのである。 And in order not to alarm us, knowing that the eye of man could not bear to see the too dazzling light of glory, or the ear of man have strength to listen to the heavenly canticles, the King of heaven envelops the brightness of His face, the fire of His eyes, the radiance of His whole person in the sweet cloud of the Sacrament. His presence brings us nearer to heaven, it makes our exile resemble, in some small degree, the celestial country, and unites the Church militant to the Church triumphant. 
聖体の秘跡によって、もはや私たちは、地上で主を見たてまつることのできないのを悔む必要もなく、また天上で主を仰ぎたてまつることを不確実とも思わない。私たちは天国の富、そのあるじ、その大王を私たちのうちにもっているからである。 By its means we arc no longer distracted between the regret of not having seen Jesus upon earth and the uncertainty of not seeing Him in heaven; we have the Treasure, the Master, the King of our country with us. 
秘跡のうちにおいでになる主を賛美しよう。また、天国で主に感謝する天軍と声を合わせよう。 Render thanks to Him in the Sacrament, and join your thanksgivings o those which the angels and the saints render Him in heaven. 
   
償い あわれみの大王が地上に帰って来られるのをお迎えするとき、私たちは、たびたび実に大きな罪を犯している。主が非常に質素に、簡単に、また、謙遜においでになることをよいことにして、人々は主の存在を侮り、主の忍ばれた犠牲を考えない。主は天国と等しく、地上でも人々に服従されるためにおいでになったにもかかわらず、人々は主の御掟を軽蔑する。主がご受難によってかち得たもうた当然の賛美と礼拝とを受けようと望んでおられるのに、人々はピラトの法廷よりも、ますますひどい侮辱を主に加える。主は名誉と光栄とを期待しておいでになるのに、人々は主を全く忘れ、おろそかにし、主をおき去りにする。 III. Reparation. Men commit a great and universal sin against this merciful return of the King of heaven to earth. Taking advantage of His having adopted a mode of being which is simple, modest, humble, and abased, they despise and make no account of His presence or the sacrifices which it costs Him. He comes to be obeyed upon earth as He is in heaven; men live outside His law. He comes to receive on earth the praise and adoration due to Him after the humiliation of His Passion ; He is humiliated, and insulted in the Sacrament to a still greater degree than in the Pretorium. He comes that He may be honored, praised, exalted, and He is forgotten and left in contemptuous isolation, in shameful neglect. 
この無理解はいかに非道であり、この忘恩はいかに無法なことであろうか。償いをしよう。あなたはこの点についてどうであろうか? はたして天地の王、光栄の君にふさわしくホスチアに対しているだろうか。 Oh how barbarous is this want of understanding, how monstrous is this ingratitude! Make reparation; ask your own heart whether you have always treated the humble Host as being the King of heaven and of earth, and the Prince of glory. 
   
祈願 主が天国で光栄のうちに統治されるように、地上においても、聖体のうちに統治されるようお祈りしよう。 IV. Prayer. Pray that Jesus may reign upon earth in the Sacrament, even as He reigns in heaven in glory. 
ご昇天以来、主は統治なさらなければならない。これは主の権利である。教会の存在の目的は、主の霊的主権の建設と防衛と拡張以外にない。ところが聖体は主の地上での唯一の存在である。聖体にして侮られるようなことがあったなら、主はいかにして地を統治なさることがおできになるだろうか。 Since His ascension He must needs reign, it is His right; the Church exists only for the purpose of establishing, defending and extending His reign. And how can He reign upon earth, except by the Sacrament, the sole means of His presence and of His dwelling here below ? 
私たちがよく準備してたびたび聖体を拝領し、これを私たちの生命と努力、苦難と喜びとの中心とするなら、主は私たちの心の中で統治されるということができる。だから、たびたび聖体拝領の普及による主の内的統治の拡張のために祈ろう。 He reigns in our hearts when He is sufficiently often and sufficiently well received there to become the principle and the centre of life, of virtues, of labor, of sufferings and of joys. Pray then for the interior reign of Jesus in souls through frequent communion. 
また、私たちが盛大な聖体降福式を行ない、熱心な聖体行列を挙行するとき、主は外的光栄のうちに地を統治されるということができる。だからこれらの祭式がなるべく盛大に、また、敬虔に各地で行なわれるよう祈ろう。 He reigns in exterior glory when He appears upon the throne of the altar in the pomp of a solemn exposition, and in the triumph of processions. Pray then for the public and glorious reign of Jesus, and always honor Him with a worship as generous as it ought to be reverent. 
   
実行 聖堂に出入りするたびごとに、跪いて聖櫃中においでになる天国の大王を尊敬しよう。 Practice. Honor by a genuflection on entering and leaving the church, the presence of the King of heaven in the tabernacle. 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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