Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「3つのお知らせがあります」 2020年6月21日、聖心の荘厳祭に東京で録画した小野田神父のメッセージ

2020年06月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年6月21日、イエズスの聖心の荘厳祭に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

https://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo

https://www.marchforlife.jp/

https://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimage

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司祭の心は救い主の心「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与えること」

2020年06月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

イエズスの聖心の神秘を黙想しましょう。

皆様にYouTubeで「イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭の説教」の動画の書き起こしをご紹介いたします。

6月聖心の聖月を良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

+++

「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、

今日は私たちは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭を祝っています。ですから一緒に、イエズス様の聖心の神秘を黙想致しましょう。

【聖心の思い:私たちへの愛】

この祝日のミサの入祭唱にはこう歌います。

“Cogitatiónes Cordis eius in generatióne et generatiónem : ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame.”

「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」

天主は、私たちを救う為に、私たちに天主の命と、喜びと、至福の幸せを与える為に、全てを尽くされました。聖ヨハネはこう言っています、「天主は愛である」と。

天主の愛はとてつもなく大きく、私たちの想像を全く超えるものです。まさかそこまで、と思われるほど、信じられないほどの超絶した愛を、私たちに与えてくれました。私たちはこれを素直に、感嘆しつつ信じます。“Credidimus caritati.”「 私たちは天主の愛を信じた。」

聖パウロはこう言っています。

“scire étiam supereminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei.”

「計りしれないキリストの愛を知りさえする、あなたたちは天主の全き充満によって満たされる為に」と。

イエズス・キリストの聖心は、私たちの代わりに死を受け、御自分の十字架による死で、私たちに命を与えようと欲したのです。

私たちを力づけ、私たちを守り、将来の命の保証を与える為に、御自分の体で私たちを養う事を欲しました。

「キリスト教は、愛の宗教、愛の教えだ」と言われています。何故かというと、「天主が私たちをどれほど愛しておられるか、信じられないほどの巨大な愛の事実を、私たちに教えているから」です。そして天主は、愛によって私たちを、御自分の喜びに引き寄せようと欲しておられます。

私たちはこの真理、天主の愛をどれほどよく知り、認めて、これに御礼し、愛し返さなければならない事でしょうか。

特に、イエズス様が生まれた「馬小屋」、イエズス様が私たちの為に犠牲となった「十字架」、イエズス様がこの世の終わりまで私たちと共にいらっしゃる、真にまします「御聖体・御聖櫃」、この三つが、天主の愛、イエズスの至聖なる聖心の愛を、私たちが深く知るよすがとなる場所です。

私たちはどれほど、私たちに救いの道を教え、そして救いの手段を下さる天主に従わなければならない事でしょうか。そしてその道を歩み、その手段を有効に使わなければなりません。

私たちの主が制定した「七つの秘蹟」、これが私たちの霊魂の救いの為に、天主が私たちに与えて下さった必要な手段です。

残念な事に現代では、この秘蹟がないがしろにされています。秘跡の大切さが信じられていません。顧みられていません。この秘跡が大切にされていない事を御覧になるイエズス様は、どれほど御悲しみになる事でしょうか。

【聖心:最高司祭の心】

第2のポイントとして、私たちに対する聖心の愛の頂点は、「御聖体」と共に、「カトリックの司祭職である」という事を黙想致しましょう。

イエズス様の聖心、それは新約の大司祭の聖心です。何故かというと、イエズス・キリストは新約の大司祭であり、そして同時に天主の子羊、天主に屠られる天主のいけにえであるからです。全ての聖寵、秘蹟の全ての御恵みは、カルワリオの犠牲(いけにえ)、イエズス・キリストの至聖なる愛の聖心に由来しています。

「主の聖心の想いは、代々に:私たちの霊魂を永遠の死から奪い取り天国に導き、霊的な飢えにおいて、私たちを御自分の御体で養う」事を考えておられました。

その為に、イエズスの聖心の愛は、ある特別の人間を選び、御自分に似せる事を欲し給うたのです。この彼らに、第二のキリストとなる特別の権能を与える事を望まれました。十字架の上で主と共に自分を屠り、キリストのペルソナにおいて、カルワリオの犠牲を継続させる事を望まれました。そしてイエズスの御自分の御体を、イエズス・キリストに代わって、イエズス・キリストの名前で、信徒たちに糧として与える権能を授与する事を欲しました。

これが、私たちの主イエズス・キリストの愛の神秘です。カトリック司祭職の神秘です。

イエズスの聖心の愛の極みは、人類の聖化の大事業に、「人類の救霊」という永遠の大事業に、貧しい、つまらない被造物を使う事を望まれました。贖われて、そして赦された弱い罪びとに、御自分の司祭職の霊的な刻印を刻み込んで、永遠に刻み込んで、消せる事ができないように刻み込んで、救霊の業に協力させようと意志されました。

この決して消し去る事ができない霊の刻印は、霊魂に刻まれた司祭たちは、カトリック司祭たちは、聖変化の言葉を有効に、実効的に発声する事ができるようになります。天使たちでさえもできない、天使たちでさえも感嘆と讃美とそして感謝の言葉をするだけのとてつもない権能が、ちっぽけな人間である司祭に与えられました。愛の、イエズスの聖心の愛の知恵と、全能の業です。

残念ながら、現代教会では、これに反する事が広まっています。「洗礼を受けた人は、皆司祭だ、キリストの司祭職に参与している。だから私たちはミサで聖体も配れば、色々な事をする」と。

しかし、これは間違っています。平信徒には、キリストの司祭職の霊的な刻印が刻まれていないからです。叙階の秘蹟を受けていないからです。

1)司祭としての霊的な刻印を受ける事によって、叙階の秘蹟を受ける事によって初めて、司祭は人々に教える権能を受けます。天主の十戒を教え、福音を教え、そして道・真理・命であるイエズス・キリストを教え、十字架に付けられたイエズス・キリストを、福音を宣べ伝える、という権能です。

ところで、聖パウロはそれと同時に、こうも警告しています。「よい折があろうとなかろうと、くり返し論じ、反駁し、咎め、すべての知識と寛容とをもってすすめよ。人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快い事を聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」ところで、今、この健全な教えを忍ばない時がやってきたかのようです。

イエズス・キリストの2000年間教えてきた、イエズス・キリストの教えた2000年の聖伝の教えを、もはや忍ばない時がやって来たようです。健全な教えに耳を傾けず、新しい作り話に耳を傾ける時が来てしまったかのようです。

例えば、真理と誤謬を同じレベルに置く、全ての宗教を同じレベルに置くエキュメニズム。キリストを信じなくても人々は救われているという主張。真理や誤謬が区別されないでごちゃごちゃになっている信教の自由、何でも信じる事ができるという自由。天主への義務のない人権。パチャママ、その他偶像を天主の教会内に置こうとする宗教無差別の主義。天主が大地と決定的に一致したと主張するようなエコロジー、などです。

これらの作り話しは、イエズス・キリストの聖心から、イエズス様の制定された秘蹟から、御聖体への愛から、カルワリオへの参与から、イエズス・キリストの十字架から、イエズス・キリストの御母、天主の御母聖母から、人々の心を引き離そうとする作り話です。

2)叙階の秘蹟を受ける事によって司祭は、人々を聖化する権能を受けます。秘蹟を執行する事によって、特にミサ聖祭を捧げて、御聖体を授ける事によって、また同時に、告解の秘蹟を執行する事によって、人々や物を祝別祝福する事によって、人々と家庭と社会を聖化します。

カトリックの司祭という聖別された手には、どれほど偉大な宝が委託されている事でしょうか!どんな素晴らしい名医であっても、お医者様であっても、どれほど力がある金持ちの国の大統領であっても、たとえ天皇陛下であっても、天群の天使たちであってもできない、天主からの罪の赦しを与える、というこの権能を受けているのですから。

しかも、パンをイエズス・キリストの真の御体に聖変化させ、イエズス・キリストの本当の聖なる御体を信徒たちに与える事ができる、というのは、誰にもできない、カトリック司祭だけに与えられた、特別の天主からの特権です、権能です。

ミサ聖祭は、単なる共同体の集いではありません。単なるパンを分かち合う会食でもありません。ミサ聖祭とは、カトリックの教えによれば、「パンと葡萄酒の二重の聖変化によって、秘蹟的にキリストの屠りを執行して、カルワリオの十字架の犠牲を今ここで、現実化して、現存させる事」です。ミサ聖祭とはまさに、「カルワリオの犠牲(いけにえ)そのもの」です。同じ司祭、同じいけにえ・犠牲です。

カトリック司祭とは一体何であるか、そのアイデンティティーを、私たちの先祖の神父様方々はよくご存知でした。たくさんの例があります。

例えば、福者ジュリアン中浦神父様。大迫害のさなかに、口之津(くちのつ)を拠点として九州各地の信徒たちに、悔悛の秘蹟、そして御聖体の秘蹟を授ける為、信徒の霊的な世話に奔走しておられました。足が悪かったのですが、毎年4000名以上の信徒の告解を聞いていました。大迫害の真っ只中です。そして最後には、10ヶ月にわたる厳しい取り調べと拷問を受けて、ズタズタになって、最後には穴吊るしを4日間、「この大きな苦しみを、天主への愛の為に」と耐え忍んで、殉教していきました。

他にもあります。例えば、福者ペトロ・カスイ岐部神父です。岐部城主左近大夫(さこんたゆう)の子供で、もちろんお殿様になる事もできました。しかし、「自分は司祭になりたい」と、19歳の時から、司祭になる為の訓練を受けました。そして司祭になる為に、ローマまで歩いて行きました。インドのゴアからローマまで歩いていました。そして1620年、ローマで司祭に叙階されました。叙階の後に、ローマの有名なグレゴリアン大学で神学を学び続け、イエズス会の修練院で修練期を送ります。

もちろんローマは素晴らしい大きな都です。キリスト教の総本山です。美しく、大聖堂が多くあり、人々は優しく親切で、安全で、司祭として祈り、勉強し、そして修道生活をする、信徒たちに囲まれてローマで活躍する事は、全く問題なくできたはずです。楽園のような、天国のようなローマで、そのまま一生を安全に終える事もできたはずです。

しかしこの福者ペトロ岐部神父様は、イエズス会の総長に懇願したのです、「お願いします。日本に行く許可を与えて下さい。」

「お前の命は危ないぞ。ここにいた方がいいんじゃないか。」

しかし、ペトロ岐部神父様の決意は誰にも揺るがす事ができませんでした。なぜかというと、「霊魂の救いの為に、日本にいる霊魂の救いの為に、命をかけて自分は働きたい」と願っていたからです。「霊的に養いたい」と思ったからです。1630年、43歳の時に、総長の許可を得て、16年ぶりに日本に帰国します。

福者ペトロ岐部神父様は、特に仙台領で命がけで信徒たちの世話をし、秘跡を与え、御聖体を与え、告解の秘跡を施し、そして1639年、江戸で穴吊るしにあって、殉教しました。どんなに尋問を受け、どんな拷問を受けても、決して転びはしませんでした。

日本だけではありません。朝鮮でもそうでした。聖金大建アンドレア。中国大陸を横断して、マカオまで移動して、そして勉強し司祭に叙階された後、命の危険を冒して朝鮮に戻ります。その理由はたった一つです。秘蹟を信徒たちに授ける、ミサ聖祭を捧げて御聖体を与える、告解を聞く、その為です。信徒たちの救霊の為に。

司祭の心は、救い主の心。

「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える」という事。

【最後に:イエズスの聖心を愛そう】

では最後に、私たちはこのイエズス様の聖心の熱い想いと、そしてイエズス様の聖心に倣うカトリック司祭の想いを黙想した後に、遷善の決心を立てましょう。

イエズス様の聖心の広さ、その深み、その高さ、これを垣間見て、この愛に愛で答える事ができますように、お祈り致しましょう。また、イエズスの聖心に倣う多くの聖なるカトリック司祭が生まれるますように、召命が生まれますように、お祈り致しましょう。

ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。ファチマの聖母は1917年6月13日、人類にご自分の汚れなき御心をお見せになりました。それは、イエズスの聖心と全く同じ御心でした。

汚れなき御心によって、私たちもイエズス様の聖心に倣う事ができますように、そしてイエズス様の聖心に倣う司祭たちが与えられますように、イエズス様の聖心をますますお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。

「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える事。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




【聖体の黙想】聖体は私の兄弟である

2020年06月24日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

人である聖体

聖体は私の兄弟である

 礼拝 私たちは聖体の中にいらっしゃる私たちの兄弟であるイエズスを堅固な信仰をもって礼拝し、深い感謝の念をもって敬わなければならない。愛と、やさしさと、熱心とに満ちたイエズスは、私たちと結ばれた兄弟の契りを永遠につなごうとして、今ここに聖体の中においでになるからである。
私たちは真心から、イエズスが私の兄弟であることを信じているだろうか。天主の御ひとり子が、その被造物の兄弟となるまでにへりくだられたことを信じているだろうか。被造物である人間が、創造主の兄弟とされるまでに高められたということを、まことに信じているだろうか。ああ、しかし、それはまことにそうであったのである。
聖アウグスチヌスは次のようにいった。『彼こそは造られざる御父の御胸の中に永遠から永遠においでになる天主の御ひとり子であった。ところが私たちの兄弟となるために、私たちと同じ被造物の性を受け、御母の胎内を過ぎて、天からおくだりになったのである』と。
このようにして、ひとつのペルソナのうちに人性は天主性と合わされ、天主の御子は人の子となられた。それゆえ天主の御子は、人として同じ性、同じ血を有している多くの兄弟をもたれるに至ったのである。天主の御ひとり子は人類の兄となられた。すべての人、人である以外には主と共通するものを何ひとつ持たない者でも、主の弟とされたのである。そればかりではない。主はご自身がおとりになった同じ人性をもっている私たちに、ある意味でその天主性をも分け与えて、私たちを天主の子らとし、なお完全にご自身の弟とされた。これによって、私たちは主と人性を同じくするばかりでなく、主と同じ天主の生命にあずかって、天国の家督をいっしょにする身分となった。聖書に『天主は予知したまえる人々を御子の姿にあやからしめんと予定したまえり。これ御子が多くの兄弟のうちに長子たらんためなり』とあるのはこのことである。
だから私たちとイエズス・キリストとの兄弟的関係は、人性と恩恵とのふたつの基礎の上に建てられている。すなわち主が私たちからとられた人性と、私たちに与えられる天主性とのふたつ、言いかえるなら主がおいでになって私たちとお分かちになったこの朽ちるはずの生命と、現世においては恩恵をもって、天国においては光栄をもって私たちを飾られる天主の生命とのふたつによって、 との兄弟的関係が成り立つ。 そしてこの関係は、聖体によって継続され、保証される。すなわち、よみがえられたイエズスは、私たちと同じご肉身と御血、人としてのご霊魂と、また人であるすべての性とを聖体の中に有しておられ、聖体によって天主の性を私たちに与え、これを保護し、これを養われるのである。
私たちは、私たちの最上の光栄、最大の幸福である、このように真実で尊い兄弟の契りを結ばれた主に深く感謝しながら申しあげよう。『イエズスよ、天主の御言葉、いと高き者の御ひとり子、わが天主なるイエズスよ、主の光栄は限りない。これに反して私たちは、いともあさましく虚無であるのに、御身は私たちの兄とおなりになった。主は聖であって、私たちは罪人なのに、御身と私たちとは同じ肉体をもつことになった。私たちは天において御身と同じ父をもち、地においてもまた同じ母をもつ光栄を与えられた。ああ、わが兄よ、わが骨肉よ』と。

感謝 主の信じがたいほどの御いつくしみ、私たちを兄弟としてくださる最も真実で、偽りない愛を考えよう。なんのために主は私たちの兄弟となられたのか。それは義となさる主と、義とされるであろう私たちとが、同一の聖徳を分けるためではないだろうか。まさにこのためにだけ、主は私たちのひとりとなって私たちを兄弟と呼ぶことをいとわれなかったのである。主は兄弟の名にふさわしくなるため、また、聖パウロもいったように、私たちの弱点をいたわるために、『罪を除くのほか、万事において、私たちと同じく試みられる者』となられたのである。
実に、主のご生涯を見るなら、どれほどそれが私たちの生涯と同一であったかがわかるであろう。主は私たちの貧しい家、粗末な食物、困難な労働をお分かちになった。主は飢えと渇きと暑さと寒さをお感じになった。さらに特別に私たちの試練と艱難、すなわち憎悪、讒言(ざんげん)、迫害、憂い、恐怖、疲労などをも知り、いろいろな心の苦悩、たとえば忘恩、背信、遺棄、別離の悲しみなども経験された。またそのご肉身に加えられた暴力については、主の受けられた無法な打擲(ちょうちゃく)、非道な取り扱いのありさまは、かつて人間が受けたことがないほどのものであったといっても言い過ぎではない。
光栄のうちにおいでになる今日でも、主はなお私たちの兄弟であることをお望みになる。主は私たちがこれをよく理解するために、復活のあと、御墓に行った婦人たちに、すぐに、『行きてわが兄弟たちに告げよ』とおっしゃった。そして聖体の秘蹟をもってこの荒涼たる地上に戻られたのである。主は弱く、貧しく、無力にして、反対を受け、讒言(ざんげん)され、迫害され、裏切られ、捨てられ、冒瀆されながら、どこにおいても私たちのひとりとして存在を続けられる。
実に、主は私たちの兄弟、私たちのひとりである。主は兄として私たちを導き、私たちを保護し、私たちを助け、天のふるさとと、そこにおいでになる私たちの天父とを私たちに語られる。そして、懐かしい天国にはいる日まで、主の御家、すなわち教会は、主とともに私たちを宿し、主の食卓はまた同時に私たちの食卓でもあって、私たちが主とともに分けるパンは、主が最後の晩餐にあたってまず最初に食されたパンである。
これ以上に真実な、親密な、そしてまた幸福な兄弟の生活が他にあるであろうか。私たちは聖櫃の中においでになる主を兄弟として愛し、聖体拝領によって主を求め、主と一致するようにしよう。

償い イエズスが兄弟たちに売られたのは、ただしるしとしての旧約のヨゼフの物語としてだけでなく、実に悲しむべき現実であった。
だれが主を銀三十枚で売りたてまつったのか。それは主と同じ屋根の下に眠り、食卓を共ともにし、一緒に親しく生活して主に兄弟と呼ばれた者のひとりではなかっただろうか。だれが主を今日聖体の秘蹟において、あるいは自分の卑しい欲情に、あるいは憎むべき冒瀆者の手に裏切っているのか。ああ主の食卓に列し、平和の接吻を主になし、ともにパンを裂きながら、アベルよりも正しく、ヨゼフよりも罪のない主の御血を悪魔にわたす偽兄弟は、いったいなんぴとであろうか。
これらすべての憎むべき背信の行ないが今も行なわれていることを思い、兄弟としての愛とまこととを主に示して、尊い兄弟の悩む聖心をお慰めしよう。

祈願 肉身の兄弟に対すると同じような真実、熱心、献身的な愛をもって隣人を愛することができるよう、愛徳の賜物を主にこいねがおう。そのためには、犠牲をいとわず、謙遜、親切でなければならない。イエズスは聖体の秘蹟の中で、どのようにあなたに対されるだろうか。『わがなんじらを愛するごとく、なんじら互いに相愛せんことを。これわが命なり』とおっしゃったのは、主が聖体を定められたときのことであった。だから聖体拝領に際して、特に隣人に対する愛徳の賜物を求めなければならない。
 
実行 互いに熱心に祈ろう。特に目下の者のために。




【再掲】洗者聖ヨハネの賛歌 Ut queant laxis resonare fibris

2020年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

6月24日は洗者聖ヨハネの祝日です。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌にまつわるお話をご紹介します。

Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の翻訳をご紹介します。

ラテン語

Ut queant laxis resonare fibris
mira gestorum famuli tuorum,
solve polluti labii reatum,
Sancte Iohannes.

このラテン語に一番正確なフランス語の訳は次の通りです。

« Afin que les serviteurs (de Dieu) puissent clamer à pleine voix les merveilles de tes actions, ôte l'erreur de leurs lèvres impures, saint Jean. »

インターネットで見つける訳では、本当は、gestorum tuorum (あなたの行為(複数)の)という意味なのに、リズムの関係で famuli tuorum となっていることに引きずられてか、famuli tui (あなとのしもべたち)という意味で訳したもののコピペが氾濫しています。

洗者聖ヨハネには、しもべたちがおらず、これは天主のしもべたちが、あなた(つまり洗者聖ヨハネ)の驚くべき生涯を歌うことができるようにして下さい、という意味なのです。そのところをこのフランス語はちゃんと理解しています。

英語で凝った訳として、ラテン語のリズムを生かして訳した次のものあります。

Let thine example, Holy John, remind us
Ere we can meetly sing thy deeds of wonder,
Hearts must be chastened, and the bonds that bind us
Broken asunder.

あるいは、

O for thy Spirit, Holy John, to chasten,
Lips sin-polluted, fettered tongues to loosen,
So by thy children might thy deeds of wonder
Meetly be chaunted

ベネディクト会のシスターであった Cecile Gertken, OSB (1902-2001) は次のように、ド・レ・ミという音を生かして訳しました。英語では Do が「ド」ではなく「ドゥ」ですけれど。

Do let our voices
resonate most purely,
miracles telling,
far greater than many;
so let our tongues be
lavish in your praises,
Saint John the Baptist.

日本語では、次のような意味になります。

しもべらがゆるやかな声帯で
御身の驚くべき行為を歌い響かせ得るように
けがれた唇の罪を赦したまえ
聖ヨハネよ。



韓国語の訳は次の通りです。

세례자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

中国語では、次のようです。

神的僕人以誠摯的歌聲
讚美令人驚嘆的神蹟,
以除去他們言語間的罪惡,
啊!聖若翰我們讚美你。

==2016年12月19日追記==

洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネ、の「ヨハネ」は、日本語では同じですが、中国語では(そして韓国語でも伝統的に)、別人だということを区別させるために、別の言葉で訳します。

天主教(カトリック教会)では、中国語訳(汉譯)として、
洗者聖ヨハネを「圣若翰洗者」と「若翰」とし、
福音史家使徒聖ヨハネを「约翰」として訳し分けています。

プロテスタント(新教)では、どちらも「约翰」とされているようです。

韓国語では、現代伝わるカトリックの教えは中国語経由で導入されたので、当時の漢字の韓国語読みを採用し、洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネとでは「ハン」に当たる漢字が別に当てられていたために、

洗礼者聖ヨハネを、요안
使徒聖ヨハネは 요왕
と訳し分けていました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

==追記終わり==


では、日本語をもう一度ご紹介します。
聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。

【晩課】

Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を響かせることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。

Nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。

Ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。

Ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。

【朝課】

Antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。

Praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった

Ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。

Non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。

【讃課】

O nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!

Serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ

Nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ

Ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。

Laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis.  贖われた者たちを容赦し給え。

Sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも

Amen.アーメン

韓国語の訳もご紹介します。

세레자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

저높은 하늘에서 내려온사신
위대한 주님탄생 알려주시고
이름과 생애까지 일러주시며
낱낱이 아버지께 예고하였네

그약속 의심했던 당신아버지
그즉시 언어능력 잃으셨으나
당신이 이세상에 태어나시자
잃었던 목소리를 돌려받았네

어머니 모태속에 숨어계실때
태중의 임금님을 알아보시니
양친도 당신덕에 눈이밝아져
놀랍게 숨은사실 드러내셨네

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

높은덕 빛나시는 세례자요한
죄없이 눈과같이 깨끗하시네
사막의 은수자요 크신예언자
용감한 순교자로 복되시도다

꽃으로 곱게꾸민 빛나는화관
성인들 머리위에 올려지나니
어떤이 이중화관 받아쓰지만
당신은 삼중화관 받아쓰셨네

무수한 공로세운 능하신이여
저희의 굳은마음 녹여주시고
함한길 고르시어 평탄케하사
굽어진 오솔길도 곧게하소서

만물을 지어내신 우리구세주
마음의 어지러움 물리치시고
깨끗한 저희마음 찾아오시어
거룩한 당신거처 마련하시리

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

아멘.









--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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