以下は大阪でのミサです。
以下は大阪でのミサです。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。
今週末:2020年6月26日(金)27日(土)28日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。
【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
6月26日(金) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
6月27日(土) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
6月28日(日) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
6月29日(月) 06:30 ミサ聖祭
【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。
住所: 東京都台東区入谷1-27-4
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』 Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ
6月28日(日)主日ミサが三回捧げられます。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】
Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 28, 2020.
Mass schedule in OSAKA:
Fri, June 26: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, June 27: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, June 28: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Mon, June 29: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、今日2020年6月28日聖霊降臨後第四主日です。
福音では私たちの主イエズス・キリストが、シモン・ペトロの船に乗って、そこから教えておられたと読みました。
そこで、今日は、初代教皇シモン・ペトロの船、つまり、教皇という教会の宝について黙想しましょう。
第一バチカン公会議の不可謬の教えから【聖ペトロの役割:教皇職】についてその特能と権限を知るためには、
特に、教皇に与えられた【不可謬のカリスマ】と【裁治権】を正しく理解しなければなりません。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。
6月聖心の聖月を、今日のこの日を聖として良くお過ごしください。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
▼全文はこちら▼
アヴェ・マリア・インマクラータ!
Ascéndens autem in unam navim, quæ erat Simónis,... sedens docébat de navícula turbas. Ut cessávit autem loqui, dixit ad Simónem : Duc in altum, et laxáte rétia vestra in captúram.
イエズスは一隻の舟にのられたが、それはシモンの舟であった、...その小舟から、すわって、人々にお教えておられた。話しおえてから、シモンに言った。「沖にのり出せ、あみをおろして漁をしなさい」と。
+ 愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は聖霊降臨後第四主日です。福音では私たちの主イエズス・キリストが、シモン・ペトロの船に乗って、そこから教えておられたと、読みました。そこで、今日は、初代教皇シモン・ペトロの船、つまり、教皇という教会の宝について黙想しましょう。
【1:聖ペトロの船:カトリック教会】
私たちの主が多くある船の中から特別に選んで乗ったのが、ペトロの船です。そこから主は群衆に教えを垂れました。主はペトロに「魚を捕れ」と命じます。
これは、将来、ご自分が聖ペトロを特別に選んで、使徒たちの頭として首位権を与え、このペトロの上に、新約のノアの箱舟であるご自分の教会を創立し、このキリストの教会つまりカトリック教会からご自分の代理者つまり聖ペトロの後継者を通して全世界に教えることの前兆でした。
私たちの主イエズス・キリストの聖心の愛は、十字架の上でご自分の命を私たちに与え、ご自身を御聖体として本当に与え、十字架の犠牲を続ける司祭職を与え、さらに、聖霊を与え、七つの秘蹟を与えました。それのみならず、さらには、ご自分の教会を花嫁として創立し、ご自分の代理者である教皇を私たちに与えてくださいました。
教皇制度という、歴史上の史料が証明するとおり最も古くから続いている君主制度は、激しい愛の宝の激流の私たちへのプレゼントです。
天主が立てた制度で私たち人間の作ったものではありません。
【2:聖ペトロの役割:第一バチカン公会議の教え】
では、イエズス・キリストからの愛のプレゼントがどのようなものであるのか、ペトロの役割、つまり教皇職、その権能と特能を、第一バチカン公会議の不可謬の教えから見てみましょう。
私たちの主は、信仰の最高の教師として使徒達をたてましたが、使徒たちの頭としてペトロを選びました。ローマ教皇は、聖ペトロの後継者であり、司教たちは使徒達の後継者です。
教皇や司教たちは、キリストの教えを自分に委ねられた者たちに伝え、それを純粋に守るように注意を払う責務を天主から受けています。こうして教皇と司教たちは、御昇天の後でも、イエズス・キリストの業を続けるのです。
御昇天の時、イエズス・キリストは宣言しました。「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる」と。
私たちの主は使徒達に向かって「あなたたちの言うことを聞くものは、私の言うことを聞くものである、あなたたちを拒否するものは私を拒否する」(ルカ10:16)とも言われました。使徒達の後継者である司教たちについても同じことが言えます。
【不可謬のカリスマ】
特に、聖ペトロの後継者であるローマ教皇には、聖霊が約束され、不可謬のカリスマ(特別な能力:特能、特権)が与えられています。第一バチカン公会議ではこれが信ずべき信仰箇条であることがはっきりを宣言されました。
【第一バチカン公会議 第4総会(1870年7月18日)キリストの教会に関する第1教義憲章「Pastor aeternus」第4章 教皇の不可謬教導職】
「ローマ教皇が使徒座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒継承の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、天主なる贖い主は、定義されるべき信仰と道徳おいてご自分の教会が不可謬的に教えられることを欲したが、聖ペトロにおいて約束された天主の助力を通して、不可謬性が与えられている。そのため、このローマ教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。」
Romanum Pontificem, cum ex cathedra loquitur, id est, cum omnium Christianorum pastoris et doctoris munere fungens pro suprema sua apostolica auctoritate doctrinam de fide vel moribus ab universa Ecclesia tenendam definit, per assistentiam divinam ipsi in beato Petro promissam, ea infallibilitate pollere, qua divinus Redemptor Ecclesiam suam in definienda doctrina de fide vel moribus instructam esse voluit; ideoque eiusmodi Romani Pontificis definitiones ex sese, non autem ex consensu Ecclesiae, irreformabiles esse.
(Pastor aeternus, DS 3074)
教皇が不可謬であるための条件は、第一バチカン公会議によって明確に提示されています。つまり教皇が、使徒座、教皇座から(ex cathedra)発言するときには不可謬です。つまり、次の四つの条件を満たすときです。
(1)【誰が】教皇が「全キリスト信者の牧者として教師として」、つまり、個人的な意見を述べるのではなく、教会の頭として、キリストから直接に受けた「その最高の使徒継承の権威」をはっきりと行使する時です。
第一バチカン公会議は「個人として、或いは、私的な教師として」の教皇が「異端に陥ることや異端を教えることは決して出来ない」とは教えているのではありません。「個人として、或いは、私的な教師として」ではなく、「全キリスト信者の牧者として教師として」教える場合に不可謬だと言います。
(2)【何を】内容は「信仰と道徳についての教義」でなければなりません。政策や行政問題、経済や雇用、移民、軍事基地、領土問題、その他などではありません。
(3)【どうする】この「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義」し、その教義を強制しなければなりません。もしもこれを信じることを拒否する人がいるなら、彼は、カトリック信仰をもはや持ってはいない、教会の外にある、排斥される、と明確に宣言しなければなりません。
(4)【誰に】この強制は、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。
つまり、諸民族の最高の教師として、ある信仰と道徳についての真理を、全ての信者たちが必ず信じなければならないドグマとして宣言するときです。
ただし、第一バチカン公会議が断言するように、聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、新しい教義を教えるためではありません。第一バチカン公会議には次のようにあります。
「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」
つまり、教皇はキリストの代理者であって、キリストの後継者ではありません。新しい教えを教えるのが役割ではありません。
【最高かつ十全な権限:裁治権】
第二に、教皇の不可謬のカリスマのみならず、教皇は地上における教会の目に見える頭として、全教会をキリストの名前において、最高かつ十全な権限(supremam et plenam potestatem iurisdictionis in universam Ecclesiam)をもって統治します。教皇は、正当に選出されたその瞬間から、キリストご自身から裁治の権能を直接得ています。(カトリック教会法109条及び218条)
「首位権における聖ペトロの後継者であるローマ司教(Romanus Pontifex)は、名誉首位権のみではなく、全教会に及ぶ最高、且つ、十全な栽治権の権能を(supremam et plenam potestatem iurisdictionis in universam Ecclesiam)有する、この栽治権は信仰と道徳および全世界に広まる教会の規律と統治に関するものである、この権能は、全ての、且つ、個々の教会(omnes et singulas ecclesias)に対する、並びに、全ての、且つ個々の司牧者および信者(omnes et singulos pastores et fideles)に対する、真の司教の固有の且つ直接の(episcopalis, ordinaria et immediata)権能であり、いかなる人間的権威からも独立したものである」
教皇が「全教会に及ぶ最高、且つ、十全(完全)な栽治権の権能」を持つ、とは、教皇が最高の目に見える頭だということです。最高で十全な権限を持つものは、一人しかあり得ません。ですから、カトリック教会は君主制と言われます。指導権力は二つでも三つでもない、ということです。教皇のみが普遍教会に対する最高かつ十全な権限・権能の唯一の主体ということです。
教皇は、たとえば、日本にいる私たち個々の信者に対しても、誰をも介さない直接の、通常(固有)の、司教としての権能をお持ちです。教皇は、イエズス・キリストから直接裁治権を受け、世界中の司教たちは教皇によって裁治権を受け、司祭たちは司教から裁治権を受けます。
教会を統治する裁治権は、教皇が司教に伝えるのであって、司教になる儀式を受けることによって、裁治権を自動的に受けるものではありません。ですから、聖伝によれば、司祭を司教にする儀式のことを「叙階」ordinatio とは言わずに、「聖別」consecratio と言います。何故なら、叙階による聖職の位階秩序とは区別されたものとして、裁治権の位階秩序は教皇によって与えられることを暗に示していたからです。
教皇は、時として、自分のもつ最高権力を、望みのままに、ほかの司教たちに伝えることができます。特別な場合には、ほかの司教たちに伝えて、団体的なものとすることもできます。公会議とは、教皇の最高の権能がほかの司教たちに伝えられた特別な場合です。特別というのは、聖伝によれば、天主から与えられた制度として、キリストの教会は君主制だからです。ですから、公会議というのは、教会にとっては、きわめて特殊な権力の形態なのです。
【3:第二バチカン公会議の団体主義は、聖ペトロの首位権を脅かす】
ところで、私たちが初代教会から信じ続けてきている教皇という聖心からの賜物は、第二バチカン公会議によると、「司教団体主義」と呼ばれているイデオロギーによって、別のものに替えられようとしています。
第二バチカン公会議は、「司牧的であることを目指し、新しい教義決定を行いませんでした。パウロ六世も1966年の一般謁見で言う通り、第二バチカン公会議は教会の教導職の不可謬権を使う荘厳な教理決定を避けた」
https://www.vatican.va/content/paul-vi/it/audiences/1966/documents/hf_p-vi_aud_19660112.html
シュナイダー司教も2020年6月24日にこう言っています。
「最近カトリック教会を愛する神学者や信徒の方々の中にも、第二バチカン公会議によって発言されたことを盲目的に擁護するという態度を持っている方々がおられます。しかしそのためには、丸を正方形にするほどのメンタル・アクロバットが必要です。第二バチカン公会議や教皇が言ったことやることは全て不可謬だと事実上考えているような方々もいます。
これは不健康な教皇中心主義です。教会の聖伝の中で、敬意のある批判と落ち着いた神学的議論はいつも存在し、許されてきました。何故なら私たちが求めているのは、真理であり、天主の啓示への忠実さ、教会の常なる聖伝への忠実さだからです。
私たちが必要とするのは、理性であって、メンタル・アクロバットではありません。もっと知的に誠実なやり方で、絶え間なく続いた教会の教えの光に照らして考察したとき、第二バチカン公会議の文書の明らかにあいまいで誤解を生じさせる表現に対する説明は、人工的で納得させるものではありません。」
では司教団体主義とは何でしょうか?
司教団体主義、collegialitas, collegiality, collégialité とは、教会憲章(Lumen Gentium) 第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について(§§18 - 29) に由来しています。
教会憲章によると、イエズス・キリストは12使徒たちを「使徒団」という団体(collegium)として制定し、「司教団」がこれを継承するとされています。
世界中の司教たちは「使徒団」を継承して「司教団(Collegium Episcoporum)」構成し、司教聖別を受けることによって自動的に司教団の中に組み込まれ、司教は、司教聖別と同時に教皇が望もうが望むまいが、司教団の一員として裁治権上の権能を受け取ることになっています。
第二バチカン公会議の新しい司教団体主義の教えが取り込まれた、新しい教会法336条によるとこうあります。
「司教団は、かしらとともに普遍教会に対する最高かつ十全な権限の主体として存在し、そのかしらなしには決して存在し得ない」と。
つまり、教皇という最高権力保持者と、かしらと共なる司教団という団体という、最高かつ十全な権力の保持者としての団体という、権力の主体が二つになっています。
そして、最近では、教皇は、一人で最高の権力を行使するよりは、シノドスの道といわれる「司教会議主義」で、教会の重要事項を決定するようになっています。司教団の構成員が、全世界の普遍教会を教皇とともに、あるいは多くの司教区を他の司教たちとともに、統治する権を持つことになってしまいます。
つまり、教皇は自分が持っている全世界に及ぶ普遍的権威を、常設的な司教団と共有しなければならないし、司教たちは羊の群れの牧者として彼らに固有の且つ直接の権能を全国の司教会議とともに共有していることになります。第二バチカン公会議は、教皇制度に反対しているのです。
たしかに、古代から、教会のかしらならびに構成員との位階的交わりがあり、法的形式を要求すると共に愛によって生かされている組織的な「交わり」があります。これは、sub et cum Petroという言葉で表現され、司教たちの指導者としての教皇と、従属的に、かつ合法的に、団結しています。
しかし、聖書のどこにも、また聖伝のどこにも、「使徒団」という団体に権力を与えたという記録も実践も存在していません。聖書の記述によると、唯一使徒たちが全て一致して行ったことは、omnes relicto eo fugerunt (Matth 26)「弟子たちはみなイエズスをすてて逃げ去った」です。
司教団体主義が問題な理由はもう一つあります。個人的な権威にかわって、数による支配が行われることです。多数決です。キリストの権威に基づく天主教会というよりは、民主主義の原理に基づく民主教会になってしまいます。キリストは、ご自分の権威を教皇という人格に与えられます。司教も、人格に与えられた権威です。しかし、数の原理によって、権威の根源はキリストから数に移行します。
団体主義により、教皇は自分の権威の十全をもはや効果的に行使しえなくなっています。
さらに司教たちは、──第一バチカン公会議の教えに反して──団体的にかつ恒常的に、最高権力の充満を分かちあっていると考えるようになりました。
教会とは、「天主の民」「神の民」であるという新しい概念とともに、教皇と司教たちとは、司祭らともに、新しい主権である「天主の民」に聞き従うことを自らに課しています。これは、権威の破壊を、教皇制度の破壊、従ってキリスト教的制度である家庭、神学校、修道会の荒廃を意味しています。
第二バチカン公会議の団体主義を拒むことこそ、真の意味での教皇職の支持者であり、カトリック教会に対する忠誠と愛とを示すことができます。
【4:遷善の決心】
ベネディクト十六世はカトリック教会全般について「沈みかけている船」と表現したことがありますが、日本でも世界のどこでも、司祭および修道者の召命不足のために、小教区の統廃合、修道院の事業縮小が進められ、以前カトリック国家と言われた国々では、大量のカトリック信徒の棄教や離教がテレビや新聞で報じられています。
ベネディクト十六世はかつてこう言ったことがあります。
「現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。・・・私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えると同時に、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。
人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです」と。
つい最近、元・駐米教皇大使のヴィガノ大司教は、現在のカトリック教会の信仰の危機は、第二バチカン公会議に由来すると警告しました。
キリストの教会つまりカトリック教会は、その君主制的教皇制度を変えることができません。昔のままの聖伝の使徒継承の教会を愛してください。教皇制度を愛してください。教皇のために祈ってください。
ファチマの聖母に祈りましょう。ファチマではマリア様は私たちに教皇のためにたくさん祈りなさいと願われました。
イエズスは一隻の舟にのられたが、それはシモンの舟であった。