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【聖アウグスチヌスの「告白」より】晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは、これほど古く、そしてこれほど新しい美しさよ! Sero Te amavi!

2020年06月10日 | 聖アウグスティヌス

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖アウグスチヌスの「告白」の有名な言葉をご紹介いたします。

晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは、
これほど古く、そしてこれほど新しい美しさよ!
晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは!

見よ、御身は中におられた、
しかし私は外にいた。
私はそこで御身を探していた、
御身が創り給いしこの美しいものへと
私は醜くのめり込んでいた。

御身は私と共におられた、
しかし私は御身と共にはいなかった。
御身から私を遠く留めていたものどもは、
もしも御身のうちになかったなら、
存在していなかった。

御身は呼び給い、叫び給い、
私の聾を貫き給うた。
御身はきらめき給い、輝き給い、
私の盲目を追い払い給うた。

御身は香り給うた。
すると私は息を吸い込み、御身を求めて喘いだ。
私は味わった。
すると私は飢え、また渇いている。
御身は私に触れ給うた。
すると私は御身の平和を求めて燃えた。

Sero te amavi, 晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは、 我愛你已經太晚了 늦게야 님을 사랑했습니다.
pulchritudo tam antiqua et tam nova, これほど古く、そしてこれほど新しい美しさよ! 你是萬古常新的美善 이렇듯 오랜, 이렇듯 새로운 아름다움이시여,
Sero te amavi. 晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは! 我愛你已經太晚了 늦게야 당신을 사랑했삽나이다.
Et ecce intus eras 見よ、御身は中におられた、 原在我心內, 내 안에 님이 계시거늘
et ego foris, しかし私は外にいた。 我卻在我外。 나는 밖에서,
et ibi te quaerebam, 私はそこで御身を探していた、 我在心外找尋 나 밖에서 님을 찾아
et in ista formosa quae fecisti 御身が創り給いしこの美しいものどもへと 奔向著你所創造的炫目的事物 당신의 아리따운 피조물 속으로
deformis inruebam. 私は醜くのめり込んでいた。 醜惡不堪的我。 더러운 몸을 쑤셔 넣었사오니!
Mecum eras 御身は私と共におられた、 和我在一起, 님은 나와 같이 계시건만
et tecum non eram. しかし私は御身と共にはいなかった。 我卻不和相借。 나는 님과 같이 아니 있었나이다.
Ea me tenebant longe a te 御身から私を遠く留めていたものどもは、 這些事物如不在你裏面便 당신 안에 있잖으면
quae si in te non essent もしも御身のうちになかったなら、 不能存在﹐ 존재조차 없을 것들이
non essent 存在していなかった。 但它們抓住我使我遠離你。 이 몸을 붙들고 님에게서 멀리했나이다.
Vocasti et clamasti 御身は呼び給い、叫び給い、 称呼喚我了, 부르시고 지르시는 소리로
et rupisti surditatem meam; 私の聾を貫き給うた。 你的聲音打醒我的孽贖; 절벽이던 내 귀를 트이시고,
coruscasti, splenduisti, 御身はきらめき給い、輝き給い、 祢發光了, 비추시고 밝히시사
et fugasti caecitatem meam; 私の盲目を追い払い給うた。 驅除我的幽暗 눈멀음을 쫓으시니,
fragrasti, 御身は香り給うた。 散發著芬芳了, 향 내음 풍기실 제
et duxi spiritum et anhelo tibi; すると私は息を吸い込み、御身を求めて喘いだ。 我聞到了, 我向你呼吸, 나는 맡고 님 그리며,
gustavi 私は味わった。 我嚐到你的滋味, 님 한 번 맛 본 뒤로
et esurio et sitio; そこで私は飢え、また渇いている。 我感到飢渴, 기갈 더욱 느끼옵고,
tetigisti me, 御身は私に触れ給うた。 撫摩我, 님이 한 번 만지시매 ​
et exarsi in pacem tuam すると私は御身の平和を求めて燃えた。 我懷著熾熱的神火想望的和平

위없는 기쁨에 마음이 살라지나이다.

主こそわが誉(ほまれ)よ かがやく光よ
こよなき安らいよ たぐいなき友よ
まごころ尽して われ愛しまつらん

いのちよ喜びよ ちからよ助けよ
汝(な)が慰めをこそ 我は待ちのぞむ
汝(な)が慈しみを われ何にたとえん

哀れみのみ神よ 天(てん)のみ助けよ
永久(とこしえ)の幸(さち)こそ わがあつき願い
空しく過ぎし日 み赦しを願わん

過ちいくたびぞ 罪のつぐのいを
残りなく果して みもとに帰らん
燃えよ愛の火よ 恵みにこたえて


聖体降福式は主の神的主権の表現である The Manifestation of the Personal Royalty of Jesus Christ.

2020年06月10日 | カトリックとは
聖体の顕示に関する黙想 The Exposition of the Most Holy Sacrament
   
聖体降福式は主の神的主権の表現である II. The Exposition of the Most Holy Sacrament is the Manifestation of the Personal Royalty of Jesus Christ. 
   
 礼拝 今日ここにお出ましになる主イエズス・キリストの玉座の御前にひれ伏して、少しでも主にふさわしくとの熱望から出る荘厳な祭式によって顕示される聖体を礼拝しよう。主が神権をもたれ、最上の栄誉を占められる御方であるとの真理を思い起こそう。 I. Adoration. Prostrate yourself, with great reverence, before the throne which the solemnity of the exposition has raised for the august presence of Our Lord Jesus Christ, and tried to render less unworthy of His royalty by means of the pomp and insignia of sacred worship. For you ought never to lose sight of the truth that Christ is King, truly King, and that as such, He has a right to supreme honor. 
キリストが私たちの主でいらっしゃるのは、キリストが天主であり創造主としての主権をもっておいでになるためだけではない。キリストはまた人としても私たちの主でいらっしゃる。なぜなら、キリストの人性は天主の御言葉のペルソナに合わせられ、天父から最上の権勢と万物の上における統治権とを受けられたからである。このようにご託身の瞬間から、キリストの人性は世界を統治し、これに掟を与え、すべての被造物から礼拝を受け、逆らう者を罰する権利をもっておられる。 He is King, not only inasmuch as He is God, and because of the title of His sovereignty as universal Creator ; but also inasmuch as He is man, for His human nature, in becoming the humanity of the Word, has necessarily received from Him a preeminence and a lofty dominion over all creatures. From the very moment of the Incarnation, this holy humanity has had, therefore, a right to reign, to dictate laws to the world, to require the homage of all created wills, and to punish those who refused such homage to it. 
だが実際には、主は世界を救うために屈辱と苦難との道を選び、しばらくいっさいの光栄を去って被造物に服従することを望まれた。これは主が、新しい征服と新しい勝利とによって栄誉と賛美とを獲得しようとお考えになったからである。このために、主はその目的を達するまで勇ましく戦いたもうた。そのご復活は死に対しての勝利であって、そのご昇天はすべての天使と人類との上に主権を確立されることであった。だからその時から、キリストは世界を統治され、人々に主として認められ、主として尊敬されることを望んでおられる。キリストはこのように望まずにはいられないのである。 But having resolved to redeem the world by humiliation and suffering, Christ the King renounced, for a time, the honors due to His royalty; He obeys His creature, He subjects Himself, true. Yet He desires, so to speak, to merit and receive all honor and praise through a new title, through new conquests, through new triumphs. He strove courageously and heroically and He conquered. His resurrection sealed His victory over death, His ascension permitted Him to occupy His throne above all angelic and human creatures, and from that time Christ reigns; He desires, in fact, to reign; He wills to be treated as a King and to receive royal homage; He could not, indeed, renounce it without dishonoring Himself. 
キリストの主権は、天においては完全に知れわたっている。黙示録によると、使徒聖ヨハネは、雨光雷鳴のほとばしり出る玉座の上に座しておられる小羊を見た。玉座の前には二十四人の老人が自分の冠を主の御足もとにおいて主を礼拝していた。玉座をめぐる無数の天軍は、いっせいに『屠られたまえる小羊は、能力と神性と英知と力と栄えと誉れと祝福とを受けたもうにふさわしきものなり』と歌っていた。 His royalty is magnificently acknowledged in heaven. Saint John beheld a throne whence issued thunder and lightning, and upon this throne, the Lamb seated in the calm majesty of His endless reign; and before the throne, twenty-four elders who adored Him, laying their crowns at His feet; then, round the throne, celestial hosts, who sang: "He is worthy, the Lamb who was slain, to receive power and divinity, wisdom and strength, honor and glory and benediction! " 
人にして天主なる御者は、どこででも同じ公の賛美を受けられるはずである。なぜなら主はいつでも――私たちへの愛のために卑しい犠牲となられたときでさえ常に主であるキリストでおいでになるからである。 It is evident that, wherever the Man-God is to be found, He claims the same magnificent, public, royal homage, because He is always the Christ-King, even when, through love of us, He becomes the humble Victim. 
だから、聖会は主を礼拝するために聖体降福式を制定して、すべての富、すべての光輝、すべての装飾を惜しまず、キリストが万人の主としてその国民を集め、彼らを祝福することができるようにしたのである。だから私たちも喜んでこの集会に連らなり、主に対する尊敬をあらわさなければならない。地上の帝王の宮廷の光栄は、そこに集合する廷臣の数にあるように、聖体の玉座の光栄もまた、その御前にひれ伏す信者の数にあるからである。 Now the Church has prescribed a royal rite for the worship of her Spouse. It is the solemn exposition of the Most Blessed Sacrament, to which she invites us, putting no restrictions on the richness, the splendor and the decoration of the throne on which the divine King appears to His people, in order to gather them around Him and to bless them. Come then to this throne and testify your affection. The greatest splendor of an earthly throne is the officers who assemble around it, and who honor and serve the royal majesty. 
   
感謝 救い主が天でなさると同様に、地上においてもご自分から主権を公にされることを感謝し、同時にこの真理を聖体降福式によって表現した母なる聖会に感謝しよう。 II. Thanksgiving. Render thanks to Christ for having willed to exercise His kingdom upon earth as in heaven, in person, and to the Church for having manifested it to you in the splendor of the Eucharistic worship. 
これまで世界は悪魔の圧制に苦しめられていたが、いまや、人類の正当な主でおいでになるキリストは、多くの勝利の栄冠をいただいて玉座の上に座し、世界に君臨される。これが世界の喜びでなくて何であろう。全能なる主が世界を治め、世界を保護されるのは、ひたすら私たちの利益のためである。これが人々の言いつくされぬ幸福とすべての祝福との源でなくて何であろう。聖会は私たちの必要とするところを熟知する母である。だから、私たちの肉眼の前に、ふだんは聖櫃のとびらの奥に隠れていらっしゃる主を示し、たびたび聖体降福式にあずかることを信者に勧め、愛すべき偉大な救い主を忘れさせないようにするのである。 Is not the presence of Jesus, our rightful King, consecrated with much holiness, and crowned with many victories, a supreme honor bestowed upon the world, subjected until then to the tyranny of Satan and ceaselessly persecuted by his wretched emissaries ? Is not the all powerful King present in our midst an invincible, active, vigilant, universal Protector? Is it not an inexpressible benefit, the source of all and every benefit, since Jesus reigns over the world only for the greater good of the world ? And the Church, in preventing us 'from forgetting Our King, by placing before our bodily eyes that which the eyes of faith alone enabled us to perceive behind the doors of the tabernacle, and by ordaining the frequent solemnities of the exposition, has she not shown herself to be the loving Mother who knows all our needs ? 
聖体の中においでになる私たちの主イエズス・キリストの御稜威(みいつ)とご慈愛とにあふれる御姿を礼拝する楽しさはいかばかりであろう。主は聖体顕示器の燦然たる輝きに包まれて出現される。玉座のもとには無数のともしびが、ちょうど天上の星のようにまばたいている。信者の歌う聖歌は常よりもいっそう荘厳で、彼らの礼拝はいっそうやうやしく、聖堂にみなぎる沈黙はいっそう深い。そしていっさいが主の愛すべき主権を賛美している。ああ地上の悲しい逐謫(ちくたく)の日の艱難(かんなん)と屈辱と不幸との間にあって、天主なる主の御前にこうして集まり、主を賛美し、主により頼み、私たちの心を主の御もとにあげることのできるのは、なんと大きな幸福であろう。 Ahl how sweet it is to contemplate the august and condescending royalty of the King of the Eucharist. He appears amidst the golden rays of the monstrance, upon a throne resplendent with lights, shining at His feet like the stars sparkling around His celestial throne; the hymns are more solemn, the reverence deeper, the silence more religious, the genuflections more humble. All speak His beneficent royalty. Ah! amidst the trouble, the humiliation and the sorrow of our painful exile here, lift up your hearts, whilst crowding round your divine King, whilst offering to Him your homage, whilst placing on Him all your hopes! 
   
償い 人類がキリストの掟を顧みず、また主なるキリストをあがめず、キリストの主権にそむいて犯す無数の罪とがを、聖体降福式に対する熱心と尊敬とによって償おう。主のお住まいである聖堂を荒れ果てた牢獄と化し、主のかわりに悪魔の統治を歌う不信心者のために償いをしよう。 主がまことに主でおいでになること、主が天で統治されるように地上でも統治されるよう、主のみ栄えの世々に尽きざらんことを主張しよう。 III. Reparation. By your attention, by your reverence, and by the splendor of the worship, make reparation for the universal crime which the nations commit against the royalty of Jesus Christ, in refusing to acknowledge Him to be their King, in rejecting His laws. Make reparation for those who drive Him back into temples transformed for Him into solitary and miserable prisons, and who welcome gladly the reign of Satan himself. Protest by your adoration, that "Christ is King; He must reign upon earth as He does in heaven, and of His kingdom there shall be no end." 
聖体降福式を、なおいっそう盛大にするため、財宝をおささげしよう。母なる聖会が主なるキリストの宮殿を飾るために金銀を惜しまないのを見て、これを非難する無理解な信者も世に少なくない。彼らは自分のためには少しも浪費を惜しまないのに、聖堂を美しくしたり、イエズスの主権を称揚するために財宝を奉献しなければならなくなると、突然吝嗇(りんしょく)になる。彼らはユダとともに『このむだづかいは何のためぞ』とつぶやきだす。彼らは、主の人性がかつてご受難に際して受けられ、また、今日聖体の中で受けておられる種々の屈辱に比例して、信心深い信者たちから大きな光栄を受くべき理由を忘れているのである。 Make reparation also by your generous cooperation in the splendor of the exposition, for all those selfish and unintelligent Christians who blame the holy prodigalities of the Church in adorning the palace of her royal Spouse; of those Christians who become penurious as soon as there is a question of bestowing splendor on God's earthly home or exalting by material adornment the royalty of Jesus Christ; who are tempted to say, "What is the good of this waste?" They forget that this holy humanity ought to have honors heaped upon it in proportion to the extent of the injuries which it received here below during its sorrowful Passion, and which is due to it also as a compensation for the humiliations of its Eucharistic state. 
   
祈願  Adveniat regnum tuum!『み国の来たらんことを。』ああ、聖体の中においでになる主よ、この言葉が私たちの日々の祈り、私たちの信仰の唯一の野心、私たちの絶え間ない希望であるように。聖体の中においでになる主の光栄のために、すべての面で聖体降福式の最も熱心なる支持者、協力者であるための恩恵を願い求めよう。 IV. Prayer. " Adveniat regnum tuum! May Thy kingdom come." Oh King of the Eucharist, may this be our constant desire, the object of our prayers and the sole ambition of our faith. Let us ask for grace, and let us make a resolution always to give an active cooperation in all that is attempted around us for the purpose of honoring the King of love in His sacramental manifestations. 
   
実行 聖体礼拝を目的とする信心会に入会し、さらに親類知人の間に同志を募って、キリストの玉座をめぐる礼拝者の数をふやそう。 Practice. Let us enroll ourselves in the congregations established for adoration and recruit adorers, that the throne of the King of kings may be always surrounded by a guard of honor. 

 


1635~1661:トリエント公会議第13総会:聖体についての教令 Sacrosanctum Concilium Tridentinum Sessio XIII

2020年06月10日 | カトリックとは
SESSIO XIII トリエント公会議第13総会:聖体についての教令
(11. Oct. 1551). (1551年10月11日)
Decretum de ss. Eucharistia 序文
1635 873a Sacrosancta oecumenica et generalis Tridentina Synodus..., etsi in eum finem non absque peculiari Spiritus Sancti ductu et gubernatione convenerit, ut veram et antiquam de fide et sacramentis doctrinam exponeret, et ut haeresibus omnibus et aliis gravissimis incommodis, quibus Dei Ecclesia misere nunc exagitatur et in multas ac varias partes scinditur, remedium afferret, hoc praesertim iam inde a principio in votis habuit, ut stirpitus convelleret zizania exsecrabilium errorum et schismatum quae inimicus homo his nostris calamitosis temporibus in doctrina fidei, usu et cultu sacrosanctae Eucharistiae superseminavit, quam alioqui Salvator noster in Ecclesia sua tamquam symbolum reliquit eius unitatis et caritatis, qua Christianos omnes inter se coniunctos et copulatos esse voluit. Itaque eadem sacrosancta synodus, sanam et sinceram illam de venerabili hoc et divino Eucharistiae sacramento doctrinam tradens, quam semper catholica Ecclesia ab ipso Iesu Christo Domino nostro et eius Apostolis erudita, atque a Spiritu Sancto illi 'omnem veritatem in dies suggerente' (cf. Jn 14,26) edocta retinuit et ad finem usque saeculi conservabit, omnibus Christi fidelibus interdicit, ne posthac de sanctissima Eucharistia aliter credere, docere aut praedicare audeant, quam ut est hoc praesenti decreto explicatum atque definitum. 1635(873a)神聖にして侵すべからざるトレント世界教会会議は、・・・聖霊の特別の導きと摂理をもって、信仰と秘跡とについての古来からの真の教義を表明すること、そして現在天主の教会を哀れにも苦しめ、多くの様々な部分へと粉々に引裂いているすべての異端とその他の非常に重大な困難とに対する解決策を提供することを目的として召集されたのであるが、特に最初から既に、現代の不幸な時代に、私たちの救い主は、それによってすべてのキリスト者が互いに結びつき一致することを望み給い、教会の一致と愛との象徴としてご自分の教会に残し給うたそのいとも神聖な聖体の信仰の教義、聖体の執行および聖体の礼拝に関して敵がまいた極めて忌まわしい誤謬および離教の毒麦(マテオ13・25参照)を完全に根絶することを特に望んだ。それゆえ、同じいとも聖なる公会議は、この尊敬すべき天主の聖体の秘跡についてかの健全な正しい教えを、すなわち、聖体の秘跡について私たちの主イエズス・キリストとその使徒たちによって教えられ、また、すべての真理を思いださせる聖霊によって(ヨハネ14・26参照)導かれたカトリック教会が保ち、世の終りまで守り続けるべきその教えを伝えつつ、全てのキリスト信者達に、この後、いとも聖なる聖体について、この教令によって説明され定義されたことと異なったことを敢えて信じ、教え、説くことを禁ずる。
Cap. I. De reali praesentia Christi. 第1章 いとも聖なる聖体の秘跡における私たちの主イエズス・キリストの実在
1636 874 Principio docet sancta Synodus et aperte ac simpliciter profitetur, in almo sanctae Eucharistiae sacramento post panis et vini consecrationem Dominum nostrum lesum Christum verum Deum atque hominem vere, realiter ac substantialiter (can. I) sub specie illarum rerum sensibilium contineri. Neque enim haec inter se pugnant, ut ipse Salvator noster semper ad dextram Patris in caelis assideat iuxta modum exsistendi naturalem, et ut multis nihilominus aliis in locis sacramentaliter praesens sua substantia nobis adsit, ea exsistendi ratione quam etsi verbis exprimere vix possumus possibilem tamen esse Deo, cogitatione per fidem illustrata assequi possumus et constantissime credere debemus. 1636(874)まず、聖なる公会議は次のことを教え、簡単明瞭に表明する。尊敬すべき聖なる聖体の秘跡において、パンとブドー酒の聖別の後、まことの天主でありまことの人である私たちの主イエズス・キリストが、真に、現実に、実体的に、かの[=パンとブドー酒の]可感覚的な形色のもとに含まれている(DzS1651)。事実、私たちの救い主が、[ご自分に生まれつきの]自然な存在の仕方に従って天において常に聖父の右に座しておられることと、われわれが言葉で言い表すことはほとんど不可能ではあるが、しかし天主には可能であると、信仰に照らされた認識によって私たちは同意することができ、また常に固く信じなければならない存在の仕方(ratio)によって他の多くの場所に秘跡的に御自分の実体によって現存しつつ私たちに臨在しておられることとは、互いに矛盾しない。
1637 874 Ita enim maiores nostri omnes, quotquot in vera Christi Ecclesia I fuerunt, qui de sanctissimo hoc sacramento disseruerunt, apertissime professi sunt, hoc tam admirabile sacramentum in ultima Coena Redemptorem nostrum instituisse, cum post panis vinique benedictionem se suum ipsius corpus illis praebere ac suum sanguinem disertis ac perspicuis verbis testatus est; quae verba a sanctis Evangelistis commemorata (Mt 26,26 ss; Mc 14,22 ss; Lc 22,19s), et a divo Paulo postea repetita (1Co 11,23ss), cum propriam illam et apertissimam significationem prae se ferant, secundum quam a Patribus intellecta sunt, indignissimum sane hagitium est, ea a quibusdam contentiosis et pravis hominibus ad fictitios et imaginarios tropos, quibus veritas carnis et sanguinis Christi negatur, contra universum Ecclesiae sensum detorqueri, quae, tamquam columna et firmamentum veritatis (1Tim 3,15), haec ab impiis hominibus excogitata commenta velut satanica detestata est, grato semper et memori animo praestantissimum hoc Christi beneficium agnoscens. 1637この聖なる秘跡について論じた大部分の私たちの先祖たちは、その多くはキリストの真の教会の中にいたのであるが、全く明らかに次のように宣言した。すなわち、私たちの救い主は、パンとブドー酒を祝した後、明瞭ではっきりとした言葉で自分の体と自分の血を彼らに与えることを証言した時、このすばらしい秘跡を最後の晩さんにおいて制定したこと。聖なる福音記者たちによって書きとめられ(マテオ26:26以下、マルコ14:22以下、ルカ22:19以下)、聖パウロによって繰返されている(1コリント11:23以下)言葉は、教父たちもそれに従って解釈した固有の全く明らかな意味を前に出しているので、その言葉を、或る論争好きの悪しき人々が、架空の想像にまかせた修辞に意味を曲げ、教会の普遍の解釈に反して、キリストの肉と血の真理を否定することは最も恥ずべき行為である。教会は、真理の柱であり基礎として(1ティモテ3:15)、不敬虔な人々によって考え出されたこれらの解釈を悪魔的であると憎悪し、キリストのこのすばらしい恩恵を常に感謝の心と記憶で認識している。
Cap. 2. De institutione ss. Eucharistiae. 第2章 このいとも聖なる聖体の秘跡制定の理由
1638 875 Ergo Salvator noster, discessurus ex hoc mundo ad Patrem, sacramentum hoc instituit, in quo divitias divini sui erga homines amoris velut effudit, 'memoriam faciens mirabilium suorum' (Ps 110,4) et in illius sumptione colere nos 'sui memoriam' (1Co 11,24) praecepit suamque 'annuntiare mortem, donec ipse ad iudicandum mundum veniat' (cf. 1Co 11,26). Sumi autem voluit sacramentum hoc tamquam spiritualem animarum cibum (Mt 26, 26), quo alantur et confortentur (can. 5) viventes vita illius, qui dixit: 'Qui manducat me, et ipse vivet propter me' (Io 6, 58), et tamquam antidotum, quo liberemur a culpis quotidianis et a peccatis mortalibus praeservemur. Pignus praeterea id esse voluit futurae nostrae gloriae et perpetuae felicitatis, adeoque symbolum unius illius corporis, cuius ipse caput (1 Cor 11, 3; Eph 5, 23) exsistit, cuique nos, tamquam membra, arctissima fidei, spei et caritatis conexione adstrictos esse voluit, ut 'idipsum omnes diceremus, nec essent in nobis schismata' (cf. 1 Cor 1, 10). 1638(875)私たちの救い主はこの世を去って父のもとへ行く前に、人間に対する溢れるばかりの天主の愛のしるしとしてこの秘跡を制定した。「主は不思議なわざの記念とした」(詩編110・4)。その拝領によって「自分の記念」(1コリント11・24)をわれわれが礼拝し、主がこの世を裁くために来る時まで「主の死去を告げる」(1コリント11・26)ように命じた。主はわれわれが霊魂の霊的食物(マテオ26・26)としてこの秘跡を受けることを望んだ。「私を食べる人は私によって生きる」(ヨハネ6・58)と言ったように、彼によって養われ、強められることを望んだ(第5条)。また、キリストは私たちの毎日のあやまちと大罪とを予防する薬として、この秘跡を受けることを望んだ。また、キリストは私たちの未来の栄光と永遠の幸福の契約となることを望んだ。主を頭とする(1コリント11・3、エフェソ5・23)われわれが、その体として分裂せず(1コリント1・10参照)、信仰と希望と愛とによってしっかりと結ばれることを望んだのである。
3. De excellentia ss. Eucharistiae super reliqua sacramenta 第3草 他の秘跡と比べて聖体が優れていること
1639 876 Commune hoc quidem est sanctissimae Eucharistiae cum ceteris sacramentis, 'symbolum esse rei sacrae et invisibilis gratiae formam visibilem'; verum illud in ea excellens et singulare reperitur, quod reliqua sacramenta tunc primum sanctificandi vim habent, cum quis illis utitur: at in Eucharistia ipse sanctitatis auctor ante usum est (can. 4). 1639(876)聖体は、「聖なるものの象徴(symbolum)であり、目に見えない恩恵の目に見える形(forma)である」という点では、他の秘跡と共通である。しかし、聖体は次の点で特にすぐれている。他の秘跡は人がそれを用いることによって効力を発するが、聖体には、それが用いられる前に、聖性の作者自身が現存している(第4条)。
1640 876 Nondum enim Eucharistiam de manu Domini Apostoli susceperant (Mt 26, 26; Mc 14, 22), cum vere tamen ipse affirmaret corpus suum esse, quod praebebat; et semper haec fides in Ecclesia Dei fuit, statim post consecrationem verum Domini nostri corpus verumque eius sanguinem sub panis et vini specie una cum ipsius anima et divinitate exsistere: sed corpus quidem sub specie panis et sanguinem sub vini specie ex vi verborum, ipsum autem corpus sub specie vini et sanguinem sub specie panis animamque sub utraque, vi naturalis illius conexionis et concomitantiae, qua partes Christi Domini, qui iam ex mortuis resurrexit non amplius moriturus (Rom 6, 9), inter se copulantur, divinitatem porro propter admirabilem illam eius cum corpore et anima hypostaticam unionem (can. 1 et 3). 1640 御聖体を主の手から、使徒たちが受ける前に(マテオ26・26;マルコ14・22)、すでに主は、かれらに与えるのが自分の体であることを教えた。聖別の直後に私たちの主の体と血とが、霊魂と神性をともに備えて、パンとブドー酒の形色の中に現存することを天主の教会は絶えず信じてきた。言葉の力によってパンの形色の中に体が、ブドー酒の形色の中に血が現存するが、自然の結合と共存とによって、ブドー酒の形色の中にも体、パンの形色の中にも血、また両者の中には霊魂が「死者からよみがえって、もう死ぬことがない」(ローマ6・9)主キリストの体の各部分と位格的結合(hypostatica unio)によって一つになった神性とともに、現存している(第1、3条)。
1641 876 - Quapropter verissimum est, tantundem sub alterutra specie atque sub utraque contineri. Totus enim et integer Christus sub panis specie et sub quavis ipsius speciei parte, totus item sub vini specie et sub eius partibus exsistit (can. 3). 1641そのため、全キリストが両形色の中に、そしてまた一つ一つの形色の中に実際に含まれている。全キリストがパンの形色の中に、パンの形色のどの部分にも含まれ、全キリストがブドー酒の中に、ブドー酒の形色のどの部分にも含まれているのである(第3条)。
Cap. 4. De Transsubstantiatione. 第4章 全実体変化について
1642 877 Quoniam autem Christus redemptor noster corpus suum id, quod sub specie panis offerebat (cf Mt 26.26ss; Mc 14.22ss; Lc 22.19s; 1 Co 11.24ss), vere esse dixit, ideo persuasum semper in Ecclesia Dei fuit, idque nunc denuo sancta haec Synodus declarat: per consecrationem panis et vini conversionem fieri totius substantiae panis in substantiam corporis Christi Domini nostri, et totius substantiae vini in substantiam sanguinis ejus. quae conversio convenienter et proprie a sancta catholica Ecclesia transsubstantiatio est appellata (can.2). 1642(877)私たちの救い主キリストは、パンの形色の中にささげたのが自分の真の身体であると仰せられたので(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)、天主の教会は変ることなく常に信じてきたことを、この聖なる公会議も繰返して宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖別によって、パンの実体はことごとく私たちの主キリストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血の実体に変化する。聖なるカトリック教会は、この変化を便宜上、適切に全実体変化と言い表している(第2条)。
Cap. 5. De cultu et veneratione ss. Eucharistiae. 第5章 聖体の礼拝と崇敬について
1643 878 Nullis itaque dubitandi locus relinquitur, quin omnes Christi fideles pro more in catholica Ecclesia semper recepto latriae cultum, qui vero Deo debetur, huic sanctissimo sacramento in veneratione exhibeant (can.6). Neque enim ideo minus est adorandum, quod fuerit a Christo Domino, ut sumatur (cf Mt 26.26ss), institutum. Nam illum eundem Deum praesentem in eo adesse credimus, quem Pater aeternus introducens in orbem terrarum dicit: "Et adorent eum omnes Angeli Dei" (Heb 1.6; ex Ps 96.7), quem Magi procidentes adoraverunt (cf Mt 2.11), quem denique in Galilea ab Apostolis adoratum fuisse Scriptura testatur (cf Mt 28.17). 1643(878)そのため、カトリック教会において古くから認められてきた習慣に従って、すべてのキリスト信者が天主に対してふさわしい礼拝を、この聖なる秘跡に対してすべきことは疑う余地のないことである(第6条)。拝領するために主キリストによって制定されたものであるが(マテオ26・26以下)、やはり礼拝すべきである。なぜなら、永遠の父が主を世に送った時「天主のすべての天使よ、天主を礼拝せよ」(ヘブライ1:6;詩編96:7)と言い、博士たちが「ひれ伏して礼拝し」(マテオ2:11参照)、ガリレアにおいて使徒たちが「礼拝した」(マテオ28・17参照)と同じ天主が聖体の中に現存することを信ずるからである。
1644 878 Declarat praeterea sancta Synodus, pie et religiose admodum in Dei Ecclesiam inductum fuisse hunc morem, ut singulis annis peculiari quodam et festo die praecelsum hoc et venerabile sacreamentum singulari veneratione ac solemnitate celebraretur, utque in processionibus reverenter et honorifice illud per vias et loca publica circumferetur. Aequiisimum est enim, sacros aliquos statutos esse dies, cum Christiani omnes singulari ac rara quadam significatione gratos et memores testentur animos erga communem Dominum et Redemptorem pro tam ineffabili et plane divino beneficio, quo mortis ejus victoria et triumphus repraesentatur. Atque sic quidem oportuit victricem veritatem de mendacio et haeresi triumphum agere, ut eius adversarii, in conspectu tanti splendoris et in tanta universae Ecclesiae laetitia positi, vel debilitati et fracti tabescant, vel pudore affecti et confusi aliquando resipiscant. 1644また毎年、特別の祝日に特別の祭典をもってこの秘跡を崇敬し、行列を作って、道路と公の場所をめぐって崇敬する、信心深い習慣が天主の教会にとり入れられたことを聖なる公会議は宣言する。また、すべてのキリスト信者が、救い主の勝利と凱旋を表わすこのように言い表せないほどのすばらしいたまものに対して、特別の感謝の気持を表わし、それを記念するために、聖なる日が定められたのである。虚偽と異端が真理に打勝って、このように輝かしい秘跡、このように全教会が喜びをもって祝うこの秘跡の反対者たちは、衰弱して少数となり、あるいは恥入り、混乱して、いつかは正しい道に立帰るであろう。
Cap. 6. De asservatione et delatione ad infirmos. 第6章 聖体の保存と病人に奉持すること
1645 879 Consuetudo asservandi in sacrario sanctam Eucharistiam adeo antiqua est, ut eam saeculum etiam Nicaeni Concilii agnoverit. Porro deferri ipsam sacram Eucharistiam ad infirmos, et in hunc usum diligenter in ecclesiis conservari, praeterquam quod cum summa aequitate et ratione conjunctum est, tum multis in conciliis praeceptum invenitur, et vetustissimo catholicae Ecclesiae more est observatum. Quare sancta haec Synodus retinendum omnino salutarem hunc et necessarium morem statuit(can.7). 1645(879)聖櫃に聖体を保存する習慣は古くからのものであって、すでにニケア公会議の時に認められていた。聖体を病人に奉持するために、これを教会に注意深く保存するのは当然のことであるばかりでなく、過去の数々の公会議で命ぜられており、カトリック教会の古くからの習慣である。そのため、この聖なる公会議はこの有益な習慣を保つことを決定した(第7条)。
Cap. 7. De praeparatione, quae adhibenda est, ut digne quis s. Eucharistiam percipiat 第7章 聖体をふさわしく拝領するための準備
1646 880 Si non decet ad sacras ullas functiones quempiam accedere nisi sancte, certe, quo magis sanctitas et divinitas caelestis huius sacramenti viro christiano comperta est, eo diligentius cavere ille debet, ne absque magna reverentia et sanctitate (can. 11) ad id percipiendum accedat, praesertim cum illa plena formidinis verba apud Apostolum legamus: 'Qui manducat et bibit indigne, iudicium sibi manducat et bibit, non diiudicanathema sit corpus Domini' (1 Cor 11, 29 ). Quare communicare volenti revocandum est in memoriam eius praeceptum: 'Probet autem seipsum homo' (1 Cor 11, 28). 1646(880)聖なる儀式に近づくためには十分な準備が必要である。したがって、この天からの秘跡が聖なるもの、天主からのものであることを知っているキリスト者は、最上の準備をしてこの秘跡に近づくようにしなければならない(第11条)。このことについて使徒は次のような恐ろしい言葉を使っている。「主の体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食する者である」(1コリント11・29)。したがって、聖体を拝領しようとする者は、「おのおの自分を調べなければならない」(1コリント11・28)というパウロの命令を思いださなければならない。
1647 880 Ecclesiastica autem consuetudo declarat, eam probationem necessariam esse, ut nullus sibi conscius peccati mortalis, quamtumvis sibi contritus videatur, absque praemissa sacramentali confessione ad sacram Eucharistiam accedere debeat. Quod a Christianis omnibus, etiam ab iis sacerdotibus, quibus ex officio incubuerit celebrare, haec sancta Synodus perpetuo servandum esse decrevit, modo non desit illis copia confessoris. Quod si necessitate urgente sacerdos absque praevia confessione celebraverit, quam primum (cf. DS 2058) confiteatur. 1647大罪を持つと知っている者は、たとえ痛悔したと思っても、告解の秘跡によって罪の赦しを受けた後でなければ聖体を拝領してはならない。これは教会の慣習である。この聖なる公会議は宣言する。すべてのキリスト信者も、職務によって聖祭を挙行しなければならない司祭も、聴罪司祭がいるならば、常にこれを守らなければならない。もし司祭が必要に迫られて、告解をせずに聖祭を挙行した時には、できるだけ早く(DzS 2058参照)告白しなければならない。
Cap. 8. De sumptione sacramentali et spirituali.  第8章 この秘跡の拝領について
1648 881 Quoad usum autem recte et sapienter patres nostri tres rationes hoc sanctum sacramentum accipiendi distinxerunt. Quosdam enim docuerunt sacramentaliter dumtaxat id sumere, ut peccatores; alios tantum spiritualiter, illos nimirum, qui voto propositum illum caelestem panem edentes, fide viva, "quae per dilectionem operatur" (Gal 5.6), fructum ejus et utilitatem sentiunt; tertios porro sacramentaliter simul et spiritualiter (can.8); ii autem sunt, qui ita se prius probant et instruunt, ut "vestem nuptialem induti" (cf Mt 22.11ss) ad divinam hanc mensam accedant. In sacramentali autem sumptione semper in Ecclesia Dei mos fuit, ut laici a sacerdotibus communionem acciperent, sacerdotes autem celebrantes se ipsos communicarent (can.10); qui mos tamquam ex traditione apostolica descendens jure ac merito retineri debet. 1648(881)私たちの先祖たちは、正しく賢明に、この聖なる秘跡を拝領する三つの方法(ratio)を区別した。ある者らは、罪人としてただ秘跡的にのみこれを受ける、また、他の者らはただ霊的にのみこれを受け、彼らは「愛のうちに働く」(ガラチア5:6)生きた信仰により、提示されたかの天からのパンを欲することにより食し、秘跡の実りと有益さを受ける。また、第三の者らは同時に秘跡的にかつ霊的に(第8条)聖体を受ける。彼らは天主の食卓に近づくために、まず「婚礼の服を着て」(マテオ22・11以下参照)いるかどうか、自分自身を調べる。秘跡的に拝領する時、信徒は司祭から聖体を拝領し、挙式する司祭は自分自身で拝領する(第10条)のが天主の教会の古くからの習慣である。使徒の時代からの伝統によるこの習慣を正しく保つべきである。
1649 882 Demum autem paterno affectu admonet sancta Synodus, hortatur, rogat et obsecrat 'per viscera misericordiae Dei nostri' (Lc 1, 78), ut omnes et singuli, qui christiano nomine censentur, in hoc 'unitatis signo’, in hoc vinculo caritatis, in hoc concordiae symbolo iam tandem aliquando conveniant et concordent, memoresque tantae maiestatis et tam eximii amoris Iesu Christi Domini nostri, qui dilectam animam suam in nostrae salutis pretium, et carnem suam nobis dedit ad manducandum (Jo 6, 48 ss), haec sacra mysteria corporis et sanguinis eius ea fidei constantia et firmitate, ea animi devotione, ea pietate et cultu credant et venerentur, ut panem illum supersubstantialem (Mt 6,11) frequenter suscipere possint, et is vere eis sit animae vita et perpetua sanitas mentis, 'cuius vigore confortati' (3 Rg 19, 8) ex huius miserae peregrinationis itinere ad caelestem patriam pervenire valeant, eundem 'panem Angelorum' (Ps 77, 25), quem modo sub sacris velaminibus edunt, absque ullo velamine manducaturi. 1649(882)最後にこの聖なる公会議は、父としての愛情をこめて、次のことを勧め、「天主の深い憐みによって」(ルカ1:78)心から乞願う。すなわち、すべてのキリスト者がこの「一致のしるし」、この愛の絆、この和合のしるしに結ばれて一つの心となり、私たちの救い主イエズス・キリストの大きな愛を心に刻みつけるように。主はわれわれを救うために死し、われわれに自分の体を食物として与えた(ヨハネ6・48以下)。そして主の体と血の聖なる秘義を、常に堅固な信仰、信心、敬虔、崇敬をもって信じ、尊ぶように。この超実体的パン(マテオ6:11)をたびたび拝領することができ、またそれが真に霊魂の生命、精神の永遠の健康となるように。「その食物の力で力づけられ」(列王記上19:81)この悲惨な巡礼の旅を終った後、天国に達し、今聖なるベールに覆われて食している同じ「天使のパン」(詩編77:25)を、いかなるベールも無く食べるだろう。
1650 882 Quoniam autem non est satis veritatem dicere, nisi detegantur et refellantur errores: placuit sanctae Synodo hos canones subiungere, ut omnes, iam agnita doctrina catholica, intelligant quoque, quae (ab) illis haereses caveri vitarique debeant. 1650誤謬を見破り、論破しなければ、十分に真理を示すことができない。そのため、聖なる教会会議は、すべての人がカトリック教義を認め、異端に注意し、これを避けなければならないことを知るように、次の諸規定をつけ加える。
Canones de ss. Eucharistiae sacramento 聖体の秘跡に関する規定
1651 883 Can. l. Si quis negaverit, in sanctissimae Eucharistiae sacramento contineri vere, realiter et substantialiter, corpus et sanguinem una cum anima et divinitate Domini nostri Jesu Christi ac proinde totum Christum; sed dixerit, tantummodo esse in eo ut in signo vel figura, aut virtute: anathema sit (cf. DS 1636 1640). 1651(883)1条。聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの体と血がその霊魂と天主性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘跡の中には、しるし(signum)または象徴(figura)において、または効力(virtus)によりあると言う者は排斥される(DzS1636、1640参照)。
1652 884 Can. 2. Si quis dixerit, in sacrosancto Eucharistiae sacramento remanere substantiam panis et vini una cum corpore et sanguine Domini nostri Jesu Christi, negaveritque mirabilem illam et singularem conversionem totius substantiae panis in corpus et totius substantiae vini in sanguinem, manentibus dumtaxat speciebus panis et vini, quam quidem conversionem catholica Ecclesia aptissime tranathema sitsubstantiationem appellat: anathema sit. (cf. DS 1642). 1652(884)2条。聖体の秘跡の中に、パンとブドー酒の実体が私たちの主イエズス・キリストの体と血とともに残ると言い、パンとブドー酒の形色だけは残るが、パンの全実体が体に、ブドー酒の全実体が血に変化すること(この変化をカトリック教会は全実体変化という適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される(DzS1642参照)。
1653 885 Can. 3. Si quis negaverit, in venerabili sacramento Eucharistiae sub unaquaque specie et sub singulis cuiusque speciei partibus separatione facta totum Christum contineri: anathema sit. (cf. DS 1641). 1653(885)3条。尊い聖体の秘跡において、一つ一つの形色の中に、また、分割された時には一つ一つの形色の部分に、全キリストが含まれていることを否定する者は排斥される(DzS1641参照)。
1654 886 Can. 4. Si quis dixerit, peracta consecratione in admirabili Eucharistiae sacramento non esse corpus et sanguinem Domini nostri Iesu Christi, sed tantum in usu, dum sumitur, non autem ante vel post, et in hostiis seu particulis consecratis, quae post communionem reservantur vel supersunt, non remanere verum corpus Domini: anathema sit. (cf. DS 1639 s). 1654(886)4条。私たちの主イエズス・キリストの体と血は聖別の後、聖体の秘跡の中に現存するのではなく、拝領の前後にでもなく、それを拝領する時に現存するとか、聖体拝領の後に残って保存される聖別されたホスチアの中に主の真の体は残っていないと言う者は排斥される(DzS1639~1640参照)。
1655 887 Can. 5. Si quis dixerit, vel praecipuum fructum sanctissimae Eucharistiae esse remissionem peccatorum, vel ex ea non alios effectus provenire: anathema sit. (cf. DS 1638). 1655(887)5条。聖体の主な効果は罪の赦しであり、その他の効力はないと言う者は排斥される(DzS1638参照)。
1656 888 Can. 6. Si quis dixerit, in sancto Eucharistiae sacramento Christum unigenitum Dei Filium non esse cultu latriae etiam externo adorandum, atque ideo nec festiva peculiari celebritate venerandum, neque in processionibus secundum laudabilem et universalem Ecclesiae sanctae ritum et consuetudinem solemniter circumgestandum, vel non publice, ut adoretur, populo proponendum, et ejus adoratores esse ido(lo)latras: anathema sit. (cf DS 1643s). 1656(888)6条。聖体の秘跡の中に天主のひとり子キリストを外的な方法で礼拝したり、特別な祝いで崇敬したりすべきでもなく、聖なる教会の儀式と習慣による行列で荘厳に祝ったり、公的礼拝のために人々に顕示したりすべきではなく、これを礼拝する者は偶像礼拝者であると言う者は排斥される(DzS1643~1644)。
1657 889 Can. 7. Si quis dixerit, non licere sacram Eucharistiam in sacrario reservari, sed statim post consecrationem adstantibus necessario distribuendam; aut non licere, ut illa ad infirmos honorifice deferatur: anathema sit. (cf. DS 1645). 1657(889)7条。聖体を安置することは許されない。聖変化の直後に列席者に配布すべきである、または聖体を病人に奉持することは許されないと言う者は排斥される(DzS1645参照)。
1658 890 Can. 8. Si quis dixerit, Christum in Eucharistia exhibitum spiritualiter tantum manducari, et non etiam sacramentaliter ac realiter: anathema sit. (cf. DS 1648). 1658(890)8条。聖体の中にあるキリストは、ただ霊的に拝領され、秘跡的に実際に拝領されるのではないと言う者は排斥される(DzS1648参照)。
1659 891 Can. 9. Si quis negaverit, omnes et singulos Christi fideles utriusque sexus, cum ad annos discretionis pervenerint, teneri singulis annis saltem in Paschate ad communicandum iuxta praeceptum sanctae matris Ecclesiae: anathema sit. (cf. DS 812). 1659(891)9条。分別の年齢に達した男女のすべてのキリスト信者は、聖にして母である教会の掟に従って、少なくとも復活祭の頃に聖体を拝領しなければならないということを否定する者は排斥される(DzS812参照)。
1660 892 Can. 10. Si quis dixerit, non licere sacerdoti celebranti se ipsum communicare: anathema sit. (cf. DS 1648). 1660(892)10条。挙式司祭は自分自身で聖体拝領をしてはならないと言う者は排斥される(DzS1648参照)。
1661 893 Can. 11. Si quis dixerit, solam fidem esse sufficientem praeparationem ad sumendum sanctissimae Eucharistiae sacramentum (cf. DS 1645 ): anathema sit. Et, ne tantum Sacramentum indigne atque ideo in mortem et condemnationem sumatur, statuit atque declarat ipsa sancta Synodus, illis, quos conscientia peccati mortalis gravat, quantumcumque etiam se contritos existiment, habita copia confessoris necessario praemittendam esse confessionem sacramentalem. Si quis autem contrarium docere, praedicare vel pertinaciter asserere, seu etiam publice disputando defendere praesumpserit, eo ipso excommunicatus exsistat (cf. DS 1647). 1681(893)11条。聖体の秘跡を拝領するための準備として、信仰だけで十分であると言う者は排斥される(DzS1645参照)。聖なる秘跡を十分な準備なしに拝領して、そのため死と地獄にいたらないように、この聖なる教会会議は次のことを決定し宣言する。すなわち、大罪を意識している者は、たとえ痛悔の心を起したと思っても、聴罪司祭がいる場合には告解の秘跡を受けなければならない。これと反対のことを教え、説教し、頑固に主張し、その上、公の討論によって弁護しようとする者はその事実によって破門されている(DzS1647参照)。


カトリック信仰を保ち続ける為に、カトリック教会がいつもやり続けてきた、聖伝のミサに与り、御聖体を礼拝し拝領して下さい。カトリック教会の破壊に、カトリック信仰の破壊に協力しないで下さい。

2020年06月10日 | お説教・霊的講話


2020年6月7日(主日)三位一体の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は三位一体の主日です。

今日は、
【1:カトリックの信仰である聖三位一体とは何か】
次に、
【2:三位一体は私たちにとって一体どのような意味があるのか】
第3に、
【3:私たちは三位一体に対して何をしなければならないのか】
を黙想して、最後に、
【4:遷善の決心】
を立てましょう。

【1:カトリックの信仰:三位一体とは何か】
まず、三位一体とは一体何でしょうか?

私たちを取り囲んでいる、そして私たちが今その中に住んでいるこの現実世界、この世界をよく観察してみると、二つの事が分かります。

まず一つは、「この現実世界は、どうしても、否定しようもなく、存在している」という事です。この私たちの周りをいくら否定しようとしても、それをする事はできません。

もう一つは、この現実の世界には秩序があって、どんな物も私たちの身の回りにある物は、誰かが創ったりしたものであって、素晴らしい目的と秩序があって出来ていて、たまたま偶然に出来たのではないという事が分かります。

つまり、一体なぜ、どのような原因で創られたのか、在るのか、という事を突き詰めていくと、原因されない唯一の究極の原因・根拠・純粋な現実態、そして自らによって在る者というものがどうしてもなければ、今この世界が存在し得ないという事が分かります。

つまり、私たちの目に見えない究極の原因、世界を超越する存在がましまして、そして私たちを今、現に在らしめているという事です。そのような方がどうしてもいなければ、私たちが今ここに、全世界がここに存在し得ない、という事です。

私たちはこの究極の存在の事を、『天主』と呼んでいます。

この唯一の天主は、私たちが今住んでいるこの全世界、全宇宙を、愛によって無から創造されました。そして今これを有らしめていて、存在させて生かしていて、そしてこの世全てを、全宇宙を統治しておられます。

この私たちが住んでいるこの被造の世界は、天主の全能と、溢れるばかりの愛の現れで、その結果です。私たち人間はそれを、私たちを生かして在らしめて下さっている天主と比べれば、全く無に等しい、ちっぽけな存在に過ぎません。

この唯一の天主は、目に見えない真理、超自然の現実について、私たち被造物が到底知る事ができない、天使でさえも知る事ができない、御自分の永遠の秘密を私たちに、私たちを愛するがゆえに、啓示されました、教えられました。

天主は、私たちに溢れる愛の恵みで、無に等しい私たちを御自分の本当の子供として、養子として、天主の本性に参与する事ができるようにして下さいました。天主と共に、天主のように、永遠に限りなく幸せであるように、して下さいました。

永遠に天主の秘密として留まる事ができた、天主の命の秘密の中に、三位一体の玄義の中に、私たちを招いて下さったのです。本性においては私たちをはるかに上回って優れている天使でさえも与えられていない事が、私たち人間には与えられました。

三位一体とは、唯一の天主において、天主の三つの位格があって、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とがある、という事です。

聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主ですけれども、三つの天主があるのではなく、唯一の天主のみがましますのです。
聖父は主であり、聖子は主であり、聖霊は主でありますけれども、三つの主があるのではなく、一の主がましますのです。

三位は全て、共に永遠であって、共に等しいのですけれども、唯一、起源の違いだけがあります。

天主聖父は聖子を、永遠の昔から永遠の今に、お産みになります。

天主聖子は天主聖父から、生まれ続けておられます。

天主聖霊は天主聖父と聖子とから、あたかも唯一のものから来るかのように、発出しています。

三つの御父でもなく、三つの御子でもなく、三つの聖霊でもなく、聖父と聖子と聖霊の、三つの、三位のペルソナからなる、唯一の天主を信じています。

【2:三位一体は私たちにどのような意味があるのか】
では第2に、この三位一体の秘密、この玄義は、私たちにどのような意味があるのでしょうか?

永遠の意味があります。

三位一体の愛の中に入る為に、つまり、この全宇宙を創造した真の天主に行く為には、私たちは聖子、イエズス・キリストを必ず通らなければなりません。

天主聖子は、私たちが三位一体の天主の命にあずかる事ができる為に、私たちと同じ人間となりました。これがイエズス・キリストです。人となった天主であります。

「私は道、真理、命である」と、仰せになりました。「私を通らなければ誰も聖父の元に行く事はできない」(ヨハネ14:6)とも、仰せになりました。

聖ペトロは、初代教皇様はこう言います、「天上天下、私たちが救われる為に、たった一つの名前しか与えられていない。イエズス・キリストである」(使徒行録4:12)と。

聖霊を受ける為にも、私たちはイエズス・キリストを通らなければなりません。イエズス様は、天に昇られるその時に、御昇天のその時に、弟子たちに宣言しました、「私には、天と地の一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて洗礼をさずけ、私があなたたちに命じた事をすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ28:18-20)

これが真理です。「真理」というのは、一つの国、一つの地方、一つの時代だけに通用するものではなく、全世界に、いつの時代にも、変わらず、変わる事なく、通じるものが、「真理」です。私たちがどうしても変える事ができない、これが「真理」です。

1929年6月13日、ファチマのシスター・ルチアは、スペインとポルトガルの国境の境にあるトゥイという所で、そこにある修道院で、三位一体のビジョンを見ました。

シスタールチアは長上から許可を取って、夜の11時に、暗い聖堂でお祈りをしていました。すると突然、光り輝く、天井まで届くような十字架が、大きな十字架が、祭壇の前に現れました。

十字架の上には、光り輝く雲の内に、人の姿が上半身が見え、そしてその方の胸の所には、光輝く鳩のような姿の形のものが見えました。これは、天主聖父と天主聖霊のビジョンでした。

十字架には、釘付けにせられた別の方が見えて、そしてその方の腰の辺りに、御聖体のホスチアと、その下に御血を入れるカリスが、宙に浮いていました。そしてこの十字架に付けられた方の額から頭から、そして胸の脇腹から、御血が滴り落ちて、ホスチアの上に流れて、そしてホスチアからはカリスの中に、御血が流れ出ていました。

十字架の右の腕の下には、ファチマのマリア様が、汚れなき御心をお持ちになったマリア様の御姿がお見えになりました。マリア様の汚れなき御心には、バラも剣もなく、その代わりに茨の冠がかかっていて、そしてその御心は炎がボウボウと燃えていました。

十字架の左の腕の下には、あたかも水晶のように透き通った水が流れているかのように、「恩寵」という字と、「御恵み恩寵と憐れみ」という文字が形作られていました。

このトゥイのビジョンには、三位一体の玄義、御托身の玄義、贖いの玄義、御聖体の玄義、イエズス・キリストの聖心の愛の玄義、聖母の汚れなき御心の玄義が、すべて含まれています。

聖父と聖子と聖霊との聖名による十字架の印、イエズス・キリストの十字架、これに私たちの信仰の全てが詰まっているからです。

私たちに聖霊の聖寵を与える「秘蹟」、これは十字架に由来します。十字架のいけにえに由来します。「ミサ聖祭」、これも十字架の再現です。

聖寵の状態にある私たちには、聖三位一体が住まわれておられます。これは愛の業であって、三位一体の愛の業であって、私たちはこの愛を信じています、天主の愛を信じています。

「天主は愛であります。」(ヨハネの第一の手紙4:16)聖ヨハネがそうはっきりと断言しています。天主は、イエズス・キリストの十字架の玉座から流れ出る命の水、御恵み、恩寵と憐れみを、私たちに与えようとしておられるのです。

ちょうど聖ヨハネに黙示録によると、新しい天と地についてこう記述があります。「天使は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。それは天主と小羊の玉座から流れでていた」(ヨハネの黙想録22:1)と。

【3:私たちは三位一体に対して何をしなければならないのか】
では第3に、私たちはこの三位一体、愛に満ちた愛に在す三位一体に対して、何をしなければならないのでしょうか?

今日の三位一体のミサの入祭誦では、天主の憐みを讃美してこう歌っています、「聖なる三位であり、分かちえない一者は、祝せられ給え、私たちは天主を告白する。なぜならば主は、私たちに御憐れみを与えたからである」と。

天主が私たちをどれほど憐み、愛しておられるかという事は、私たちの言葉は到底言い尽くす事ができません。感謝をし尽くす事もできません。それにふさわしいお礼をする事も、私たちの力では到底及びません。

ファチマでは、天使が私たちに、天主に対してどうやって礼拝したら良いのか、感謝をしたら良いか、償いをしたら良いか、懇願すれば良いか、という事を目に見える形を以って模範で示してくれました。私たちよりも遥かに優れた天使は、跪いて、額づいて、地面にひれ伏して、こう祈りました。

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償う為に、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

この祈りを何度も唱えた後に、天使は子供たちに御聖体を拝領させました。

この素晴らしい礼拝の姿勢は私たち、特に私たち日本人にとって、どれほど感性にぴたりと来るものであるでしょうか!

皆さんご存知の通り、日本人なら誰でも知っているように、日本の徳川家のあるお爺さんは、水戸黄門という人は、その家来がその印籠の印を御紋を見せただけで、「控え!控え!」と言っただけで、ひれ伏して恐れおののきました。

歴史によると、江戸幕府が幕を閉じるその直前、似たような事を私たちは見る事ができます。最後の将軍が二条城で大政奉還をするときに、将軍は大名らを呼び寄せました。その時、庶民に対しては偉ぶっていた大名たちでも、一番弱々しいこの将軍の前で、ひれ伏して、面会しました。

人間に対して、日本人は、このような態度を取っていました。

終戦直後、昭和天皇が日本各地を行幸されたとき、私に洗礼を授けて下さったヨゼフ・マリ・ジャック神父様というフランス人の神父様は、日本にいてそれを見ていました。陛下が通られる、というので他の日本人に混ざって、天皇陛下を拝見しようと、お姿を見ようと、道に出ていたのです。

すると、陛下が通られると、日本人は皆ひれ伏して、顔も上げようとせずに、姿を見ようともせずに、ただただ恐れ多くひれ伏して、誰も姿を見た人はいませんでした。

これが、日本人の態度です。昔から取っている態度です。

もしも日本人が、人間である天皇陛下にそのような態度を取るならば、人間を生かし、人間である天皇陛下を生かしておられる三位一体の創造主、至高の天主に、至聖なる天主様に対してはどのような、どれほどの敬意を、愛を捧げ、表明するべきであるでしょうか。私たちが天皇陛下に対してするような敬意を表すだけでは決して足りません。もっと深い礼拝と、讃美を、捧げなければなりません。

一体私たちにどのような事ができるでしょうか?跪いて、額を地面にこすり付けて、感謝して、「恐れ多い!」と言ったとしても、それでも足りません。

私たちにできる天主三位一体への最高の礼拝は、「聖伝のミサ聖祭」です。

イエズス・キリストが、天主の聖子が、御自ら、聖父の御旨を従順に捧げた十字架のいけにえ、それの再現である「聖伝のミサ聖祭」であります。

この昔からのミサでなされる色々な祈り、色々な仕草には、全て、三位一体への礼拝、讃美という事が深く織り込まれています。

まず十字架の印を、33回切ります。

あるいは三回繰り返されるキリエ・エレイソン、三回繰り返されるクリステ・エレイソン。

あるいは、奉献の時に唱えられる“ Suscipe Sancta Trinitas hanc oblationem”「至聖なる三位一体よ、どうぞこのいけにえをお受け下さい。」

あるいは、司祭が香を奉献する時に、ホスチアとカリスの上に十字架の印を、香を持って三回、印をします。そして天主の本性と人間の本性を意味するが為に、二回時計と反対回りに、輪を描くように香を焚きます、捧げます。そして唯一のペルソナを意味して、時計回りに一回、香を捧げます。

あるいは、“Sanctus,Sanctus,Sanctus”「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」あるいは“ Agnus Dei”「天主の子羊」 を三回ずつ繰り返します。

あるいは最後の祝福をする前に、“ Placeat tibi Sancta Trinitas ”
三位一体への直接なはっきりとした言及が、あらゆるところであります。

何故かというと、ミサの究極の目的は、この「至聖なる三位一体に対する讃美のいけにえ」だからです。

主日のごとに「至聖三位一体の序誦」がこう祈られます。「主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しい事、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉る事を、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝される為である」と。


ところで、今から50年前にできた「新しいミサ」では、この「三位一体に対する讃美のいけにえ」という目的は消え失せています。「エキュメニズム」という目的の為です。

奉献の祈りから、聖三位一体に対するはっきりとした祈り"Suscipe, Sancta Trinita”が消されてしまいました、取り除かれました。

またミサの終わりにあった三位一体への祈り"Placeat tibi Sancta Trinitas"も省略されました。

「至聖三位一体の序誦」、昔は主日ごとに唱えられていた祈られていたこの序誦も、たった一年に一回だけ、三位一体の主日だけに限定されています。エキュメニズムという名前で、インカルチャレーションという名前で、日本ではミサ中に礼拝する事が禁止されています。ミサ中の間に、突っ立ったままいなければなりません。

【4:遷善の決心】
では、愛する兄弟姉妹の皆さん、遷善の決心を立てましょう。

三位一体、真の天主、本当の天主、これ以外の天主はない、本当の創り主、創造主、三位一体を信じ、礼拝し、希望し、お愛し致しましょう。

カトリック教会が2000年間続けて信じてきたこの信仰の真理を、天主の御恵みと御助けを以って、そして御憐みで、そのまま変えずに、信じ、礼拝し、希望し、愛し続けなければなりません。

皆様の行かれている教会では、カトリックという名前が付いているけれども、でもカトリックらしい事をしているのでしょうか?御聖体を、2000年間やってきたように、礼拝する事ができるのでしょうか?それとも禁止されていますか?御聖体を礼拝すると、迫害を受けるのではないですか?プロテスタントのようにしていれば良いけれども、カトリックらしい事をすると、嫌がらせをされるのではないでしょうか?

エキュメニズムだからです。「カトリックらしいところを消さなければならない」と言われているからです。

愛する兄弟姉妹の皆さん、どうぞ、何も恐れないで下さい。カトリックの信仰を保ち続けて下さい。三位一体を礼拝し続けて下さい。カトリック信仰を保ち続ける為に、カトリック教会がいつもやり続けてきた、聖伝のミサを、これに与って下さい。御聖体を敬虔に、尊敬をもって礼拝し、拝領して下さい。カトリック教会の破壊に、カトリック信仰の破壊に協力しないで下さい。

「ああ、言われたままにしただけです。」「私には責任がありません。」「神父様がそう言ったから」「司教様がそう言ったから」等と言って、ポンシオ・ピラトのように手を洗って、「俺には関係ないよ」等と言って済む事では決してありません。

私たちの為に、御自分の命を与え尽くしたイエズス・キリストが、無視されて、単なるパンのように、無造作に取り扱われていて、それで良いのでしょうか?一緒になって不敬に取り扱わないで下さい。私たちの主イエズス・キリストを愛して下さい、礼拝して下さい。私たちの主は、どれほど私たちの為に苦しまれた事でしょうか。このまま苦しめ続けるのでしょうか。

イエズス・キリストは、真の天主です。三位一体の聖子、永遠の天主の御言葉、私たちの為に人となって下さった御方です。私たちの救い主です。永遠の司祭、全ての人間の王です。天国にはイエズス・キリストだけが王であり、全ての天使と聖人たちを支配しておられます。全ての天使と聖人たちは永久に、終わる事なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言って、イエズス・キリストを礼拝しています。ポルトガルのファチマで出た天使のように額づいて、イエズス様を、その玉座を礼拝しています。私たちの救いは、これ以外にはありません。

私たちの為にこのように愛される真の救い主、イエズス・キリストを、不敬に取り扱わないようにして下さい。

聖母の汚れなき御心にお祈り致しましょう。私たちも聖母のように、至聖三位一体を心から信じて、礼拝し、希望し、愛する事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


初土曜日の信心:聖霊降臨の神秘を黙想する:2020年6月6日(初土)御聖体降福式にて

2020年06月10日 | お説教・霊的講話

初土曜日の信心:聖霊降臨の神秘を黙想する

栄えの玄義 第3玄義黙想 
2020年6月6日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

『栄えの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて聖霊の賜物を乞い願わん。』

マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。

今日は聖霊降臨の8日目の最後の日ですので、栄えの玄義の第3玄義、聖霊が降臨し給いたるを黙想致しましょう。

最初は11人、後には聖マチアを加えて、マリア様と共に弟子たちは、最後の晩餐の高間で、イエズス様の御教えを命令のごとく、聖霊の降臨を待ち望んで、祈りをしていました。

主の御昇天から10日目、聖霊降臨の主日、主の最初の日、大きな音と共に、舌の形をした炎が、弟子たちに降り、見違えるように弟子たちを変容させていきました。今まで恐れ、信仰の揺らついていた弟子たちが、大胆に、「イエズス・キリストだけが、真の救い主である!」何も恐れずに、皆の前に宣言するようになりました。

この時に中心的な役割を果たして下さったのが、聖霊の浄配であるマリア様です。

聖霊のいとも清き浄配であるマリア様、聖霊を一度も罪によって悲しませた事のない、聖霊の愛の火に燃えるマリア様の汚れなき御心。

マリア様の願いは、聖霊にとっては、それを叶える事は当然なすべき事。聖霊にとっての、聖霊の意志とマリア様の意志はピタリと一致しているがゆえに、マリア様が願う事は、聖霊は、三位一体は、全て叶えようとされます。

マリア様が祈ったからこそ、聖霊は溢れるほど、使徒たちと、そして多くの人々に降りました。聖霊降臨の日に3000名、洗礼を受けました。

マリア様が祈ればこそ、21世紀の現代でも、回心の恵みと、聖寵、憐れみは、滝のように、雪崩のように、天から降り注がれます。残念なのは、私たちがマリア様に信頼して、それを祈らない事です。

天主三位一体は、この地上で私たちを救う為に、聖母の汚れなき御心の信心を確立しようと望んでおられます。

聖母の御心への信心が行なわれれば、私たちの心にも聖寵が、聖霊が、聖霊の御恵みが溢れるばかり与えられる、この世は天国のように、愛に満ちた場所になります。

もしそうでなければ、ロシアが誤謬を広めて、戦争と、飢饉と、教会に対する迫害、多くの人々が、善人も悪人も死に、地上から消滅してしまう民族や国々も出てきて、この世は地獄のようになってしまいます。


イエズス・キリストの至聖なる聖心の初金曜日の聖時間:2020年6月5日(初金)御聖体降福式にて

2020年06月10日 | お説教・霊的講話

「イエズス・キリストの至聖なる聖心の初金曜日の聖時間」

2020年6月5日(初金)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、しばらくの間、礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償い、懇願を捧げましょう

特に今回の疫病で、多くの方が職を失ったり、食べる物が無くなったり、病気以外の理由で多くの方が、肉体的にも精神的にも、経済的にも社会的にも、苦しんでいます。

そのような方々に、主の憐れみがありますように。

教会が門を閉ざされて、開ける事が禁止されている国々がまだあります。デモをするのは許されても、お祈りをするのは許されない、堕胎やその他の病院は動いていても、お祈りをするのは許されない、その為に、受けるべき恵みが受けられない、秘跡も受ける事ができない、数多くの方々がおられます。

イエズス様が憐れんで下さって、この疫病の収束と、そして世界中での教会の再開と復活を、イエズス様の聖心に憐れみを乞い願いましょう。

マリア様がロシアの奉献をお願いしたのが、1929年6月13日。しかし、これは為されていません。あと時は、ほとんど残されていません。

教皇様が、全世界の司教と一致して、ロシアをマリア様の汚れなき御心に奉献しますように。


聖母聖月中の土曜日の御聖体降福式:聖霊の賜物、聖霊の息吹を待ち望む:2020年5月30日(土)御聖体降福式にて

2020年06月10日 | お説教・霊的講話

「聖母聖月中の土曜日の御聖体降福式:聖霊の賜物、聖霊の息吹を待ち望む」

2020年5月30日(土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

しばらくの間、御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、礼拝と、讃美と、感謝と、罪の償いを御捧げ致しましょう。

特に、聖霊の御恵み、聖霊の賜物、聖霊の息吹を、私たちがよく受ける事ができますように、聖霊に満たされて生活する事ができますように、マリア様の御取り次ぎによってお祈り致しましょう。

使徒たちを全く変えて下さったように、聖霊が私たちを主の愛に満たして、確固たる信仰に強め、イエズス・キリストの愛に燃えて生きる事ができますように。

イエズス・キリストの信仰を生きる事、イエズス・キリストの真理を述べる事、信仰を告白する事、私たちにも行なう事ができますように。

迫害にもかかわらず、堂々とした態度で、イエズス様の弟子として、カトリック信者として、キリスト教信者として、その名前にふさわしい生活を送る事ができますように。

イエズス様の聖心の無限の功徳、マリア様の御心の無限の功徳によって、罪人が回心しますように。

聖霊の御恵みを受けて、キリストの神秘体に所属して、イエズス・キリストの愛を、真理を、悟る御恵みを受けますように。

そして遂には永遠の命に導かれますように。

特に、教皇様や、司教様、司祭、修道者の為に祈りましょう。

世俗の精神ではなくて、聖霊の精神によっていつも導かれますように。

聖伝の教えに従って、聖伝の信仰に立ち戻りますように。

教会が2000年間、聖霊に導かれて為してきた事を、そのまま愛し続け、やり続け、信仰し続けますように。

聖霊に導かれて教会が、「罪だ」と、「誤りだ」と言ってきた事を、やはり同じく現代でも、「罪だ」、「やはり誤りである」と言い続けますように。


聖母聖月中の土曜日の御聖体降福式:聖霊降臨を待ち望む : 2020年5月23日(土)御聖体降福式にて

2020年06月10日 | お説教・霊的講話

「聖母聖月中の土曜日の御聖体降福式:聖霊降臨を待ち望む」

2020年5月23日(土)御聖体降福式にて 
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、礼拝と、讃美と、感謝と、罪の償いを御捧げ致しましょう。

御昇天の後に、弟子たちは、マリア様を囲んで、エルサレムで、聖霊の降臨を待ち望んで、祈り、黙想、聖霊を待ち望む心を持って、日々を過ごしておりました。

その同じ心が与えられますように。聖霊の御恵みが私たちにも、聖霊降臨の日に、真理の霊が与えられますように。

聖霊の助けによって、確固とした信仰、天国への燃える希望、天主に対する愛と、隣人への愛に、燃え立つ事ができますように。

この地上の儚さが、よく理解できますように。

聖霊の七つの賜物、聖霊によって、私たちがいつも動かされ、聖霊の息吹に生かされますように。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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