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1500年前のフレスコ画でわかる、変わらぬミサ、変わらぬ信仰|削除された聖変化の直後の美しい祈り

2021年11月30日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



プーガ(D.Puga)神父様のお説教  
聖伝ミサ、変わらぬミサ
2021年9月12日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、芸術の作品などを見ることによって、先人たちの信仰がどうなっていたのかを確認することができます。だからキリスト教が生んだ芸術は重要です。フランスでは非常に古い教会や綺麗な教会は多くありますが、本日は主任司祭様が喜ばれるかとおもいますが、イタリア北部にある教会についてお話したいと思います。というのも主任神父様の故郷の近くにあるラヴェンナの教会、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂という教会だからです。

6世紀の初期に建てられたとても古い教会であり、現代まで立て直されていないことから、もとのままになっています。その教会には立派なモザイク画がありまして、旧約聖書と新約聖書の幾つかの場面が描かれています。ラヴェンナの教会は最初、一世紀にはじめて建てられまして、聖アポリナリスによって創建されました。聖アポリナリスは聖ペトロの弟子の一人でありますので、公教会の初期中の初期です。

そして綺麗なこれらのモザイク画の内の一つについて特別にご紹介したいと思います。旧約聖書の三つの場面が並べられてこのモザイク画にあります。アダムとイヴの子であるアベルのお供えの場面があります。ご存じのようにアベルは汚点一つもない仔羊を捧げる場面です。アベルの犠牲は天主によって召しいられることになりますが、アベルの兄、カインは人々の労働の実りであった農産物をお供えしましたが、天主によって召しいられなくて認められませんでした。それでカインは犠牲が認められた弟を嫉妬し憎むようになり、アベルを殺しました。歴史上はじめての殺人ともなります。



アベルの犠牲は我らの主、イエズス・キリストの生贄の前表であり、イエズスの犠牲を示します。というのも、アベルのようにイエズス・キリストもユダヤ人たちの指導者たちなる「兄」によって死刑に処せられました。また、正しい人だったアベルは正しい人イエズス・キリストをも示します。この上なく聖なる人であり、汚点一つもない仔羊として自分自身を十字架上に架かり捧げた正しい人です。

同じモザイク画にはもう一つの別の犠牲も描かれています。アブラハムの生贄です。ご存じであるかと思いますが、天主がアブラハムに命じた生贄でした。アブラハムには息子一人しかいませんでした。そしてこの息子より多くの子孫が生まれるだろうという約束を天主がアブラハムにされたのに、いきなりアブラハムはアブラハムの息子の生贄を命じます。アブラハムは非常に動揺しましたがアブラハムは天主の命令に従うべきだと知っていました。このようにアブラハムは自分の息子を生贄として捧げる準備をはじめます。アブラハムが愛する息子、最愛の息子、イサクを、聖伝に照らして、エルサレムのモリヤ丘へ連れていって、イサクを生贄として捧げることになります。

イサクは生贄を燃やすための薪を負っていましたが、イサクは捧げられる生贄は自分自身であることは知りませんでした。するとイサクは父に聞きます。「ここに火と薪を持っていますが、いけにえの子羊はどこにいるのですか」(創世期、22、7)。父は聖霊の感化もあって、「息子よ、天主がいけにえの子羊をご自分ではからってくださるだろう」(創世期、22、8)と答えました。そして、アブラハムは天主の恐ろしい命令を実行する直前になると、主の天使が現れてアブラハムを止めてイサクの生贄はすくわれました。天主はアブラハムの覚悟を見て召し入れられました。このようにしてイサクは死から逃れました。



この生贄も我らの主の生贄を示し、イエズスの将来の生贄を予告します。我らの主、イエズス・キリストはアベルのように死なれたのですが、同時にイサクのように生き残られたのです。イエズスは十字架上で死なれてから、復活されました。
そしてアブラハムは正しいことに聖霊の導きにしたがって、「息子よ、天主がいけにえの子羊をご自分ではからってくださるだろう」といいました。現に、アブラハムの言う通りでした。というのも人々は天主に値する生贄を見つけることなんて到底できないことですから。ですから、天主はご自分自身の息子を生贄として与え給いました。実にイエズスをもってはからってくださいました。天主はアブラハムに結局、息子の生贄をさせなかったのですが、代わりにご自分自身の息子を生贄のために与えられ、現に十字架上で死に給いました。天主は我々のために計らってくださいました。



以上の二つの場面はモザイク画の両端にありますが、中央には旧約聖書の謎の多い人物、メルキセデクが描かれています。メルキセデク大司祭です。メルキセデクはアブラハムの人生の間に出会った人物です。アブラハムがある戦争に勝利して帰省する時に登場した人物です。凱旋して帰る途中のアブラハムの前に、王であるとともに司祭でもあったメルキセデクが会いに来ました。至上司祭であるメルキセデクです。サレム王であるメルキセデクです。ヘブライ語では「メルキセデク」ということばは「正義の王」という意味です。また、「サレム」とは「平和」の意味であり、現代ヘブライ語の「シャロム」という挨拶の語源です。つまり、メルキセデクは正義の王であり、平和の王です。なぜなら、本物の平和は正義が全うされてはじめて確立できることだからです。正義が全うされていない時、平和は確立できない、実現できないのです。ことに天主に返すべき正義を全うしなければさらのことです。



聖書ではメルキセデクについての詳細は不明です。彼の家系などもわからないままに、父母もいないかのようです。そして、アブラハムはメルキセデクへ貢(みつぎ)を進呈しました。聖パウロはこの場面を説明してくれます。アブラハムは旧約聖書の司祭たちの父であります。レビ族の父だからです。言いかえると、旧約聖書の司祭職はメルキセデクの神秘な司祭職の前にひれ伏すということです。

ご存じのようにメルキセデクはまた、パンと葡萄酒をお供えします。そしてメルキセデクのお供えはパンと葡萄酒の形色の下にまします我らの主、イエズス・キリストの前表だと公教会は理解しました。ちなみに、メルキセデクの時代の数世紀後、ダヴィド王は王たる救い主、メシアについて語られるとき、天主はダヴィド王に次のように仰せになったと詩編に残されました。「Tu es sacerdos in aeternum, secundum ordinem Melchisedech(あなたは永遠の祭司、メルキセデクの位に等しく)」(詩編109、4)

「メルキセデクの位」という意味は旧約聖書より優れて上位にある司祭職であるという意味で、イエズス・キリストはこの上ない司祭であることを表します。また新約聖書の司祭職は旧約聖書の司祭職より優れて上位にあるということをもあらわします。なぜなら、イエズス・キリストが制定なされた司祭職は決定的であり、また正義の王、平和の王であるメルキセデクはもちろんイエズス・キリストを示すからです。メルキセデクには家系がないのは、イエズス・キリストの神秘に満ちている御托身、肉体になり給う玄義を示しています。

「Tu es sacerdos in aeternum, secundum ordinem Melchisedech(あなたは永遠の祭司、メルキセデクの位に等しく)」(詩編109、4)

このようにメルキセデクはモザイク画の中央に描かれて、メルキセデクの祭壇にあるパンと葡萄酒に向けてアベルが仔羊を捧げる姿です。同じように、イサクもアブラハムに連れられてメルキセデクの祭壇へ赴く姿です。そしてモザイク画のメルキセデクの姿は旧約聖書において記されている老人のように描かれると同時に、我らの主、イエズス・キリストの風貌も見えています。

このモザイク画は6世紀のモザイクです。つまり1500年前の古いものです。なぜ、このモザイク画について紹介したかというと、愛する兄弟の皆様、聖伝ミサの典礼において、イエズスの御体と御血へ変化するパンと葡萄酒の聖変化のすぐ後に司祭は天主へお祈りを申し上げるからです。

「ありがたきご受難」から生まれますが、人祖の原罪について「O Felix Culpa(嬉しき罪)」と歌い、つまりこれほど素晴らしい救い主を送られたので、ありがたい原罪というようなことですが、おなじように「ありがたいご受難」とも祈ります。天国の門はご受難のお陰で我々のために開けられたからです。

「ありがたきご受難、いとも高きみいつ(ご威厳)に対して、御身のたまわった賜物の中から、この清く、聖なる、汚れなきいけにえ、永遠の生命の聖なるパンと永遠の救いのカリス」を捧げ奉るという祈りです。言いかえると、祭壇の上にある御体と御血を天主にお捧げしますが、この御体と御血は天主から与えられたわけです。
 
続いて、司祭は祈りをつづけます。「この供え物に、ご嘉納のおだやかな御目を降し給え。」
先ほどご紹介したモザイク画にはメルキセデクの上に天主の御手があって、御手は穏やかに差し出されて、天主は生贄を召し入れ、受け入れる、嘉納することを表します。

それから、カノンの祈りは続きます。「主のむすこなる義人アベルの供え物と、我らの太祖アブラハムのいけにえと、主の大司祭メルキセデクが主に捧げ奉った供え物を受け入れ給うた如く、汚れなきホスチアを受け入れ給え」

ご覧のように典礼の聖変化の次にすぐ、アベル、アブラハムとメルキセデクの生贄は記念されています。唯一真の生贄であるミサ聖祭、言いかえるとイエズス・キリストの十字架上の生贄を事前に予告し、示され、前表となったこの三つの生贄は聖変化のすぐ後に記念されるということです。イエズス・キリストは汚点一つもない仔羊であり、天主の唯一の御子であり、聖パウロがいうように、「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのために渡された」(ローマ人への手紙、8、32)方であり、また至上の祭司であることを思い起こさせます。

罪の償いのためにパンと葡萄酒の外観の下に、イエズス・キリストは自分自身をお捧げするということも聖変化の次の祈りによって思い起こされます。またこの生贄は天主が召し入れて、受け入れ給い、喜び給うお供えです。そして、このようにイエズス・キリストのいけにえのお陰で天からの恵みを得られるようにという美しい祈りです。

先ほどのモザイク画は1500年前のモザイク画ですよ。このモザイク画はカノンの聖変化の次の祈り(Unde memento とSupra Quae)とぴったりと重なります。このように1500年前の信仰、我々の先人たちの信仰は現代の信仰と全く同じであるころを芸術を通じてわかります。このため、芸術は大事です。

というのも先ほどのモザイク画の場所ですが、当時ミサ聖祭が捧げられる場所でした。ミサ聖祭を捧げる場所であると想定して描かれたモザイク画です。つまり、カノンの後の祈りは1500年前にすでに存在していたことの証拠です。要するに聖変化の後の祈りは少なくとも1500年前までさかのぼります。それ以上に古いとされています。大教皇レオの時代にはすでにこの祈りがあったことが知られています。



つまりこのような祈りは宝です。イエズスの生贄の本質についての素晴らしい中身としても宝ですし、先人たちの祈りであり、最初からラテン語の形で祈られたとしても宝です。というのも、先ほどのラヴェンナの教会は聖ペトロの弟子、聖アポリナリスによってはじめて建設されたことから、聖ペトロによってラヴェンナへ福音を運ぶために送られたと思われるからです。ラヴェンナでは2世紀に入ったらすでに強く広いコミュニティがそこにありました。当時、ラヴェンナは大きな都会でした。

要は、現代でも聖変化の後のこの祈りは聖ペトロご自身にまで遡っている可能性が高いということです。ですから聖伝ミサを「変わらぬミサ」だと呼ぶのはこのためです。聖伝ミサの中には、非常に古い要素が多くて、イエズスや最初の使徒たちに繋がっている要素も多いのです。

ところが、愛する兄弟の皆様、1969年の典礼改革を経て、この祈りは取り消されました。新ミサにはいくつかのカノンがありますが、いずれにもなくて、完全に取り消されました。

つまり、カトリック信仰を完璧に表現する祈り、または聖ペトロの時代に遡るだろう祈りをあっさりとなくされたということです。
現代では全国にある古い教会を破壊しようと積極的に進められたら、皆様はどうしますか?いわゆる、時代遅れの建築なので、これらの教会を壊して、その代わりに近代的な建築に変えようと言い出されたらどうでしょうか?これは犯罪になります。深刻な犯罪です。

同じように、数世紀以上、ほぼ2千年の遺産をなくすことなんてまさに犯罪です。

愛する兄弟の皆様、以上のようなことからどれほど聖伝ミサが大切であるかを考えましょう。先人たちの信仰を表す聖伝ミサを守りましょう。聖伝ミサは本当に長い伝統を持ちます。

最後に、本日、聖なるマリアのみ名の祝日でもあります。本日は日曜日なので主日のミサを捧げます。というのも聖母マリアよりイエズスが優先されるからですが、折角の聖母マリアの祝日なので、聖母マリアの名において何かの信心をぜひともやってください。

また本日はウィーン包囲の戦いの勝利です。1683年9月12日、トルコの侵略を撃退した戦いですが、その勝利は聖母マリアのみ名のお陰で得られました。また、今週の水曜日は、聖母マリアの七つの苦しみの祝日でもありますので、汚れなき御心を特に愛している我々なので、我らの御母を特に崇敬しましょう。また、典礼の遺産を我々が守れるように助けを与えるように祈りましょう。聖伝ミサの宝は我々の信仰の維持がかかりますので踏ん張って守り抜きましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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教会の一致:その意味を間違えてはいけない

2021年11月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G. Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教  
教会統一、教会一致というもの
2021年06月06日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日のミサ、御聖体の祝日のミサの密唱をもって、教会はこのように我々を祈らせます。カノンひいて奉献部の前の祈りです。「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」

以上の祈りにおいて、教会は一つの真理を示します。ご聖体と教会の一致とは密接に結びついているという真理です。
さて、教会の一致についてまずひとこと、言っておきましょう。以上の祈りの綴りは誤解を招きかねないので、改めて注意していただきたいという点です。つまり、教会の一致は成し遂げるべきことではなく、すでに現実に教会は一致しているという事実があります。現代は皆、「教会の一致を成し遂げよう」とよく言われているのは要注意です。というのも、教会の一致はすでに存在していて現にあるからです。

教会の一致の礎は信仰なのです。信仰が一致しているから、教会は一致しています(注・信仰とは信経の信条という客観的な中身を指し、気持ちとか感覚とか慣行とかではありません)。それから、教会の一致はさらに秘蹟において発展して、秘蹟が時代と場所を問わないで一致することから、教会が一致しています。また、教会の一致は動因をも持つのです。教会の一致の動因は、信仰と秘蹟を守る権威者、教皇にあるのです。

以上の祈りのように、我らの主に「一致の賜物」を希うことがあります。その意味は要注意です。我々が一致の賜物を希う時、「一致するように」願うのではないわけです。すでに教会が一致しているからです。いや、その時、教会の一致が増えるように、その賜物が多くなるように願うわけです。



このような祈りをするのがよいです。教会の一致を増やすということは、まず外延的な意味で願います。つまり、地理的な意味で、全世界、全霊魂へまで、教会の一致が広がるようにということです。具体的には、宣教活動によって、教会に属しない人々が教会に入るチャンスを与えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はこれに他なりません。つまり、宣教、伝道です。つまり、まだカトリックではない霊魂たちがカトリックになるようにつくすということです。

つまり、教会の一致に貢献するというのは、現代風にいったら、諸宗教の間に話しあい、最小限の同意を求めていることではないのです。カトリックとプロテスタントとがそれぞれ何も変わらない共存するための努力ではないのです。

いや、教会の一致のために貢献するというのは、分離あるいは異端誤謬において迷っている霊魂たちを、すでにある教会の一致に迎えるということです。または、イエズスの名を知らない異教徒の霊魂たちを教会の一致に迎えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はそれです。教会の一致をなるべく広く届けて、なるべくより多くの霊魂たちに届けていくように尽くすということです。

我々、一人一人としても、教会の一致を増やす義務があります。いわゆる、自分の内面、心において、教会の一致を増やすために、信仰と愛徳の実践を強化することに尽くすという意味です。

いと愛する兄弟の皆様、このように教会はわれわれに求めています。教会の一致の賜物を給うようにと祈るのは、我々の内面において教会の一致が強化されるように、また外で、外延的に広まるようにという二つのことです。全世界の霊魂まで教会の一致を届けるように。また我々一人一人の霊魂において教会の一致は深まり強化されるように。このように我々はより完全にイエズス・キリストと一致して、深くつながるように。

しかしながら、密唱に戻ると、追加の文章があります。
「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」



「この供物に神秘的にかたどられている一致」です。
聖トマス・アクイナスもよく思い起こした真理で、教会はいつも思い起こす大事な真理です。ご聖体こそ教会の一致を象るという真理です。聖なる御聖体こそ教会の一致を象るのです。ちなみに、「秘蹟・サクラメント」という言葉の言語上の意味は「象り、象徴」という意味です。つまり、御聖体は「一致の秘蹟」だといえます、つまり一致の象りなのです。これはどういう意味でしょうか?つまり、御聖体はしるしであって、物資的に霊的な現実を表すもので、教会の一致を具現化しているということです。

具体的にいうとどういうふうに、御聖体において教会の一致が象られているでしょうか。聖トマス・アクイナスの説明を要約すると、小麦の種々をあわせて挽いて、一つのホスチア(パン)となります。つまり、もろもろの種から、一つだけのホスチアになると。ブドウ酒も同じです。多くのばらばらのブドウの実から一つ、一体をなす葡萄酒になります。このように教会の一致は物質において象られています。霊的な意味でいうと、教会の構成員である信徒、我々はバラバラな個人から、ホスチアあるいは葡萄酒のように、洗礼によって一致することとなります。聖パウロもこのことを書簡において語ります。

皆、それぞれ違う個人ですが、共同の言動と目的において、教会の一致を具体的に表すことです。つまり、教会の一致は、信者たちを結び合い、統合する信仰と愛徳の実践において、同じ典礼に与ることにおいて具体的に実現します。ですから、皆、個人として個性は保たれていながら、教会の一致は具現化します。皆、同じ御身である教会に属して、同じ心、イエズスの心に倣うのです。聖パウロが言われるように、「体は一つ、霊は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェゾ人への手紙、4,1-6)

以上のとおり、御聖体は教会の一致を象るのです。しかしながら、象りだけではなく、御聖体は秘蹟でもあるので、御聖体は教会の一致の動因でもあります。というのも、秘蹟において、しるしにおいて、常に二つの現実が一致して存在します。感知できる物質的なしるしは霊的な現実を示すだけではなく、秘蹟はその霊的な現実を起こします。

例えば、洗礼の時、水を注ぐというしるしは、「清め」を示します。それは一般的に、多くの異教でも見られて、水は体などを清めるわけです。それは物質的なしるしですが、洗礼において、この物質的なしるしは霊的な現実、つまり、霊魂の清め、霊魂の禊ぎを象るのですが、かたどるだけではなく、秘蹟の際、実際、水を注ぐことによって、霊魂は清められるわけです。洗礼という秘蹟は霊魂の清めの動因でもあります。繰り返すと、洗礼において、水は禊ぎのしるしとなって、霊魂の禊ぎを物質において象るしるしですが、同時に、霊魂の清めを興し、霊魂の清めを成すという意味で、霊魂の清めの動因ともなります。すべての秘蹟はつねにこのようになっています。秘蹟の定義です。



ですから、同じように御聖体は教会の一致の象りであると同時に、教会の一致の動因でもあります。教会の一致の動因は御聖体においてあります。なぜでしょうか?

第一、御聖体というのは、我々に与えられている主イエズス・キリストだからです。ご現存ということで、御体、御血、ご神聖、ご霊魂とともに、イエズス・キリストは完全に我々に御聖体においてご現存しておられて、信徒たちに与えられています。
というのも、イエズス・キリストこそカトリック教会の一致の礎、原因、動因であるからです。イエズス・キリストの神秘体である教会の一致はそもそもイエズスによってこそ存在しているわけです。イエズス・キリストの御体は教会であって、またイエズス・キリストは教会という御体の頭なのです。そして、教会という神秘体はイエズス・キリストの生命で生かされているわけです。聖寵という生命力です。それによってだけ、教会は生かされて、また、それによってこそ、イエズス・キリストは教会の一致を成し給うのです。

また、イエズス・キリストは聖父への唯一なる御取り次ぎの者であり、つまりこの上なく至上の司祭なるイエズス・キリストだからこそ、我々のために天主の御慈悲を給い、天主に返すべき栄光や正義を十字架によって全うしたイエズス・キリストは我々の罪を贖い給うのです。イエズス・キリストは唯一なる御取り次ぎ主なので、この意味でも教会の一致の動因ともなっています。いと愛する兄弟の皆様、聖父への取り次ぎ主であるということは、司祭であるということです。イエズスご自身は生贄になり給うたので、司祭としても、この供え物を我々のために代わりに捧げ給い、これによって我々のために聖父から多くの恵みを得しめ給います。そして、イエズス・キリストは唯一なる司祭であるとして、教会の一致を本当の意味で成し給っています。

同時に、イエズス・キリストご自身は唯一なる供え物であるから、生贄という意味のホスチアであるので、イエズスは唯一の効力のある供え物を捧げ給うことによって、天主の御怒りを鎮める唯一なる生贄なのです。これは生贄の再現であるミサ聖祭でもあります。贖罪のための生贄なのです。イエズスのみ、天主が召す唯一なる生贄になります。イエズスは生贄を捧げ給うことによって、教会の一致を成し遂げて、それを毎日、御聖体である、聖なる生贄であるミサ聖祭で再現することによって、教会の一致を実現しています。



ミサ聖祭において、司祭なるイエズスは人の司祭の手を通じて、生贄を捧げ給うからです。人が生贄を捧げるのではなく、イエズスご自身こそが捧げるわけです。そして、捧げられる生贄はホスチアなるイエズスご自身です。だからこそ、ミサ聖祭はそれほど聖なる行いです。だからこそ、御聖体であるミサ聖祭はこの世において、教会の一致の源なのです。またミサ聖祭によってこそ、地上では、天にいる聖人たちと煉獄の霊魂とともに、教会の一致を実現させます。また、ミサ聖祭において、御聖体において、聖体拝領をすることによって、イエズスご自身は我々一人一人へご自分を与え給います。

また、聖体拝領によっても、我らの主は教会の一致を実現させています。なぜでしょうか?聖体拝領こそはイエズスの御愛を示し、つまり愛の秘蹟だからです。言いかえると、愛徳の秘蹟なのです。天主において愛とも愛徳とも全く同じことです。
聖トマス・アクイナスの言葉を借りたら、愛徳こそは「Concretiva et unitiva」なる御力です。愛徳こそは統一の種であるのです。愛徳こそは霊魂たちを統一するわけです。愛徳こそはそれぞれの心と理性を統一しています。愛徳こそはそれぞれの意志を統一します。愛徳の具体的な成果は、現に実る成果はその統一にあるのです。

そして、御聖体の秘蹟において、我々のためにご自分を与え給うイエズスはこの上なく愛徳の実践であるのです。愛の秘蹟なのです。また、我らの主、イエズス・キリストはご自分の愛を我々に与え給います。我々の霊魂と心へ愛徳を注ぎ給うことによって、愛徳によっての天主との一致を実現させて、そしてさらに、信徒たちの間にも一致を成し遂げ給います。というのも、教会の一致は愛徳の絆に帰するからです。そして、信徒たちの間の一致も愛徳に帰するからです。

このように、我らの主、イエズスは御聖体において、パンとブドウ酒と物質において教会の一致の象りであると同時に、御聖体の秘蹟の両面となる聖なる生贄と聖なる拝領において教会の一致の動因でもあります。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、御聖体はどれほど偉大なる秘蹟であることを知りなさい。また御聖体を攻撃すると必ず教会の一致を攻撃することも知りなさい。ですから、御聖体であるミサ聖祭の典礼を変えてしまうということは、あえていえば教会の一致を変質させてしまったのです。このように、1969年、ミサ聖祭の典礼が変わってしまったせいで、教会の一致の意味も変わりました。ですから、我々はこれらの誤謬を受け入れるわけにはいきません。新しく間違った教義を運ぶ新しいミサを受け入れることはできません。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々は何よりも永遠のミサ聖祭を守って保つのです。このミサ聖祭こそは天主との我々の一致を実現させるだけではなく、教会の一致をも成し遂げます。
いと愛する兄弟の皆様、また、教会の一致以上に、聖伝のミサ聖祭は我々の家族、共同体、小社会の一致をも成し遂げます。家族全員で、ミサ聖祭に与って聖体拝領を受けて初めて、家族としての生命の一致と統一を得ます。同じように、本物の秘蹟である婚姻の秘跡も御聖体においてこそ、婚姻の秘蹟上の聖寵を常に得られます。
またそれぞれの社会、つまり、小教区、村、国、国家でも、社会としてミサ聖祭に与って国王が聖体拝領してはじめて、国の本物の一致と統一、また本物の平和が実現します。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、カトリック信徒なら、御聖体を礼拝して、御聖体に返すべき栄光を行為で表すことは義務です。特に、御聖体の祝日なので、人の前で、公に、外での行列をもって御聖体を礼拝することは信徒としての義務です。
また、注意していただきたいと思いますが、ミサ聖祭と聖体拝領は信徒個人としての義務だけではないわけです。政治上の義務です。公けのための義務です。天主に対して果たすべき義務です。良心も命じる義務です。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我らの主に値する名誉と栄光を荘厳に正しく返して果たしましょう。礼拝において、典礼においても。また公に、人の前で、カトリック信仰を広く遠慮なく示していきましょう。社会全体が回心するように信仰告白しましょう。それは、自分自身だけの霊魂の救いのためだけにやるべきではありません。非常にエゴイズム的になるからです。全社会、全共同体のためにです。というのも、我らの主、イエズス・キリストは教会の一致であるだけではなく、国家、もろもろの社会の本物の一致の種でもあります。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
***
参考:集祷文「奇(くす)しき秘蹟において、御受難の記念をわれらに残し給うた主よ、願わくは、われらに、御身のあがないの効果を知らせ、深い敬虔の念をみって、御体と御血の奥義を尊ばせ給え。」
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私たちが与えられたタレントは何のために使えばいいのか?

2021年11月12日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様のお説教  
私たちが与えられたタレントは何のために使えばいいのか?
2020年11月04日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日の福音書は有名なるタレントの箴言です。一人は主より5タレントを頂いて、これを使って、倍にして追加の5タレントを得ました。また同じく、もう一人は主より2タレントを頂いて、これを使って、倍にして追加の2タレントを得ました。そして、最後の人は主より1タレントだけを頂いていたのですが、これを実らさないで「地下に隠しに行った」(マテオ、25、25)が殖やすことはなくて主によって罰せられました。

本日の祝日の聖人は、聖カルロ・ボロメアですが、このような聖人たちが聖人になったのは彼等が貰っていたタレント(才能、能力など)を実らせたからです。つまり、主より貰っている多くの物事を自分のものであるかのように自分の楽しみのために享受することに留まらなかった聖人たちです。彼等はそうするのではなくて、聖人たちは主より頂いたタレントを愛徳のためにあって、愛徳にために使わなければならないということを深く実感していました。また、主より頂いたタレントは共通善のために使われるべきであって、それらはつまり皆の善のため、そして間接的に自分の善のためにもなります。



頂いたタレントは種のようなものです。種を撒いていずれか収穫できるように働くことです。種を撒かないで、種を実らせないことはすべての種を失うことになります。頂いたタレントですら失うことになります。想像してください。畑でまくために種を貰った奉仕人がいるとしましょう。そして、種を撒かないで種を保留した場合、主人には収穫できない分、弊害をもたらすわけです。

聖人たちは頂いたタレントを倍にしたのですが、どうやってでしょうか?霊的な生命のために、自分のタレントを尽くしたことによってです。また、被創造物に留まらないで、常に創造主へ目を向けることによってです。また、物質的な物事よりも、霊的な事実へ向けたことによってです。移り変わる物事よりも、永遠に存在する事実へ向けたことによってです。この世に自分の持っていた財産を二倍にしたのです。あえていえば、天を得た上に、この世をも得た聖人たちです。地下に自分のタレントを隠すということはやはり、天を無視して、この世の物事ばかりを考えているようなことです。その結果、この世をも失うことになります。

これこそは現代の一番大きな間違いです。快楽主義な、物質主義的な現代は、過剰な個人主義に加えて、自分の持っているものごとを自分のものであるかのように、自分のためのみ使うように勧める現代です。愛徳を無視して、共通善のために一切働かないということを勧める現代です。「私の体は私の快楽のためにあり、好き勝手にやってもよいだろう」と言わんばかりの現代です。



しかしながら、これは間違っています。大いに違います。
いと愛する兄弟の皆様、我々は頂いたタレントとすべての物事の利用について、人生の間にすべての物事について、いずれ臨終の時に報告せざるを得ない時が来て、裁かれることになります。

そして、天国に多くの福者の霊魂を送ることを助けている霊魂たちは幸いあれ。多くの子供を設けてよきカトリック教育を与えるカトリック的な家庭なり、宗教生活を通じて、自己犠牲を尽くして、天主の贖罪に奉仕してなるべく多くの霊魂たちを奪還するための道具になることを択んだ修道院や司祭のような人々となり、このような人々はこの世における旅の間に多くの実りが生まれるように貢献したことは天においての報いとなり、栄光の冠になるということをよく知っています。このような働きのお陰で得た霊的な収入は想像を絶します。



逆に、地下にタレントを隠すということは、天主より頂いたタレントを天主のために使わないことにする態度です。また、この世のためにだけこれらのタレントを使う態度です。つまり、自分の頭や能力を天主に奉仕するためではなく、現世的なことのために使う態度なのです。
以上の態度は罪人の態度はでないのですよ。つまり、罪を犯そうとしている罪人より酷いです。タレントを地下に隠すのではなく、罪人はタレントを浪費するようなことと似ています。タレントを地下に隠す人は、あえて言えば怠慢の罪となります。つまり、善を成しうるのに、わざと善を成さないことにしてしまいます。怠けるから、善を成すのは難しいから、理由は多いでしょうが、洗礼者はイエズス・キリストを頂いているのに、霊的な生活を営むことを避けて逃げるような人です。

ですから、我々の救霊、また天での喜びはこの世での我々の人生のすべてを天主のために使うことにあることをよく自覚しましょう。それらはそれぞれの分において、天主に奉仕することにあります。我々は皆、違うタレントを頂き、それぞれ与えられる使命を果たすために十分にあるタレントなので、多かろう少なかろうとも、ともかく貰ったタレントを天主の聖寵に頼りながら実らせるように努めましょう。

一番大事なのは頂いたタレントの量ではありません。一タレントにせよ、五タレントにせよ、千タレントにせよ、それは問題でありません。また、我々、カトリック信徒はどれほど多くの秘跡に与ったことがあるだけを考えても、どれほど多くの恵みを頂いているのかは自明でしょう。

一番大事なのは、常に、天主より頂いたすべて、つまり人生のすべてを天主のために奉献して捧げることにあります。ですから、働きの偉大さよりも、自分なりの力で、天主のために使おうとする清い意志の方は報われるわけです。
聖カルロ・ボロメアはその意味で、全力を尽くして、献身して愛徳の模範となっています。ミラノのペストの時、聖カルロ・ボロメアは病人を訪れて、すべての教会と家を訪れました。このようにこの世のタレントを使い、天のタレントを得ていきました。多くの霊魂ためにも自分の霊魂のためにも多くの恵みをもたらした犠牲と働きでした。



現代の流行っているコロナウイルスという名目で、教区の司祭たちにミサを捧げるな、と、あるいは秘跡を授けるな、告解を聴くな、と命令する司教たちは禍なこと!
残念ながら、このようなとんでもない指示は本当にあって事例があります。例えば、ニュージーランドのウエリントンWellington司教はこのような指示を出しています。彼は外出自粛の間に、教区の司祭にミサを捧げること、また告解を聴くことを禁じました。
使徒、聖パウロは次のことを言っていたのではないでしょうか?「ああ、私が福音をのべないなら、禍なことだ。」(コリント人への第一の手紙、9、16)ですから、地下にタレントを隠す聖職者たちは禍なことです。残念ながらこのようなことをしていると、すべてのタレントを失い、すべてを失うことになります。

そして、無駄にされたタレントは彼等から奪われて、すでにタレントを倍にした人々に与えられます。言いかえると、天主のために働けば働くほど、溢れるほどにどんどん天主の聖寵は与えられていきます。イエズス・キリストの仰せのとおりです。「持っている者は与えられてますます豊かになるが、持たない者は持っているものまで取られてしまう。」(マテオ、13、12)
ですから、このように、悪を成さなくても、「タレントを地下に隠した」者、つまり良い働きを成さない者に対する罰が厳しかったら、「タレントを浪費した」者、つまり罪を犯す者に対する罰はどれほど厳しいか垣間見えるでしょう。

そして、最後に聖オストルモワンヌAustremoineについて触れたいとおもいます。この聖人はフランス領地、ニューカレドニアの守護聖人であり、ニューカレドニアの信徒たちは聖ニコラ教会のミサを見ていることを知っています。聖オストルモワンヌAustremoineは三世紀の末あたり、フランス本土のオーヴェルニュAuvergne地方に伝道するために教皇から送られた聖人です。そして、クレモン教区の当初司教です。では、なぜ、ニューカレドニアの守護聖人になっているでしょうか?
ニューカレドニアへ最初、伝道した宣教師たちはマリスト修道会でしたが、リオンからきて、聖Austremoineを特に崇拝していたことから来ます。



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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救霊パスポート

2021年11月03日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G. Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教  
救霊パスポート
2021年08月15日 聖母被昇天
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆様、1950年から、カトリック信仰の一つの信条として、被昇天を祝うことになっています。本日の玄義を黙想すると、三つの側面が現れて、同じ玄義から三つの点が浮かびます。
第一点、いとも聖なる童貞マリアはこの世を去られたということです。
第二点、聖母マリアは天国に昇られたということです。
第三点、聖母マリアは天国で冠を戴き、天地の元后になったということです。

被昇天の玄義の第一の側面はいとも聖なる童貞マリアはこの世を去られたということです。人間なら皆、例外なく、いずれか死ぬということを知っています。この世に残るために人間は創造されたわけではありません。人間が欲しがる幸せはこの世には存在しません。聖母マリアも人間の一人にして、このような普遍的な原則に従ったわけです。つまり、聖母マリアの居場所はこの世ではないという意味で、一緒です。ですから、ある日、この世を去り、天国へ行かれました。

聖母マリアはこの世を去られたのですが具体的にどのように去られたでしょうか?その点について信条はまだ確定になっていなくて、教皇ピオ12世は信条を確立した時、聖母マリアは死んだか死ななかったかという点について断言しなかったのです。神学者の意見は分かれていて、聖母マリアは死んでから被昇天した説もあれば、死なないで被昇天したという説もあります。言いかえると、被昇天の際に聖母マリアは死んでいたか死んでいなかったかというのは信条ではなく、神学者の議論にゆだねられており、違う意見をもっても現時点では大丈夫です。



ただし、確かに言えるのは、聖母マリアは死んでいたとしても、その体は腐敗していなかったことは確実な事実であり、神学者、教父たちは揃って断言していることです。また、聖母マリアの体は死ぬことによる腐敗を経験しなかったことは信条です。というのも教皇ピオ12世は被昇天の教義を宣言する教皇回勅はその点を明らかにして断言されているのです。聖母マリアは死ぬことによる体の腐敗を経験しなかったということです。

死んだか死ななかったかにはかかわらず、聖母マリアはこの世を去られなければなりませんでした。そして、聖母マリアはこの世の去り方に関していうと、聖母マリアが生きておられた延長線にあるということです。つまり恩寵に満ちた世の去り方でした。ですから、聖母マリアの被昇天はどちらかというと非常に自然なことでした。言いかえると、聖母マリアの場合は、地上の彼女の人生と天国での人生は完全に継続しているというということです。聖母マリアに限って断絶はありません。

ご存じのように、教義に照らして、信徳というのは至福の前触れであり、望徳は至福を得ることの前触れでありますが、愛徳は前触れではないのです。地上で愛徳の内に生きた時、同じ愛徳の内に天国で生きていくということです。ただ、愛徳の内の生き方は地上と天国と違っていて、地上では信徳を通じて愛徳の内に生きられる一方、天国では直接に天主を見て愛徳の内に生きるということになります。

聖母マリアの場合、愛徳の内に聖寵による絶えまない上昇の人生でした。そして、この世で最高の程度を達した時、愛徳による同じ動きを続けてこのまま、被昇天が起きて、天国で完全な愛徳に達しました。つまり、聖母マリアにとって、この世から天国への上昇は容易でしたし、苦しみもなかったわけです。

「死んだ」という意見の神学者は「愛徳のあまりに死なれた」といっています。具体的にいうとエクスタシー(天主との一致によるこの世での恍惚状態)のあまり、聖母マリアの霊魂はつい、何の断絶も、何の苦しみもなく、体から抜けて天主を直接見ることができたということです。

さて、愛する兄弟の皆様、以上の第一点からの教訓はなんですか。聖母マリアは御子イエズスに続いて、違う形で、死に対して打ち勝ったということです。我らの主、イエズス・キリストは死なれたことによって死に打ち勝ったのですが、聖母マリアは天国へ容易に苦しみなしに昇られたことによって死に打ち勝ったということです。

ですから、私たちは聖母マリアにこのような良き死という恵みを頼みましょう。また、ロザリオを祈っている時、栄えの玄義を黙想する時、被昇天の玄義の時に、善き死、よく死ぬ徳を頼んでいるわけです。善き死を得るために何が必要ですか?よく生きてきたということです。聖母マリアは私たちにとって、善き死の本当の模範であるということです。聖母マリアは一生の霊的な上昇を続けて、その延長線上に天国へ自然にいかれたという完璧な霊的な生活を送りました。ですから、私たちもよく死にたいと思うのなら、よく生きることを務めなければなりません。本日、いとも聖なる童貞マリアに善く死ぬ恵みを希いましょう。



玄義の第二側面、聖母マリアは天国に昇られたということです。死んだか死ななかったにはかかわらず、いずれにせよ、天国に昇られました。死なれなかった場合、被昇天はそのままに行われて、死なれた場合、腐敗していない体はすぐ、霊魂と体は改めて一緒になって、霊魂と体はともに天国に昇られたということです。結果は同じです。聖母マリアは霊魂とともに体をもって天国に昇られました。これも信条です。

イエズスはいとも聖なる童貞マリアのためにこの上ない恵みを与え給うたのはなぜでしょうか?聖母マリアに対する報いです。一生、完全に清らかの状態を保たれた聖母マリアのいとも潔白さに対する報いですが、同時に、童貞のまま宿られたことに対する報いでもあります。聖母マリアの体は無傷無事の一生であって、罪からも腐敗からも穢れも受けなかったのです。というのも聖母マリアは一度も、罪の道具にならなかっただけではなく、罪を受け入れた神殿になったこともないからです。罪を犯したことのない聖母マリアの体は罪の道具になりませんでした。原罪から守られた聖母マリアの体は罪の神殿にも(我々と違って生まれながら)なったことはありませんでした。このように、聖母マリアの体は一度も一切、何の罪の汚点を負ったことはありませんでした。

そこで、霊魂だけではなく体とともに聖母マリアの被昇天をさせたイエズス・キリストはなぜ、御母にこの恵みを与え給うたのでしょうか?
童貞聖母マリアの体には現世欲による動きは一度もなかったのです。洗礼を受けても告解などをはじめとする秘蹟の内に聖寵を受けて生きていても、現世欲による動きと混乱をわれわれは常に経験しています。というのも、この現世欲は原罪による傷跡のように、我々の本性は損なわれているからです。これは、いとも聖なる童貞マリアの罪に対する勝利です。

被昇天とは死を打ち勝ったと同時に、罪に打ち勝ったのです。また、罪に対する典型的な勝利であると同時に、我々のよみがえりをも思い起こされると預言されています。つまり、我々はよみがえった時、決定的に完全に罪と現世欲にたいして勝利することになるからです。
ですから、私たちは自分の体を自分の霊魂に従わせられるように、それから自分の霊魂は聖寵に従わせられるように、いとも聖なる童貞マリアにこの恵みを祈りましょう。




我々はこのように生きなければなりません。体は霊魂に従って、霊魂は聖寵に従うという生き方です。そして、聖母マリアは天国に体とともに直接に昇られた理由は簡単です。聖母マリアはこのような従順は一瞬も絶えたことはないからです。また生まれた時から地上の最期まで聖母マリアの従順は完璧だったからです。聖母マリアは罪に打ち勝ちました。そして、我らの祈りと信心次第で、聖母マリアは罪に対する勝利を我らにも与えてくださいます。

いとも愛する兄弟の皆様、被昇天の教義の第三点、聖母マリアは天国で冠を戴き、天地の元后になったという側面を見ましょう。霊魂と体とともに天国に昇られた聖母マリアです。そして、このように天国にいる体としては二人目です。一人目はイエズス・キリストの御体なのです。そこで天使たちは創造中の最高被創造物である聖母マリアを眺めて喜ばれます。天使たちやすでに天国に行けた選ばれた福者の霊魂たちもみんな、聖母マリアの清らかな体を見ています。また、聖母マリアの霊魂の美しさをも見ています。



そして聖母マリアは高く高く高く天国へ。選ばれた者全員より高く天国へ。旧約聖書の正しき者にせよ、イエズスの昇天よりすでに裁かれて天国に入れた聖人にせよ、九階の天使たちにせよ、一番偉い天使ケルビムとセラフィムにせよ、聖母マリアは皆の前を通り、無原罪の美しさを見せられて、より高くいかれます。

全員よりも聖母マリアはその美しさにおいても神聖さにおいて優れています。このように聖母マリアは天主の内の一番美しい天使よりも高く昇られて、天主の王座のみ前にたどり着かれます。そのみ前に冠を戴きます。王妃として冠を頂きます。天地の王妃となります。聖母マリアは人間の一員であるのに、天使の王妃ともなります。ある時代の一点に生まれて儚い時代を生きた聖母マリアは創造の前から存在するだろう天使の王妃となります。聖母マリアは儚い単なる被創造者、しかも女性であるのに、冠を頂き天地の王妃となります。天主の御母であるので冠を頂きます。我らの主はその栄光を報いるために天地の王国の統治に聖母マリアを参加させ給うのです。このように、本日、被昇天の祝日をもって現世に対する勝利をも祝います。

聖母マリアは死と罪とに打ち勝っただけではなく、天地の王妃としても現世にも打ち勝ちます。愛する兄弟の皆様、この事実は私たちにとって大きな希望となります。イエズス・キリストも使徒たちに向けてこの事実を明らかに仰せになりましたように、この世の王妃となる聖母マリアは現世的な王国を確立するためではありませんよ。この世にある悪い物事にたいして我々が打ち勝てるように我々を導くために聖母マリアはこの世の王妃となります。私たちもいずれか、天国で聖母マリアとともに天主の栄光を浴びられるように。

聖母マリアは天国の王妃であるが故にこの世の王妃となります。我々は地上にて聖母マリアの良い臣民になり、天国に行けるために聖母マリアはこの世の王妃となります。つまり現世的な栄光を浴びるために聖母マリアはこの世の王妃となるわけではありません。天国へ我々を招き求めるように聖母マリアはこの世の王妃となります。この世では単なる旅人として生まれた事実を受け入れて、また天国に行くように手伝うために聖母マリアはこの世の王妃となります。はい、我々は天国に行けるように聖母マリアはこの世の王妃となります。我々に永遠の至福を得しめるために聖母マリアはこの世の王妃となります。

混乱している現代では何でもかんでもこの世にいつまでも着用させようとされます。現に、ワクチンパスポートなどによって、われわれはこの世において止めさせようとされています。いとも聖なる童貞マリアはこの世が我々の居場所ではない事実を思い起こしてくださいます。我々の居場所、目的地、本来の住まいは天国であるという事実を思い起こしてくださいます。ですから、カトリック信徒にとって、聖母マリアはあえて言えば、救霊パスポートなのです。聖母マリアこそは天国に入れるためのパスポートです。聖母マリアを通じてこそ、天国に行けて永遠の至福を得られます。ワクチンパスポートをもったとしてもこの世では楽な人生が約束されるが、あの世では何も得られません。救霊パスポートなる聖母マリアはこの世で必ずしも栄光も得ないし、楽な人生にもならないかもしれないが、あの世で永遠の至福を得させてくださる救霊パスポートです。

ですから、愛する兄弟の皆様、私たちは限りなく聖母マリアへすべてを託しましょう。また、私たちは常に天国の事を第一にできるように聖母マリアに祈りましょう。また、地上の人生にあまり執着しないように、無関心でいられるように、軽蔑できるように聖母マリアに祈りましょう。
また、現代でもどれほど大変なことが起きても、どれほど悪魔的な出来事が確かにいま起きていても、これは何でもないことであることを知り、このように振るまって不安にならないように聖母マリアに祈りましょう。そして、望徳と喜びが与えられるように、死と罪と現世に対して私たちは打ち勝つための力が与えられるように聖母マリアに祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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天主はあらゆる恩寵の源|真の謙遜とは

2021年10月26日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ゴードレ(Th.Gaudray)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ゴードレ(Th.Gaudray)神父様の説教  
天主様、あらゆる恩寵の源である
2021年08月01日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
聖書は何度も、繰り返し、数え切れない多くの言い方で次のことを教えます。「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられるからである」(ルカ、18,14)。これは人間の心の奥に真にあることです。これは我らにとって重要な教えです。

我々は被創造物です。我々の存在理由も人間の在り方も被創造物であることにかかります。また、被創造物であるが故に宗教生活を営むのです。創造主なる善き天主様を礼拝する理由は、また誰よりもこの上なく天主様を崇める理由は天主様が我らの創造主であるからです。つまり、本質的に人間はすべてにおいて天主様に依存しているからです。

本日の書簡において(コリント人への書簡、12,2-11)聖パウロは三位一体の位格について語られます。三位一体の第三の位格、天主様の霊すなわち聖霊、天主様より生じる霊によって、人々はイエズスを「我が主」と認めることができると教えられています。イエズスは天主の御子であり、すなわち三位一体の第二位格です。言いかえると天主様についての玄義には天主様の位格の間に違う関係があり、その関係によってのみ三位一体の位格の聖父、聖子と聖霊を区別できます。聖父なる天主様は聖子なる天主様と全く同じですが、一つだけ違うものは聖父と聖子との間の関係であり、つまり父子の関係があるのです。そして聖霊もあって、現に区別できる位格で、違う位格です。

このように三位一体の位格を区別することができれば、完全に異質のやり方、つまり創られたという形で創造主より生じた我々も天主様に完全にすべてにおいて依存することは本来なら自明なことではないでしょうか。要するに、我々は一人一人の存在、人生、持っているすべては天主様から常に与えられるのです。



無から我々を創られました。いや、より厳密に言うと絶えまなく常に無から我々を創り、存在の内に存続できるように我々を創り続け給うのです。はい、我々は極小さい、弱い被創造物にすぎません。信徒は皆、望まれることですが、もしも天で至福を得ることがあったとしても、地獄に落ちたとしても、我々は引き続き天主様に依存することになって、天主様への依存は変わりません。死んでからでも我々を存在させ給い続けるのは引き続き、天主様なのです。そして、天では天主様から栄光をも与え給うのです。

天主様への人間の依存は人間の根底にあります。いわゆる存在においての依存だけではなく(天主様がいなければ我々は存在し続けられないという)、すべてにおいても天主様へ依存しています。本日の書簡において聖パウロはその事実を思い起こします。

「イエズスは主である」という人は、自然上も超自然上(聖寵の次元)も善を施す人は、みんな天主様によってのみそのようなことができます。例えば、今、私はミサ聖祭を捧げられることも、また皆様はミサ聖祭に与かられることも、また皆様、今朝起床した時、「よし、ミサにあずかろう」と思えたことも、「天主様の掟、教会の掟に従おう」と思えることも、「ミサ聖祭に与る善い行為を決意した」と決意できたのも、それはすべて天主様の聖寵によってのみ可能であり、実現できます。

天主様は善良のすべての事の源であり、原因であります。聖パウロは聖霊の多くの賜物を紹介しています。いわゆる我々の周りにある多くの良いことで、更に人々のために善を施すための賜物などです。このような施し、行為、能力なども天主様の聖寵によってです。我々は皆、自分自身で有らしめるのは善き天主様なのです。このような事実は根底中の根底にあって重要中の重要な事実である分、なぜか人間にとって自覚しづらいところがあります。いとも愛する兄弟の皆様、我々は心の謙遜を本当に持っているでしょうか?天主様の前に、我々は無に等しいことを本当に認めているでしょうか?

我々のために我らの主は福音書において簡単なしるし、可視的しるしを二つ与え給います。このようなしるしのお陰で、僅かでも、自分の心において謙遜であれるかどうかを知ることができます。謙遜を表す第一の基準は改悛する心、償う意志にあります。福音書では税吏が何をするでしょうか。神殿の端に立ちながら、哀れな罪人であることを認めて、「目を天に向けることさえ成し得ない」のです。

はい、そうなのです。すべての善、良、善い物事は天主様より来ますが、同時にすべての悪、欠陥、欠如、すべての罪などは被創造物である我々からきて、我々が原因なのです。ですから、我々が犯している罪を告白して、我々の哀れな状態を認めて、力強い天主様の御手の下に、正義を全うするための天罰を見て憚り、御赦しを希うのです。

我々が犯した多くの罪に値する厳しい罰を知って、この罰から逃れるために天主様のみ前に畏れ多くしつつ御憐みを希うことはもっともなことです。また罰から逃れるために我々のできる範囲で努力することは正当なことですが、罰が与えられた時、その罰を受け入れて、(それが)公平で理に適うことを認めるべきです。つまり、我々は皆、とんでもない罪人であり、多くの罪を犯している分、とんでもない罰を受けても当然のことです。過失の深さに値する本来ならば受けるべき厳しい罰の代わりに、我々は償うために苦しんでも当然であり、当たり前であります。

現代、フランス全国でイスラム教が広まり、モスクが数多くなるのは天主様からの罰です。フリーメーソンが全世界を牛耳っていることも天主様からの罰です。そして、このような罰を受けることは当然だと認めましょう。また、毎日のようにどんどん息苦しくなっていく理不尽な「コロナ対策」で苦しめられることも天主様からの罰だと認めましょう。



我々は哀れな罪人にすぎません。この中、例えばデモに参加すること、抵抗すること、請願書を著名することなどは役立つかどうかはそれぞれに賢明の徳の実践にかかる評価です。ただし、注意しましょう。何でもかんでも異論を言い出すという精神を我々の宗教生活に絶対に入り込まないように注意しましょう。税吏に倣いましょう。「哀れな罪人である私は苦しんで、責められているが、この罰を受けるのは当然だ」という精神を徹底しましょう。

本日の福音書にある、心において謙遜であるかどうかを知るための第二のしるし、基準は憐みなのです。謙遜な心を持つ人は隣人を憐れむのです。逆に、高ぶる人は、傲慢な人は必ずと言ってもよいほどいずれか虚栄心という罪を犯してしまいます。あらゆる物事は天主様に依存している事実を認めたくないから、傲慢な人は本来、天主様から来る賜物のすべてを自分自身から来ることにしてしまいます。で、自分が生んだ賜物だと思う挙句、虚栄心に繋がり、隣人への軽蔑に繋がります。福音書に登場する高ぶるファリサイ人のように。かれはほかの人々よりも偉いと思い込んでしまいます。

気を付けましょう。天主様から頂くすべての良いこと、恩寵などを自分の物にしてしまったら虚栄心に繋がります。何でもいいですが、一族の偉い血統を自慢したり、筋肉が強くてとても体力があることを自慢したり、健康であることを自慢したり、頭がいいから、学問に達者であるから、あるいは実践家であるから自慢したり、善徳を実践することを自慢したりするなどはすべて虚栄心です。虚栄心は修道院においても入り込みます。自慢したり、高ぶったり、他人よりも偉いよと思ったりするなど行為です。はい、だれでもすべての人生において虚栄心は溢れます。賜物が多ければ多いほどに生じやすいです。

一方、心が謙遜であれば、すべての賜物は天主様が与えられた事実を認めますので、天主様がいなければ自分は何でもないということを知っています。謙遜な人は胸を張るよりも、慎しんで本来ならば人の目からずっと逃れたいはずです。人々からの評価、評判などを求めない人です。逆に謙遜の人は罪人であることを知って認めているので、罰を受けることは当然だと知っています。ですから、無視されても追い出されても軽蔑されてもそれは当然だと知っています。

だからといって、謙遜の人は絶望に落ちることはありません。その逆です。謙遜の人は常に喜んでいます。彼の喜びは天主様によって愛されていることを知っていることにあります。謙遜の人は自分自身に頼らないで天主様に頼っているので、そこに謙遜の人の力があります。被創造物に頼ることはありません。どれほど偉大であっても綺麗な被創造物であったとしてもですよ。

善徳、聖徳にすら頼りません。よき天主様にのみ頼っている故、謙遜の人は強いです。十字架を見たら、我々はどれほど天主様に愛されていることかを知ります。そして、それを知って天主様に頼って確かに剛毅となります。慎しみから得られる剛毅さです。

二週間ぐらい後に被昇天を祝うのですが、いとも聖なる童貞マリアに祈りましょう。被創造物の内にもこの上なく慎しんで謙遜だったマリア様から謙遜から来る本物の剛毅さを与えられるように。そして、ずっとずっと天主様の力強い御手の下にへりくだり、自分を下げましょう。そうしたら、いつか上げられます。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 
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堅振式:キリストの兵士になる|なぜ戦いなのか?聖ペルペトゥアの試練

2021年10月18日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ティシエ・ド・マルレ(Tisseier de Mallerais)司教によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ティシエ・ド・マルレ(Tisseier de Mallerais)司教様の説教  
堅振式・キリストの兵士になる
2021年5月16日 ご昇天の後の主日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン   
お座りください。

いとも愛する兄弟の皆様、本日、本教会において、堅振を授けるのは、私にとって大きな喜びです。聖霊の剛毅において多くの子供、というか堅振式によってもはや子供でなくなるのですが、また数人の大人にも堅振を授けられて嬉しく思います。

愛する受堅者の皆様、堅振という秘蹟を受けるために、親や司祭によってよく準備されて心構えはできているでしょう。堅振とは、我らの主イエズス・キリストが制定された七つの秘跡の内の一つの秘跡なのです。秘跡は天主の生命、すなわち聖寵を我らに与えるために制定されました。

洗礼と叙階と並んで、堅振という秘跡には特徴があります。霊魂において消せない刻印を付けます。刻印というのは、霊的な印という意味ですが、霊魂において永遠に刻まれることになります。そして、この刻印のお陰で、信仰を宣言し、告白する霊的な力は得られます。言いかえると、キリストの真理の証人になる力を与える秘跡です。つまり、我らの主、イエズス・キリストは真の天主であることを宣言する力を与える秘跡です。



このように、受堅者は「我らの主、イエズス・キリストの証人」だとも呼ばれていますね。また、「イエズス・キリストの兵士」とも呼ばれていますね。というのも、キリストの証人になるためには、戦う必要があるからです。この戦いは、まず、カトリック教会の敵らに対する戦いです。例えば、フリーメーソンに対する戦いです。また、自分自身に対する戦いも要ります。いわゆる、人間的な尊敬、あるいは本音と建て前を区別したりして、心配や恐れに対する戦いです。

これらを倒して、回心するために必要としているキリストの真理をあなたから聞くことを待つ人々のために、キリストの真理を告白して、宣言して、伝えていくための戦いです。あなたたちの言動、言葉のお陰で、より多くの人々はカトリック教会へ回心していけます。考えてください。堅振を受けた信徒としてのあなたたちの使命は重要です。カトリック教会におけるあなたたちの役割と戦いは重要です。その使命についてくれぐれも考えなさい。

また、堅振のお陰で、聖霊の七つ賜物をより豊かに受けることになります。ご存じのように、あなたの霊魂を船にたとえてみると、聖霊の賜物は船の七つの帆と似ています。これらの帆は霊的な風である聖霊を受けて船をこの世ですでに聖人になるという港、また天国における永遠の幸福という港へとあなたたちを前進させます。



特に、剛毅という賜物を強調しましょう。剛毅の賜物によって、あなたたちは遠慮、恐れ、恥ずかしさに対して強めてくださいます。恥ずかしさ、あるいは恥は「人間愛」あるいは「人間的な尊敬」いわゆる「他人へ迷惑をかけたくない気持ち、あるいは迷惑という口実」というようなことです。つまり、人の前で、自分がカトリック信徒であるということを明らかにして振舞うことを恐れることが多いでしょう。なぜなら、これは、とがむべき弱さだからです。ですから、これから、知り合いの前でも公けにも、教会の聖伝に忠実なカトリック信徒として振舞いを宣言することを躊躇してはいけません。

あと、もちろん、何故おそれるでしょうか?打撃、弊害、迫害を受けたくない気持ちが働くからでしょう。殉教者のように、投獄されることもあるでしょう。昔は、自分の信仰を宣言するだけでもすぐに死刑となっていましたよ。ですから、想像に難くないのです。信仰を告白して、宣言するために必要である霊的な勇気、剛毅はかなり大きいでしょう。これは自分の力で得られないので、聖霊の一つの賜物です。聖霊は信仰の戦いに臨むために、また、美しい徳である節制の徳を実践するために、あなたたちを強めて、剛毅を与えて、強化させてくださいます。はい、節制の徳は現代に置かれて限りなく軽蔑されて、否定されて、馬鹿にされているから、特にその徳を実践しましょう。これを一生ずっとやり続けていくのです。

つぎのような一例を取り上げたいと思います。古代に生きた殉教者の話です。真の天主への真の信仰のために殉じた者です。聖ペルペトゥアPerpétueといううら若き女性です。結婚することになりました。彼女の父は異教徒でした。Perpétueはキリシタンでした。そして、父は娘を強制的に若い異教徒の男性に嫁がせました。この結婚相手の詳しいことは残された歴史において忘れられてしまいました。そして、Perpétueはまだとても若い時、二十歳になったばかりにキリシタンであることを密告されました。セプティミウス・セウェルスス皇帝の時代だったでしょう。その時代の迫害はかなり激しかったです。キリシタンであることがばれたら、即座に逮捕されて投獄されて死刑執行される時代でした。

まったくこのようになりました。Perpétueは逮捕されて投獄されます。彼女と一緒に、約10人のキリシタンがいました。その内には、有名である聖フェリチテFélicitéもいました。FélicitéとPerpétue。皆様、耳にしたことがあると思います。これは、北アフリカのカルタゴで起きた事柄ですよ。つまり、Perpétueはアフリカ出身でした。皮膚もちょっと濃かったです。



さて、次はどうなったでしょうか?娘を訪問するために、牢屋にいきなり来たのはPerpétueの父です。そして、言います。
「娘よ、なにをやっているのか?我々の先祖、我々の偉大なる家を侮辱するぞ!」
はい、Perpétueの家族はカルタゴの貴族で、なかなかのエリート層でした。
「我々の偉大なる家を侮辱するぞ!すくなくとも、おまえの父の白髪のために想ってやりなさい!」うんぬん。
そして、Perpétueは答えます。「裁判所に出たら、私が話すのではなく、天主が代わりにお話になるでしょう」と。

そして父は去ります。そして裁判の日がきます。10数人のキリシタンは被告人の席に並んでいます。裁判官はヒラリアヌスHilarianusと言います。高位な官職を持った人です。

被告人の一人一人へ、異教名で呼び出して、運命の質問をします。「君、ヘーラクレース、キリシタンなのか?」。「はい、キリシタンです!」「ユーピテル神へ供え物したら終わる。お香一粒を捧げたら終わるからさ」「いいえ、捧げません」「死刑!」

という感じです。一人ずつ以上のように死刑となって、最後はPerpétueでした。Hilarianusは彼女へ同じ質問をします。「君、Perpétue、キリシタンなのか?」「はい、キリシタンです!」。そして、その瞬間、いきなりPerpétueの父が現れて前まで来ます。キリシタンの前に来て、Perpétueのもとまで来て、跪いて、娘に次のように希います。「我が娘よ、希うよ。君の父の白髪のために想ってやりなさい!すくなとも、君の赤ちゃんのことを想ってやりなさい!」
はい、Perpétueが逮捕される数週間前、数か月前に赤ちゃんが生まれたばかりでした。父は裁判の時、その赤ちゃんを抱き、娘の近くに来て赤ちゃんを差し出しました。Perpétueは結婚していただけではなく、母となっていたのです。赤ちゃんはまだまだ幼いです。父は赤ちゃんを連れてきたのですよ。想像してください。Perpétueは目の前に自分の赤ちゃんがいて、赤ちゃんを見ています。
父は「考えてください。あなたが死んだら、この子はどうなるのかを?君の子を想ってやりなさいよ!君がいなければこの子は生きられないだろう。」

どれほど酷い誘惑なのか想像してください。それは実際にあったことですよ。我々もこのような誘惑に晒されるかもしれません。危険な誘惑でした。異教徒だった父は人間愛だけで、間違った人間愛だけで物事を考えていたので、このような誘惑を娘に与えます。
Perpétueはどうするでしょうか?一粒の香をさりげなくそこへ投げたら、もうすべて終わるからですね。一粒のお香は大したことではないでしょう。



そして、裁判官は年配の父を裁判所から追い出すことを命令します。さらに娘の前で父を棒で敲きで罰します。「出ていけ!裁判所の働きを妨げている!」

そして、Perpétue自身が語ります。というのも、死刑執行の前に、牢屋で自分が経験したことを書きおろしてくれたので、彼女の最期は裁判はよく知られています。彼女自身が語ります。
「私の可愛そうな父が、そのように不正に敲かれることを見て深く悲しんだ」

しかしながら、Perpétueはそういった人情に抵抗しました。自分の赤ちゃんの将来によっても動揺しませんでした。「この子を天主のみ摂理にお任せします」と言い、「夫は拒否しているので、この子はまだ洗礼を受けていないが、天主のご加護にすがります」とPerpétueが心の内に言っていました。
そして、最後にHilarianusはもう一度、Perpétueに問います。「アポローンの石像でもユーノーの石像でも一粒のお香を本当に投げないのか?」「いいえ、投げません。天地を創造した唯一なる真の天主を礼拝します。我らを罪と最後の裁判から救うためにこの世に来り給うたイエズス・キリストです。」
これはキリシタンの信仰のよい短い要約版です。
そして、裁判官は「本当にこのまま頑固になってもいいのか?キリシタンというセクトをつづけるのか?」「はい、真の神への信仰を固く捧げます!」「なら、殺せ!」

このように、カトリック信仰を捧げたことを理由で、死刑という判決になって実行されました。
そして、裁判官は死刑という判決を言い渡します。そこにいたキリシタンの全員へ。具体的な刑は闘技場に投げられて猛獣によって食われるという刑となりました。
その一週間後、執行は行われました。死刑判決を受けたキリシタンの全員は闘技場へ連れられて、そこに多くの観客がいました。街の住人たちで、多くは異教徒でしたが、このような残酷な娯楽を楽しんでいました。同時に、この死刑は勇敢なこれらのキリシタンの凱旋をも意味します。カルタゴ闘技場で抵抗もしないで、ライオンやヒョウやトラといった猛獣に噛ませて食わせておきました。

以上、Perpétue聖人の最期の歴史です。死刑実行以外に、彼女の執筆になる文章も残っている分、その殉教は間近に感じ取れます。牢屋に至る間、Perpétueは裁判の流れ、死刑判決までの流れを書き留めたので本当にお勧めです。そして、天主はどれほど彼女を助けて、またカトリック信仰を宣言するようにどれほど天主によって強められたかがわかる証言です。つまり、血を流してまで、死んでまで、カトリック信仰を宣言する勇気を与えてくださるという聖霊の賜物です。

愛する皆様、以上は一例にすぎませんが、我々も本物のカトリックであることを表す時に迫害を受けたり、軽蔑と弊害を受けたりしても、耐えられるために、過去の殉教者のことを思い出して、慰めと勇気になるようにしましょう。

愛する信徒の皆様、愛する受堅者の皆様、聖霊の賜物を受けるように、とくに剛毅という賜物を受けて、いずれか、ある日もしかしたら明日、あるいは今日、いつまでもカトリック信仰を宣言する勇気があるように、そしていつも、彼らの言葉を通じて多くの善を施せるように、また彼らの善き模範によってより多くの人々がカトリック信仰へ回心するように、聖霊が受堅者を強め給うよう希いましょう。

聖Perpétueのとりなしをも希いましょう。また、いとも聖なる童貞マリアに祈りましょう。殉教者の元后です。十字架の下で聖母マリアも殉教を苦しまれたのです。天主なる聖母の御子と一緒に、聖母マリアは自分の命を一生捧げ続けました。ですから、本日の堅振を受けて、聖霊の七つの賜物に満たされるように祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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この世にいるのはなぜか?なぜ生まれてきたのか?|教皇とミサ聖祭に対する戦争

2021年10月09日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ペトルッチ(PP. Petrucci)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ペトルッチ(PP. Petrucci)神父様の説教  
教皇とミサ聖祭に対する戦争
2021年07月25日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

愛する信徒の皆様、我らの生きている時代は平凡ではありません。相次ぐ出来事は重要であり、そのせいで多くの人々の人生は変わることもあるでしょう。第一の出来事には、衛生上の独裁政治が思い浮かびます。全世界のどこでも、治験段階にあるワクチンの接種を強制的に人民に課する独裁政治です。また、悪がしこいことに人々を辛いジレンマに追い込むようにしています。自称ワクチンのために実験台に使われるか、それを拒否するか。しかしながら、拒否したらクビになるほどのような脅迫にかかっているという辛い二択です。

はい、現代はそら恐ろしい時代となっています。それよりも酷いことに、教会内に至って、聖伝ミサに対する戦争は継続しています。ご存じのように7月16日、フランシスコ教皇によって発布された自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」をもって聖伝ミサに対する戦争は強化されました。この教令には、第二ヴァチカン公会議の実であるノブス・オルド・ミサ(新しいミサ)をさらに広めて強化する目論見があります。新しいミサとは、天主様のミサでなくなってその代わりに人間のためだけのミサです。



そして我々はこのような時代の内に人生を送らざるを得ない事実があります。ですから、信仰に照らして一番重要なこと、本質的なことに立ち戻ることは大事なことです。これは我々の究極的な目的地に立ち戻りましょうということです。

つまり、この世にいるのはなぜですか。なぜ生まれてきたのですか。自分の霊魂が救われるためにこの世に生まれたのです。このことこそが一番重要な真理です。この真理こそが私たち一人ひとりにとっての一番大事なことなのです。

この人生は巡礼にすぎず、短い移行に過ぎません。天主様は永遠の命のために我々を創り給いました。そしてこの世に生まれてきたのはこの永遠を得るためであり、努力して永遠の命を得ることに値する手柄を果たすためです。ですから、この世でのキリシタンの人生は戦いです。戦闘です。旧約聖書において既にヨブがこういっています。「Militia est vita hominis 、super terra(この世にいることは人にとって兵役である)」(ヨブ記、7,1)。

信仰に照らして戦っていかなければなりません。失望しないために、望徳を保つために、そして、我々の周りのこの世を信仰に照らして変えるために戦わなければなりません。信仰はつねに我々の心に染みてわれわれの霊魂に燃えつくすようにすべきです。
はい、この人生を送って、死後になって天国で至福を得て天主様と一緒になるか、不幸なことに地獄に落ちて自分の霊魂を失うか、一人一人の行為、一人一人の覚悟と努力にかかっています。皆さんの決意にかかっていることなのですよ。

福音書でイエズスが仰せになりました。「よし全世界を儲(もう)けても、自分の霊魂を失えば何の役にたつだろう」(マテオ、16,26.マルコ、8,36)。
聖アンブローズはキリシタンたちに向けて次のように思い起こさせました。「現にある二つの永遠の一つにしか行かないことを覚えてください。永遠に救われるか永遠に罰せられるか」。

以上のような真理は我々の黙想の対象にしましょう。なぜなら信仰が教える真理に照らして、我々は言動を決めなければならないし、周りの出来事を解釈しなければならないわけだからです。

聖フランシスコ・ザビエルによれば「人間にとって善とは専ら一つだけあって、また悪とも専らひとつだけある。人間にとって唯一の善とは救霊であり、唯一の悪とは劫罰を選ぶことである。」

さらにいうと、現代に生まれた我々に向けて、天主様は「この時代において救霊することだ」と命じておられます。教会初期の殉教の時代ほどにまだなっていないものの、平凡な時代でもなく全体的に困難な時代に向かっていることは間違いないことです。

このように、いつもいつも努力して一番重要なことに立ち戻り、そこに留まるようにすることが大事なことになります。一番重要なことは言いかえると我らの主、イエズス・キリストです。イエズス・キリストに従い、倣い、常に祈りによってともにし、我らの人生と心の中心におく、主を信頼するということなどです。

というのも天主様は試練が我々に与えられることを許可しています。また、このような戦闘を許可しています。それは我々の救霊のために必要であるからであり、またどれほど厳しい試練であるとしてもイエズス・キリストは我らの傍に常にいらっしゃって、天主の生命である聖寵によってわれわれを支えたまいます。

教皇の自発教令には気づかせてくれることがあります。使徒時代から教え続けられた聖伝の信仰と第二ヴァチカン公会議が生んだ新しい教えとは絶対に相容れないことを示してくれたということです。これが、「公会議を受容した」教会が聖伝ミサの存在をゆるせない所以です。

なぜでしょうか。単純です。聖伝ミサにおいてカトリック信仰の全体とすべてが織り込まれているからです。また、聖伝ミサはサタンに対するイエズスの勝利でもあります。つまり、十字架上の生贄の流血を伴わない再現です。また聖伝ミサに与れば与るほど、信徒たちの人生にも染みて、どういった人生を送るべきか自然に身についていきます。つまり、戦闘の人生を送ることという事実を自覚して、積極的に戦っていくように養うというのが聖伝ミサです。また、自己犠牲の精神も養われています。また永遠の栄光を得ることに値するために、イエズス・キリストに従い、イエズス・キリストに倣う精神も養われています。



一方、エキュメニズムの精神によって育まれた近代的なミサはプロテスタントの精神に染まっていて、何よりも人間を中心におくのです。現代の社会で確認できる大がかりで全面的な危機はフランス革命とともに生まれた民主主義、民主政治の理不尽さを露呈させています。天主の権利を否定するためにできた「人権」により生まれた民主主義の弊害は露呈されるようになりました。

以上は政治上で人間を中心におく民主主義であるなら、同じように新しいミサは天主のためのミサでなくなって、人間のためのミサになってしまっているということです。

要するに、現代、我々は生きている政治社会での危機、それから教会での危機はまったく同じ問題の二つの側面にすぎません。両方の危機は繋がっています。両方とも信仰を破壊するための、教会を破壊するための革命なのです。そしてこのような戦いの内にあるのが我々の兵役です。我々は戦闘員です。乱れた秩序を回復するために改めるために合法的な手段で全力を尽くすべきです。

そして、第一に自分自身に対する戦いなのです。自分自身を改めなければなりません。というのも社会、教会、この世が改まってほしいと思うのなら、自分自身をかえなければなりません。我々の第一の戦いは自分自身に対する戦いなのです。

本日の福音書に出ているところです(ルカ、19,41-47)。イエズス・キリストはエルサレムの前にいて涙を流されています。というのもエルサレムは救霊をもたらしに来た天主の御子を迎え入れないから、こんど罰として滅びるエルサレムを見てイエズスは悲しまれます。そしてその預言通りに紀元ごろ70年、ヴェスパシアヌス皇帝の代に、いわゆるティトゥス皇帝の軍によってエルサレムの神殿は破壊されました。このような天罰は現代の欧州を象徴していると言えましょう。というのも、かつてキリスト教だった欧州は信仰を捨てた分、昔のヘブライ人のように天罰を被っているからです。イエズス・キリストを拒めば拒むほど、自壊に至っていくのが欧州です。



また本日の福音書に登場するエルサレムは人間の霊魂をも象徴しています。我らの主、イエズス・キリストによって救いに呼びかけられている霊魂です。イエズス・キリストは信仰の恩寵を我らに与え給い、イエズス・キリストを肯定するように、受け入れるように、イエズスの教えに従うようにイエズスに倣うようにすべての人々を呼びかけられています。

そしてイエズスは一人も残さずにすべての人々のために救いをもたらしに来ました。あらゆる人間を救うために十字架上に死に給うたのです。また、一人一人の人に救いを得るための十分な適切な聖寵を与え給います。あと、それぞれの霊魂はそれを受け入れるかどうかです。それぞれの霊魂次第でありますが、残念ながら、天主様からの聖寵を拒むことがあります。こうなったら、自滅につながっていきます。

しかしながら、信徒である我々はイエズス・キリストを限りなく受け入れて迎え入れましょう。勝利するための第一の条件です。我々の霊魂と心に我らの主、イエズス・キリストを迎え入れましょう。イエズスのために我らの心に最大の最高の地位を譲りましょう。というのも、イエズス・キリストは神殿の商人たちを追い出すために来給いました。



福音書にあるこの場面はまず、史実をそのままに表します。そして、霊的な意味もあります。イエズスは神殿から商人たちを追い出されたのは、御父の家の神聖さを再断言するためでもあります。ひいては全世界の(建物としての多くの)カトリック教会は神聖であることを示し給いました。この分、教会に入るためにどれほど敬意を払うべきか、立居振舞においても服装においても祈りにおいてもどれほど尊厳に畏怖に満ちて入って言動していくべきかが示されています。

しかしながら、イエズスが神殿から商人たちを追い出した行為によって以上の、具体的な教え上、象徴的な意味もあります。つまり、われわれの霊魂こそは一番大事な神殿であるのです。そして、イエズスは神殿なるわれわれの霊魂にいる商人たちを追い出すために来給いました。これらの商人たちは乱れた感情、この世にある財産、栄光などへの愛着、肉欲や乱れた欲望などです。

というのも、天主様は我らの霊魂をお創りになったのは、天主様の神殿になるためです。聖霊の神殿になるためです。そのために我らの霊魂が存在します。我々の存在理由です。要するに、我らの主、イエズス・キリストを自分の内に迎え入れ、イエズス・キリストが我々の内に施されることを妨げないように努力することです。

また、イエズスに我々の内にどんどん施されるように祈ることです。告解と聖体拝領によって自分の霊魂にどんどんイエズス・キリストを迎え入れましょう。そして、私たちのために、私たちの代わりに、私たちとともに戦い給いますように。つまり、イエズス・キリストとともに霊魂ができるだけ一致しますように。

社会においても教会においてもこれから物事はどのように変わっていくでしょうか。変わっていくことだけは確かであろうが、具体的にどうなるでしょうか。聖ジャンヌ・ダルクがいうように、最終的に天主様は勝利を与え給うが、戦闘員たちは踏ん張って戦うことに専念すればよいと。
天主様は勝利のために適切な人々を選び出されるし、手段を与え給うことになります。そうでなければ、世の終わりになるでしょう。

喜ばしいことに、ファチマで出現された際、聖母マリアは「我が汚れ無き御心は最後に勝利する」と約束されたので、安心できます。ですから、善い意味でこの戦争は逆転し、天主様の勝利へ変わっていくでしょう。具体的にどうやってこのような逆転は起きるでしょうか。聖なる霊魂によってです。我らの主、イエズス・キリストにすべてを託した霊魂によって勝利に導かれます。このようなエリートの霊魂は頭となり、天主様のための戦闘を果たせる霊魂たちはこれから輩出していきます。このように社会と教会での天主様の秩序は取り戻されるでしょう。

そのために、我々は常に努力して準備しなければならないし、心を備えるべきです。まず、自分自身に毎日、いつも、我らの主、イエズス・キリストとの一致を強化することに努めましょう。そして、ずっとイエズスへの信仰と信頼を堅く維持するように努力しましょう。(戦いに挑んでいるので、よく絶望の脅迫に迫れるだろうが、絶望的な時においてこそ、踏ん張って勇気を出してイエズスのみ旨を果たせば戦闘員としての我々の義務は果たされるので、それで十分です)。天主様こそは歴史の流れを支配していることをわすれないでおきましょう。(すべての出来事はより多くの善のために用意されていることは教義において教えられています)。

そして、聖母マリアに祈りましょう。このような覚悟ができるように、イエズスへすべてを託する覚悟を養うように祈りましょう。
とりあえず、毎日、現在において生きていきましょう。天主様の恩寵にたよりながら毎日出てくる問題と試練などを一つ一つ受け入れて立ち向かい、戦っていきましょう。天主様はこれらのすべての試練を許可していることをわすれないでおきましょう。

商人たちを神殿から追い出すために試練が必要です。(何の戦いもせずに商人たちは出ないからです。)キリスト教の秩序を確立するためには十字架は必要不可欠です。しかしながら、十字架を担うべきであるとともにそれを担い乗り越えるための聖寵をも与えられます。本日の書簡で(コリント人へ第一の手紙、10,6-13)思い起こされるように、忠実なる天主様は我々の力を越える試練を送られることはないので安心しましょう。

毎日の苦しみがある分、毎日の聖寵もあるので、喜ばしいです。そして、よく祈って、天主様を何よりも上に我々の人生においておくのなら、毎日、未来にも、その時ごとに何をやるべきかは天主様によって示されることになりますので、そのみ旨を理解できるように、聞けるように努力して祈りましょう。

聖母マリアに以上の恩寵を得られるように祈りましょう。聖母マリアこそは自分自身を完全に天主様に託して、天主の聖寵に深く染みておられました。そして、一番苦しい時になってもそれは変わりませんでした。十字架の下にいた聖母マリアもその状態は変わりませんでした。聖母マリアの霊魂には天主様への望徳が満ちて、どれほど絶望的になっても、悲しい気持ちになってもいつも心の奥に安心して安泰でした。なぜなら、聖母マリアはつねに天主様と一致していたので、御受難などの酷い出来事はどれほど辛いとしても天主様が許可したことを知り、より善いことのためにあることを知っていたので心配しないで安心していました。
ですから、天主の御手に安心して自分自身を託しましょう。天主様は全能であり我々を愛し給うからです。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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巨人たちを倒す方法について|ダヴィドとゴリアテの史実を解説

2021年10月03日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(Billecocq)神父様の説教  
巨人たちを倒す方法について
2021年06月20日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、聖務日課には早課があります。早課とは具体的に九つの詩編を詠唱するのですが、夜間の日課です。また、毎日九つの詩編の後、聖なる教会はいくつかの読誦を加えています。毎日変わりますが、読誦は具体的にどのようでしょうか。聖書の知識を養うためという意味でも、聖書の文章はたくさんあります。そのおかげで、聖書のすべての書を読めることになってかなりためになります。読誦といったら、また教父たちによる文章も多くて、多くの場合、福音書を解釈する文章になります。または福音書読誦もあります。

さて、今の時期になると、司祭たちは早課を詠唱するにあたって、列王の書の読誦となっています。旧約聖書において、列王はいわゆる「士師」の時代の次に来た時代です。それはエジプトから解放された後、イスラエル人達は聖地を取り戻して、「士師」という人々を通じて、天主は直接にイスラエルの民を統治しました。言いかえると、その時代には王あるいは指導者などはいませんでした。平時であるとこのように平和に何とかできましたが、何らかの脅威あるいは戦争は起きた場合、天主は「士師」と呼ばれる人を選び出されて、この士師はイスラエル民のトップとなって、敵を破って、秩序を取り戻して、通常の物事についても決定したりしましたが、一旦平時に戻ったら、士師は「士師」を「やめて」自分の家に帰って死ぬまで平和に住んでいました。

ある日、イスラエル民は一揆して、「他の国々と同じように王が欲しい」と要求しだしました。そしてそれは叶って、初代の王はサウル王でした。
ちょうど最近の読誦ではサウル王がペリシテ人に戦に挑むところになっています。ある山腹(山の中腹)の上にいるサウル王は下への谷と川を展望しています。そして、向こうの山の中腹にペリシテ人の軍隊は構えています。両陣営は開戦を待ちながら立ち向かいつつお互いに見合っています。ただし、ペリシテ人の軍隊にはある男がいます。ゴリアテという兵士です。かれは巨人です。本当に背高くて文字通りに巨人であり、架空ではありません。聖書において彼の身長は明記されていて、およそ340センチメーターとなっていました。ですから、かなりの身長の巨人で、皆かれを恐れていました。あと背が高かっただけではなく、デカくて力が強かったわけです。聖書にはゴリアテの鎧の重さが明記されています。この鎧を着てもゴリアテは普通に手際よく戦えたと書いてあります。鎧の重さはおよそ70キロでした。以上はゴリアテの描写です。



そして毎日、ペリシテ人の陣営のあるテントからゴリアテが出て、谷へ降りて、そこにある川の岸まで近づいて、つまりサウル王が率いたイスラエル人の陣営の一番近いところまで行っていました。そこで、ゴリアテは大声でイスラエル人たちを脅かしていました。「おまえらの内の一人が我々と決闘せよ!この決闘の結果次第で、戦争の結果が決まって、勝った側は敵の民を支配することになるとしよう!」
そして以上のように、40日間毎日、ゴリアテは同じく、降りて決闘という挑発をします。また同時にイスラエル人の卑怯さと弱さを罵りながら挑みだします。そしてそうすることによって、文脈でいうと、イスラエル人を通じて、イスラエル人の神をも侮辱することになります。
サウル王の軍隊は挑まれても動きませんでした。恐れています。イスラエル人の軍隊には巨人もいないし、いったい誰がこの恐ろしい巨人ゴリアテと戦えるかは見当たらないままです。

ある日、ダヴィド王が登場します。その時、すでに王となっています。聖別式に与って塗油を受けたから王となっています。イスラエル人の陣営に16歳で到着します。ダヴィド王は末っ子でしたが父によって送られたわけです。なぜならダヴィド王の兄さんたちはサウル王の兵士としてそこにいたからです。で、ダヴィドの父は兄さんたちのために差し入れをするためにダヴィドを送ったわけです。またいくつかの物を陣営から故郷へ運ぶためにも送られました。

このように、ダヴィドは陣営に到着して、三人の兄さんを捜して、父から預かった差し入れを渡します。すると、ちょうどその時、ゴリアテの声が聞こえて、イスラエル人を罵り、天主を罵ることばが聞こえました。聖霊によって感化されたダヴィドはそれを聞いて「何もせずにいられるわけがない。天主をこのように侮辱されてじっといられない」ということで、ダヴィドはサウル王のところにいって、ゴリアテと戦う許可を頼みます。



当然のことですが、サウル王は15-16歳のダヴィドを見てちょっと若いなあと思って、また弱いなあと思いました。ダヴィドは巨人でもないし、体も細かったです。ですから、サウル王は許可を与えることに関してためらうのです。また、ダヴィドは兵士の間で馬鹿にされることになります。兄さんたちも「君が何をやっているか、子供の遊びではない。帰れ」とね。

しかしながら、ダヴィドはそれでもしつこく頼み続けます。ダヴィドを通じての天主の聖旨ですが、ダヴィドは「その人と戦うよ。天主はこれ以上侮辱させられないことを確信している」と。

すると、サウル王は結局、ダヴィドの頼みに応じてゴリアテとの決闘に行かせます。サウル王はまた、ダヴィドに鎧を与えます。ダヴィドは一応鎧を着ますが、はじめて武装することになるので、ぜんぜん覚束なくて、居心地が悪いわけです。結局、ダヴィドは鎧を脱いで「大丈夫だよ、いつもの身なりでいって、自分の武器をもって戦うからさ」。つまりその武器とは鳥を狩るためにずだ袋に収まっている投石器とここまで来るための棒で、それで戦うのです。

このようにダヴィドは投石器と棒を手にしながら、ゴリアテがイスラエル人を罵りに来る時に合わせて、巨人ゴリアテのところに行きます。そうすると、ダヴィドは川まで行って入って、五個の小石を拾って、ゴリアテの決闘に応じます。このような小さな子供が巨人である自分と戦うなんて侮辱だと受け止めて、ダヴィドを指して「犬め」と罵ります。そして、ひきつづきに、冒涜しながら天主を侮辱しつづけます。

そして、聖書によると、ダヴィドはゴリアテを回りながら、彼が戦いに応じるように挑発します。ゴリアテは勝利を確信しているので、何も用心なく立ち向かいます。すると、ダヴィドはずだ袋から石を出して、投石器に入れてこれを振りまわし始めます。ゴリアテは目の前にある子供を見て、侮辱として受け止めます。

そして、ダヴィドは石をゴリアテの額へ投げて、当たって額が貫かれておそらく小脳に当たって、ゴリアテは地面に堂々と倒されます。少なくともゴリアテは気絶していたのですが、死んでいるかどうかはまだ判明しておらず、ダヴィドはもう動かない巨人の身体へ走り出します。ゴリアテの剣を鞘からぬいて、ゴリアテの首を跳ねます。



すると、ペリシテ人は恐怖におちいります。無敵の巨人が死んだということで逃亡しだします。イスラエル人は逃亡する軍隊を追いかけてできるだけ多くの敵の兵士を殺しました。

いと愛する兄弟の皆様、以上の話は物語でもなんでもなく、史実ですが、そこから多くの教訓が得られます。聖アウグスティヌスは時に重要な教訓を示してくれます。

ペリシテ人は悪魔の陣営をしめしています。ゴリアテは悪魔らの頭を示します。悪魔らの王、闇の君主、サタンを示します。イエズス・キリストの人々をどうしても殺そうとしている悪魔らの頭を示します。イスラエル人とサウル王はいわゆる、善い陣営を示しますが、間違った力を使っているわけです。なぜなら、イスラエル人の陣営とサウル王の軍隊は自分らの力に頼って戦おうとしますが、自分の力だけではゴリアテに対して何もできないわけです。

そこから、第一の教訓を述べましょう。我々は、人間の力だけでは、人間に与えられる力だけでは、天使である悪魔らに対して何もできなくて無力であるということです。天使は遥かに人間を越えているだけではなく、更に言うと、原罪を負っている人間になると、なおさらのことです。ですから、自分の力だけでは、つまり人間だけの力では、悪魔に対して何もできないで、無力で、足が掬われて麻痺してしまいます。場合によって大変なことになります。

その時、15歳の若い当事者は登場します。ダヴィドです。彼は清さを示して、無垢、素直さをしめしています。つまり福音書において「子供のようになりなさい」(マテオ、18,3あたり)とイエズスが仰せになったことが思い起こされます。



棒を手にしてダヴィドは来ます。この棒はイエズス・キリストの「十字架」を示しています。ですから、ゴリアテはダヴィドを罵ります。「棒だけをとって来やがるね。犬め」と罵ります。はい、イエズス・キリストは悪魔と戦い、勝利して倒しましたが、それは十字架によって勝ちました。また五個の石は、教父たちによると、イエズスの聖なる生贄の五つの御傷を示しています。

要するに、ゴリアテの前に進むダヴィドは十字架とイエズスの御傷から出た御血から流される聖寵を示します。
聖書も明記しているように、なぜダヴィドは戦うことにしたかというと、天主が全能であることを知って、天主の御力に信頼していたからと書いてあります。そして、天主こそはゴリアテに勝利したわけです。

教訓はどこにあるでしょうか?
我々も、悪魔に対して勝利するのは、自分の力ではなく、イエズス・キリストの御力によって悪魔は破られることになるということです。また、イエズス・キリストの十字架のお陰で、我々は送られる誘惑に対して勝利するでしょうということです。十字架は我々がお捧げする犠牲であり、五個の小石は我らの主の御傷から流れる御血であります。我々はこの御血を秘蹟によって受け入れます。ですから、十字架と秘蹟を手にしているのなら、我々も悪魔を倒すことができるのです。

いと愛する兄弟の皆様、以上のような教訓は我々の人生において思い起こしましょう。悪魔を過小評価していけませんよ。我々を敵にしている勢力を過小評価してはいけませんよ。どれほど多くの罪がおかされているかを見たらその勢力の強さはわかります。また残念ながらも、我々の内にも罪を犯しているわけです。我々は傷つけられているから、悪魔は我々に比べて強くて我らよりも遥かに強いわけです。

しかしながら、だからといって、絶望してはいけませんよ。天主の聖寵に自分自身を完全に託しましょう。キリストの十字架に自分自身を完全に託しましょう。イエズスの十字架は現世と死と悪魔を破って勝利しました。「死よ、私はあなたの死だ」。

我らの主の十字架というのは、イエズス・キリストに自分自身の霊魂をお捧げする勝利であって、悪魔の敗北を意味します。
ですから、以上の教訓を具体的に我々の人生において踏まえるべきです。つまり、超自然の手段を活かしてこそ、悪魔と戦うということです。



しかしながら、その上、現代の教会の危機において、活かすべき教訓です。つまり、人間臭い手段、つまり自然上の手段を使って教会を救えないわけです。社会ですら、社会の復興を得るために、自然レベルの手段を使おうとしても無駄です。最終的に教会の復興も社会の復興も聖寵と秘蹟を通じてはじめて可能となります。

現代、我々が経験しているカトリック教会の危機は深刻です。いと愛する兄弟の皆様、一番攻撃されているのはミサ聖祭をはじめとする秘蹟なのです。要するに、ゴリアテを倒すための棒と小石は攻撃されているということです。ですから、本当に教会の危機が終わってほしいと思ったら、信仰に対して忠誠を尽くそうと思ったら、我々もいつものミサ聖祭と秘蹟と信仰と望徳に忠実を尽くすべきです。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、ミサ聖祭においてこそ我々は希望を据えて期待しましょう。頻繁に秘跡に与ることこそは我々の救霊や社会などの復興につながることを確信しましょう。人間らしい手段、人間臭い手段に期待して、教会の危機などの解決を希望していけないのです。

残念ながらも、第二ヴァチカン公会議ぼけ(現状や真理を把握しようとしない知識の欠如や危機感の低さのこと:編集者追記)の、聖伝を拒んでいる現代の多くのカトリック信徒はまさにこの罠に陥りました。彼らは義足の傷を焼こうとするような無駄なことをやっているかのようです。つまり、「福祉」などの人間臭い手段を使おうとして教会を復興しようとする無駄なことほどがありません。残念ながら、このような手段では、戦いはもはや負けになっています。サウル王もイスラエル人の兵士たちもそれを認識していたのに、我々も認識すべきことです。



いと愛する兄弟の皆様、聖母マリアの手にすべてを託しましょう。聖母マリアがいつもいつも天主なる御子の御手にすべてを託されたように。
天主の母になることを頼みに来た天使が聖母マリアの前に現れた時、聖母マリアははっきりと言われます。自分の力でそういうことはできないという「私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」(ルカ、1,34)とマリアは聞きます。言いかえると、聖母マリアは自分を天主に奉献して一生貞潔を守る誓願をしたので、救い主の母になれないという質問ですが、それに応じて天使は「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです。」(ルカ、1,35)。つまり、天使は聖霊と聖寵によってこそ、これらの不思議なことは起きると告げました。

また従姉のエリザベートに会いに行く時、聖母マリアは言います。「私の魂は主をあがめ」る(ルカ、1,46)と。つまり、自分の力で天主の母になったことはなくて、全能なる天主が自分自身に偉大なことを行っておられるだけである、というつつましい心の現れです。はい、天主こそはすべてを成されておられます。我々は単なる道具ですから、協力することを決意して、自分の意志で協力をしようとしないかぎり、何も始まらないのです。天主こそはすべてを成しておられるわけです。

ですから、聖母マリアに祈りましょう。純粋な超自然な希望でいられるように。人間臭すぎる物事を無視できるように。過剰に感情的なあるいは物質的なものごとを無視できるように。祈りと信仰に自分を捧げられるように。ミサ聖祭に与り、頻繁に秘跡に与れるように。そうすることによってこそ我々は周りにいる多くの巨人に対して凱旋していきます。



はい、それをはっきりと申し上げる義務があります。我々を囲む誤謬は膨大で巨人のようなものです。そして、これらの誤謬に比べて、我らはかなり弱くみえるでしょう。しかしながら、天主の聖寵があれば、聖母マリアの御取り次ぎがあれば、お祈りの助けがあれば、ロザリオの祈りがあれば、凱旋するということを確信できます。というのも、聖母は約束したからです。「最後に私の無原罪の御心は勝利する」と。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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苦行の力

2021年09月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(Billecocq)神父様の説教  
苦行の力
2021年06月24日  洗者聖ヨハネの誕生
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、本日は典礼上も稀なことに、ある聖人の、洗者聖ヨハネの地上での誕生を祝います。普通は聖人を祝う時、その亡くなった日であり、つまり天国に生まれた日を祝います。つまり聖人の超自然上の誕生、もはや失わない永遠の栄光を得た日、聖寵に生まれた日を祝うのです。

地上に誕生した日を祝うのは、三人だけです。ご存じのように、イエズス・キリストのご降誕、9月8日聖母マリアの誕生と本日の洗者聖ヨハネの誕生です。これは特別なことです。イエズス・キリストは原罪を負っていないわけで、聖母マリアは原罪から守られたわけで、洗者聖ヨハネは母の胎内にいた時、(キリストによって)原罪を清められたわけです。



ですから、洗者聖ヨハネは誕生した時、もはや原罪という汚点はなかったので、教会は聖ヨハネを祝うのです。もちろん、洗者聖ヨハネは誕生した時からこの上なく聖徳に満ちているので、我らの目から見て無比に見えるかもしれませんが、洗者聖ヨハネは我々にとって模範となり、倣うべき模範です。で、現代、実際に実践すべき模範です。

本日の福音書にも話されていますが、ミサ聖祭の最期の福音書、いわゆる福音書の「序」においても示されています。
「Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Joannes.」(ヨハネ、1,6)「天主から使わされた一人の人がいた、その名をヨハネといった。」
「Hic venit in testimonium perhiberet de lumine, ut omnes crederent per illum.」(ヨハネ、1,7)「彼は證明のために来た、光について證明し、またすべての人が、彼によって信ずるためであった。」光とは真理です。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、このように我々は聖ヨハネに倣うべきです。聖ヨハネはつまり、メシアを知らなかった世における光でした。あるいはメシアを確認することのできなかった世の中の光でした。聖ヨハネは具体的に、イエズスを指さして「彼は天主の羊である」と宣言しました。言いかえると「彼は救い主であり、また生贄ひいては犠牲者であり、贖罪によって天主の御赦しを得しめて、人々のために天国の門を開け給うメシアだよ」という意味です。

要するに、洗者聖ヨハネはメシアとなる我らの主、イエズス・キリストを具体的に指さしてくれました。我らの主は歴史の最後に私たちを裁くために再臨しますが、我々も聖ヨハネのようにイエズス・キリストを指し示さなければなりません。聖ヨハネと違って身をふるって指をさすことはできないものの、精神的にいくらでもできて、やるべきです。

このように洗者聖ヨハネに倣いましょう。つまり、彼に続いて、我々も光の證明者となるべきです。彼に続いて、現代の暗闇の内に生きている我々は光について證明しなければなりません。そして具体的にどうすればよいでしょうか?洗者聖ヨハネと同じやり方ですればよいのです。つまり、言葉を通じて、それから行為を通じて。

言葉をもって、洗者聖ヨハネは悔い改めの洗礼を宣言していました。そうすることによって、メシアの到来の準備をすると教えていました。また、きっと、洗者聖ヨハネは聖書の知識も高くて、ユダヤ人たちはメシアが来たら誰であるかを知ることができるように教えていたのです。



私たちも言葉をもって、常に周りの人々にイエズス・キリストについて話せるようにすべきです。イエズス・キリストへの我々の愛を示さなければなりません。我らも光について證明しなければなりません。ですから、イエズス・キリストを知っていることを示しましょう。そうすることによって、我々はイエズス・キリストを愛していることも示されるでしょう。

このように、知らない人々のために、道を探している人々のために、迷っている人々のために、彼らにイエズス・キリストのことを喋ってあげなければならない、イエズス・キリストについて示さなければならないわけです。そして、そうすることによって、少しずつ彼らもイエズス・キリストへの愛に導かれるように。これは洗者聖ヨハネに倣うための第一の方法です。

第二の方法は実践をつうじてです。ある諺がいうように、「言葉によって感動するが、行為によって心に届いて捉えられる」。このように、洗者聖ヨハネに倣うためには、光について証明するだけではなく、イエズス・キリストの光によって満たされて輝かなければならないわけです。我らの主、イエズス・キリストの光によって、我々の行為は輝かならなければなりません。

さらにいうと、具体的に二つの種類の行為を特に洗者聖ヨハネが実践したのは、慎みと苦行です。このような実際の行為によって我々の周りにいる迷っている人々を啓蒙する、照らしていくわけです。つつしみと苦行という聖徳は近代人がもはや忘れたわけです。というのも、近代になって、人間を天主にしているからです。あるいは、人間を天主にしなくても、少なくとも天主との対等な存在であるとされています。



このように、天主様に対してもはや我々は責任がないかのような誤解を信じ込んでいる時代となりました。まさに、傲慢という罪に他ならなくて、広くこの世に浸透してきています。そして傲慢の罪こそはその他の多くの罪を産んでいきます。その源泉です。

洗者聖ヨハネはイエズスを指し示した時、言いました。「私はその履物の紐を解く値打ちもない」(ヨハネ、1,27)と言ったとおりです。また、「彼は栄え、私は引き去らねばならぬ」(ヨハネ、3,30)と洗者聖ヨハネはいいました。洗者聖ヨハネの謙遜さはそのような言葉で要約されています。我らも、あえて言えば、イエズス・キリストの内に自分の身を隠すことによって、我々が透明になるかのようにイエズス・キリストは透けて見えるように努力しましょう。

慎み深くして、謙遜でいられるということは、我らにとって、自分の本来の身分、つまり被創造物に値する相応しい地位のままで生きていくということです。信徒にとって、謙遜に生きるということは、常に天主の内に生きることであって、また天主なしに何もできないことをいつも思い出すことです。このような想いで生きていけたら謙遜に居られます。我らにとって天主は全てであることをよく知り、思い起こし、自分だけでは何でもない、惨めなぞんざいであることを常に知り、生きていけたら、はじめて本当に謙遜を実践していくようになります。



そして、このように生きていくと、自然に無意識にも周りの人々はその謙遜さをみて心にふれることとなります。謙遜というのは、天主の前に自分を引き下げて、へりくだるのですが、地上では力となっていきます。もしかしたら、皆様も経験したかもしれません。友達あるいは同僚からの何らかの言葉で分かったかもしれません。いわゆる、謙遜を実践することによって、天主は自分自身の代わりになっていくかのように、輝かしい力が溢れていきます。全能なる天主はつつましい人々のためにこそ助け給うのです。

そして、洗者聖ヨハネに倣うための二つ目の聖徳は苦行です。言うまでもないのですが、洗者聖ヨハネはこの上なく苦行を行った聖人です。福音書はその苦行の姿を強調しています。ですから、洗者聖ヨハネに我らも苦行を成せるように願いましょう。苦行の内に生きていられるように願いましょう。

現代は快楽の世界となっています。豪楽、娯楽、享楽、快楽主義、物質主義の世界となって、この世は感情、五感、感覚を満たすために邁進していて、溺れているのです。瞬間に容易に何でも手に入れるといって、自己犠牲ができなくなっている世となっています。物事を見捨てることができなくなる世となっています。我らはこの世と反対すべきで、これと全く逆の世界を示さなければなりません。



我らの苦行の実践によって、この世と戦うために、自己犠牲して、自制できて、快楽を見捨てて断つように。そしてこのような抑制と自己犠牲においてこそ幸せになっていくことを證明しましょう。というのも、地上のことを見捨ててれば見捨てるほど、天主を享受していけますので、どんどん幸せになっていきます。また、この世の物事を見捨てて悲しみを感じれば感じるほど、天主はその報いとして喜びを与え給うのです。

このように、苦行をすればするほど、確たる喜びになっていきます。というのも、苦行という時、この世の何らかを見捨てるという負の側面がありますが、同時に、正の側面もあります。正の側面は地上の物事の拘束から解放される分、天主は我々の霊魂においてより完全に居を構え給うことになります。そして、そうすることによって、天主の喜びと平和の内に生きていかれます。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々も真理について証明しましょう。我らの主、イエズス・キリストの証言者、証明者となりましょう。洗者聖ヨハネのように、イエズス・キリストへの道を示していきましょう。ご聖体への道を示していきましょう。そしてその道の目的地は天国です。

また聖母マリアに願いましょう。毅然とした態度でいられるように、また善いタイミング善い言葉を言えるように聖母マリアに祈りましょう。また、謙遜と苦行が実践できるように謙遜の皇后である聖母マリアに祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

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選ばれた巌、選ばれた器

2021年09月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教  
選ばれた巌(いわお)、選ばれた器(うつわ)
2020年07月04日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、今朝、聖ペトロと聖パウロの記念ミサを祝うことになっております。殉教死を遂げられたこの二人の大使徒を黙想しましょう。二人とも超自然の友情の絆によって密接に結ばれていて一致していました。典礼においても聖ペトロと聖パウロはいつも一緒に祝われている所以です。
自分の命をお捧げして、投げることによって、二人はカトリック教会の二つの柱となりました。

まず、聖ペトロから。最初はシモンという名でしたが、イエズスは彼を呼び求められたとき、つまり召命の時に、彼を改名されました。ヘブライ語の「ケファス」となりますが巌という意味です。はい、このようにペトロは巌となりまして、地獄の門は勝利しないだろうという巌となりました。ゲネサレ湖にあるベツサイダの村に生まれました。彼の兄弟なるアンドレとヨハネとともに、イエズスの最初の弟子に数えられています。

魚の奇跡的な漁を経て、人々の霊的な漁をするようにイエズスによって呼び求められました。そして、我らの主、イエズス・キリストが制定しておられた教会の礎として聖ペトロを選び給いました。イエズスはご自分の全部の群において、聖ペトロに権威上も権限上も優位性を与え給いました。地上において天主の御子の目に見える代理人として、至上の牧者としてイエズスはペトロを親任なさいました。

それから、ペトロはいつもイエズスの傍にいまして、イエズスによっていつも特別に扱われてその優位性を強調しておられます。ヤイロの娘を蘇らせる時あるいは御変容の時などの時に強調されますし、イエズスのご苦悶の際、ゲッセマネ園の時にもペトロはいます。聖ペトロは激烈な性格の持ち主であった分、言葉においても行いにおいても性急によく軽率な行動をしました。また、主を三度も否認されたのはそののち、慎みの教訓となりました。救い主のご昇天の後、聖寵によって強められて変貌した聖ペトロは真理の番人となり、真理の兵士となり、実践と命の威信のある教会の頭となりました。先ほどの朗読にあったように、ペトロは「地上でつなぐものはすべて天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれる」(マテオ、18,18)。


聖ペトロはまた、聖霊降臨後の最初のお説教を述べ、最初の異教徒の洗礼を授けます。百人隊長コルネリウスです。7年間ほど、アンティオキアで布教して、そのあと、司教座をローマへ移しました。当時、ローマは異教世界の都でした。ローマでのペトロの司教活動は25年間続きました。42年から67年までです。在位の間、熱心な信仰を示し、不動の望徳に溢れ、天主と霊魂のために激烈な愛徳を実践されました。というのも、聖ペトロは燃えるような熱心に溢れていたからです。不正、誤謬、罪に対しても燃えるように激烈に踏ん張り、戦っていました。また同時に隣人たちの精神上と身体上の苦しみをこの上なく憐れんでいることでも有名でした。また、試練を受けていた時、聖ペトロはいつも静謐にして喜ばしい心でいられました。天主の御栄光のために、人となり給う天主、イエズスの御血によって贖われた霊魂たちのために何の苦しみをも惜しまなかった聖ペトロです。

そして、ネロ皇帝が始めた激しい迫害の時が来ました。このおかげで大勢の殉教者が輩出していきました。そしてこれらの殉教者の内に一番貴い生贄は聖ペトロと聖パウロの大使徒たちでした。二人とも67年6月29日、同じ日に死刑執行されました。その前、数か月ほど、カンピドリオのマメルティヌスの牢獄で過ごされました。テベル川の向こうで主に倣って同じく磔刑で殺されました。ただし、慎み深い弟子は最期の願いとして、執行人に十字架を逆さまにするように頼んで、このように殉教死を遂げられました。これほど大弟子でありながら、教皇である聖ペトロの慎み深さを知りましょう。



また、聖ペトロも新約聖書において二つの書簡を残されました。キリシタン圏の人々宛の最初の司教教書なのです。聖ペトロのお墓は一番古い教会となっていまして、ローマにある聖ペトロ大聖堂の丸天井には次の言葉が書かれています。「汝はペトロなり、この岩の上にわれ、わが教会を建てん」。

聖パウロは最初、サウロと呼ばれています。イエズス・キリストのご降誕の二三年前ぐらい、貿易で盛んだったタルススという町に生まれました。親はユダヤ人でした。早くからエルサレムへ行き、当時、一番評判のあったガマリエルというラビの下に学びました。
パウロはひよわで、持病もあったのですが、霊魂は精神は燃えていたのです。激烈でした。並外れの精力がありました。剛毅とした態度でありながら、非常に柔和でした。立派で聡明な方でした。

それから回心してから、イエズス・キリストのために激烈な愛によって燃えていました。選ばれた器なる聖パウロはみ摂理によって準備されて異教徒の回心のために遣わされました。なぜなら、聖パウロはユダヤ人に生まれてユダヤ人の教育を受けながら、生まれた町によってまた言語によってギリシア人であり、そしてローマ市民でした。要するに、ちょうど、三つの文化の交差点にいる稀な人物でした。そのためにもそのようにみ摂理は聖パウロを用意されました。

エルサレムで迫害が始まった時、ユダヤ民の伝統を厳守していたサウロは天主の教会に対する熱狂ぶりで注目されました。というのも、熱心だったサウロはキリシタンを迫害したリーダーのひとりでした。最初の殉教者、助祭ステファノの投石死においても深くかかわっており、かれはその迫害を起した重要な人物でした。


地上におけるイエズスに一度もあったことなかったサウロはダマスへ赴く途中、聖寵の奇跡によって、イエズスはご出現されて、サウロは回心しました。アナニアから洗礼を授かってからそのあとの使命に向けて心構えしました。その時、イエズスからの偉大な啓示を頂きました。聖パウロは人々から福音やイエズスの教えを貰うことはありませんでした。イエズス・キリストご自身のご啓示から直接に教えられたのです。

ダマスへ帰って宣教活動に励んだ結果、現地のユダヤ人たちは彼の死を謀りました。死から逃れるには逃亡するしかなかったのです。聖パウロの人生は使徒活動上、多くの立派な犠牲、働きと苦しみに溢れて、我々のための偉大な模範であります。世界四方まで海陸で、五回の巡回の旅を行いました。20年以上にわたるキリストの真理のための立派な宣教師でした。おおよそ30ケ国を訪れました。小アジア、欧州などなどを巡歴して、40以上の町においてキリシタンの集団を設立して、組織化して、強化しました。


聖パウロのすべての旅行は絶えない働きを尽くし、イエズスのためにずっと多くの危険に晒して、苦しみを受けて、迫害を受けました。鞭打ち、投獄、殴打、海上の遭難、裏切りなどでした。また常に諸教会の世話による多くの心配事と悩み事もありました。聖パウロもこれらを書簡において書かれます。しかしながら、この多くの未練を受けても、いつも忍耐強く、つねに喜びに満ちて毅然とした態度で応じました。というのも、我らの主のための愛のために、兄弟たちへの愛のために、聖パウロは苦しんで何の苦労を惜しまなかったからです。牢番の人々ですら聖パウロによって回心されたり、三階から落ちて死んだ若い男を蘇らせたりしたのです。

宣教のための旅は罪と暗闇の支配からできるだけ多くの国々と人々を解放するための作戦でした。真理、聖徳の実践などのイエズス・キリストの王国のためにできるだけ多くの霊魂をしろしめした(統治した、征服した)のです。
聖パウロの言葉、そしてその書簡はミサの時よく読まれてはいますが、司牧上も教義上も美しくて立派です。聖パウロは救い主の聖寵とイエズス・キリストのみ名を多くの異教の国々へ齎(もたら)していきました。

異教徒の使徒と呼ばれた聖パウロは言います。「しかし天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント人への第一の手紙)。これは、大使徒の人生を要約する言葉です。
何の功績のないサウロ、キリシタンを迫害して、それによってイエズスを迫害していたサウロを天主は呼び求めたのです。聖パウロは聖寵の呼びかけに応じたのです。そして、召命に応じてその使命を果たすために、彼が持っていた能力、力を尽くして、尽きるまで踏ん張り続けました。

聖パウロの使徒活動は67年、ローマで最期を迎えました。聖ペトロと一緒にマメルティヌスの牢獄で九か月の投獄を経て死刑執行されました。聖伝によると、二人の使徒は死刑の場に連行された時、ラテン門のところで二人は分けられて、それぞれの執行場へ連行されました。というのも、聖パウロは「ローマ市民」としての特権で、剣によって斬刑に処されました。そのように栄光の冠を得ました。首が斬られた時、首は三度も跳ねました。そして、首が跳ねた地面の三か所には水が湧きました。今のローマにある、三つの湧き水聖パウロ教会ではいまだに、湧き水が流れています。




永遠なる町、ローマは二人の大使徒の遺体を預かる最大の恩恵を頂きました。そして同じ日に聖パウロと聖ペトロを祝います。この祝日に合わせて、聖務日課書において、教皇聖レオの教えは記載されています。このように述べました。

「ローマよ!偉大なるこの二人の御方はあなた、ローマのために福音の輝かしい光を照らしてくれた!ローマよ、あなたは誤謬の大主だった。誤謬を教えていたのに、二人の大使徒のお陰で、真理の弟子、真理の奉仕者となった。ローマは確かにあらゆる誤謬、すべての国のあらゆる神々などの奴隷となっていた。ローマの神々にはどんどん、多くの国々の神々を入れていって。そして、このように、多くの神々を入れてくれていたので、人々はローマについて高く評価していて、平和を好み、寛大な国だと思い込んでいた。」

聖レオの以上の言葉を聞いて、現代になってかなり思い起させることがあります。というのも、現代、教会内にまで潜り込んでしてしまったとんでもない誤謬が思い起こされるからです。つまり、すべての宗教は平等である、同じ価値があるとする誤謬です。このような偽りのエキュメニズムはすべての宗教を肯定して、つまり悪魔によって作られた偽りの宗教を肯定するなんて、異教のローマに戻ったかのようではないでしょうか。



聖パウロと聖パウロをはじめ、全時代のすべての殉教者たちは「キリシタン」という名を宣言して、我らの主、イエズスの弟子だと言っていたから迫害を受けました。そして、福音を告白して、宣言して、偽りの宗教の信徒たちはどんどん回心していきました。偽りの宗教に浸かっていた人々はどんどんイエズス・キリストのみ名を認めて、回心していった分、イエズスのみ名を拒んでいた人々は逆にイエズスに対する憎しみに溢れて、「キリシタン」という名は嫌悪の対象となっていきました。

聖ペトロと聖パウロは偉大な使徒にして、聖人でした。十字架上に死なれ、死者の内より蘇られたイエズス・キリストのみ名を通じてしか人々は救いを得られないということを知っていたので、全人生、休まずに踏ん張り続けました。彼等は絶えまなく宣言していました。

「我々は唯一なる天主を仰ぎます。我らの主、イエズス・キリストです。天に行って救われたいと思うなら、イエズス・キリストに回心しなければなりません。我々が救われるために、天下には我らの主イエズスのみ名以外にありません」



殉教者となった使徒たちはこのように宣教していました
いまだに我々の教訓と模範になります。
聖ペトロと聖パウロが、我々の信仰、望徳、愛徳を常にかきたててくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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いとも聖なる童貞マリアの御取り次ぎについて

2021年09月20日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランポン(Rampon)助祭によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


ランポン(Rampon)助祭の説教 
2021年07月02日  
いとも聖なる童貞マリアの御取り次ぎについて
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

主任司祭様、愛する兄弟の皆様、本日、童貞聖マリアのご訪問をお祝いします。そのちょっと前、御告げの日に、聖ガブリエルは聖母マリアに救い主に母になることを告げられました。聖霊の奇跡によって(無原罪の)御宿りになると告げられました。また、その際、聖ガブリエル大天使は従姉エリザベートが老人にして子を宿されたとも告げられました。これももう一つの奇跡でした。というのも、エリザベートは子をもうけるためには年を取りすぎていたからです。



しかしながら、老人になっても妊娠するというような奇跡は新しいことではなくて、旧約聖書において何度かありました。天主様は不毛な女、あるいは年配の女性に子を与えることがありました。そのたび、子には特別な運命が与えられて、天主様の特別な使命を与えられておりました。このように、善き天主は旧約聖書の時代から、聖母マリアのおなかに天主様ご自身である幼きイエズス、救い主の奇跡的な御宿りの準備として備えておられて、救い主が来る時に皆がそれに認識できるようにされています。

聖母マリアは被創造物の中で一番清くて従順でしたので、天使に伝えられた御告げに従って従姉を手伝うためにエリザベートのところまで行きます。そして、エリザベートの家に到着します。本日の祝日を記念する玄義はエリザベートと聖母マリアの出会いであります。「エリザベートに挨拶した。エリザベートがその挨拶を聞くと、子が体内で躍った。」(ルカ、1、40-41)
これを感じてエリザベートはマリアが主の母であることを知り、マリアが天主の御母であることを告げるのです。

このように、御告げの玄義とご訪問の玄義の間には類似性があります。御告げの時、天使を通じて、天使を派遣して聖母マリアに天主様はこの世に来給うことを告げられます。


そして、ご訪問の時、エリザベート、それから洗礼者聖ヨハネひいてはある意味ですべての人々にも(聖ヨハネは人々に救い主の到来を準備する先駆者となっていくから)、聖母マリアは天使から受けた大事なお告げを伝えていきます。
このようにして、御告げの玄義はすこしずつ、段階を追って伝えられていきます。天主様から仲介者として、天使、それから聖母マリア、それから聖ヨハネとなります。
特に、天主様は聖母マリアを御托身の玄義を知らせるために特に選ばれた仲介者であるとして、聖母マリアを「御取り次ぎ者」と称されています。

これから、「御取り次ぎ者」、取りなし手、仲介者というのはなんであるか、聖母マリアは聖寵の御取り次ぎ者になっているという意味はどういうことかをちょっとご紹介していきたいと思います。

「取り次ぎの者」はラテン語の「Medius」に由来して、つまり二人の間にある人だという意味です。ラテン語の意味は二つの端の間の中央にあることを意味します。取り次ぎ者になるために二つの条件があります。二人の間にいる者として、一人より低くて、もう一人より高い者でなければなりません。それから、取り次ぎの者は「仲介者」としての使命を果たす、つまり何らかの形で仲介者に値する働きを行います。



この意味で、教会はいつも、イエズス・キリストこそがこの上ない取り次ぎの者であると思い起こし続けました。というのも、我らの主、イエズス・キリストは真の人であり、真の天主であるからです。真の人としては、イエズスは天主より低いわけです。このように、聖ヨハネの福音書において、イエズスは仰せになります。「父は私より偉大なお方である」(ヨハネ、14,28)。しかしながら、同時に、イエズスは真の天主であるとして、すべての人々よりも偉いわけです。つまり、イエズス・キリストはいわゆる位格結合という玄義により、真の人、真の天主であるわけです。

また、イエズス・キリストは天主様と人類との間の仲介者の働きをこの上なく果たされました。これは十字架上にかけられて、御取り次ぎの行為である生贄として捧げられ給うたおかげで、イエズス・キリストこそがこの上なく御取り次ぎ者であるというのです。
このように、聖パウロが言うように、「Unus Mediator」、取り次ぎ者は唯一であるということです。すなわち、イエズス・キリストです。


しかしながら、童貞聖マリアも取り次ぎ者なのです。なぜなら、まず、天主の御母だからです。ですから、天主より低い存在でありながら、天主様に最も近くて、御母として、一番偉い天使よりもどの被創造物よりも天主に近いわけです。そして、聖母マリアはすべての人々より偉いわけです。なぜなら、聖母マリアは(天主の生命である)聖寵を完全にお持ちであるからであって、すべての天使や人々の聖寵よりも、聖母マリアは聖寵に満ちているからです。

また、聖母マリアは御取り次ぎの特別な働きを果たされました。つまり、聖母マリアによって、聖母マリアを通じて御托身は実現されたということで、また十字架の生贄の際にも、聖母マリアは十字架の下にいて、御子を生贄としてお捧げすることに同意しました。
ですから聖母マリアも天主と人間の間の取り次ぎ者です。が、御子が御取り次ぎ者であることとちょっと違う意味での取り次ぎ者になります。聖母マリアは第二次の取り次ぎ者となります。

さて、聖母マリアの御取り次ぎの性格を見ていきましょう。そうすることによって、我々はどれほど聖母マリアの御取り次ぎを必要にしているかが思い起こされるように。

第一に、聖母マリアは御子の到来の準備を行います。現代も、我々の霊魂におけるイエズスの到来、我々の霊魂はイエズスを迎え入れるように、聖母マリアはその準備のために手伝ってくださいます。イエズスに行くために霊魂は皆、必ず聖母マリアを通じなければなりません。
第二に、聖母マリアは贖罪のある意味での会計係であるかのようです。つまり、我々に与えられるご贖罪の宝、言いかえると人生の間に我々が頂く多くの恩恵、聖寵は必ず聖母マリアの御取り次ぎによってしか得られないのです。この意味で、聖母マリアの御取り次ぎはさらにイエズス・キリストの唯一なる御取り次ぎを綺麗にさせます。



天主様は聖母マリアがいなかったとしても、聖寵をもちろん与えられるのですが、天主様はあえてそうしないで、普段なら、聖母マリアを通じてしか天主の生命を頂かないことにされたのです。

さらにいうと、他のすべての聖人のとりなしに比べても、聖母マリアの御取り次ぎは勝っています。優れています。
ある聖人は天主様にお願いする時、贖罪によって得られた実りを地上に人々に当てられるようにお願いします。
そこで、聖母マリアはご贖罪の玄義の実現の際、直接に参加された方であり、あえていえば、聖母マリアは贖罪によって得られた実りへの所有権を持つかのようです。このように、カナの場面に起る奇跡で現れる通りに、聖母マリアは天主の下に単純にお願いするのではなくて、何がしてほしいかを聖母マリアは御子に示されて、御子は御母の依頼に答え給うのです。あえていえば、聖母マリアは御子に対して拒めないほどの「要請」という権限を持ちます。

ですから、我々の救霊のために必要となるすべての恩恵を聖母マリアは我々の代わりになって御子から得られる御方です。天主様の子になるための洗礼から得られる聖寵もそうですし、また天主を裏切って侮辱した時、つまり大罪を犯した時に、天主様の赦しを得て、その仲直りをするために告解に与ることからくる聖寵もそうですし、また、忍耐力など他にも完徳になるために必要なすべてのあらゆるの聖寵も聖母マリアが御取り次ぎをされることで、はじめて、イエズス様からのこれらの恩恵を我らの代わりに得られるわけです。

このように、11世紀の聖ベルナルドは聖母マリアについて「首」というイメージで示されます。教会という神秘体においての首だと比喩します。この神秘体はイエズス・キリストの神秘体であるとして、その頭はイエズス・キリストご自身であり、肢体は我々信徒たちであり、頭からの命、つまり聖寵を頂くために、首なる聖母マリアを通らなければならないと聖ベルナルドは説明する通りです。

ですから、我々は地上にいる間の旅の間、つまりこの人生に頂いたすべての恩恵、聖寵は一つも残らず、聖母マリアを通じてなされたということが言い切れるのです。言いかえると、イエズス・キリストは我々に恩恵を与えるように、いつも聖母マリアは私たちのそばに取り次いでくださっているのです。

このように、御告げの日に聖母マリアの御取り次ぎはなぜあったか、ご訪問の日に、ご体内において聖ヨハネは喜びに満ちてなぜ躍ったか、聖エリザベートは聖母マリアが天主の御母であることをなぜ告白したかというと、聖母マリアが傍にいらっしゃったからです。

ですから、我々も常にいつも聖母マリアは我々の傍にいられるように、我々の心に居られるように努力しましょう。祈りましょう。そうするために、一番早くて簡単な方法はロザリオです。ファチマでご出現された時も、聖母マリアはどれほどロザリオは重要であるか、祈るべきかを思い起こさせてくださいました。またロザリオを祈ることは簡単です。時間の余裕がないわけがないのです。一連ずつでも、一日中に何度も分けてでも祈ったら、すぐ5連になるのです。ですから、ぜひともぜひともロザリオを祈ることによって、いつもつねに聖母マリアは我々の人生とともにおられて、御子イエズス・キリストまで導いてくださるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン</font>
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カトリックが「埋葬」を絶対に大切にしている理由

2021年09月15日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


クロゾンヌ神父様(B. MARTIN de CLAUSONNE)の説教
「カトリックが埋葬を絶対に大切にしている理由とは?」
2020年11月15日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、毎年11月の間、我々の死者を偲(しの)び、彼等のために祈るように公教会は我々に勧めています。11月1日、諸聖人の祝日の際、凱旋の教会(注・天にいる霊魂たち)に属するもろもろの聖人を崇めた翌日、11月2日、我々、戦闘の教会に属する信徒たち(注・天国という目的地を目指し、旅している最中、この世に生きている洗礼者たち)が、この度は、潔めの教会(注・煉獄にいる霊魂)に属する霊魂たちのために祈っていきます。これは諸聖人の通功のお陰で効果のある祈り合いとなります。そのため、11月2日、神父たちは特別に死者のために、煉獄にいる霊魂たちが永眠(天国)に入るために、三回のミサを捧げることになっています(注・普段、一人の神父は一日一回のミサを捧げることになっています。)

11月2日、三つのミサを捧げる伝統を見ると、カトリック教会は自分が持っている至上の宝石であるミサ、つまり我らの主イエズス・キリストの生贄の再現をどれほど評価するのか尊敬するのか、そして煉獄の霊魂たちの解放と浄化のためにどれほど効果のある生贄になるのかが窺(うかが)えます。また、11月2日、墓地を訪ねると贖宥もついていること、また聖遺物の祝いもあることから見ても、カトリック教会はどれほど死者を大切にしているのか、身体を大切にしているのかがわかります。

これらの多くの素晴らしい祭りと典礼をみると、カトリック教会はどれほど死者の身体を大切にしているかがわかります。カトリックの葬式に参列したことのある方はさらにわかると思います。その際、司祭は遺体を祝福します。また、司祭は遺体に香をたてます。また、遺体は丁寧に埋葬されるように司祭は気を使っています。

死者の体を埋葬するのは、身体のための憐みの施しの一つだとされています。ノルマンディー地方では少なくなっていますが昔から「シャリトン(愛徳者)」という人々がいまして、彼等の役割は死者の死体を埋葬することにありました。そして、シャリトンたちは教会では内陣に座れる特権を持っています(注・内陣に入れるのは本来ならば聖職者だけです)。



最初の諸世紀のキリスト教徒たちは激しい迫害を受けていましたが、命を危険に晒(さら)してまで、殉教者たちの遺体を大切に保護していました。背教者ユリアヌスの時代では、キリスト教徒たちは洗者聖ヨハネの遺体を保っていました。イエズス・キリストの生前の時、ヘロデヤ王は洗者ヨハネを処刑してその頭だけを取って、遺体は保たれたからです。しかしながら、洗者聖ヨハネの聖遺物の周りに多くの奇跡が起きたがゆえに、皇帝、背教者ユリアヌスが聖人の聖遺物の解体と分散を命じたほどです。それでも奇跡はまだあったので、皇帝は聖遺物を焼けと命じざるを得ませんでした。幸いなことに、数人の修道士はいくつかの骨を何とかして取り出してエルサレムまで運んでいきました。

以上のような例でも見られるように、死者の遺体と聖人の遺体を救うために一体なぜ命を危険に晒してまでカトリックは常にやってきた(葬ってきた)のでしょうか?身体は霊魂の道具だからです。霊魂の聖化のために必要不可欠の道具で、その聖化を霊魂の救いを助けるからです。
聖霊の神殿である身体、我らの主イエズス・キリストの恩寵によって聖化された身体、洗礼と他の秘蹟によって聖化された身体、聖霊と御聖体の現存によって聖化された身体、イエズス・キリストの御血によって贖罪された身体を必ず崇拝するように、カトリック教会は最初から命じているのです。

思い出しましょう。ミサ聖祭の時、お香は本来ならば天主に向けてしか捧げないのですが、ミサ聖祭の時、信徒たちに向けてお香をささげます。なぜでしょうか?それは、我らは聖霊の神殿であるからです。ご聖体を預かる神殿になるからです。
同じように、殉教者をはじめ、聖人の聖遺物も崇拝されています。なぜでしょうか?聖人の体を通じて聖霊が行った物事のためです。

また、カトリック教会ではミサ聖祭を捧げるには殉教者の聖遺物を安置している聖壇が必要です。カタコンベ(地下墓地)のキリシタンたちを記念にするためです。というのも、最初からカトリック信徒たちは殉教者の墓の上でミサ聖祭を捧げていたからです。

聖遺物にたいするカトリックの崇拝は永遠の命に対する信仰、また身体の蘇りに対する信仰をも示しています。世の終わりに、身体がよみがえる後に、つまり霊魂はもう一度自分の身体と一致してから、救われた人々たちはその栄光なる身体のよみがえった分、その栄光は、いや増されていきます。一方、永劫に処刑された人々にとって、身体の蘇りはより深い苦しみと痛みを意味しています。
復活祭の前夜祭の時、その典礼には、我々がイエズス・キリストとともに死に、またイエズス・キリストと一緒に復活していく部分があります。これはカトリックの信仰です。



しかしながら、残念ながら、最近では火葬することが流行ってきました。それはけしからんことです。イエズス・キリストご自身は自分の死体には埋葬をお望みになりました。また、我々のためにもイエズス・キリストは埋葬をお望みになっています。思い出しましょう。三人の博士は幼きイエズスの下に参った時、埋葬に向けて死体を保存するための没薬を献上されたとおりです。また、マリア・マグダレナは埋葬用の貴重な香水を我らの主、イエズス・キリストの足の注いだ場面も象徴的です。この場面、それから来るイエズス・キリストの受難と埋葬を予告する場面です。また、復活の日の朝、安息日で遅れてしまった死体の保存の作業を終わらせるために、聖なる女性たちは聖なる遺体の世話を完成させるためにイエズス・キリストの御墓に赴(おもむ)いたのも埋葬の貴重さが示されています。火葬は論外です。

ですから、カトリック教会においては、イエズス・キリストが教会を制定なさった当初から、1960年代のパウロ六世まで絶えたことのない伝統で、死体を埋葬し続けてきました。また、カトリック教会はどこでもいつも火葬と激しく戦いました。異教の慣習である火葬は多くの場合、魔法に類似する儀礼も多くて、カトリックの信仰と相いれないのです。教皇、レオン13世は、1886年に、火葬の流行りを受けて、「自分のために火葬を望んだことのある信徒で、死ぬ前にその望みを撤退しなかった場合、葬式を行うことは厳禁で、カトリック教会の埋葬は厳禁されている」という規定を発しました。

また数年後、1892年、カトリックの司祭たちに、自分の葬式のために火葬を望んでいるカトリック信徒には、最期の秘蹟を預けてはならないという規定も発されました。また、その場合、このような信徒のために命日のミサをも死者のミサをも捧げてはいけないことも命じられました。それほど火葬というのは深刻なことであることを示しています。

1917年に編纂された教会法典において以上の規定が織り込まれました。それによると、「自分の遺体を火葬にするような遺言あるいは遺志のあった信徒がいたら、教会の墓地においての葬式と埋葬を拒むべきである」と規定されています。これはカトリック教会の法律です。それだけではなく、火葬の意思があってそしてその火葬は実現された場合、その死者の遺言書を実行するのは違法だと規定されるほどです。ですから、聖伝に忠実な司祭たちは自分の遺体を火葬するように命じた信徒のために死者のミサを捧げないことになります。愛する信徒たちの皆さま、それを心得てください。

さて、なぜ以上のような厳しい規定があるでしょうか?その理由は次の通りです。カトリック教会を敵にしているフリーメイソンは身体の蘇りを信じないのですが、昔からフリーメイソンは火葬を全力で推進してきたからです。なぜでしょうか?火葬することによって、世の終わりに蘇っていく聖霊の神殿である身体に対して払うべき尊敬を具体的な形で否定する儀式としてフリーメイソンは推奨していました。

典礼や儀式の外形を変えることによって、これらの邪道な儀式を行えば行うほど、これを行う信徒の信仰の中身を少しずつ歪曲し、その中身を変質することができることをフリーメイソンがよく知っているから、このような火葬を勧めてきました。また、火葬だけではなく、他のことについてもこのやり方ですが、信じるべき信条と実際に具体的に実践していることとの間に乖離を勧めることによって、信仰を変えていけることは彼等がよく知っていることです。信仰に背く実践をやる挙句に、結局、実践に沿った主体的な変質した信仰になっていきますので気を付けましょう。

我々は信仰通りに実践していくべきです。祈りと典礼のやり方を変えてしまったら信じる中身も変わってしまうのです。第二ヴァチカン公会議による典礼改革のせいで、新しいミサのせいで、現代でも起きている悲劇的な現象で証明されています。火葬も一緒です。

カトリック信仰に従う通りに死者を埋葬することを止めて、フリーメイソン的な信仰に沿って火葬を行うことはカトリック信仰の喪失と新しい宗教に少しずつつながっていきますので気を付けましょう。現代ではことに確認できる残念な現象でしょう。死に対する過剰な恐れの一般化は天主によって照らされた我々の目的地である永遠の命の忘却の結果であります。現代ではカトリック欧州の昔と比べたら、違う宗教が流行っています。残念ながら。

カトリックの埋葬式の典礼を見ていくと、どれほど死者の身体が尊敬されていることがわかります。埋葬式の典礼はこの世の死が決定的な絶対的な壊滅を意味しないことを示しています。西洋語の「墓地(シムティエール)」の言語はギリシャ語ですが、「寝室」という意味になるのも象徴的です。つまり、墓地は霊魂が休んでいる場所というニュアンスがあります。永眠というか、確かに普通の眠りではないでしょうが、新しい命を待つ眠りなのです。土にまかれた種と、死体は似ています。

聖パウロがコリントの信徒への手紙において(15:42-44)書いている通りです。「死者の復活もそうである。体は朽ちるものとしてまかれ、光栄あるものによみがえり、弱いものとしてまかれ、強いものによみがえり、動物的な体としてまかれ、霊の体によみがえる。」と聖パウロはいいます。

火葬の場合、以上の聖パウロの考え方を具体的に否定します。埋葬される死体はまかれる種になれなくて、火葬を採用するせいで、このような象徴を変えることによって、精神に影響を及ぼし、死後の命の否定へ誘導し唆(そそのか)す具体的な儀礼です。ですから、火葬はだめです。というのも、焼かれた死体は焼ける種と似ています。もはや、この焼かれた種は新しい命を産むことはできません。焼かれたから、希望もなく、綺麗な植物になる期待も奪われます。灰にさせられた死体をみてもはや期待することはありません。



死体の火葬は、死の壊滅は決定的であるかのように示しています。永遠の命はないかのように示しています。その結果、永遠の命のない人間、輪廻転生に拘束される人間は灰に過ぎなくて、全宇宙の他の物事と変わらないで単なる灰に過ぎないかのように示されている火葬です。この死体は絶対的になくなったかのように、もはやその身体を取り戻すことはないかのように示される火葬です。

また、死者は生きている人々の心の中にしか存続しないかのように、死後の具体的な命、よみがえりがないかのように暗に唆(そそのか)す火葬なのです。また、人間は物質に囚われるかのように、死後になった、「全宇宙」にも「涅槃(ねはん)」にも「母なる大自然」に戻ってその大総体において溶けるかのように示される火葬です。

なんか、最近の流行りで、「バイオ」の葬式があるらしくて、自然に体を朽ちらせていくような大自然に戻るかのような邪道の葬式もあるそうです。まあ、火葬もバイオ葬式も同じ結果ですね。以上のすべてはカトリック信仰に背く信念と迷信です。

また、カトリック信仰ではもう一つ思い出しましょう。そもそも、「死」というのは罪に対する罰であるということです。「人よ、おぼえよ、汝はちりであって、また、ちりにかえるであろう」(灰の水曜日の典礼より)。天主こそはすべてを司ることを忘れてはいけません。ですから、我々は原罪を負って、死という罰を受けざるを得ません。必ず。ですから、この罰を積極的に受け入れて従っていきましょう。で、カトリックの埋葬を行うことによって、天主のみ旨のままに埋葬することになりますので、その分、死という罰に対する償いも済まされます。

ですから、埋葬は大事です。はい、人々は自分の身体が「ちりにかえる」ということを知って苦しんでいます。埋葬したら、このような気持ちになっていきます。一方、火葬を命じる死者の場合、天主のみ旨に従うことがなくて、天主がお望みになる通りにするのではなく、自分勝手に決めてしまいます。その挙句に、このような勝手にきめることによって、また火葬を行うことによって、「死ぬことによって当然の罰を受けて償う」という気持ちを忘れさせるどころか、「自分が死を支配するかのように」させて、天主の権威に従わないことにして、天主に背くことになります。大変なことです。



特に現代の世界では人間中心主義という宗教になる中、傲慢たっぷりの人間は何もかも自分が主であるかのように、支配しているかのように、「コントロール」するかのように思い込んでいます。現実においてそうではないのに。。。

現代人は生まれてもない赤ちゃんの命を奪ってもよいようにやっているし、「安楽死」という口実で、自分が死を決めるかのようにしていて、また死後にも自分の身体や葬式を好き勝手に決められる夢想を抱いています。悲しいことです。現代人は「自分の主は自分だ」と思い込んでいます。生前にも死後にもそういった態度です。愛する兄弟の皆様、なんて傲慢な態度でしょうか!

本物のカトリック信徒にとって、火葬は悪魔的な儀礼なのです。なので、死者の身体に値すべき尊敬をもって、我々の死者の身体を敬いましょう。最初からキリスト教徒たちがずっとやってきたように、我々も勇気をもって埋葬してあげましょう。また、死者の墓を大切にしてお世話して、よく墓参りに行きましょう。墓参りして祈って花束を進呈しましょう。このような愛徳の施しを行うことによって、信徳と望徳を堅く持ち続けるでしょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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本物の愛徳、またすべての愛もそうですが、かならず伴うものがあります

2021年09月10日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教 「本物の愛について」    
2021年2月14日 五旬節の主日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
書簡:コリント人への第一の手紙、13、1-13
福音:ルカ、18、31-43

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、本日の書簡を読んで驚く人もいたかもしれません。四旬節に入る前の主日である今日なので、むしろ、先週の聖パウロの長い試練、あるいは先々週の聖パウロが恐れず戦うように励ます書簡と同じような、あるいは、犠牲あるいは苦しみと痛みに関する教えを予想するのが自然であるはずなのに、本日の書簡は違います。

カトリック教会はあえて、「愛徳の称賛」と呼ばれるこの書簡を選ばれました。聖パウロはこの書簡に於いて、愛徳を称賛するのです。今日、この教えを想起させてくれるカトリック教会は無意味に選んだわけではないのです。というのも、四旬節において、愛徳がどれほど重要であるかを想起させてくれるからです。

簡単に、愛徳をよりよく理解するために、また善い四旬節を過ごすために一体なぜ愛徳が必要であるかを理解するために、三点の教訓を念頭に置きましょう。

第一点について聖パウロはしつこく繰り返して重要視していますが、つまり愛徳を抜きにしたら何の価値がないということです。言いかえると、愛徳なしのすべての物事は我々の救霊にとって無用だということです。愛徳を実践しない人は救霊のために何もできないのです。



というのも、この世には二つの次元があります。まず「自然」の次元があります。つまり生まれながらの(自然の語源的な意味である)本性次元です。我々が創造されたこの世界のすべてのことです。つまり人として生まれて、人間の特徴を持っているすべての物事という次元です。このような自然なる秩序、自然なる道理は、本性の次元、自然の次元と呼ばれています。この秩序は我々を人間たる存在にしてくれるし、また、人間らしい道を実践するために生まれたという目的を与えてくれます。

理解しやすいと思いますが、天主は以上の自然の次元には属さないのです。というのも、善き天主は人間でもなければ被創造物でもないし、身体もありません。天主は別の次元、別の秩序に属します。そしてこの秩序は我々を超越しているということから、「超自然」の次元、秩序と呼ばれています。つまり、善き天主は我々が属している秩序とは別の秩序に属しておられるということです。天主と人間の間には深い溝があり、断絶があります。

我々は人間として何かを行っている時に、現代風に言うと、「水平」な言動になるに過ぎないと言えます。要するに、人間の本性を持ってしか行えない言動です。しかしながら、天主は、我々に実践してほしい言動、また天主のために我々に実践してほしい言動を、そして天主の次元、天主の秩序で行ってほしいとお望みになっています。つまり、人間の本性の秩序ではない別の秩序の内に天主が我々に実践してほしい言動です。

しかしながら、我々の本性だけでは、天主の次元で何かを行うことは無理です。ですから、それを可能にするために、善き天主は人間の秩序を越えて、超越する賜物を我々に与え給います。それが聖寵です。聖寵によることで天主の次元で言動できます。そして、聖寵があるところは必ず愛徳もあるのです。
ですから、愛徳である聖寵を抜きに言動する者は単なる人として言動するに過ぎなくて、人間を越えない程度の言動にすぎません。この結果、超自然の次元においては何もできない人といえます。

しかしながら、聖寵によって言動を行う人は、つまり、愛徳によって働く人は超自然の次元へ高められた存在になっているので、何でもできます。
愛する兄弟の皆様、我々の四旬節には愛徳がなければ何の価値がありません。これから捧げようとする犠牲や苦行がどれほど重くてもつらくても大きくても四十日間ずっとしっかりとやったとしても、愛徳がなければ価値のない犠牲と苦行に過ぎません。

超自然の次元からみると何の価値もありません。我々の救霊のために、何の価値もありません。天国を得るために何の価値もありません。というのも本性の次元を超えない言動になりますので、超自然の次元にある天主まで届くことは不可能だからです。
ですから、これは第一の教訓です。よい四旬節を過ごすために、聖寵の状態になければなりません。言いかえると、愛徳を持たなければなりません。

第二の教訓は「愛徳とは天主への愛だ」ということです。天主はご自分自身を愛し給うように、我々も天主を愛するということは愛徳です。愛徳は天主がわれわれの霊魂において流し給う賜物ですが、このおかげで超自然の次元の内に生きられるようになるのです。天主は愛徳を霊魂に注ぎ給うことによってそうしてくださるのです。

そして、愛徳を与え給う時、われわれの霊魂に対し、何をなされておられるでしょうか?天主は自分自身を愛すると同じように、我々も天主を愛することができる能力を与え給うということです。我々の本性だけでは、天主を愛することができないのですが、天主は我々に愛徳を与え給うことによって、我々が天主を愛することが出来るようにしてくださるということです。

要するに、第二の教訓は「天主のためにこそ四旬節を過ごすのだ」ということです。天主の愛のためにやるわけです。他に目的がありません。つまり、個人的なメリットのためでもなければ、何かの現世欲に沿ったことのためでもないのです。

四旬節を過ごす第一の理由は天主の威光が侮辱されたからです。もちろん、われわれは罪人であるゆえに四旬節をすごすことになりますが、それは一番大事なことではありません。四旬節を過ごすそもそもの理由は我々の側にあるのではなく、天主側にあるのであって、天主は天主であるからこそ四旬節を過ごすのです。つまり、最優先に行うべきなのは、侮辱された天主の光栄、天主の栄誉のために戦うことにあります。罪によって棄損された正義を正して全うすることにあります。

ですから、天主のために苦行と悔い改めを行いましょう。というのも、天主は我々の主であるからです。また我々の存在理由は天主です。天主は天主のためにだけ我々を創造し給うたからです。罪を悔い改めます。なぜですか?罪によって罪人になってしまうからではなく、罪によって天主から外されているからです。また罪は天主の威光を侮辱するからこそ我々は罪を改悛します。

子が親の言うことを聞かない時、あるいは生意気な態度を取る時、子が自覚しなくてもこのような行動のせいで自分自身を傷づけているわけです。それはそうですが、子はあえて言えばこのように「子たる資格」を失い、堕落するのですが、それ以前に深刻なことがあります。子は親を傷つけるわけです。また、子に対する親の権威を傷つけるのです。

罪も同じようなことです。つまり、罪は我々を傷つけるのですが、それ以前、それよりも、天主を侮辱するのです。そして、罪は天主を侮辱するからこそ、罪は我々をも傷つけるわけです。ですから、四旬節の目的は以上の侮辱を払い、つまり覆(くつがえ)した秩序を取り戻し、乱れた関係をとり戻し、不正の行為を正すことにあります。一言で言うと、正義を全うして、そのために罪を償うのです。天主に対する不正行為である罪を償うためです。

要するに、天主のためにこそ苦行と犠牲をして、罪を償うわけです。確かに、罪はかなりの秩序転覆です。革命です。罪によって、天主に仕えることを止めて、自分自身に仕えることにして、いわゆる「楽々」となり、気のままに振舞ってしまうということです。この意味で、独立することです。罪には必ずある種の傲慢さとわがまま(エゴイズム)が潜んでいます。



ですから、四旬節の一つの目的はこの転覆された秩序を取り戻して、我々の人生を整頓・整理することにあります。これはまさに善徳を実践することの意味です。つまり、天主を元のあるべき位置に戻して、つまり上におられることを自覚して、天主のためにすべてを整えるということです。また、天主を愛することを習うという意味でもあります。

そして、そうすることによって、天主がお望みになる通りに、我々は自分自身を愛することができるようになります。つまり、自愛はいいのですが、自分自身のために愛するわけにはいけません。ほら、我々は価値のない存在ですから。天主が人間についてお望みになっている通りの者として自愛しなければならないということです。

言いかえると、天主の養子として自分を愛するのです。そして、我々カトリック信徒は天主の養子となっているわけです。洗礼の聖寵と愛徳によって養子となりました。この意味で、四旬節は天主を愛するための修行です。また、天主の内においてこそ、自分自身を愛するための修行なのです。つまり、我々における天主的な物事を愛するということです。我々において、天主に従っているすべて、天主へ秩序づけられているすべてを愛するということです。

これは第二の教訓です。四旬節は何よりも天主のためにあります。そして、本物の愛徳は天主への愛です。いと愛する兄弟の皆様、現代では「愛」といわれるとき、かなり堕落して、侮辱された形で使われて、愚かにも間違った意味で使われることが多いです。天主への愛をわざと忘れて、隣人への愛であるのみと印象付けられて、そして多くの場合は、「自然愛」に過ぎないことにされています。もはや(本来の)愛徳でなくなっているわけです。

最後の教訓は一番大事な教訓であるかもしれません。聖パウロは立派に愛徳について称賛していますが、愛徳は本質的に犠牲を含んでいます。言いかえると、愛徳を実践したら必ず犠牲も払わなければなりません。また、本来ならば、本当の犠牲を捧げる時、愛徳も伴われているのです。繰り返しになりますが、愛徳は我々から天主への愛なのです。いや、より厳密に言うと、天主がご自分自身を愛しておられると同じように天主を愛させてくれるために、天主がわれわれの霊魂に愛を注ぎ給うのが愛徳です。

聖トマス・アクイナスの言葉を借りれば、愛徳は友人の愛なのです。つまり、天主は我々を愛し給い、また我々に天主を愛させてくれるのです。つまり、天主は我々を愛し給うがゆえに、天主がご自分自身を愛すると同じように、我々も天主を愛することができるようにしてくれます。友人の間の愛は相互の愛で、相手の善を望む愛という意味ですが、要するに友人の愛になると、愛している相手の善を望むのです。つまり、自分自身の善を望むのではなくて友人の善を望むとき、友人の愛なのです。

愛徳を実践する時、我々が聖人になることを望むのではなくて、天主の栄光を何よりも望むのです。そして、天主の栄光を望むゆえに、ついでに我々が聖人になることを望むことになります。この順番は大事です。愛徳において順番があります。愛徳の実践は天主の善のために天主を愛するということです。そして天主の善はこの世で天主の栄光なのです。

要するに、愛徳のお陰で、天主のためにだけ天主を愛するということです。友人の愛、あるいは善良の愛と呼ばれるこのような愛徳によって、我々は自分自身を天主に捧げるのです。奉献するのです。そして、自分を捧げる愛というのは、自分を捨てる、自分を犠牲にする、自分を断念する愛です。天主の愛のため。献身すること、奉献すること、自分を捧げることは自分を捨てることを意味します。

本物の愛徳、またすべての愛もそうですが、かならず自己犠牲を伴うのです。自己犠牲というのは自分を犠牲にして捨てるということです。
ですから、愛徳を実践することは、本質的に犠牲を捧げることを含んでいます。



そして、愛なる天主が御托身された目的は、肉体になり給うた目的は、ご自身の犠牲を行うためだけです。まさに愛の業です。この世にご降誕なさった天主は最初から犠牲を捧げるためでした。そして、最初の奇跡の時、カナの結婚式の際、使徒たちに向けてイエズス・キリストが教える時、犠牲を指す「私の時」について話されています。

本日の福音においても、イエズス・キリストは使徒に来るご自分の犠牲について話されています。そのためにこそ天主はこの世に到来されたわけです。天主は愛そのものであるからです。「救済」は天主の愛から生じるのです。
要するに、愛徳と犠牲は外せない存在なのです。表裏一体の関係にあります。

ですから、聖パウロはいくつかのことを教えてくれます。書簡の最初の部分において、愛徳のない言動は価値がないといっています。そして、我々の愛徳に価値があるためには、犠牲も欠かせないものだということです。本物の愛徳は犠牲なしには存在しません。犠牲あっての愛徳です。

「愛がなければ益するところがない。愛は寛容で、情けあつく、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず」をはじめて、聖パウロは愛徳について語ります。このように愛徳を実践するためには、犠牲を捧げることを必要とします。ですから、愛徳は本当に非常に大事です。我々は本当に天主を愛したら、天主のために自分を犠牲にする事を惜しまないのです。天主を愛さないのなら、自分を犠牲にする事はないでしょう。

また、もしも、われわれがまだ天主を愛するに足りないのなら、自分をどんどん犠牲するように努力することによって、天主への愛を練習することになります。単純なことです。

要するに、よい四旬節を過ごすためには、愛徳が非常に重要です。ですから、愛徳を大切にして、この四旬節が天主への愛に満ちた四十日間になるように。天主のための犠牲の四十日間になるように。我らの主、イエズス・キリストに向けた四旬節になるように。

まさに福音に示される通りです。イエズスが通りかかると、盲人は「何事ですか」と尋ねますが、イエズスだと知った瞬間、盲人はすぐ、「イエズス、私を憐みください」といいました。イエズスが通りかかることが聞こえたからです。天主のみ名において、盲人は天主の御憐みを乞うわけです。
ですから、罪を一度も犯したことのない、ずっと愛徳の内に生きておられて、愛徳を信じ続けた、いとも聖なる童貞マリアに祈りましょう。四旬節における愛徳の位置と貴重さをより深く理解するように希いましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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司祭は真理を教え、態度を通じて真理を証明しなければならない|司祭職とは「真理」を証明し、「憐れみ」を実践することだから

2021年09月06日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教 「司祭職と自由」    
2021年07月04日  
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する神父様、いと愛する兄弟の皆様、クリスマス、ご降誕の祝日、我らの主は肉体になり給うことを祝う際、典礼を通じて教会は繰り返し詩編第84篇の一句を詠わせていただくのです。次のように歌います。
「真理と慈悲が出合い、正義と平和が互いに口づけした」

新しい司祭が叙階されると代わりのキリストが造られているかのようです。この地上に代わりのもう一人のキリストが現れてきます。我らの主、イエズス・キリストの僕(しもべ)なる司祭はメシアの働きをつづけることに尽くします。要するに、司祭はこの世で、「真理と慈悲が出合った」ことを示されています。いと愛する神父様、司祭職の使命はそこにあってこの使命を果たすように主から命じられています。
司祭職とは具体的な日常の働きを通じて真理と慈悲が常に出会うように尽くし努めることにあります。

というのも司祭職とは何よりも真理を中心にした働きだからです。皆様、六年間もの間、神学校では多くの科目を勉強してきたと思います。教義、道徳、聖書、教訓に溢れる教会の歴史、教会法、または教義上の真理を支える哲学などを勉強してまいりました。皆様、司祭になっても勉強は終わらないのです。死ぬまで司祭は勉強し続ける義務があるからです。

しかしながら、勉強よりも、得られた真理を輝かせていただかなければなりません。真理に溢れて真理で輝かしくいられるように。神父は真理のための人です。現代ではなおさらのことです。我らの主、イエズス・キリストはご自分自身を指して、「私は真理である」と仰せになった上、真理を証明するために生まれたと言っておられます。代わりのキリストとしての司祭、ここにいる神父様も真理を証明することになります。まず司祭の態度とその振舞いを通じて真理を証明することですが、また、ことに、何を行うか、何を教えるかによって真理を証明することになります。

というのも、司祭は真理を教えていくべきです。つまり善き知らせ(福音)を教えていきます。福音書では我らの主が約束しておられたように、真理によって自由になれるということです。「あなたは真理を知り、真理はあなたたちを自由な者とするだろう」(ヨハネ、8,32)と仰せになりました。ですから、司祭は真理を教えることによって自由を教えるわけです。天主様の子たらんとする自由です。我らの救いという善き知らせが齎(もたら)してくれる自由です。つまり罪への隷属から解放してくれる自由です。



要するに、司祭は真理を教えていくのですが、御托身という真理、贖罪という真理、他の真理を教えて、天主の子の自由をも教えていきます。
ですから、イエズス・キリストのことを教えていくこととなります。また、イエズス・キリストを完全に徹底的に教えていくということです。つまり、イエズス・キリストをありのままに彼を教えていくということで、真の人としても真の天主としても教えていくということです。

本日の福音の朗読で聞いたように、聖ペトロは我らの主、イエズス・キリストが天主であることを告白し宣言されました。この宣言の後、イエズスは聖ペトロを教会の頭として任じられました。
聖ペトロに倣って、イエズスの使命をつづける司祭は特にイエズスが真の天主であることを強調して教えていくべきです。というのも、現代ではイエズス・キリストが天主であることは貶(おとし)められており、真理は侮辱されており、軽視されているのです。イエズスが真の天主であることを軽視し、イエズスの人間性だけを過剰に強調して、いわゆる「人間の尊重」ばかりが見られます。

ですから、神父様、真の天主である故に我々を救えたという真理を教えていかなければなりません。そして、この素晴らしく輝かしい真理を教えていくと同時に、霊魂たちに向けて、我々、人間の現状、人間の現実を教えていかなければなりません。つまり、我々は罪人であること、真理を繰り返し確認して教えていかなればなりません。

はい、皆、一人の例外もなく、罪人であるからです。司祭にせよ信徒にせよ、皆、必ず罪人であるわけです。原罪の内に生まれてしまったわけです。確かに、洗礼を受けて、我らの霊魂は原罪が清められたのですが、それでも我々の中には傷は必ず残っています。人々によって多少大小深浅があるかもしれませんが、傷は残っています。そして、これらの傷を明らかにして、定義して区別して、信徒たちにどんな傷があるのかを教えてさしあげなければなりません。



それは、罪人である故に、救われるために我々の回心が必要であることを示されることになります。また、我々の犠牲も必要であるという真理を示すためです。確かに、このような真理はつらいですが、真理は真理で、このようなつらい真理こそは我々を解放してくれています。というのも、我々は犠牲を捧げることによって、罪の状態から脱出することになりますが、犠牲によって、つまり、罪から解放されていくからです。

また、真理を教えていくということは、裏を返せば、誤謬に対して戦っていくということを意味します。この世において誤謬は蔓延(はびこ)っているし、人々は都合のよいことだけを聞きたいわけですから、聖パウロが言うように、「みことばを宣教せよ。よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ、反駁し、とがめ、すべての知識と寛容をもって勧めよ。」(ティモテオへの第二の手紙、4、2)

真理を宣教することは基本ですが、それに欠かせないこととして、誤謬を否認することです。そして、現代において特に危険になるのは、「将来はよくなるぞ」というようなこの世の誘惑に耳を傾けないように努めることが重要です。また、間違ったことを宣言している人々がいるということを明らかに訴えることも簡単なことではありません。場合によって異端者がいればいるよと素直に言うのは簡単ではありません。

しかしながら、司祭としてこのような心配してはいけません。素直に真理を語り、誤謬に反駁していきます。「リベラル、自由主義者」になってはいけません。これは現代の最もなる危険であるので、リベラルにならないように、リベラルにならないための聖徳を特に聖母マリアに願いましょう。というのも、聖母マリアは一度もためらうこともなく、言い逃れをされたこともなかったからです。ですから、毎日毎日、聖母マリアにより頼んで、言い逃れしないように、ためらうことがないように聖徳をあたえくださいと懇願しましょう。また、真理に対して徹底的に忠実でいられるように、つまり、諸世紀にわたって引き継がれてきた真理の聖伝の継承に忠実でいられるように。

要するに、真理の美しさによって信徒たちの霊魂を照らすだけではなく、誤謬をはっきりと否認することによって信徒たちの霊魂を守ることも重要です。神父様は叙階式の記念のために選ばれた絵は真理のための働きをよく示されています。
「私は世の光である」(ヨハネ、8,12)と選ばれたのです。はい、その通りです。イエズスはこの世の光であって、真理を教えて、誤謬を退けるために、我らの知性をも啓蒙して照らしたまうのです。要するに、信仰についての真理を教えていくべきです。

そして、真理の上に、司祭職を果たす働きは何よりも慈悲、憐みの働きです。現代のように狂気の沙汰になっているこの世において、自然徳の慈悲は言うまでもないが、神父様、これから多くの霊魂と出会うことになりますが、その内、悲しみに溺れる霊魂、落胆している霊魂、絶望に陥れている霊魂と出会うことはよくあるでしょう。このように、司祭としてこれらの霊魂を起こすべきです。希望、勇気、喜びを与えて、また剛毅、そして戦いに挑む歓喜などを与えていかなければなりません。これは憐みが命じる働きです。現代においてこそ特に欠かせない働きです。というのも、現代の社会も残念ながら一般的な教会ですら、霊魂を上へ高まるように励まなくなったどころか、現代の社会は霊魂たちを地獄へ落としていくばかりです。

はい、神父様、憐みをぐれぐれも実践してください。すでに、告解の秘跡を授けることによってこの働きを始められたかと思います。
現代に置かれている霊魂たち、我々の信徒たちはいつもいつも罪に落ちるように多くの誘惑に攻撃されているのが現状です。都会はなおさらでしょうが、田舎でもどこでも社会というか、この世は美しい霊魂、良き霊魂をどうしても罪へ落とそうとしているのです。

そして、我々の可愛そうな信徒たちはこの世の悲惨事を見ながら、それに抵抗するために、司祭が授ける秘跡と典礼だけが拠り所となって助けとなっていくわけです。典礼と秘蹟によって、これらの霊魂の励みになり、引き立てられ、立ちなおるのです。
ですから、絶望が普及している現代である分、厳しくするよりも、憐み深くていられるようにしましょう。ですから、神父様たち、霊魂と出会って、いつもいつも憐み深くていてください。先週の福音で仰せになったようにイエズス・キリストに倣って行きましょう。「私はこの人々を哀れに思う。空腹のままに帰らせるに忍びぬ。途中で倒れてしまうかもしれない」(マテオ、15,32)

ですから、神父様たちよ、与えられた信徒たちを憐み、彼らの転びや落ちを憐れんでください。彼らの悲惨事を憐み、彼らを慰め、助けて引き立てるのです。同時に、罪と戦うことを怠らないでください。憐み、慈悲の聖徳というのは、絶対に罪への妥協、あるいは許可ではありません。その逆です。本物の慈悲は悲惨事を助けるということで、罪をなくすことによって、惨めな人を楽にさせるわけです。ですから、信徒たちの霊魂とともに、踏ん張って罪と戦ってください。

また、憐みと慈悲の実践は同僚たちにたいして実践するように言っておきましょう。司祭兄弟会なので、兄弟とみなしてともに生きていくことになります。また兄弟のようにお互いに選びあっていないものの、お互いに愛徳を実践していかなければならないのです。これから、いくつかの仕事に任命されたりして、場合によって上司としても任命されることになりかもしれません。すべての任命において、同僚へのもっともなる憐みで振舞いなさい。殊に、年配の同僚へはなおさらのことです。年配の方々は長年にわたって司祭職を果たすために全力を尽くし何も惜しまなかったからです。また、いつの時代のことでもあるのですが、現代においてこそ、長年にわたっての忠実な働きによる、絶えずに諸前線で戦い続けなければならないことから生じる疲労もたまっているでしょう。

最後に、司祭職を果たす時、慈悲と真理は出会うでしょうが、ことに十字架上の下に入る時にこそ、真理と慈悲は出会うということです。はい、司祭職に勤しむ時、真理のために尽くす時も慈悲のために尽くす時も、それを果たすための力は、我らの主、イエズス・キリストの十字架においてこそ得ていくわけです。ことに、毎日、お捧げするミサ聖祭においてです。

ある聖歌で、十字架は雄弁者の説教壇であるよと歌っているように、ミサ聖祭はまさに雄弁者の説教壇です。そして、全力を尽くして何も惜しまないで厳守している聖伝ミサこそは雄弁者の説教壇です。ですから、保障します。迷っていた多くの霊魂ははじめてミサ聖祭と典礼と接触して、回心して避難所に戻ったら、あなたたちにいうでしょう。この典礼こそ、ラテン語ができていないのにラテン語であっても、このミサはどれほどいろいろなことを語ってくれるか、慰めてくれるか、齎(もたら)してくれるか、天主の偉大さ、栄光などを示してくれるか、我々への主の憐みを示してくれるかは、信徒たちによってよく言われています。

十字架即ちミサ聖祭は雄弁者の説教壇です。つまり、司祭の使徒職の中心はミサ聖祭です。他のすべての働きと信徒たちのために行っていく物事は、ミサ聖祭から自然に湧いてくるまでです。また、ミサ聖祭と同じように、十字架こそは生命の源なのです。ですから、この命の源の水を信徒たちに分かち合っていき、憐みを与えていくことです。

また、カトリック信徒の生活の輝きは聖体拝領にあるということを深く理解して、信徒たちに理解してもらうように努めなさい。また、とくに現代において、聖体拝領によってこそ霊魂はどれほど強化されること。聖体拝領は真の人、真の天主であるイエズス・キリストご自身を霊魂に与えられる素晴らしいことです。つまり、我々、この世の旅人であるのですが、イエズス・キリストは聖体拝領によって、我々の案内の人になってくださって、我々を慰めるために、癒すために、我々の道連れになってくださいます。
また、エンマウスの弟子たちのように、「Mane Domine, Mane nobiscum」「私たちとともに泊りください」とよく誓願するように信徒たちと一緒によく祈るようにならってください。

十字架こそは天主を要約します。十字架こそ、天主の愛を要約します。また、叙階式の記念絵にある「私は世の光だ」と十字架は非常によく示しているのです。
神父様、イエズスに従って、イエズスに倣って、イエズスに続いて、あなたもこの世の光になっていくことです。真理を証明して、真理を教えていくことによって世の光になるのです。また、人々のために憐みを実践していくことによって、希望を与えて、その火を霊魂にあたえることによっても世の光になっていくことです。光とは温まるものです。十字架とミサ聖祭によって、あなたがた神父様、信徒たちの霊魂を温めるのです。天主の愛徳によって霊魂は温まるのです。

司祭職はどれほど立派な使命であるかな!偉大な使命であるかな!我々の主、イエズス・キリストはこのような偉大な司祭職を果たすように我々を呼び求めたので喜びましょう。真理と慈悲の使命であり、またイエズスに従って祭壇に、司祭と犠牲者になっていく使命です。

聖母マリアに祈りましょう。特に、み摂理的にも、本教会で特に崇拝している聖職者たちの聖母に祈りましょう。司祭職の使命にずっとずっと忠実であり続けるように。また、何があってもどれほど混乱しても、いつもいつも熱心でいられるように。解放してくれる真理への熱心。救ってくれる憐みへの熱心。我々を永遠に活かしてくれる十字架のへの熱心。アーメン。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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怒りと赦し|怒りの三つの程度、三種類の刑罰

2021年09月01日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教「怒りと赦し」
2020年06月27日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
「兄弟を怒る人は審判を受けるだろう、また兄弟に向かって愚者(おろかもの)よという人は、衆議所に渡されるだろう、また気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう。」(マテオ、5,20-24)

いと愛する兄弟の皆様、福音書のこの教えは過剰に厳しいに見えるかもしれません。というのも、絶対に怒らない人は一体いるだろうかということで、永遠の劫罰が避けられないのではないかというような疑問を持つ人がいるかもしれません。

我らの主イエズス・キリストは悪を根絶するためにこのように教えられます。悪の種自体をなくすように教えられています。つまり愛徳を壊す悪、切りのない、終わらない敵愾心を産む悪、イエズスの神秘体の構成員たちを対立させる悪、天主が愛しておられる平和を遠ざける悪、サタンのための道を開ける悪、サタンの力を増やす悪を根絶するために教えられています。ですから、悪魔の力を破壊するために、愛徳の凱旋のために、我らの主イエズス・キリストは本日の福音書にある掟を制定されたわけです。

ご覧のように、福音書には怒りの三つの程度に合わせて、三種類の刑罰が規定されています。

第一の程度は、怒りという激情に同意しているものの、一応心の内に抑えられている時です。苛立ちの僅(わず)かな動きのような、何かの予想外の不愉快あるいは失敗に溢(あふ)れる不機嫌のような時です。つまり、思いの罪であり、あるいは隣人に対する恨みの思い、または隣人に悪いことが起きるように願う思い、あるいは隣人がなにか失敗している時の喜び、あるいは逆に隣人が成功している時、悲しむ思いというような思いの罪です。また、復讐の計画を心の内に企てて満足するような思いの罪です。

ここで注意していただきたい点があります。我らの主はあらゆる怒りを断罪しているわけではありません。兄弟に対する怒りを断罪しているのです。我らの主は明らかに仰せになって、兄弟という言葉と使われておられます。言いかえると隣人に対する怒りを断罪しておられるのです。いと愛する兄弟の皆様、これは重要です。罪源である怒り、悪徳である怒りを、この世にある多くの罪に対する正当な憤怒と混同してはいけません。

悪自体に対して憤怒するということは怒りの罪にならなくて、単なる判断です。さらにいうと、もしも憎むべきことにたいして憤怒しなければ、我らの徳はもはや徳でなくなって、むしろ怠惰さ、卑怯さになるだけです。聖アウグスティヌスはこのとても重要な区別について明解にしてくれます。「兄弟が犯した罪に対して怒る人は兄弟に対して怒るのではない。」そこに大事な区別があります。



要するに、愛する兄弟が犯した罪に対して怒ることは批判すべきことではないどころか、善いことです。善を愛しているゆえに、聖なる愛徳の実践を愛しているゆえに、隣人を愛しているゆえに、隣人は罪を糺(ただ)して改善するための怒りなら、悪い怒りではないのです。

逆に自尊心が傷つけられたから怒るのなら、激情に負けて冷静でなくなるのなら、不正にも卑(いや)しくも怒るのなら、必ず罪になるのです。

ですから、このように善き怒りもあります。正当な落ち着いた怒りもあります。このような聖なる怒りは相手を追い詰めようとするのではなく、逆に相手を和らげようとするのです。聖なる憤怒です。ですから、隣人を本当に愛する時に、愛する人が罪を犯すことに対して怒らないでいられないのです。

またこの世に蔓延(はびこ)るスキャンダル、悪徳、悪行の前に、天主様を侮辱する物事の前に怒らないでいられないのです。このような怒りは高貴な怒りとなります。このような怒りは兄弟に対して怒るのではなく、兄弟のために怒る時の怒りです。聖アウグスティヌスがいうように、つまり罪を打つ怒りでありながら、罪人を助ける怒りです。また、相手を治そうとして、解放してあげようとする怒りであります。いわゆる医者のように、死にかけている病者を治療しようとするとき、病者が痛くて医者を罵っても医者が平気にいられるようなことです。

しかしながら、いと愛する兄弟の皆様、もちろん、兄弟を糺(ただ)すことは非常にデリケートなことであって、簡単なことではないことは言うまでもありません。そうするために、権威、忍耐さ、ある種の静謐(せいひつ)な心境を必要としています。ですから、もしも兄弟を糺(ただ)さざるを得ない場合が出たら、恐れ多くて、何らかの恨み、復讐の思いは絶対に入ってこないようにくれぐれも警戒しながら、熱心に兄弟を糺(ただ)すしかないのです。

怒りの第二の程度とは、怒りの激情のあまりに、心の中に留まることができなくて、「言葉」で怒りを表す時です。それほど意味を成さない言葉になるかもしれないが、とにかく相手を傷つける言葉を発する時です。喧嘩する時の文句、わめきなどです。もちろん、このような場合になると、思いにとどまった罪よりも深刻な罪となります。福音書にあるように、「愚者(おろかもの)」よという人は、衆議所に渡されるだろう」と。

辛辣になった熱心さ、悪だけを齎(もたら)す気難しさなどです。福音書にある「Raca」という言葉は軽蔑的な表現なのです。ある種の罵言だと言いましょう。あるいは冷やかしのような言葉です。つまり、非常に深刻な罵りでもないという感じですが、侮辱する気持ちを表すことなのです。いわゆる、つい言い出された言葉で、それほど罪深いことでもないように見ると思われるかもしれませんが、善き天主は我々が完成者になるようにお望みで、どれほどの僅かな罪の根絶ですら求めておられます。

いつも、我々はお互いに敬意を払いながら、敬意のしるしを与えながら降り舞うようにと天主は我々に命じておられます。そうすると、より深刻な混乱にならないために事前にこのような混乱を防ぐためでもあります。ですから、このような怒りにならないために、何か言いたいときに、何かやりたいときに、必ず前もって随分に考えておく習慣を身につけるのがよいと思われます。そうすると、激情が発生してもわれわれは動じないように修行するということです。

第三の怒りの程度ははっきりとした間違いのない侮辱の行為です。福音書には、「気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう」とありますね。いわゆる、単なるついに言い出した憤怒の言葉よりも深刻な罵りです。キリシタンに対してこのような罵りを発することはなお更に深刻な罪となります。というのも、洗礼を受けた者は天主の養子になった分、さらに天主に対する深刻な侮辱の行為になるからです。

また、いわゆる恨みの念に同意して、嫌悪感になってしまうような怒りです。このようになると、天主の前に死に値する罪となります。つまり大罪です。福音書によると「ゲヘンナの火を受ける」罰になりうる罪です。
ちなみに、ゲヘンナとはヒンノムの子供の谷という場所でした。この場所はモロク神へ捧げられた子供たちの生贄によって冒涜された場所で呪われた場所です。また、そのあと、エルサレムのゴミ捨て場となって、蛆(うじ)が蔓延(はびこ)っていた場所でした。そういったような場所だったので、転じて、地獄を指すために使われた言葉となりました。
つまり、死体を貪(むさぼ)る蛆(うじ)が永遠に死なない地獄、燃やす火が永遠に消えない場所である地獄です。深刻な怒りという罪を犯す人々のために用意されている地獄です。

聖ヨハネも書簡においてこのように書きます。「私たちが死から命に移ったのは、兄弟を愛するからであって、愛さない人は死の中に留まっていることを私たちは知っている。兄弟を憎む者は人殺しであって、人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている。」(ヨハネの第一の手紙、3,14-15)

この言葉によって本日の福音書にある我らの主の言葉は確認されています。
たとえてみるとこのように怒る者は蜂(はち)であるかのようです。追いかける人の身体に針を刺していく蜂が針を失うとともに命をも失います。
このように、死をもたらす怒りに陥れる人は自分の心に悪魔に避難所を与えるのです。そして悪魔は実際にあった侮辱の行為を過剰に大げさに見せかけて、感情と精神を煽り、理性と判断力を濁らせるのです。そして、怒りによって盲目となった人はどういった罪を犯しているかもどういった危険に自分をされているかも見えなくなります。

また、このような怒りの結果、喧嘩、暴言、中傷、誹謗、冒涜、呪詛、祟り、戦争、分離などが生まれるわけです。このような怒りは不正行為を招いて、また妬(ねた)みの気持ちを増やして、また悪意を持った行動、復讐、殺人などを齎(もたら)すのです。
時には、この怒りは天主までを直接に対象にして、軽率にも天主に対する文句、非難、不公平などをいうのです。

このような怒りを治すために天主への愛を基(もとい)にしている愛徳の実践によってしか治療できないのです。

つまり、我らは皆、天におられる同じ父の養子になる資格を持っている人々であることを常に思い起こすことが重要です。また洗礼者なら、同じ神秘体の一員であり、同じ永遠の命のために選ばれた者であるということについて思い起こし、隣人への愛徳を実践するということです。ですから、このようなことを知り、つまり全人類は救霊の対象であり、同じ永遠の命のために造られた者であるなどの真理は、嫌悪感と相容(あいい)れないわけです。

「ゆえにもしもあなたが、祭壇に供え物を捧げるとき、兄弟から恨まれることがあると、そこで、思い出すならば、供え物を、そこ、祭壇の前にのこしおき、先ず行って兄弟と和睦し、その後に来て供え物をささげよ」(マテオ、5、24)

我らの主は「私への礼拝は中止してでも、愛徳を大切にせよ」と言わんばかりです。というのも、これは、本物の礼拝を私たちができるように助けてくださるということだからです。イエズスとその御父に値する唯一なる真の礼拝であるミサ聖祭のために、イエズスは聖なる生贄を捧げるために、我々に清く聖なる心境であるように求めておられます。というのも、愛徳の精神と恨みの気持ちに邁進(まいしん)する心と一体何か共通しているでしょうか。何もありません。

ですから、お祈りするためにも、自分の霊魂は天主のすぐ近くにいるように心の準備をすべきです。そして、恨(うら)みや侮辱(ぶじょく)の思いなどはこのような祈りに対する大なる障害です。赦免(しゃめん)、人々の罪を赦すことなどは、逆に天主にまで我々の祈りが届けるための最高の準備です。



いと愛する兄弟の皆様、最初の時代の時、天主はアベルが捧げた生贄(いけにえ)を召し給うことを見よ。正義を全うして、素直に捧げられた生贄でした。一方、天主はカインが捧げた生贄を退けられました。カインの心には兄弟、アベルに対する妬(ねた)み、憎しみがあったからです。要するに、自分の心の奉献を伴わない生贄、供え物は天主に召されないのです。我らの主は我らを彼とともに父に捧げることにしておられます。また、天主はどの供え物、犠牲よりも、我々自分自身の奉献、犠牲を求めておられます。

我らの主の生贄はまさに赦免(しゃめん)、お赦(ゆる)しの生贄です。御父の赦免を得しめるために、イエズス・キリストは自分の御血を流すことを惜(お)しまれなかったほどです。しかしながら、我らは同じ人間である隣人、つまり、天主に対して全く同等である隣人の赦免を得るために、僅(わず)かな一言ですら言わないことにするとはなんたることか。

聖壇に近づいてイエズス・キリストご聖体を拝領する前に、一旦(いったん)このようなことを考えてみましょう。心の平和がなければ、天主の平和に近づくことは一体どうやってあり得ることですしょうか。隣人の借りをチャラにしてあげられないのに、自分に対する恩があるからといって、恩を着せるような隣人をきつく扱っているのに、我々は一体どうやって天主に自分の借りへのチャラをお願いできるでしょうか。また、兄弟に対して苛立っているままであるのに、いったいどうやって御父を鎮められるでしょうか。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々はもしも、怒りによって罪を犯した場合、侮辱を受けた時、赦免してあげましょう。和睦(わぼく)しましょう。思いによって隣人を侮辱した場合、思いにおいて内面の心の祭壇の前に和睦を果たしましょう。言葉によって隣人を侮辱した場合、言葉によって和睦しましょう。そして、より重大な具体的な弊害を隣人に与えた場合、何らかの具体的な恩恵を与えて、全てを施(ほどこ)すことによって和睦しましょう。
逆に、自分は隣人の怒りの犠牲になった時、つまり、自分は侮辱された時、この場合に限ってもちろん、侮辱した者に「お赦し」を願う筋はありませんが、天主に赦しをいただきたいほど、隣人を速やかに赦しあげましょう。



イエズス・キリストは福音書において「兄弟から恨(うら)まれることがあると」とだけ仰せになって、状況は何も限定されていない言い回しです。公平に恨まれるか(自分が何らか悪いことをやったので、相手が怒って自分を侮辱して復讐した時)、不公平にも恨まれるか(自分が何もしていないのに、あるいは善いことしているのに、相手が怒って自分を侮辱して復讐する時)という両方の場合が想定されています。

それは、我々は無限に愛徳を実践するように我らの主は推奨しておられるわけです。つまり、御聖体を受けるために、私が誰かを侮辱した場合、事前に和睦する義務がもちろんあります。ところが、さらにいうと、不公平に怒られたとしても、義務にならないものの、完全に愛徳を実践するために、それでも和睦するために、隣人の動きを待たないで、自分から手を出すように勧められています。アーメン

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
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