アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2020年6月14日に公教会は御聖体の荘厳祭を祝いました。
2020年6月14日(主日)御聖体の荘厳祭の説教の書き起こしを御紹介いたします。
+++++
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、
今日は2020年6月14日、日本では御聖体の荘厳祭を祝っています。
そこで今日は、御聖体について一緒に黙想致しましょう。
【1:御聖体】
まず第1に、御聖体とは一体何でしょうか?
御聖体とは、カトリック教会の持つ最高の宝です。カトリック教会の持つ七つの秘蹟のうちで、頂点に立つ、最高の秘蹟です。
何故ならば、三位一体の天主が私たちに賜った、最高の御恵みだからです。
何故かというと、御聖体とは、私たちの主イエズス・キリストの真の御体だからです。パンと葡萄酒の外見のもとに、私たちの主イエズス・キリストが実在しておられる秘蹟だからです。
私たちの救い主は、最後の晩餐で、パンと葡萄酒を祝福し、はっきりと御自分の御体、そして御自分の御血とを与える、と使徒たちに仰り、このすばらしい御聖体の秘跡を制定されました。トリエント公会議は、私たちのこの使徒継承の信仰を、はっきりと宣言しています。
1)御聖体の秘跡において、パンと葡萄酒の聖変化の後、真の天主であり、真の人である私たちの主イエズス・キリストが、真に、現実に、実体的に、パンと葡萄酒という目に見える外観(可感覚的な形色)のもとに含まれている、という事。
2)また、私たちの救い主イエズス・キリストは、天において常に聖父の右に座しておられると同時に、秘跡的に世界中の御聖櫃において、御聖体において、御自分の実体によって現存し、私たちに寄り添い、付き添っておられる、という事です。
この「寄り添い、付き添っている」というのはラテン語の、“Adsit, Adest”という言葉の訳ですけれども、「ぴったりと、傍にいらして下さる」という意味です。
七つの秘蹟の中で、他の秘跡は、私たち人間がそれを受けると「聖寵」が与えられます。しかし聖体では、「聖寵の作り主、聖性の作り主である私たちの主御自身」が現存しておられます。
聖変化の後、御聖体は、パンの形色(外観)であれ、葡萄酒の形色(外観)であれ、御体、御血、御霊魂、御神性を含めて、そして今では、今現在では、復活されたイエズス・キリスト、全キリストが、イエズス・キリストそれが全てが、御聖体の中に含まれて存在しています。
聖変化によって、パンの実体は無くなり、パンでは無くなります。そして全て、イエズス・キリストの実体と変化します。ただ奇跡的に、実体に付属している、付帯している性質、(これを偶有と言うのですけれども)それが残り、パンの形色(外観)がそのままあるだけで、実体はイエズス・キリストの御体になります。イエズス・キリスト御自身になります。これを「全実体変化」と言っています。
ですから、御聖体とは、私たちに御自身を全て与え尽くす、天主の愛の秘蹟です。私たちの主は、人間に対する溢れるばかりの天主の愛のしるしとして、私たちと共にこの世の終わりまで留まる事ができるように、この秘跡を制定しました。ただ単に留まって、礼拝を受ける為だけではありません。
主は、「私を食べる人は、私によって生きる」(ヨハネ6・58)と言われて、私たちがイエズス・キリスト様の御体によって養なわれて、強められ、またこの秘蹟によって
私たちの毎日のあやまち、あるいは大罪等を予防される薬となり、また同時に、私たちの未来の栄光の、永遠の幸福の保証となる事を望まれました。
「私を食べる者は、死んでも生きる」(ヨハネ6・50−51)と言われました。私たちの主を頭とする私たち、主の神秘体の肢体である私たちが、分裂せずに、信仰と希望と愛とによってしっかりと結ばれる事を望まれました。
【2:御聖体の取り扱いと聖体拝領】
では第2点、私たちはそのような御聖体を、どのように取り扱い、どのように拝領したら良いのでしょうか?
御聖体は、私たちの主であり、天主御自身の御体です。ですから、そしてその小さなかけらにでさえ、全てが含まれています。
ローマ典礼様式の聖伝によれば、聖変化をした後に、御聖体を触れた司祭は、この指を浄められるまで他の物を触る事ができないように、このように閉じていなければなりません。親指と人差し指をしっかりとくっつけていなければなりません。
これはただ、御聖体の付いた粉が付いた手が他に、指の先が他に触れないというのみならず、聖父と聖子と聖霊三位一体の実りである御聖体を、それは天主性と人性が一致した、天主の御言葉のペルソナにおいて合体したイエズス・キリストによって与えられる、という象徴的な意味もあります。
御聖体は、聖にして、聖にして、聖なる天主御自身ですから、御聖体を拝領する為には、最上の、最善の準備を尽くして、この秘跡に近づくようにしなければなりません。
聖パウロは言っています、「主の体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食する者である」(1コリント11・29)。
トリエント公会議はこうはっきり宣言しました。「大罪を持つと知っている者は、たとえ痛悔をしたと思っても、告解の秘跡によって罪の赦しを得た後でなければ、聖体を拝領してはならない。」
また公会議はこうも言っています。「秘跡を拝領する時、信徒は、司祭から聖体を拝領し、ミサを挙式する司祭は自分自身で拝領するのが、天主の教会の古くからの習慣である。使徒の時代からの聖伝によるこの習慣を、正しく保つべきである。」
ですから私たちは、カトリック2000年の伝統、聖なる伝統によれば、平信徒が御聖体を配る事は、決してあってはならない事です。司祭のみが、御聖体を配るべきです。
【3:御聖体の荘厳祭】
では第3に、日本では今日、御聖体の荘厳祭という事を行なっていますが、このような御聖体をどのようにして祝ったら良いのでしょうか?
天主様からのかくも大いなる恩寵をかたじけなくした私たちは、当然、この御恵みに対して深く感謝して、御聖体に対してふさわしい御礼、ふさわしい荘厳な礼拝を捧げようと、古来から努めてきました。
カトリック教会の美しく絢爛豪華で、芸術品が凝縮したような大聖堂、これらはまさに、この御聖体の為にあります、作られました。
私たちの心を天上へと挙げてくれる美しいグレゴリオ聖歌、またその他の美しい教会音楽などは、御聖体をふさわしく礼拝する為に作曲されました。
カトリック教会では、日本でいえば鎌倉時代から、ずっと毎年、今年で750年以上、「御聖体の祝日」という特別の祝日に、特別の典礼で御聖体の秘跡を崇敬し、そして行列を作って、道路や公の場所で御聖体を崇敬する、という信心深い習慣を行ない続けてきました。750年以上。
私の個人的な思い出話しをするのを許して下さい。
私がスイスの神学校で神学生として勉強している時、御聖体の祝日、木曜日ですが、それは公休日でした。お休みの日です。「御聖体」という特別のたまものを、特別に感謝して、キリスト教信者たちがミサにあずかって、そしてその後で御聖体行列を道路に出て行なって、そして私たちの主の勝利と凱旋を表わそうとしていました。子供たちは、御聖体に花びらを投げかけて、そして美しい御聖体にする讃美歌を歌って、私たちは御聖体で行列をしました。まさに王様の行列でした。
日本でもそうでした。私たちの先祖のキリシタンたちが口癖のように言っていたのは、「至聖なる御聖体は讃美せられさせ給え!」でした。
「御聖体の組」という信心兄弟会(コンフラテルニタス)が日本ではキリシタンの時代からあって、そのモットーがこの言葉でした、“ Lovvad seia o sãntissimo sacramento ”私たちの先祖は、私たちにその信仰が伝えられたその最初から、御聖体を大切に崇敬し、讃美してきました。
とても有名な逸話があります。財産家であったパウロ内堀作右衛門(うちぼり・さくえもん)の話です。彼と28名の雲仙の殉教者たちの話です。1627年、パウロ内堀は、財産を没収されました。そして、島原の寒い冬の海で、3人の子供たち、バルタサールとアントニオ、そして小さな5歳のイグナチオの殉教を、自分の前で見せつけられました。そしてその後で雲仙に連れて行かれ、数時間の拷問を耐え忍んだ後に、雲仙の地獄の煮えたぎる硫黄と、湯の中に投げ込まれて殉教しました。
作右衛門とその同志たちは、「デウスの為なら、これしきの苦しみ」と言って互いに励まし合って、最後には、「いと尊き御聖体の秘蹟は讃美せられさせ給え!」と言いながら、殉教していくのです。
これは島原半島の誇り、日本の誇りです。殉教者の中のこの5人は、1621年、有馬の教会がパウロ五世教皇様宛に送った書簡の中で、「私たちはいつも、カトリック信仰に忠実です。守ります」という忠誠の手紙をラテン語で書いて、ローマに送っています。
殉教者の中の一人ジョアキム峰は、雲仙に登るその時に、辞世の句を残しています。
「はるかなる、パライソ身近(みぢか)今ぞ見き、この喜びに心高鳴る」“ Até agora cuidei tinha o Paraíso longe, Agora me alegro pelo ver tao perto. ”
キリシタン時代からカトリック教会が本当に大切にしたのは、特にこの御聖体の秘跡、そして悔悛の秘跡です。キリシタン時代の司祭たちは迫害の真っ最中に、命がけでこの2つの秘蹟を授けていました。秘跡なしに、激しい迫害や苦難に耐える事は決してできないと、彼らはよく知っていたからです。
遣欧使節の一人であった、日本の生んだ最高の国際人、最初の国際人であり最高の教養人、エリートであった福者ジュリアン中浦、彼は、ローマで知り合ったイエズス会総長顧問のマスカレニャス神父様宛てに手紙を書きました。大迫害のさなかに書いたので、「一時とも休む暇はない」と言いながらこう書いています。「私は天主様の御恵みによって、まだ十分な健康と堅固な精神をもっています。そこで、毎年告解する4000人以上の信者が私に任せられています。」
毎年4000人以上。命の危険を冒して、告解を聞き、そして御聖体を配っていました、運んでいました。御聖体を授けていました。ジュリアン中浦福者。
これが大和心です。これが日本のキリスト教信仰です。これを私たちは守り続けなければなりません。
【4:遷善の決心】
第4に、では遷善の決心を立てましょう。
聖なるトリエント公会議はこう言っています、「主の御体と御血の聖なる玄義を、常に堅固な信仰、信心、敬虔、礼拝、崇敬をもって信じ、尊ぶように乞い願う」と「お願いする」と。
初代教会から脈々と綿々と続けられてきた、この御聖体に対する信仰と愛、礼拝とこの信心を、私たちは天主様の御助けをもって持ち続ける事に致しましょう。その御恵みを乞い求めましょう。
私たちはこの秘蹟に対して、教会が過去から2000年間、脈々と続け、伝え続けてくれたこの信仰と愛に、いつも結ばれていなければなりません。一・聖・公・使徒継承のこの信仰を保ち続けなければなりません。
時代を超えて場所を超えて、「すべてのキリスト信者が、この『一致のしるし』である、この『愛の絆』である、この和合のしるしである御聖体に結ばれて一つの心となり、一つの信仰となり、私たちの救い主イエズス・キリストに対する大きな愛を、私たちの心に刻みつけるように。」これは、トリエント公会議が願って、お願いしている愛の訴えです。
ベネディクト十六世教皇様も、全世界の司教たちにこう書いています。「過去の人々にとって神聖だったものは、私たちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられる事も、さらには有害なものと考えられる事もありえません。私たちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場所を与えなければなりません。」(2007年7月7日)
これは特に、聖伝のミサについて、聖伝のやり方による御聖体拝領について、教皇様は語っています。
ですから今日、愛する兄弟の皆さん、カトリック教会の聖なる願いと、そしてその使徒継承の聖伝と、そしてその習慣に従って、御ミサの後に御聖体降福式を行ないます。
そしてもしもできるならば将来は、天主様の御恵みで、日本でも、この私たちの愛する祖国でも、御聖体行列を行ないたいと願っています。イエズス様が私たちの街を、私たちの道を御歩きになって、王として私たちを祝福して下さいますように、私たちを守って下さいますように、御聖体行列をしたいと、いつの日か願っています。
今日は、私たちはいつもの信心を倍にして、数倍にして、数百倍にして、御聖体の内に真にましまし給う、私たちの主イエズス・キリストを礼拝致しましょう。主の御恵みを頂いて、そしてその御恵みに助けられて、御聖体を信じない人々、愛の秘跡を軽蔑するような人々、御聖体を粗末に・冒涜的に取り扱う人々に代わって、イエズス・キリストに私たちの愛と信仰をいや増して下さいますように、お願い致しましょう。
天主様は私たちを愛して下さり、私たちのこんなにも近くに、私たちと共におられるのですから。
これが本当の真の宗教です。唯一の天主の立てた本当の宗教です。この真の宗教では、真の天主が私たちの近くに、私たちの方へと身をかがめて下さり、愛を込めてこんなにも小さくなって下さり、私たちの友として、私たちの慰め主として、私たちの医者として、私たちの糧として、御自分を全く与え尽して下さっています。
だからと言って、天主様は天主様です。私たちはこの愛の天主を信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。特に、現代、私たちの主の御聖体はあまりにも冷淡に、軽蔑をもって取り扱われてるいからです。さらに深い礼拝と愛を捧げなければならないからです。
愛する兄弟の皆さん、この日本に、御聖体を愛し、御聖体への愛に満ちた、多くの聖なる司祭たちが私たちに与えられますように、お祈りましょう。第二のアルスの聖司祭、第二のジュリアン中浦、第二の聖アルフォンソ・デ・リグオリ等々、多くの、御聖体に燃える聖なる司祭たちが与えられますように。
最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の「我になれかし」“フィアット”というそのお言葉があったからこそ、今、私たちは御聖体を頂く事ができています。
聖母に、私たちもマリア様のような、イエズス様への愛と信仰とを取り次いで下さいますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。