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新しいミサの50年(2) ローマ・ミサ典書の発展

2020年06月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

新しいミサの50年(2) ローマ・ミサ典書の発展を御紹介いたします。


新しいミサの50年(2) ローマ・ミサ典書の発展

2019年12月13日 FSSPX.NEWSサイト
半世紀前、教皇パウロ六世は、ミサの改革を命じましたが、これを「第二バチカン公会議のミサ」と呼ぶことができるでしょう。このミサは直ちに二人の枢機卿によって批判され、このミサへの反対意見は弱まることはありません。この悲しい記念日は、このミサの歴史を振り返る良き機会です。

パウロ六世の典礼改革と新しいミサを考察する前に、ローマ・ミサ典書の歴史を通して見てみることが適切です。なぜなら、この改革が、過去の発展と同質の発展であると主張されているからです。これには大いに議論の余地があります。歴史の距離をとって見れば、それを簡単に理解することができます。

ローマ・ミサ典書の発展の歴史の概観の第一部は、11世紀へとさかのぼります。新たな決定的段階が、トリエント公会議と聖ピオ五世教皇によって実現されました。これについて、この第二部で紹介します。

12世紀から16世紀まで

ローマ教皇庁のミサ典書は、11世紀には確立していました。12世紀から「改革」の精神が導入されましたが、それは典文の急増を抑制し、とりわけ聖務日課における特定の慣習を制限しようとするものでした。この運動は、在俗会でも、カルトゥジオ会、シトー会、プレモントレ会といった修道会にも見られました。シトー会の典礼改革は最も特筆すべきものでした。各修道会の目的は統一でした。この運動の結果、ローマ世界全体にわたる典礼の調和が進みました。

13世紀においては、ローマ自体にいまだ複数の形式のローマ・ミサ典書が存在していました。ラテラノ大聖堂版、リベリウス・バシリカ版、聖マリア大聖堂版、その他です。ただそれらの違いは非常に小さなものだったということを強調しなければなりません。しかし、最終的には、教皇庁のミサ典書が勝ち残ったミサ典書となりました。そして1230年ごろには、ローマ・ミサ典書はもう修正されることのない段階にまで到達することになるのです。

ピエール・アベラール(1079-1142)の誤謬の排斥を含む全実体変化に関する議論、および聖体礼拝の拡大によって、ホスチアの奉挙―これは最初に13世紀初頭のパリで―、その後カリスの奉挙が行われるようになりました。これらの奉挙は、13世紀の終わりには広く行われるようになりました。聖トマス・アクィナスがご聖体の聖務日課とミサを作ったのは、このころでした。

インノチェンチオ三世(1198-1216年)は、すべての役務者の動作や動きを解説した儀式式次第を含む、通常の教皇ミサのOrdo Missae[ミサ通常文]を発行しました。この時以来、教皇礼拝堂が模範と参照元になりました。そして、この広く配布された教皇庁の典礼書が標準となりました。

最初の印刷されたローマ・ミサ典書の日付は1474年12月6日です。これはミラノで制作されました。それは1277年にニコラオ三世の下で出版されたミサ典書とほとんど同一のものでした。この印刷術が新たな安定的要素となったため、教皇庁のミサ典書が広まり、更に広く普及するようになったのです。

しかしながら、無知のためにある種の典礼上の乱用が起こり、また更にプロテスタントの宗教改革の影響を受けて自由考察の精神が、いまだ忠実であった聖職者たちによってさえ導入されたため、規律の明確化が必要となりました。これが、トリエント公会議(1545-1563年)の役割となったのです。

この公会議は、自らプロテスタントの異端と闘うことを目的と定め、数多くの教義上の教令を公布しましたが、また、重要な規律上の教令も発布しました。

ミサの聖なるいけにえ」に関する第22総会期間中の1562年9月17日の教義上の教令と、それに関わる第25総会の禁書目録、並びにカテキズム、聖務日課書、ミサ典書に関する教令(1563年12月4日)が、トリエント公会議による典礼の法典化の端緒です。

トリエント公会議は典礼書の改訂を準備していましたが、必要な文書がその場になかったため、その仕事を終えることができませんでした。この理由のため、公会議は教皇にこの任務を託したのでした。この会議の荘厳さ、聖体とミサの聖なるいけにえに関する重要な諸教義の再確認は、この改訂に対して特別な輝きを与えることになりました。

この任務は、「新しいミサ典書」をつくることではありませんでした。回勅「メディアトール・デイ」(1947年)においてピオ十二世によって批判された「典礼問題における骨董趣味」によって、すでに消え去ってしまった古代の形式を復活させるという口実の下にパウロ六世のミサ典書の作者たちがしたような「新しいミサ典書」をつくることとは異なります。

聖ピオ五世の任務は、種々の原典を比較して、ローマ・ミサ典書のできうる限り最良の版を確立させることによって、聖伝に立ち戻ることにありました。聖ピオ五世は、いくつかの随意ミサを廃止し、祝日を優先させんがために脇に置かれる傾向のあった主日の典礼を復興させることで自らを納得させました。ところで、この主日の典礼の復興は、後に聖ピオ十世の改革によって再開されることになります。

このドミニコ会士の教皇[聖ピオ五世]は、200年以上、固有の典礼が存在していることを証明できないすべての教会では、彼の出版したミサ典書を使用するよう命じました。ほとんどの司教や司教座聖堂参事会は、彼ら自身のテキストや地方の典礼上の慣習が十分に古いものであることを立証でるにもかかわらず、トリエント・ミサ典書を受け入れました。「聖ピオ五世」のミサ典書はこうして一般的に使用されることになったのです。それでも、将来の混乱の源となる多くの特別な典礼様式が残っていました。このミサ典書は1570年に出版されました。

またこの改訂には、ミサの間に行われるべきすべての儀式を記した詳細なルブリカ(典礼法規)が含まれていました。この典礼の明確化の責務は典礼省に託され、同省はミサ典書の守護者となり、4世紀の間、価値ある回答や数多くの説明を与えました。トリエント・ミサ典書に最も偉大な貢献を残したこのルブリカの法典化は、ラテン典礼全体のローマ化に貢献することになったのです。

最後に、教皇庁での実践の例に基づき、なされるべき典礼上の動作を説明したテキスト書の普及が、ラテン典礼世界全般にローマの精神を広げることとなりました。

トリエント公会議の任務は、1568年から1614年の間にすべての典礼書の改訂を公布することをもって完了しました。そのすべてローマ典礼による典礼書には、聖務日課書、ミサ典書、殉教録、司教用定式書、司教用儀礼書と典礼書があり、あらゆる形式の下での典礼上の規則を簡単に見つけることができるようになったのです。

(Source : FSSPX.Actualités - 07/12/2019)











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