Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2020年6月21日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for June 21, 2020

2020年06月21日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年6月19日(金)20日(土)21日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 6月19日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月20日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 6月21日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月22日(月)  06:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

6月21日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 21, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live

11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses. For your information, Sunday mass attendances were as follows:

May 03
09:00 - 27
11:00 - 21
12:30 - 13

May 10
09:00 - 22
11:00 - 25
12:30 - 15

May 17
09:00 - 19
11:00 - 22
12:30 - 18

May 24
09:00 - 22
11:00 - 21
12:30 - 18

May 31
09:00 - 26
11:00 - 15
12:30 - 25

June 7
09:00 - 22
11:00 - 21
12:30 - 33

June 14
09:00 - 39
11:00 - 24
12:30 - 22

Mass location:
Iriya Hall 3F
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Fri, June 19: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, June 20: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, June 21: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, June 22: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.










"司祭の心は救い主の心。司祭は霊魂に永遠に司祭の刻印が刻まれている。洗礼を受けた者皆が司祭ではありません!" 説教 Sermon for 3rd Sunday after Pentecost 2020

2020年06月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、今日2020年6月21日、私たち公教会はイエズスの至聖なる聖心の荘厳祭を祝っています。

イエズスの聖心、それは新約の大司祭の心です。何故なら、イエズス・キリストは司祭でありいけにえだからです。

全ての聖寵、秘蹟の恵みは、カルワリオの犠牲(いけにえ)、イエズス・キリストの至聖なる愛の聖心に由来します。

「主の聖心の想いは、代々に:私たちの霊魂を永遠の死から奪い取り天国に導き、霊的飢えにおいて私たちをご自分の御体で養うために。」

イエズスの聖心の神秘を黙想しましょう。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭の説教」の動画をご紹介いたします。

6月聖心の聖月を、今日のこの日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


【聖体の黙想】聖体はすべての祝福の源である

2020年06月20日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体礼拝の理由

聖体はすべての祝福の源である

 礼拝 賢王サロモンは『すべてよきものは知恵とともにわれに来たれり』といったが、聖体についてもそれと同じことがいえる。聖体と知恵とは別ではない。すべての祝福、すなわち天主の慈悲深い存在、ご託身、救世のみわざ、教会、諸秘蹟、あらゆる賜物、あらゆる恩恵、この一切が聖体によって、聖体のおかげで、また聖体を通じてこの世に与えられる。

天主が地上にとどまってこれを祝福され、私たちの仲間として歩み、私たちを最愛の子として保護してくださるのは、聖体の中においてではないだろうか。人とおなりになった御言葉、救い主イエズス・キリストが、世々に聖徳の模範を示し、優しい聖心をあらわして、その御生涯を地上に続けられるのは、聖体によってではないだろうか。カルワリオの贖罪が全世界のために継続され、尊い生贄(いけにえ)の御血が毎日新たに注がれるのは、聖体の祭りによってではないだろうか。だから、もし聖体がないなら、地上に天主がおいでにならず、私たちと一緒に救い主、贖い主がいらっしゃらないことになるのである。

また聖体は、あらゆる秘蹟の源泉である。各秘蹟が伝えるところの恩恵の生きた水は、その源を全部キリストの犠牲に発するからである。
教会が常に保たれるのも、また聖体による。聖体は教会の子らをイエズスにおいて一体として、 教会に『一』なる特性を与え、 使徒伝来の熱烈な救霊心を聖職者にわかち、 教会を『公』すなわち世界的にさせる。また、私たちを天国における諸聖人と一致させ、したがって彼らの取り次ぎによって利益を得させてくださるのも聖体である。実に聖母に対しての私たちの理解を深め愛を増すのも聖体によることが多い。なぜなら、このおおいの下に隠れていらっしゃるのは聖母の最愛の御子であられるからである。そして秘蹟の中での主の沈黙、主の御祈り、主のご謙遜、これらはみな、聖母が私たちのために利用なさることができる貴重な宝であって、聖母はどんな恵みでもすべて聖体を通じて私たちのために得させてくださる。ああ、いとも礼拝すべき至聖なる秘蹟よ、御身において私たちが万事をもっていること、すべてのものがみな御身を通じて与えられることを、私たちは信じ、また、告白する。

感謝 聖体に対する感謝の義務を十分に悟るために、私たちは自分の毎日の生活をよく省み、聖体が私たち各自にとって、どんなに多くの祝福の源であるかを調べる必要がある。
実際、個人的に私たちに与えられる祝福は、全教会がこれによって立っている大きな祝福と同様に、すべて聖体から出ているのである。
洗礼を受けたのも、天父の食卓に連らなって不朽のパンを食するため、すなわち聖体を拝領するためではなかったか。

両親や先生がたが深い愛と熱心とをもって私たちを教育してくださったのも、私たちを初聖体の日にふさわしく準備させるためではなかったか。
人目を恥じず、また多くの困難をおかして罪を告白し、その御赦しを受けたのも、生命の秘蹟に与るためではなかったか。
私たちをして信者らしく生活させ、悪に逆らい、試練に堪えさせ、霊魂に平和と、良心の喜びをもたらし、最後まで忍耐し、善き終わりを迎え、天国への凱旋に対する希望を持たせてくださるのも、聖体の秘蹟のおかげである。
このようにして、私たちの全生涯は聖体によって養われ、支えられ、霊化される。もし私たちが聖体拝領を中止するなら、これらの大きな御恵みはすぐに失われてしまうだろう。
ああ、慈悲深く、恵み豊かな聖体よ、私たちはどうすれば御身にふさわしく感謝することができようか。私たちにできることは、ますます熱心に御身に依頼することだけである。

償い 聖体はこのように天主の恩恵の頂点、その愛の源泉、救霊のために与えられる万善の根本であるにもかかわらず、キリスト信者がこれを無視し、軽蔑して、これを利用することの少ないのは、いかなる理由によるのであろうか。そのうえ聖体が尊重されず、祈願されず礼拝されないのは、なぜだろうか。私たちが天主の広大無辺の御慈悲から受ける一切の御恵みを、心からの感謝をもって聖体に帰しないのは、ほんとうになぜであろうか。豊かに与える者は豊かに感謝されるはずではないか。少しの利己心もなく、ただ他人のために尽くす者は、尊敬と名誉とを受けるはずではないか。では、すべての賜物を含んでいるこの秘蹟が、人々に心から愛されないで、また、ほんとうに尊敬されないのは、いったいなぜであろうか。

聖体における救い主の聖心をいたく傷つける忘恩無礼は、すなわちこれである。
これを嘆き、これを悲しもう。今、主のみ前から退くにあたって、聖体に対して負っている信心の義務と、私たちが実行している信心の実際との間にある大きな隔たりについて、正しく知らねばならない。

祈願 私たちや私たちの家族、いな、全世界に与えられている救霊の御恵みが、すべて聖体の中にあって、また、聖体によって分けられることをよく理解できる御恵みを願い求めよう。実に私たちの唯一の希望は、信仰と祈りと礼拝と拝領とによって聖体と一致することでなければならない。聖体がまことにイエズスご自身である以上、どうして他に望みがありえようか。
謙遜に聖体に祈り、信心をもって聖体をお受けし、最上の尊敬を聖体に捧げよう。全幅の信頼をもってこれに対し、すべての仕事をこれに捧げ、あらゆる必要に際し、この聖名によって祈ろう。聖体こそ、信頼をもって祈りさえすれば、一切のものが与えられる天主の御約束のしるしである。それゆえ『その御ひとり子を拒みたまわず、かえってわれらのためにこれをわたしたまいたれば、いかんぞ彼とともに万事を与えたまわざらんや』との御言葉は、聖体に関して最も真実であるといわなければならない。

実行 できるだけたびたび聖体のみ前に跪いて、その覆(おお)いの彼方に隠れておいでになる救い主に祈ろう。





O Cor Jesu fons amoris おお、イエズスの聖心よ、愛の泉よ、 愛徳のいけにえよ

2020年06月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

イエズスの聖心に対する聖歌を御紹介いたします。



O cor Jesu, fons amoris,
caritatis victima,
vocibus te iam sonoris
laudent cordis intima.

Tu perenni gratiarum
rore mentes irrigas,
crucis lignum tu amarum
haustu dulci mitigas.
Amen.

【日本語訳】

おお、イエズスの聖心よ、愛の泉よ、
愛徳のいけにえよ、
御身を心の響きの声で親密に人々が讃美せんことを。

御身は、聖寵のとこしえの露で心を灌漑し給う、
御身は、十字架の苦い木を、甘い飲み物に和らげ給う。
アメン

くしきえびかずら】 (公教聖歌 #284)
奇しき葡萄樹(えびかずら) 我らの主イエズス
つきせぬ生命(いのち)を たもう嬉しさ
つきせぬ生命(いのち)を たもう嬉しさ

とこしえの望み あたえられし身
世のもの忘れて あめのみ慕う
世のもの忘れて あめのみ慕う

幹につらなれる えだなるわれら
よき實(み)を結びて 君に献げなん
よき實(み)を結びて 君に献げなん

みきを離れては 枯れ果つべき身
すがり奉らまし 天(あめ)にゆくまで
すがり奉らまし 天(あめ)にゆくまで

【カトリック聖歌:くしきぶどうの木】

奇しき葡萄の木よ わが主イエズス
つきせぬ命を たもう嬉しさ
つきせぬ命を たもう嬉しさ

とこしえの望み 与えられし身
世のものわすれて 天のみ慕(しと)う
世のものわすれて 天のみ慕(しと)う

幹につらなれる えだなるわれら
よき実を結びて 君にささげん
よき実を結びて 君にささげん

幹をはなれては 枯れ果つべき身
すがり奉らまし 天にゆくまで
すがり奉らまし 天にゆくまで





【聖体の黙想】聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心のお望みに適うものである

2020年06月19日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の顕示に関する黙想

聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心のお望みに適うものである

 礼拝 天主なる主が、その御稜威を愛をもっておおい座したもう玉座のみ前に跪(ひざまず)き、かつて聖女マルガリタ・マリアが主を仰ぎのぞみながら、聖心の啓示をお受けしたときに感じた同じ感情をもって主を礼拝しよう。彼女は語る。

『ある日、聖体が顕示されていたときに、主は突然私に聖心をお示しになった。聖心は主の御胸よりほとばしりいずるほのおに包まれたかまどのようで、御手足の傷は太陽のように輝いていた。そして主の御からだは烈火の中に立ちたもうようであった』と。

この時、救い主イエズスは、聖女にその神聖な人性を示すためホスチアのおおいを除き、普段その中にひそみ隠れておいでになる暗黒を照らされたのである。これによってもわかるように、主の聖心はホスチアの中にいつも鼓動し、私たちを迎えてくださるのである。

ああ たとい秘跡の陰に隠れておいでになっても、ここにおいでになる御者は、天主にして人なるイエズス・キリストでいらっしゃることを固く信仰し、全身全霊をあげて主を礼拝しよう。

救い主は聖女に仰せになった。『わが心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証するためには、いさぎよく万事を犠牲にした。それなのに、私はこの愛の秘跡に対して、忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである。それゆえ、せめてなんじだけでも、なんじの力に応じて少しでも私を慰め、私の心に報いてほしい』と。

聖体の礼拝、聖体の賛美は、このようにして主がお求めになった報恩である。

ああ、主よ、私たちは主に愛と尊敬とを捧げ、盛大な聖体降福式によって主を賛美し、主のために忠実な礼拝者の群を集めたいと願うのである。私たちは常に主のみ前に座して、あるいは観想の沈黙、あるいは賛美歌の合唱、そのほかあらゆる信心の務めを尽くしたい。そこには、信仰、愛、賛美、服従などの礼拝、痛悔、同情、犠牲、献身などの償い、また、信頼、奮発、祈禱などの祈願のすべてがあるからである。主の礼拝者なる私たちは、このようにして、一切を主に捧げ、完全に主と一致し奉るよう努力するのである。

感謝 聖体の愛と祝福とを理解する人は、聖体降福式の盛儀に参加し、礼拝者の群に入ることをこのうえない慰めとするはずである。なぜなら、彼らはこれによって、救い主に負債を支払い、感謝の義務を少しでも減らすことができるからである。

聖体降福式にあずかるときには、私たちは普通よりもさらにいっそう熱心と誠意とをもって主を礼拝しなければならない。それはこの聖体が、このためにこそ制定されたものであって、また、こうしてはじめて聖心のお望みに適うからである。

主は私たちに対する愛を証するために何ものをも惜しまず、すべてを犠牲にされた。それにもかかわらず私たちはなぜ主に対する感謝の務めに不熱心なのであろうか。私たちは最少限度の必要を満たすだけでなく、すすんでそれ以上の奉仕をなし、すべてを捧げ、すべてを捨てる幸福を経験したくないのであろうか。愛するもののためには何ものをも与え、何ものをも惜しまぬところにこそ幸いがある。主はご生涯を通じ、特に十字架上においてご自身を無とし、また聖体の中においては、私たちの救霊のために日ごと御自らを天父にお捧げになる。この限りのない愛に対する感謝として、私たちもまた献身、犠牲を実行し、永遠の幸福にあずかろうではないか。

償い 聖心に対する償いの意味をよく理解し、熱心をもって奮発するため、私たちは引きつづいてパレ・ル・モニアルの啓示を黙想しなければならない。主は『それなのに私はこの秘跡に対し、多数の人より忘恩、冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆を受けるだけである』と仰せられた。

『それなのに』とは、いかに非痛なみ声であろうか。主の絶大な愛に報いるのに、私たちは十分な愛と信頼とをもってしない。主と私たち、主の聖心と私たちの心、私たちのために一切を惜しまなかった主と、主のために努力し苦しむことを恐れる私たちとの間には、いかに悲しむべき相違があることであろう。

主は『多数の人から』と仰せになった。すべての人ではないが、大多数の人、すなわち、少数の例外を除いた人類が、主の愛に忘恩をもって報いている。

『冷淡、軽蔑、不敬、冒瀆』とは、主が御自ら私たちの不義と罪悪とを指摘された御言葉である。これらはみな愛と感謝との欠乏から起こる。

『冷淡』とは、何ものをも感動させることができない私たちの利己主義的な頑なさである。

『軽蔑と不敬』とは、私たちの不熱心な投げやりのことである。卑近な例をとるなら、母なる聖会が、私たちに聖体の前に跪き、ランプをともし、ろうそくをつけ、祭壇をおおうのに麻布を使うことを命じているのに、跪く礼はおろそかにされ、ランプはたびたび消えたままで、祭壇の布は染みだらけとなり、聖櫃の上には塵がたまりがちなのである。種々の祭式のためには金銭が出し惜しまれる。『この浪費は何のためぞ』とつぶやく声が聞こえてくる。主よ、主は私たちの間で最も卑しい人のように取り扱われになられている。

最後に、主は『冒瀆』を嘆かれる。主を拝領しても心の奥で主を汚す者、悪魔の手先となって主の祭壇を略奪する者、彼らこそ最も憎むべき冒瀆者である。

主はこのように嘆かれたあと『すべてこれらのことは、受難の時に感じたどんな苦しみよりも大いなる苦しみである』と仰せになった。

このような御言葉を耳にしても、なお私たちはまだ主を敬うことを怠り、聖体降福式に対して精神的、物質的に不忠実であることができるだろうか。

祈願  『それゆえ、せめてなんじの力に応ずる多少の報恩をもって、私を慰めてくれねばならぬ』
この御言葉の中に、しなければならない決心、求めなければならない恩恵が示されている。すなわち、私たちの熱心、誠意、賛美こそは、最上の主なるイエズスのご光栄であるばかりでなく、実にその御慰め、御喜びとなるのである。
この確信をもって主を礼拝し、たびたび聖体を拝領し、聖堂を飾るための労力と費用とを惜しまず、また聖体降福式の普及のために全力を尽くそう。これによって、私たちは功徳を積み、聖心をお慰めし、『聖体中において人々にあがめられん』ことをお望みになる主の御渇きを癒すことができるのである。

実行 聖体降福式のため祭壇を飾るのになにも惜しまないようにしよう。






人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)

2020年06月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。

人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)

 いと甘美なるイエズスよ、主(しゅ)が人々に示し給いし御慈(おんいつく)しみはかえつてかれらの忘却(ぼうきゃく)と冷淡とけいべつとによりて報いらるるなり。さればわれらは、主の祭壇の御前(みまえ)にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心(みこころ)が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩(ぼうおん)ぼうとくを償(つぐの)わんがために特に礼拝し奉(たてまつ)る。

▲されどわれらもまた、かつて主に背(そむ)き奉りたるものなるを思い出し、深く悲しみて御(おん)あわれみを願い奉る。われらはおのが罪を償(つぐの)うのみならず、さらに進んで、救霊(きゅうれい)の途(みち)を遠ざかり、主の御招き(おんまねき)に応ぜずして不信仰を改めざる者、洗礼の約束を破りて、主の御戒(おんいまし)めの快きくびきを振り棄てたる人々の罪をも償わんと望み奉る。すなわちわれらは、世の腐敗せる風俗、むくなる青少年の霊魂を堕落のふちに導く誘惑、聖日(せいじつ)の無視、主ならびに主の諸聖人に向けらるる不敬の言葉、主の代理者たる教皇を始め、すべての司祭職に対してなさるる侮辱、至聖(しせい)なる愛の秘蹟(ひせき)に対する無関心と恐るべきとくせい、主のさだめ給いし、公教会の権利と権威とにさからう、社会の公然の不義の如き、悲しむべき種々の罪を、あまねく償い奉らんと欲す。ああかくの如き罪をば、われらの血潮(ちしお)もてことごとく洗い浄(きよ)めんとすべもがな。われら今ここに、主のいと高き御霊威(ごれいい)に対する冒辱(ぼうじょく)の償いとして、主がかつて十字架の上にて御父(おんちち)に献(ささ)げ給い、なお日ごと祭壇の上にて繰り返し給う償いに、童貞なる聖母、諸聖人、およびすべての信心深き信者の償いを合わせて献げ奉り、堅固(けんご)なる信仰、汚れなき生活、福音の戒め、ことに愛徳(あいとく)の完全なる実行をもつて、主の聖寵(せいちょう)の助けのもとに、われらおよび全人類の罪と、主の大いなる御慈しみ(おんいつくしみ)に対する冷淡とを、わが力の及ばん限り償い、全力を尽して、主に対する罪人(つみびと)の冒辱(ぼうじょく)を防ぎ、かつ能(あた)う限り多くの人々を、主の御許(おんもと)に呼び集めんと心より約束し奉る。いと慈悲深きイエズスよ、願わくは、至聖(しせい)童貞なる協償者(きょうしょうしゃ)マリアの御取次(おんとりつぎ)によりて、われらが進みて献げ奉る償いの約束を受け給いて、われらをして死にいたるまで忠実に主に仕え、天のふるさとにいたる日まで、この決心を固く保たしめ給え。聖父(ちち)と聖霊と共に世々に生きかつしろしめし給う主なるかな。アーメン。





教会の聖伝と精神によれば、「口による聖体拝領」が私たちの守るべき掟、法律です。「手による聖体拝領」は禁止されているが基本。特例によって、手による聖体拝領は「特別に許可」されているだけ。

2020年06月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年6月14日、御聖体の荘厳祭に東京で録画した小野田神父のメッセージの書き起こしをご紹介いたします。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日、日本では、御聖体の荘厳祭を祝いました。何と嬉しい事でしょうか。

私たちは御聖体を尊敬して、崇敬して、礼拝して、お愛し申し上げて、そして讃美を歌って、・・。
そしてイエズス様の聖心を慰める事ができたその日。とても嬉しい事です。

ところで今日は、「手による御聖体拝領」について、少しお話したいと思います。

2つのポイントがあります。

カトリック教会の長い、使徒からの歴史は、御聖体は口によって聖体拝領することです。歴史の、私たちの記憶に残っている限りは、少なくとも1500年間、日本が大化の改新等をする、どうのこうの、というよりも以前から、教会は口で聖体拝領をするようにしています。

一度、アレキサンドロのチリロ(376年 – 444年)という聖人の書いた文によれば、一度、手による聖体拝領が一部の地域で導入された事があったようです。しかしすぐに教会は、それによる乱用、それによる危険、特に「御聖体が冒瀆される危険がある」という事に気が付き、ストップしました。「これはいけない!ダメだ!」
そして教会は常に、御聖体を最も大切にするような行動を取ってきました。

ところが、第二バチカン公会議の後に新しいミサができて、特にドイツ・オランダ・ベルギー・フランスの一部で、今までの禁止にもかかわらず、今までの法律にもかかわらず、今までのルールにも反対して、反して、全く不従順から、革命的に、やりたい放題、手による聖体拝領を始めてしまいました。これは革命によって、不従順によって、乱用によって、生まれたものです。

その時に、この手による聖体拝領があまりにも広がってしまったので、教皇様は、その時の列聖聖省の長官であったバッフィレ枢機卿(Cardinal Bafile)に相談しました、「どうしたら良いだろう?」

すると枢機卿様はすぐに答えました、「教皇様、教皇聖下、やめて下さい、手による聖体拝領は今すぐ禁止です。なぜかというと、御聖体というのは、どんなに小さなかけらであっても、イエズス様が全体、全てが含まれています。手による御聖体拝領によって、そのイエズス様が色んな所に散らかってしまって、あるいは冒瀆を受ける、あるいは蔑ろにされる、あるいは無視される、侮辱される危険があります。すぐに、今すぐ、即刻中止、禁止させて下さい。」

パウロ六世はその通り、『メモリアーレ・ドミニ』Memoriale Domini という指針を発表しました。

それによると、「口による聖体拝領の仕方がどれほど立派なもので、どれほど聖なるもので、どれほど使徒の時代から私たちが受けたもので、私たちはこれを守らなければならないか、どれほど素晴らしい方法か。これは私たちの法であって、私たちが守るべき義務であって、これを尊敬して、これを敬って、そのまま続けなさい。全世界においてこれを続けなさい」と言いました。

しかし、誰が、一体誰が付けたのか私たちは知りませんけれども、その最後に、誰かが書いたかのように、分かりませんけれども、「しかし、既に手による聖体拝領が行なわれてしまっているところは、そのような乱用を、そのような反乱を、そのような不従順を、私たちは禁止せずにおく事ができる。だから特別の許可によって、特別の黙認によって目をつぶるから、彼らはそのまま続けていい。」

「口による聖体拝領」は、「私たちの守るべき掟」です。「法律」です。「手による聖体拝領」は、「禁止」。これが基本です。しかし特別に、そのような既にある所には、例外的に目をつぶって黙認されているだけでした。

しかし、今ではそれが法律になっています。これはカトリック教会の精神でも、カトリック教会の心でも、教皇様の望みでも全くありません。

教会は常に、御聖体が大切に、尊敬を受ける事を望まれています。私たちはそれを続けるべきです。誰も教会の破壊に手を貸さないで下さい。

イエズス様がこんなに侮辱されているのに、「私は知らない」等と言わないで下さい。私たちは2歳や3歳の子供ではありません。頭を使って、私たちの常識を使って、私たちの良識を使って、私たちは手による聖体拝領を拒否しなければなりません。良心の問題です。信仰の問題です。カトリック信仰の問題です。御聖体拝領は、「教会の掟」に従って、跪いて、口で拝領して下さい。


⑵ 第2に、更に全く想像を超えている事は、コロナです。新型コロナ。これで私たちはますます、口による聖体拝領をしなければならない時が来ました。今こそそれに戻らなければなりません。

なぜかというと、お医者さんは全て言っています、「体の中で一番不衛生的な部分は、手である」と。

考えてもみて下さい。私たちは家から教会まで歩いて行く時に、あるいは車で運転して、電車に乗って行く時に、マスクをして、そして一番手が色々なところを触る部分です。エレベーターのボタンを押したり、車のハンドルを持ったり、ドアを開けたり、その他椅子に座ったり、体に触ったり、財布に触ったり、色んな部分に触ります。例え何度も何度も手がふやけるほど洗っても、その後で触れます。1回触ったらもうそれで終わりです。

ところが、口は全く守られています。口による御聖体拝領の時に、司祭は御聖体のほんの先っちょを少しだけつまんで、そして口に直接与えるので、非常に衛生的なのです。

ところが今、この一番汚い部分を使って、「さぁ、手による聖体拝領をしなければならない」と言っています。これは全く医学的にも衛生学的にも、学問に反しています。

つい最近、ヨーロッパのカトリック医学、医者の連盟(FIAMC: Fédération Internationale des Associations Médicales Catholiques)のその会長、イタリア人、これはフランスで作られたものですけれども、会長はイタリア人です。フィリッポ・マリア・ボシア (Filippo Maria Boscia)という方は、つい最近インタビューに答えてこう言っています、「私たちは、この手が一番不衛生な部分なので、手による聖体拝領はやめるべきだ」と。「手による聖体拝領はやめるべきだ。手による聖体拝領は、口よりももっと危険だ。」【注*】

ですから、愛する兄弟の皆さん、どうぞ御聖体拝領は口でなさって下さい。非常に危険です。手を使わないで下さい。ご自分の為にも、そしてイエズス様が瀆聖を受けない為にも、ぜひ、是非お願い致します。これは私たちの良心の問題です。

私たちはよく聞きます、「第二バチカン公会議では、私たちの良心を尊重しなければならない。他の人の言う事に耳を澄ませなければならない。今までは権威を以て、権威主義者でやってきた、聖職者主義だったけれども、これからは人々の心を聞いて…」

言って下さい、「神父様、司教様、私たちは、口による聖体拝領を望みます。私たちは、イエズス様を愛したいのです。礼拝したいのです。イエズス様を愛させて下さい。イエズス様を礼拝させて下さい」と仰って下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【注*】
"Communion on the tongue is safer than hand Communion. The hands, as I said, touch everything. Hand Communion is therefore definitely more contagious."

"Seriously, after the Spanish flu, we continued to practice oral Communion, and it was all the same as before. ... As a doctor, I am convinced that hand Communion is less hygienic and therefore less safe than oral Communion."
------ Prof. Filippo Maria Boscia, President of the Association of Catholic Doctors

 

 

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新しいミサの50年(1) ローマ・ミサ典書はいかにしてできたか

2020年06月18日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「新しいミサの50年(1) ローマ・ミサ典書はいかにしてできたか」をFSSPX.NEWSサイト(2019年12月3日)からご紹介いたします。


半世紀前、教皇パウロ六世は、終了したばかりの公会議の名によって、教会全体に典礼改革を命じました。こうして、第二バチカン公会議のミサが誕生しました。このミサは直ちに二人の枢機卿によって拒否され、それ以来、このミサへの反対意見は弱まることはありません。この悲しい記念日は、このミサの歴史を振り返る良き機会です。

パウロ六世の典礼改革と新しいミサを考察する前に、ローマ・ミサ典書の歴史をたどる必要があります。なぜなら、この改革は過去からの継続だと主張されているからです。歴史的に俯瞰をすることが、この主張の愚かさを理解する助けとなることでしょう。

ローマ・ミサ典書は何世紀にもわたって発展していました。ミサの聖なるいけにえを実行するために必要不可欠な諸要素は常に存在していたものの、漸次、その諸要素を内に秘めた様々な典礼が発達し、それらの典礼によって、必要不可欠な諸要素を理解し、またその深い意味をつかむことが可能となるのです。

最初の3世紀

新約聖書の本文は、聖木曜日の夕方に行われたご聖体の制定を記録しています。それは、キリストの尊き御血によって新約を成立させる過ぎ越しの食事、新しい過ぎ越しです。この新しい過ぎ越しを更新するために選ばれた日は日曜日、ご復活の日です。 一世紀の終わり頃の「ディダケー」は、「主の日」について語っており、聖ユスティノが二世紀にそのことを証言しています。

福音書の本文もまた、この新しい礼拝の必要不可欠な要素、つまり「私の記念としてこれを行え」という主の命令の成就を意味する「パンを裂くこと」について言及しています。使徒行録はこの儀式が個人の家で行われていたことを示しています。「週のはじめの日、私たちはパンを裂くために集まった」(使徒行録20章7節)。

礼拝を目的とした最初の建物はかなり早期に、早くも2世紀には出現していました。最古の教会はユーフラテス河岸のドウラ・エウロポス(Doura-Europos)で見つかりましたが、これは232年ごろのものでした。ローマでは、キリスト教の宗教建築の記録が残る、3世紀初頭まで待たなければなりません。しかし、殉教者聖ユスティノ(165年死去)による第一弁明を別にすれば、この期間にはキリスト教の礼拝の展開や、使われていた祈りについての詳細は存在しません。

これが、この聖なる護教家聖ユスティノの有名な一節です。
「そして日曜日と呼ばれる日に[τῇ τοῦ ἡλίου λεγομένῃ ἡμέρᾳ ]、都市や田舎に住んでいるすべての人が一つの場所に集まり、時間が許す限り、使徒たちの回想録や預言者たちの書物が読み上げられます。そして、朗読がやむと、司式者は口頭でこれらの良いものに倣うよう教え、勧めます。それから私たちはみな一緒に立ち上がって祈り、前に言ったように、私たちの祈りが終わると、パンとぶどう酒と水が持ってこられ、司式者は同様に彼の能力に従って(ὅση δύναμις αὐτῷ)祈りと感謝を捧げ、会衆は同意してアーメンと言います。そして、各人への分配があって、感謝の気持ちが込められたその分配にあずかり、またその一部は助祭によって欠席している人のもとに運ばれます」。

4世紀から6世紀まで

4世紀には迫害の終わりを迎えます。今や認可されたキリスト教は、ついに礼拝のみを目的とした建物での公の礼拝を実施することができるようになるのです。これらの建物が最初のバジリカです。感謝の祭儀に関するこの時期の文書はかなりの数にのぼります。この文献によると、ローマで使用された最古にして唯一のアナフォラはローマ典文だったと思われます。ですから、その時からローマの感謝の典礼は統一されていたのです。

ミサは、朗読、詩篇、賛歌の歌唱、説教という、いけにえのための準備をもって始まり、これには求道者が出席していました。それに続いて、奉献誦、サンクトゥスの歌唱、典文、ホスチアの分割、聖体拝領という、信者のためだけの祭儀がありました。入祭誦は6世紀に追加されました。キリエ・エレイソンは、4世紀にギリシャ典礼から借用されました。同時に、グローリアは聖務日課―詩篇の朗読―からミサへと移動しました。6世紀以降、ローマでは書簡と福音という二つの朗読だけがあったことが示されています。

典文の前の序誦は、4世紀以前から存在する非常に古いものです。その後にサンクトゥスが続きます。ホスチアの分割の儀式は、アニュス・デイの歌唱の間、典文の終わりに行われました。それに続くパーテル・ノステルは、ギリシャの慣習に従って、大聖グレゴリオによって典文の締めくくりに加えられました。パーテル・ノステルの後のリベラ・ノスはすべての典礼に存在することが知られています。平和の接吻がホスチアの分割に続きました。聖体拝領は聖別されたパンとカリスで行われましたが、正確にどのように行われたかはわかりません。祝福の後、助祭がイテ・ミサ・エストを歌って、信者が退出しました。

6世紀から11世紀まで

590年から604年まで教皇を務めた大聖グレゴリオから、聖グレゴリオ七世(1073-1085年)にかけて、一つの進化が起こりました。それは、基本的にはフランク族の典礼から借用された要素の導入でした。ゴール地方はローマの信仰と同様にローマの典礼も受け入れていました。しかし、ローマ典礼がある程度フランク化されたことで、フランクの領土に固有の特定の伝統を含んだローマ・ミサ典書が採用されるようになりました。

主に、シャルルマーニュと彼の学者たちがこの交配現象をもたらしました。彼らはフランク王国にローマの慣習を導入しましたが、地元からの寄与も数多くありました。この頃、グレゴリオ聖歌が栄えました。

聖レオ九世(1049-1054年)によって行われ、ウルバノ二世(1088-1099年)によって完成されたグレゴリオ改革は、ゲルマン族出自の諸教皇の影響下で、ローマの諸要素を加えながらも、ローマ・フランク風の典礼書をローマ自体に導入することになりました。グレゴリオ改革によってもたらされた中央集権化は、かくして、より充実したローマ典礼を決定的に統合することになったのです。

トリエント典礼書の祖先である13世紀の典礼書は、この二重の交配現象に由来します。この二重の交配現象とは、ローマ・カロリング朝の時期におけるフランク的要素の導入と、グレゴリオ改革の時期におけるローマ・フランク典礼へのローマ的諸要素の追加です。

入手可能な種々の典礼写本の調査から明らかになることは、これらの儀式がトリエント典礼に全般的に非常に類似しているということです。しかしながら、場所によって異なる副次的な典礼はたくさんあります。それでも、典礼の統一については常に配慮されています。これは正統に配慮するという義務から来ているのですが、さらにまた、たちまち無秩序に陥ってしまう可能性をもった典礼の急増現象を避けるという望みからも来ているのです。

(Source : C. Barthe – FSSPX.Actualités - 30/11/2019) 

 


【聖体の黙想】聖体は母である

2020年06月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より THE ADORATION OF THE BLESSED SACRAMENT by Father Albert Tesnière
   
人である聖体 The Human Titles Of The Eucharist
   
聖体は母である IV. Jesus in the Sacrament is our Mother. 
   
礼拝 愛の秘跡の中においでになるイエズスよ、御身は私の父であり、父としての献身的な油断のない強い愛をもって私たちを愛される。そうして私たちは、主を『わが父』Abba, Pater! と呼び、御身を父としてあがめた。 I. Adoration. Jesus, present in the Sacrament of all love, Thou art my Father and Thou lovest me with the devoted, strong, watchful love of a Father! I have adored Thee and lovingly called Thee Father, Abba, Pater! 
しかし私たちは、しいてこれ以上のことを欲するのである。私の心は父に対してよりも、もっとやさしく御身をお愛しすることを望んでいる。聖体の秘跡の甘美さと、そこからほとばしり出る親愛とは、私たちをして母を愛するように御身を愛させ、母としての非常に細心な注意とやさしさとを聖心の中に認めさせる。 But I feel that I dare do more than even this. My heart longs to love Thee even more tender than a Father. The unchangeable sweetness of Thy Sacramental state, the touching familiarities springing from the gift which Thou makest of Thyself in the Communion, encourage me to love Thee as we love a mother, to see, to enjoy, to possess in Thy heart all the tenderness, all the little attentions of maternal love. 
実に御身は、多くのものの名の中で最も愛すべきこの名を専有することをお望みになったのではないだろうか。『すべての母に子を生む力を与えしわれに、子を生む力なしと思うか。いな、なんじら人の子よ、喜べ、母がその子を愛撫するごとく、われはなんじを慰めん』Numquid ego qui alios parere facio ipse non pariam, dicit Dominus ? Quomodo si cui mater blandiatur, ita et ego consolabor vos. (Isaias lxvi, 9-13.)と。また、私たちの忘恩に対して、次のように告げられたのも御身ではなかっただろうか。『たとえ世の母がおのが子を忘るることありとも、 われは決してなんじを忘れじ』と。 Besides, hast Thou not appropriated to Thyself this most amiable of all names? "Shall I not bring forth in My turn, I who give to mothers their fecundity? No, no, rejoice then all of you, children of men ; as one whom the mother caresseth, so will I comfort you: Numquid ego qui alios parere facio ipse non pariam, dicit Dominus ? Quomodo si cui mater blandiatur, ita et ego consolabor vos." (Isaias lxvi, 9-13.) Is it not Thou who dost address to our ingratitude this sublime challenge: " Even if it were possible for a mother to forget the fruit of her womb, I will never forget thee " ? 
そしてまた、惜しげもなく自分をして、雛を守るめんどりに比べられたのも、御身ではなかったのか。私たちは御身の翼の下に隠れて、荒鷲(あらわし)の攻撃と浮世のあらしとを免れることができるのである。 Is it not Thou who didst compare Thyself to the hen, that mother so vigilant, so devoted, so intrepid in regard to her chickens, and who dost spread Thy wings that we may hasten and find a shelter beneath them against the tempest and the vulture? 
最後に別離の晩餐に際して、使徒たちを単に『兄弟』あるいは、『子』と呼ばないで、『小さき子 filioli』と呼ばれたのも、御身ではなかったか。このやさしい呼び方『わが小さき子』とは、母の子に対する言葉でなくて何であろう。飽くほど十分に食事をして眠くなった子どものような聖ヨハネを御胸に寄りかからせて、使徒たちに聖体を与えられた主を、母でないと誰が言えよう。 Is it not Thou also who didst call Thy apostles, at the Last Supper, not only Thy brethren or Thy children, but "Thy little children, filioli" that name so sweet that it could have been invented only by a mother ? And what wert Thou then, after having given Thyself in communion to the Twelve with John resting on Thy breast, if Thou wert not the mother who nourishes her children with her substance, and who makes them afterwards repose, satisfied and content, upon her bosom ? 
母である。御身は母である。いとやさしくうるわしい救い主よ、御身の愛は柔和で献身的なやさしさに満ちている。柔和こそ、母性愛の特徴である。指導と、保護と、ときどきの懲らしめは、父の役目、やさしさ、慎ましさ、細心の注意、献身的な愛情は母に属する。小さい被造物の霊魂と肉身とを造り、その世話をするのは母の仕事である。 Oh, yes! Thou art a mother, most sweet and most kind Saviour, through the tenderness of Thy love for us. Tenderness in devotedness, is in fact the characteristic of maternal love; to the father belongs guidance, protection, opportune correction ; to the mother tenderness, gentleness, devotedness, the delicate cares associated with each moment; the formation and the handling of the little creature, so great both in its soul and body. 
子どもが胎内に宿っているときに、これに血を分け与え、子どもが生まれ出たその時から乳をもってこれを養い、夜の目も寝ない心づかいをするのは母である。母は子どものために、自分を捧げ、自分を忘れて彼のために生きる。だから子どもは、母の犠牲の結んだ果実だといえるのだろう。子どもはまた、父母の永続する困難のうちに成長し、鋭い苦痛のうちに集められ、さらに大いなる精神的な悩みのうちに熟し、かつ貯えられた尊い果実であるともいえるであろう。 It is she who gives to it life in her blood, she who nourishes it with her milk, she who assures to it, from its birth, her devoted care; she sacrifices herself, she immolates herself, she gives herself wholly up to her child, it is the fruit of her sufferings, the fruit which is developed amidst long sufferings, which is gathered amidst sharp pains, which ripens and is preserved amidst moral sufferings which are greater still. 
イエズスよ、御身は三十三年間のご生涯の間に、御身の聖心の生みの苦しみのうちに私たちを生まれた。このためには、御身の聖心が十字架上で開かれ、傷つけられる必要があったのである。そして、御身から与えられた生命を増やし、お養いになるために、御身の人性をも天主性をもすべて霊的乳なる白いホスチアに変化された。 Jesus! didst Thou not bear us in Thy heart with poignant anguish, during the thirty-three years of the desires, of the prayers of Thy mortal life ? Was it not necessary that Thy heart should be opened and wounded on the cross in order to give us birth amidst horrible torments ? And is it not of Thy substance, of Thy divinity, and of Thy humanity, annihilated and reduced into spiritual milk under the white appearances of the Sacrament, that Thou dost nourish, repair, and increase the life which we have received from Thee? 
たしかに主は私の母である。柔和と犠牲との権化である母というみ名のもとに、私たちは御身を礼拝し奉ろう。 Yes, Thou art a mother, and I adore Thee in the inexpressible charm of that name of tenderness and sacrifice! 
   
感謝 私の天主よ、私たちに対する母としての愛を主張するために、御身はかつてこのように仰せになった。『われに聞け、イスラエルの家に残された者よ、わが胎より生まれ出でし者よ、なんじ老年に至るともわれは変わらじ。なんじの頭髪は白くなるとも、われなおなんじを抱き、なんじを運び、なんじを救わん』qui portamini a meo utero, qui gestamini a mea vulva. Utque ad senectam ego ipse, et usque ad canos ego portabo; ego feci, et ego feram; ego portabo et salvabo と。 II. Thanksgiving. Claiming for Thy love towards us all the characteristics of maternal love, Thou hast said, oh my God, " Hearken unto Me, all the remnant of the house of Israel who are carried in My bowels, who are born up by My womb. Even to your old age I am the same, and to your grey hairs I will carry you: I have made you and will bear; I will carry and will save. Audite omne residuum domus Israel; qui portamini a meo utero, qui gestamini a mea vulva. Utque ad senectam ego ipse, et usque ad canos ego portabo; ego feci, et ego feram; ego portabo et salvabo" (Isaias xlvi. 3.) 
主が私たちを御胸の上に抱き、御ふところの中にかくまって、母が幼児を愛撫し、慰め、あやすように、私たちをお慈しみになるのは、ことに聖体の秘跡においてである。ああ、やさしきイエズスよ、御身は名誉も、権勢も、光輝も、名声も、すべて一切を捨てて顧みないで、沈黙と、柔和と、無限の忍耐とをもって聖体の秘跡に私たちを招き、小さい私たちのために、御身ご自身から小さい者とおなりになった。これによって、私たちは遠慮せず、いかなることも御身に語ることができるようになった。私たちが祈りの時にためらい、または口ごもり、または気を散らし、み前にいることを忘れたりして、ふさわしい尊敬をはらうことをしないでも、御身は決して怒りたまわず、かえってこれを忘れられる。愛するために子どもの我儘を許す母親のように、御身は何ごとをも見逃がしてくださり、一切を忍ばれるのである。母に対して子どもは、我儘なものである。しかしどんな子どもよりも、いっそう移り気で自分勝手な、そしてうるさい私たちに対し、主はいつも寛大である。主は私たちを愛して、愛のほかにはなにもお持ちにならないのである。 To be like us, to shelter us, to make us repose on Thy bosom, and there to give us the caresses, the smiles, the consolations which mothers lavish on their new-born children, behold this is what Thou dost in the Sacrament, oh sweetest Saviour! For in it Thou dost divest Thyself of all prestige, of all splendor, of all the accessories of authority, of grandeur, and of majesty. Thou dost draw us towards Thee by Thy silence, by Thy gentleness, by Thy inexhaustible patience; Thou dost make Thyself little because we are little. We can say anything and everything to Thee; Thou never weariest of our hesitations, of our stammerings, of our distractions, of our forgetfulnesses, of our inability to treat Thee in accordance with Thy dignity. Like to the mother who tolerates all the importunities of her child because she loves it, Thou overlookest everything, Thou bearest everything from us, we who are more capricious children, more egotistical, more insupportable than ever was child towards its mother. Thou lovest us and Thou wiliest that we should find nothing but kindness in Thee! 
そればかりではない、主は、み手を広げて私たちを呼び寄せ、私たちを御胸の上に憩わせてくださる。聖体拝領は、創造主と被造物との幸福な抱擁、母と子との親しい接吻でなくて何であろう。『なんじら喜び楽しめ、主の豊かな光栄を喜び、あふるるまでに、その慰めの乳を吸いて、これに満たされよ Gaudete gaudio, universi, ut sugatis et repleamini ab ubere consolationis ejus : ut mulgeatis et deliciis affluatis ab omnimoda gloria ejus 』と、予言者イザヤはいった。もしも私たちがこの世ですでに天来の慰めを受け、内心の深い喜びを感じ、天主がその子らのために備えられる幸福と、恍惚とした歓喜とを経験することがあるとすれば、それは聖体拝領の時においてであろう。その時こそ私たちはすべて主のものであり、主はすべて私たちのものとなられる。私たちは主のうちにまた、主は私たちのうちにおいでになって、聖心から流れ出る甘美な乳をもって私たちを酔わせられるのである。『なんじの乳は、よきぶどう酒よりも甘し』。実に、主の御血は、ぶどう酒の外観と効力とともに、乳の甘さもその中に含んでいる。『われは乳とともにぶどう酒を飲みたり Bibi vinum meum cum lacte meo. 』とあるように。 But more than this, Thou dost open to us Thy arms, Thou dost call us and dost urge us to come and throw ourselves on Thy breast; what is the Communion unless it be the most tender of embraces, the closest clasp between God and His creature, between the mother and the child. " Gaudete gaudio, universi, ut sugatis et repleamini ab ubere consolationis ejus : ut mulgeatis et deliciis affluatis ab omnimoda gloria ejus" (Isaias lxvi. 10, 11.) And if we meet with consolation here below, if we enjoy interior and profound joys, if we sometimes experience the delights and ecstasies reserved by our God for His children, is it not during the blessed hours of our communions, when possessed by Thee we also possess Thee, when Thou art in us and we in Thee, and when Thou dost inebriate us with the vivifying and sweet effusions of Thy heart! Meliora sunt ubera tua vino I It is true that Thy blood, although it has the appearances and the strength of wine, has also all the sweetness of milk, Bibi vinum meum cum lacte meo. (Cant. v. 1.) 
   
償い 主にそむき、主を忘れ、主の恩を思わない者は、母のような主の聖心を深く傷つける者である。母の悲しみと、母のやさしさと、尊敬する母の弱さとをもって、三重に尊い主に加えた侮(あなど)りは、ますます私たちの罪科を醜く忌まわしくする。 III. Reparation. To offend Thee, to forget Thee, to be ungrateful towards Thee, is therefore to wound Thy maternal tenderness, oh Jesus; it is to give to our offences the particularly odious character with which is invested an insult inflicted on a mother, whose sorrows, and whose goodness and august weakness render her threefold sacred. 
母に嘆きを与える不孝な子はわざわいである。母の涙は天主の裁きの庭に彼を訴え、母の悲しみは復讐を呼び、母の長い忍耐と尽きない慈愛とは、彼の額に恥辱、忘恩、冷酷不人情の烙印(らくいん)を押すであろう。『なんじの母のうめきを忘るるなかれ。かの女によらずしては、なんじは生まれ出ずるあたわざりしを記憶せよ。しかして、母のなんじに為せしごとく、なんじは母に報いざるべからず』In toto corde tuo gemitus matris tuae ne obliviscaris ; memento quoniam nisi per illas natus non fuisses; et retribue illis quomodo et illi tibi." (Ecclus. vii. 29.)と。 Therefore woe to the unnatural son who makes his mother weep! Her tears will accuse him at the tribunal of God, her sorrows will cry out for vengeance, her long patience and her inexhaustible goodness will brand him on his forehead with the stigma of ignominy, ingratitude, hardness, want of heart. " Forget not the groanings of thy mother, says Ecclesiasticus; remember that thou hadst not been born but through her, and make a return to her as she has done to thee: In toto corde tuo gemitus matris tuae ne obliviscaris ; memento quoniam nisi per illas natus non fuisses; et retribue illis quomodo et illi tibi." (Ecclus. vii. 29.) 
ああ、あまりにも慈悲深きイエズスよ、主のご慈愛と、私に生命を与えるためにお忍びになった御苦しみと、きょうまで私の無礼をお許しくださったご忍耐とを考えるとき、私は自分の罪の深さに驚くばかりである。 Too kind Jesus! what will my sins be if I examine them by the light of Thy tenderness for me, of the sorrows Thou hast endured to give me the life of the soul, of the merciful patience with which Thou hast borne with me for so long time past! 
私たちは今日、この意味で、自分の罪を糾明しよう。願わくは、この反省が頑なな私の心を打ち破り、主のご苦難の上に注がれる私の痛悔の涙が、私たちの罪の上に豊かに流された主の尊い御涙に対して、せめてもの報恩とならんことを。 It is, nevertheless, from this point of view I desire to look at them, that they may at last break my heart, and that my tears of repentance shed over Thy sufferings may repay Thee for the tears which Thou hast shed so abundantly over my sins. 
   
祈願 感謝に満ちた幼児の愛をもって主を愛し、しかも常よりもなお多くお愛しするために、主のやさしい愛を思い出そう。特に苦悩や困難に際し、慈愛深い聖心の中に隠れ家を求めて、たびたび聖体を拝領して、超自然の生命を得るよう努めよう。幼児のような単純さ、潔白、信頼、従順は、私たちの祈りに欠くことができないものである。私の霊魂の父にましまし、また母にましますイエズスよ、私たちは、私たちの霊魂の生命、安息、慰めなる御身のみ前でこれらの決心をし、その実行に必要な恩恵を請い求め奉る。 IV. Prayer. To love Thee with a filial, grateful, and submissive love; to recall to myself Thy tender goodness that I may also exercise tenderness towards Thee; to take refuge in my sufferings in Thy Heart full of tenderness in the Sacrament, to come and assiduously draw forth supernatural life; to honor Thee by the simplicity, the purity, the confidence, the docility and the abandonment of childhood — such are the resolutions which I make at Thy feet, and the graces which I ask of Thee, oh Jesus, Father and Mother of my soul, its life, its repose, and its consolation! 
   
実行 天主に対して、キリスト信者にふさわしい幼児の精神を養おう。

Practice. The spirit of Christian childhood in our relations towards God. 

 


明日はイエズスの聖心の祝日です:イエズスの聖心の連祷を英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語でご紹介いたします

2020年06月18日 | カトリックとは
Litany of the Sacred Heart Litanies du Sacré-Cœur de Jésus en français Letanías del Sagrado Corazón de Jesús Litanei vom Heiligsten Herzen Jesu
Lord, have mercy on us.  Seigneur, ayez pitié de nous! Señor, ten misericordia de nosotros. V/A. Herr, erbarme Dich unser
Christ, have mercy on us.  Ô Christ, ayez pitié de nous! Cristo, ten misericordia de nosotros. Christus, erbarme Dich unser
Lord, have mercy on us.  Seigneur, ayez pitié de nous! Señor, ten misericordia de nosotros Herr, erbarme Dich unser
Christ, hear us.  Jésus-Christ, écoutez-nous. Jesucristo óyenos. Christus höre uns
Christ, graciously hear us. Jésus-Christ, exaucez-nous. Jesucristo, escúchanos. Christus erhöre uns
God the Father of Heaven, Have mercy on us. Père céleste, qui êtes Dieu, ayez pitié de nous. Dios Padre celestial, ten misericordia de nosotros. V. Gott Vater vom Himmel, A. erbarme Dich unser.
God the Son, Redeemer of the world, Have mercy on us. Fils, Rédempteur du monde, qui êtes Dieu, ayez pitié de nous. Dios Hijo Redentor del mundo, ten misericordia de nosotros. Gott Sohn, Erlöser der Welt,
God the Holy Ghost, Have mercy on us. Esprit-Saint, qui êtes Dieu, ayez pitié de nous. Dios Espíritu Santo, ten misericordia de nosotros. Gott Heiliger Geist,
Holy Trinity, one God, Have mercy on us. Sainte Trinité, qui êtes un seul Dieu, ayez pitié de nous. Trinidad Santa, que eres un solo Dios, ten misericordia de nosotros. Heilige Dreifaltigkeit, ein einiger Gott,
Heart of Jesus, Son the the Eternal Father have mercy on us; Cœur de Jésus, Fils du Père éternel, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Hijo del Padre Eterno, Herz Jesu, des Sohnes des ewigen Vaters,
Heart of Jesus, formed by the Holy Ghost in the womb of the Virgin Mother; Cœur de Jésus, formé par le Saint-Esprit dans le sein de la Vierge Mère, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, formado en el seno de la Virgen Madre por el Espíritu Santo, Herz Jesu, im Schoße der jungfräulichen Mutter vom Heiligen Geiste gebildet,
Heart of Jesus, hypostatically united to the Word of God; Cœur de Jésus, uni substantiellement au Verbe de Dieu, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, al Verbo de Dios substancialmente unido, Herz Jesu, mit dem Worte Gottes wesenhaft vereinigt,
Heart of Jesus, infinite in Majesty; Cœur de Jésus, d’une infinie majesté, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, de majestad infinita, Herz Jesu, von unendlicher Majestät,
Heart of Jesus, holy temple of God; Cœur de Jésus, temple saint de Dieu, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Templo santo de Dios, Herz Jesu, heiliger Tempel Gottes,
Heart of Jesus, tabernacle of the Most high; Cœur de Jésus, tabernacle du Très-Haut, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Tabernáculo del Altísimo, Herz Jesu, Zelt des Allerhöchsten,
Heart of Jesus, house of God and gate of heaven; Cœur de Jésus, maison de Dieu et porte du ciel, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Casa de Dios y puerta del cielo, Herz Jesu, Haus Gottes und Pforte des Himmels,
Heart of Jesus, glowing furnace of charity; Cœur de Jésus, fournaise ardente de charité, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Horno ardiente de caridad, Herz Jesu, brennender Feuerherd der Liebe,
Heart of Jesus, abode of justice and love; Cœur de Jésus, sanctuaire de la justice et de l’amour, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Santuario de justicia y de amor, Herz Jesu, Wohnstatt der Gerechtigkeit und Liebe,
Heart of Jesus, full of kindness and love; Cœur de Jésus, plein d’amour et de bonté, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, lleno de bondad y de amor, Herz Jesu, voll Güte und Liebe,
Heart of Jesus, abyss of all virtues; Cœur de Jésus, abîme de toutes les vertus, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Abismo de todas las virtudes, Herz Jesu, Abgrund aller Tugenden,
Heart of Jesus, most worthy of all praise; Cœur de Jésus, très digne de toutes louanges, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, digno de toda alabanza, Herz Jesu, allen Lobes überaus würdig,
Heart of Jesus, King and centre of all hearts; Cœur de Jésus, roi et centre de tous les cœurs, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, Rey y centro de todos los corazones, Herz Jesu, König und Mittelpunkt aller Herzen,
Heart of Jesus, wherein are all the treasures of wisdom and knowledge; Cœur de Jésus, en qui se trouvent tous les trésors de la sagesse et de la science, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, en que están escondidos todos los tesoros de la sabiduría y de la ciencia, Herz Jesu, in dem alle Schätze der Weisheit und Wissenschaft sind,
Heart of Jesus, wherein abides the fulness of the Godhead; Cœur de Jésus, en qui réside toute la plénitude de la Divinité, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, en que mora toda la plenitud de la divinidad, Herz Jesu, in dem die ganze Fülle der Gottheit wohnt,
Heart of Jesus, in which the Father is well pleased; Cœur de Jésus, objet des complaisances du Père, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, en que el Padre se agradó, Herz Jesu, an dem der Vater Sein Wohlgefallen hat,
Heart of Jesus, of whose fulness we have all received; Cœur de Jésus, dont la plénitude se répand sur nous tous, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, de cuya plenitud todos nosotros hemos recibido, Herz Jesu, aus dessen Fülle wir alle empfangen haben,
Heart of Jesus, desire of the everlasting hills; Cœur de Jésus, le désiré des collines éternelles, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, deseo de los eternos collados, Herz Jesu, Sehnsucht der ewigen Hügel, (Sehnsucht der Schöpfung von Anbeginn)
Heart of Jesus, patient and abounding in mercy; Cœur de Jésus, patient et très miséricordieux, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, paciente y muy misericordioso, Herz Jesu, geduldig und von großer Erbarmung,
Heart of Jesus, rich unto all who call upon Thee; Cœur de Jésus, libéral pour tous ceux qui vous invoquent, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, liberal con todos los que te invocan, Herz Jesu, reich für alle, die Dich anrufen,
Heart of Jesus, source of life and holiness; Cœur de Jésus, source de vie et de sainteté, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, fuente de vida y de santidad, Herz Jesu, Quell des Lebens und der Heiligkeit,
Heart of Jesus, propitiation for our sins; Cœur de Jésus, propitiation pour nos péchés, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, propiciación por nuestros pecados, Herz Jesu, Sühne für unsere Sünden,
Heart of Jesus, overwhelmed with insults; Cœur de Jésus, rassasié d’opprobres, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, colmado de oprobios, Herz Jesu, mit Schmach gesättigt,
Heart of Jesus, bruised for our sins; Cœur de Jésus, broyé à cause de nos crimes, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, desgarrado por nuestros pecados, Herz Jesu, wegen unserer Missetaten zerschlagen,
Heart of Jesus, made obedient even unto death; Cœur de Jésus, obéissant jusqu’à la mort, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, hecho obediente hasta la muerte, Herz Jesu, gehorsam geworden bis zum Tode,
Heart of Jesus, pierced with a lance; Cœur de Jésus, percé par la lance, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, con lanza traspasado, Herz Jesu, von der Lanze durchbohrt,
Heart of Jesus, source of all consolation; Cœur de Jésus, source de toute consolation, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, fuente de todo consuelo, Herz Jesu, Quelle allen Trostes,
Heart of Jesus, our life and resurrection; Cœur de Jésus, notre vie et notre résurrection, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, vida y resurrección nuestra, Herz Jesu, unser Leben und unsere Auferstehung,
Heart of Jesus, our peace and our reconciliation; Cœur de Jésus, notre paix et notre réconciliation, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, paz y reconciliación nuestra, Herz Jesu, unser Friede und unsere Versöhnung,
Heart of Jesus, Victim for sinners; Cœur de Jésus, victime des pécheurs, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, víctima por nuestros pecados, Herz Jesu, Opferlamm für die Sünder,
Heart of Jesus, salvation of all who trust in Thee; Cœur de Jésus, salut de ceux qui espèrent en vous, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, salvación de los que en Ti esperan, Herz Jesu, Heil aller, die auf Dich hoffen,
Heart of Jesus, hope of all who die in Thee; Cœur de Jésus, espérance de ceux qui meurent en vous, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, esperanza de los que en Ti mueren, Herz Jesu, Hoffnung aller, die in Dir sterben,
Heart of Jesus, delight of all the Saints Cœur de Jésus, délices de tous les saints, ayez pitié de nous. Corazón de Jesús, delicias de todos los Santos, Herz Jesu, Wonne aller Heiligen
Lamb of God, Who takest away the sins of the world, Spare us O Lord. Agneau de Dieu, qui effacez les péchés du monde, pardonnez-nous, Seigneur. Cordero de Dios, que quitas los pecados del mundo: perdónanos, Señor. V. Lamm Gottes, Du nimmst hinweg die Sünden der Welt, A. verschone uns, o Herr.
Lamb of God, Who takest away the sins of the world, Graciously hear us, O Lord. Agneau de Dieu, qui effacez les péchés du monde, exaucez-nous, Seigneur. Cordero de Dios, que quitas los pecados del mundo: escúchanos, Señor. V. Lamm Gottes, Du nimmst hinweg die Sünden der Welt, A. erhöre uns, o Herr.
Lamb of God, Who takest away the sins of the world, Have mercy on us. Agneau de Dieu, qui effacez les péchés du monde, ayez pitié de nous, Seigneur.  Cordero de Dios, que quitas los pecados del mundo: ten misericordia de nosotros. V. Lamm Gottes, Du nimmst hinweg die Sünden der Welt, A. erbarme Dich unser.
Jesus, meek and humble of heart,  V. Jésus, doux et humble de cœur,  V.- Jesús manso y humilde de corazón. V Jesus, sanftmütig und demütig von Herzen,
Make our hearts like unto Thine. R. Rendez notre cœur semblable au vôtre. R.- Haz nuestro corazón conforme al tuyo. A. bilde unser Herz nach Deinem Herzen.
Let us pray: O almighty and eternal God, look upon the Heart of Thy dearly beloved Son, and upon the praise and satisfaction He offers Thee on behalf of sinners, and being appeased, grant pardon to those who seek Thy mercy, in the name of the same Jesus Christ, Thy Son, Who liveth and reigneth with Thee, in the unity of the Holy Ghost, world without end.  Prions. Dieu tout-puissant et éternel, considérez le Cœur de votre Fils bien-aimé ainsi que les louanges et les satisfactions qu’il vous a offertes au nom des pécheurs: à ceux qui implorent votre miséricorde, accordez avec bienveillance le pardon au nom de ce même Jésus-Christ, votre Fils, notre Seigneur et notre Dieu, qui règne avec vous, dans l’unité du Saint-Esprit, pour les siècles des siècles.  Oremos: Oh Dios todopoderoso y eterno: mira el Corazón de tu amantísimo Hijo y las alabanzas y satisfacciones que en nombre de los pecadores te tributa; y concede aplacado el perdón a éstos que piden tu misericordia en el nombre de tu mismo Hijo Jesucristo. Quien contigo vive y reina en los siglos de los siglos.  V. Lasset uns beten. Allmächtiger ewiger Gott, blicke hin auf das Herz Deines vielgeliebten Sohnes und auf das Lob und die Genugtuung, die Es im Namen der Sünder Dir darbringt, und gewähre denen, die Deine Barmherzigkeit erflehen, gnädig Verzeihung im Namen Deines Sohnes Jesus Christus, der mit Dir lebt und herrscht von Ewigkeit zu Ewigkeit. 
Amen. Ainsi-soit-il. Amén. A. Amen


来る金曜日、すなわち2020年6月19日は、イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。大坂では、聖母の汚れなき御心聖堂で聖伝のミサが午後6時から捧げられます。

2020年06月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

来る金曜日、すなわち2020年6月19日は、イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。
大坂では、聖母の汚れなき御心聖堂で聖伝のミサが午後6時から捧げられます。

【イエズスの聖心の大祝日(一級大祝日 白)】
聖心の祝日は、1765年、クレメンテ十三世教皇によって認可され、1856年、ピオ九世によって、全教会にひろめられた。また、1885年、レオ十三世によって一級の大祝日とされた。
 ピオ十一世は、1929年1月29日の規定によって、この祝日を一級大祝日、三級特権の「八日間」付と定め、聖務日課とミサ典礼文とを新しく規定した。
【ミサ聖祭】
人間に対するイエズスの愛は特に十字架のいけにえと聖体の秘蹟とによってあらわされる。しかし、この天主の愛にむくゆるには、キリストの住み給うキリスト信者の心をささげなければならない。徳を実行し、柔和・謙遜・従順をもって、われらは、御血をわれらのために流し給うた救主に倣わねばならない。

IN FESTO SACRATISSIMI CORDE IESU イエズスの聖心の大祝日 耶稣圣心
I Classis 一級大祝日 一等复式【白】
Ant. ad Introitum. Ps. 32, 11 et 19. 入祭文 詩篇、32ノ11, 19 进台咏(咏32:11,19)
Cogitatiónes Cordis eius in generatióne et generatiónem : ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame. 主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養うために。 祂心中的意念代代常存:祂要救我们的生命脱离夭亡,并且使我们在饥馑之日、得到滋养。
Ps. ibid., 1. 詩篇, 33ノ1 咏33:1
Exsultáte, iusti, in Dómino : rectos decet collaudátio. 義人らよ、主において喜びおどれ。[天主を]讃美することは、義人にふさわしい。 义人啊!您们应当凭上主喜悦;因为颂扬祂原是正直者的事。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦) 光荣归于父……。
Cogitatiónes Cordis eius in generatióne et generatiónem : ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame. 主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養うために。 祂心中的意念代代常存:祂要救我们的生命脱离夭亡,并且使我们在饥馑之日、得到滋养。
Oratio. 集祷文 集祷经
Deus, qui nobis in Corde Fílii tui, nostris vulneráto peccátis, infinítos dilectiónis thesáuros misericórditer largíri dignáris : concéde, quǽsumus ; ut, illi devótum pietátis nostræ præstántes obséquium, dignæ quoque satisfactiónis exhibeámus offícium. Per eúndem Dóminum nostrum. 天主よ、御身はわれらの罪に傷つけられた御子の聖心において、愛の無限の宝を、憐れみ深くかたじけなくもわれらに与え給う。願わくは、聖心に対してわれらの敬虔の信心深いつとめを果たす我らが、ふさわしい償(つぐな)いの義務をも行わんことを。その同じわれらの主・・・。 天主,祢既在祢圣子由我们罪恶所受伤的圣心内,将无限爱情的宝藏仁慈地赐给我们,求祢开恩:使我们对于圣心不单虔诚地献出热心的敬礼,且能相称地尽到赔补的债务。因我们主……。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Ephésios. 使徒聖パウロの、エフェソ人への書簡の朗読 书信
Ephes. 3, 8 19. エフェソ 3ノ8-12、14-19 (弗3:8-19)
Fratres: Mihi ómnium sanctórum mínimo data est grátia hæc, in géntibus evangelizáre investi- gábiles divítias Christi: et illumináre omnes, quæ sit dispensátio sacraménti abscónditi a sǽculis in Deo, qui ómnia creávit: ut innotéscat  principátibus et potestátibus in cœléstibus per Ecclésiam multifórmis sapiéntia Dei: secúndum præfinitiónem sæculórum, quam fecit in Christo Jesu Dómino nostro, in quo habémus fidúciam et accéssum in confidéntia per fidem ejus. Hujus rei grátia flecto génua mea ad Patrem Dómini nostri Jesu Christi, ex quo omnes patérnitas in cœlis et in terra nominátur: ut det vobis secúndum divítas glóriæ suæ, virtúte corroborári per Spíritum ejus in interiórem hóminem: Christum habitáre per fidem in córdibus vestris: in caritáte radicáti et fundáti: ut possítis comprehéndere cum ómnibus sanctis, quæ sit latitúdo, et longitúdo, et sublímitas et profúndum: scire étiam super- eminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei. 兄弟たちよ、私は、すべての聖徒のなかで、もっとも小さな者よりも小さなものであるが、キリストの底しれない富を異邦人に告げ、万物の創造主である天主のうちに、世々にかくされていた奥義の分配とはなにかをみなにあらわす恩寵を受けた。それは、天主の多種多様の知恵を、天の権勢と能力とに、教会によって、いま知らせるためである。それは、主キリスト・イエズスにおいて、天主が企てられた永遠の計画によるのである。私たちは、かれへの信仰によって、信頼してあえて天主に近づくことができる。さて私は、主イエズス・キリストの父のみまえに跪こう。父から、天と地とのすべての家族が起こったからである。かれが、その光栄の富にしたがって、その霊によって、あなたたちの内の人を力強く固め、また、愛に根ざし、愛に基をおくあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれるようにとねがう。あなたたちは、すべての聖徒とともに、かの奥義の広さと長さと高さと深さとを理解する力をうけるであろう。あなたたちは計りしれないキリストの愛を知り、満ち満ちる天主によって満たされるであろう。 弟兄们:我本是圣徒中最卑小的,天主竟赐我特恩,使我向外邦人宣扬基督深不可测的富藏,并且把从永远隐藏在造生天地万物的天主内的奥秘计划,启示给众人。天主依照祂从永远所定、而在我们主基督耶稣内完成的计划,愿意藉着教会、向天上的统权者天神和异能者天神表示祂各式各样的智慧。我们信了基督,便因着祂坦然无畏地、满怀信心地、到天主台前来。为了这个原因、我在我们主耶稣基督的大父前屈膝。天上地下的一切父权、都是由祂而得名的。我求祂藉着祂光荣的富藏、赏赐你们赖着祂的圣神完全地坚强起来,使你们的内心、成长发展。愿基督藉着信德、居住在你们心中,愿你们在爱德中生根植基,和诸位圣徒一起明了基督的爱如何长、如何阔、如何高、如何深、得以明悉基督的爱远远超过人所意想的限度,而这样你们充满了天主完满无缺的美好。
Graduale. Ps. 24, 8-9. 昇階誦 詩篇、24ノ8、9 台阶咏(咏24:8,9)
Dulcis et rectus Dóminus : propter hoc legem dabit delinquéntibus in via. 主は、甘美で正しき御者、これ故に、[主は]道から外れた人々に、法を与え給うだろう。 主是良善公正的,因此、祂指导罪人走祂的道。
V/. Díriget mansúetos in iudício, docébit mites vias suas. V/. [主は]温和な人々を正義において導き、柔和の人々に主の道を教え給うだろう。 祂引谦虚人走公平的路,将自己的道指示给良善人。
Allelúia, allelúia. アレルヤ、アレルヤ、 阿肋路亚,阿肋路亚。
V/.Matth. 11, 29. Tóllite iugum meum super vos, et díscite a me, quia mitis sum et húmilis Corde, et inveniétis réquiem animábus vestris. Allelúia. V/.(マテオ、11ノ29)私のくびきをお前たちの上に取って、私にならえ、私は柔和で心の謙遜な者であるからだ。そうすればおまえたちの霊魂に安息を見出すであろう、アレルヤ。 (玛11:29)你们负我的轭吧!向我学习心中的温良和谦逊:你们将获得心中的安息。阿肋路亚。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦 福音
Ioann 19 ,31-37. 19ノ31-37 (若19:31-37)
In illo témpore: Judǽi (quóniam Parascéve erat), ut non remanérent in cruce córpora sábbato, (erat enim magnus dies ille sábbati), rogavérunt Pilátum ut frangeréntur eórum crura et tolleréntur. Venérunt ergo mílites, et primi quidem fregérunt crura et altérius qui crucifíxus est cum eo. Ad Jesum autem cum veníssent, ut vidérunt eum jam mórtuum, non fregérunt ejus crura: sed unus mílitum láncea latus ejus apéruit, et contínuo exívit sanguis et aqua. Et qui vidit testimónium perhíbuit: et verum est testimónium ejus. Et ille scit quia vera dicit, ut et vos credátis. Facta sunt enim hæc ut Scriptúra implerétur: Os non commninuétis ex eo. Et íterum ália Scriptúra dicit: Vidébunt in quem transfixérunt. そのとき、(その日は用意日だったので、)安息日に体を十字架の上に残しておかないように(この安息日は、大祭日であったから)ユダヤ人たちは、ピラトに、彼らのすねを折って取りのぞくようにと願ったので、兵隊たちが来て、まず一人、そして、ともに十字架につけられたもう一人の脛を折った。しかしイエズスのところにくると、もう死んでおられたので、その脛を折らなかった。そのとき、一人の兵士が、槍で、おん脇を突いたので、すぐ、血と水とが流れ出た。これを見た者が証明する。(この証明は真実である。自分のことばが真実であることをかれは知っている。)それは、あなたたちをも信じさせるためでる。こういうことが起ったのは、「その骨は一つも折られないであろう」という聖書のことばを実現するためであった。また「かれらは、自分たちが刺しつらぬいた人をあおぎ見るだろう」という聖書のほかのことばもある。 那天正是巴斯挂的预备日。犹太人为使尸体、在安息日、不留在十字架上——因为那安息日是个大节日——,请求比拉多折断他们的腿,把他们拿走。兵士们来了,折断了第一个人的腿,及与耶稣同钉的第二个的。来到耶稣那里,见祂已经死了,就不折断祂的腿;但有一个兵拿枪刺开了祂的肋旁,立刻流出了血和水。那个看见的就作了见证,他的作证是真的;他知道说真话,好使你们也相信。——这件事发生了,使圣经这句话应验:“祂的骨头、你们一根也不要折断。”经上另一处又说:“他们瞻望他们所刺透的人。”
Credo 信経 信经
Ant. ad Offertorium. Ps. 68, 21. 奉献文 詩篇、68-21 奉献咏(咏68:21)
Impropérium exspectávi Cor meum et misériam : et sustínui, qui simul mecum contristarétur, et non fuit : consolántem me quæsívi, et non invéni. 私の心は、とがめと悲惨を予期した。そして私と共に悲しんでくれる者を待ち望んだ。しかし誰もいなかった。私を慰めてくれる者を私は探し求めたが、見つけなかった。 耻辱和忧闷、折伤了我的心,我指望了有人体恤我,却没有一个;我渴望了有人安慰我,可是寻不着。
Secreta. 密誦 密祷经
Réspice, quǽsumus, Dómine, ad ineffábilem Cordis dilécti Fílii tui caritátem : ut quod offérimus sit tibi munus accéptum et nostrórum expiátio delictórum. Per eúndem Dóminum. 主よ、願わくは、愛し給う御子の聖心の、言い尽くせぬ愛をかえりみ、われらの捧げ物を嘉し、われらの罪のつぐないとならせ給え。その同じわれらの主・・・。 主,求祢顾及祢爱子心中不可名言的圣爱;望我们所献的、成为中悦祢的礼品,并成为补赎我们罪过的代价。因我们主……。
Præfatio de Ssmo Corde Iesu. 聖心の序誦 耶稣圣心的颂谢引
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui Unigénitum tuum, in Cruce pendéntem, láncea mílitis transfígi voluísti : ut apértum Cor, divínæ largitátis sacrárium, torréntes nobis fúnderet miseratiónis et grátiæ : et, quod amóre nostri flagráre numquam déstitit, piis esset réquies et poeniténtibus pateret salútis refúgium. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cæléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes… 主、聖なる父、全能の永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。御身は、御独り子が十字架にかかり給い、兵卒の槍に刺し貫かれることを意志し給うた。それは、開かれた聖心が、天主の寛大さの聖所として、われらに御あわれみと聖寵との激流が流れ出るため、また、われらに対する愛に燃え給うことを決して止めない聖心が、敬虔な者たちにとって憩いとなり、痛悔する者らにとって救いの避難所として開かれるためであった。故に、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらは、きわまりなく、主の御光栄の讃歌を歌い続けよう。… 主、至圣的父、全能永生的天主,我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢曾欲祢的独子身悬苦架之时,受了兵丁长矛的刺透,为使此大开了的心即天主博施的圣所、给我们湧泄祢仁慈和恩宠的激流;也为使此无时或息燃烧着爱火的心,对热诚者成为安息之所,对忏悔者敞开获救之门。为此、我们随同诸位天神、总领天神、上座者和宰制者以及天上万军、合唱光荣祢的圣歌,无穷期地说:圣、圣、圣……。
Ant. ad Communionem. Ioann. 19, 34. 聖体拝領誦 ヨハネ、19ノ34 领主咏(若19:34)
Unus mílitum láncea latus eius apéruit, et contínuo exívit sanguis et aqua. 兵士の一人が、槍で御脇腹を開いた、するとすぐ血と水とが出てきた。 有一个兵、拿枪刺开了祂的肋旁,立时流出了血和水。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经
Prǽbeant nobis, Dómine Iesu, divínum tua sancta fervórem : quo dulcíssimi Cordis tui suavitáte percépta ; discámus terréna despícere, et amáre cæléstia : Qui vivis et regnas. 主イエズスよ、御身の聖なる[秘蹟]が、われらに天主に対する熱意を与えんことを、それによっていとも甘美なる御身の聖心の優しさを味わい、地上のことを軽んじ、天を愛することを教え給え。聖父なる天主とともに・・・。 主、耶稣,祈望祢的圣事、赐给我们神圣的爱火;望我们尝到了祢圣心甘怡的挚爱,因而学得轻看世物、但爱天上之事。祢和天主父……。


今日の富士山です。雲がかかっていますね。

2020年06月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日の富士山です。雲がかかっていますね。






【聖体の黙想】聖体は至善なる天主である

2020年06月17日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

天主である聖体

聖体は至善なる天主である

 礼拝 あわれみ深く、恵み豊かな聖体のみ前にひざまずいて、天主の限りない慈愛を礼拝しよう。

天主のすべての善徳の中で、ご慈愛ほど私たちの心を動かすものはない。また、ご慈愛ほど私たちがよく理解しえるものもない。なぜなら、それは私たちに直接に関わりあることであるからである。天主の慈悲とは、天主が無限の愛によって、天主に固有な富と栄えと完徳とを被造物にお伝えになることである。

あるいは、慈悲とは、被造物に対する天主の愛の活動である。また、それは天主の愛がご自身の外に溢れ出ることである。すなわちあらゆる富の源がみなぎり溢れることであり、また、あらゆる生命の中心から光が四方に発射することである。さらに愛とは、与えること、しかも自分自身を与えることである。天主の愛は天主の中にあるすべてを与え、最後に天主ご自身をお与えになる。天主の慈愛は無限であるから、お与えになるに際しては尽きることなく、お疲れになることがない。天主の愛はすべての被造物にまで及ぶのである。上は尊いセラフィンから、下は牧場に生える名もない草の一枚の葉に至るまで、天主の慈愛を受けないものはない。天主によって生かされ、支えられ、富まされ、完全にされないものはない。彼らの持つ一切のものは、すべて天主の慈愛から出るのである。天主の慈愛は絶え間なく常に溢れて、決して休むときがない。

それでは聖体の中には天主の慈愛があらわれているか、いないか。決して、いるのいないのどころではない。聖体は天主の慈愛の勝利である。すべての人々の上に常に与えられ、また、あらゆる天主の他の賜物を含んでいる最上の賜物が聖体ではないか。全く思いがけない、全く私たちにふさわしくない尊い賜物がそれではないだろうか。それこそ絶対的の賜物、完全な賜物、あますところのない賜物、取り戻すことのない賜物である。もし慈愛が与えることであるなら、聖体は天主の慈愛そのものである。

だから聖体のおおいの下においでになる天主を賛美し、主に仕え、主を愛し返し、天主の賜物に感じて自分自身を残りなく天主に捧げよう。

感謝 慈愛は同時に、柔和、親切、あわれみ、同情、忍耐などを伴なうのである。ちょうど美しい花に気高い香りがあるように、以上述べた種々の美徳は慈愛に付随するものである。乱暴な態度、傲慢な仕方、忍耐を欠いた方法で与えられるものは、決して慈愛の賜物ではない。
至善な主は、このことをよくご存じで、主の無限の慈愛を包むために、優しさと親切とをもってなされた。たとえば、主は馬ぶねの中に愛するみどり子として、来て拝む者らに接し、公生活の間では、いつも優しい御言葉、親切なご行為を用いられ、ご受難の間にさえ、こころよく敵を許し、また、驚嘆すべき柔和、忍耐をお示しになった。だから、そのご慈愛を最も豊かに、最もすぐれて、私たちに示そうとしてこの秘跡を制定されたとき、主はすべての人々に力と喜びとを与え、万人に最も愛されるパンとぶどう酒とを取ってその材料とされたのである。なおこの秘跡の沈黙、外見上の卑しさも、小さい者、かよわい者、罪のある者にとって、なんともったいないことであろう。また、前に黙想したように、聖体はあらゆる冒瀆を忍び、どんな忘恩にも失望なさらない寛仁を備えておいでになる。

だから信仰をもってこれを仰ぎ望む人々は、聖体の中にあらわれる筆紙に尽くすことのできない慈愛を感じ、ここに至善なる天主の在すことを知り、心からこれを愛するようになるのである。

ああ、私たちが聖体のあらゆる楽しさを研究するなら、どうして慈悲深い天主が、その最上の賜物に添えられた、溢れるまでの愛をみて、感謝の念に満たされないでおられようか。

償い もしそうならば聖体に対してなぜ多くの人々が冷淡、無頓着であり、恩を忘れ、時としては憎悪をさえ抱くのであろうか。これは実に不思議な神秘である。あなたはその理由をできるなら説明するがよい。いや、あなたはこのありさまを見て涙を流して泣かなければならない。これよりももっと悲しい、もっと恐ろしいことがあるだろうか。私たち人間にとって、これよりもっと恥ずかしい、もっと償いを必要とすることがあるだろうか。主は御身を捧げ、御身を与え、最大の慈愛をもって御身を私たちに渡し、分けてくださるのに、無数の人間は冷淡と無頓着とをもってこれに応えるのである。主は人々の心をたやすく得ようとして、柔和と親切とをもって来てくださるのに、彼らは無情と憎悪とをもってこれを迎える。ただ私たちを愛し、しかも絶え間なく激しく愛される主に対して、人間は冷たい残酷な憎悪をいつまでも続けているのである。

これらのことを考えると、あなたもまた、あまりに大きな慈愛の生贄(いけにえ)といえる主の聖心の御嘆きを悟ることができるであろう。愛する優しい主に対して、せめて主の友である私たちは、全力を尽くして主の聖心をお慰めしよう。主は仰せになる。『われをあわれめ、せめてわが友なるなんじらは、われをあわれめ』と。

祈願 主のご慈愛は私たちの祈りの最も堅固な支えである。主の慈愛を思うと、私たちの心に希望が生じ信頼が湧いてくる。これによって私たちは天主のお定めになった時期を待ち、その遅れるのを忍耐をもって忍び、また私たちの祈りの拒まれるようにみえるときにも少しも呟かないで、試練の続く中にあってもどこまでも安心して祈ることができるのである。だから私たちは、聖体によって明らかに知られる天主の慈愛に基づいて祈らなければならない。私たちも常に聖パウロのように『天主は御ひとり子すら惜しみたまわざれば、なんぞこれに添えていっさいをわれにたまわざらんや』と言わなければならない。

実行 絶えずイエズスに対して大きな信頼を抱くために、常に聖体における主のご慈愛に
ついて黙想しよう。




フランスでの御聖体行列の動画(1943年、シャルトルにて)

2020年06月17日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

フランスでの御聖体行列の動画(1943年、シャルトルにて)です。







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