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【聖体の黙想】聖体はわがしもべである

2020年06月25日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

人である聖体

聖体はわがしもべである

 礼拝 『わがしもべを見よ』。天父のこのお言葉は、イエズス・キリストの他のみ名を示すものである。私たちはこのみ名を拝し、このみ名の中に愛と憐れみとの他の証拠を発見する。昔はしもべとはむしろ奴隷の意味であった。主イエズスは天父のみ前においてご自分を奴隷のようにみなしておいでになり、また、私たちに対してもこのようにふるまわれたのである。
聖パウロの証言によると『天主と並ぶことを盗みと思いたまわざる主は、へりくだりて奴隷のかたちをとり』たもうたのである。 しかしこのため、すなわち天父と人々との目に奴隷のようになられるためには、主はアダムの罪によって堕落したありさまの人間の性をおとりになればそれで足りた。なぜなら、人が、天主の富を受け継ぐ天主の子として天主の恩恵に浴していたあいだは、彼の霊魂は天主に服し、彼の肉体は霊魂に服して、そこに麗しい調和があったが、罪に汚され天主の家を追い出されてからは、天主はもう人間を子とみなされず、ただ、そむいた奴隷として、なんらの報酬をも約されないで苦役に従うことを命じられたからである。
天主の御ひとり子のおいでになったのは、このような状態においてであった。彼は人となって、苦しみと死と、その他一切の天主の正義の懲罰を受ける者として、絶対的君主である天主のみ前に、その全生涯と全存在とを少しも余さないで捧げるところの従順な奴隷となられたのである。
イエズスは奴隷であることを示すために、旧約の預言者の口を借りて『なんじはわが耳を貫きたまえり』と仰せになった。ローマ人のもとで、奴隷は耳を貫いて輪をはめ、これに紐(ひも)を通していた。これは彼が主人の僅少の命令にも従順であることをあらわす象徴であった。
主は、ご幼少の時から三十才に至るまで、大工小屋で労働に従事された。その御手は材木を運び、大工道具を使用するために荒れて、醜いたこができていた。
また、そのご教訓と奇跡とをもって、人類の無知と傷とを癒されたあとにも、主は裾を端折り前掛けを掛け、御腕をまくり、たらいに水を汲み、人々の前にひざまずいて彼らの足を洗われた。人々、すなわち奴隷のうちに最も卑しいもの、奴隷の家に生まれて自分の罪によって最も低く堕落したもの、それが主の主人たちであった。『人の子は仕えられるためならずして、仕えんために来たれり』とは、この時における主の御言葉である。
次に主は、食卓において弟子たちに給仕された。主は、かつて、そのご教訓と汗と祝福と功徳とを、彼らをはじめすべての人々に与えられたが、今度はさらに進んで、主ご自身を人類にお与えくださった。しかも、奴隷が主人の意のままに物品のように取り扱われ、どんな待遇にも甘んじるように、天主の御子、永遠の大王は、御身を聖体と化して、これを全く私たちの手に委ねられたのである。
ああ、わが魂よ、この奥義を理解するよう努め、これを驚嘆しよう。沈黙し、礼拝し、この奥義の中に没入しよう。光栄の大王が奴隷となられたのは、私たちを恥じさせ、私たちに自分の虚無を悟らせるためである。

感謝 大能の天主の奇跡は不可思議であるとともに、常に諧調に富んでいて、一見非常に矛盾するように、また最も普遍的な観念、最も確実な法則と衝突するようにみえるときにも、甘美な魅力を有して、いとも愛すべきものとなる。イエズスが人々の奴隷となられたというその驚くべきへりくだりも、同様に愛と柔和と親切と同情との空気に包まれて、そのために私たちは驚嘆するよりも、むしろおのずから感謝の念に打たれるのである。
『終わりまで愛したまえり』と福音書にあるように、主のこの最後の御へりくだりも、またその絶大な愛から出るものであった。このように主は、私たちが愛と感謝とをもって、主のご奉仕を受け入れることをお望みになる。ちょうどヤコブがおとめラケルの愛を得ようとして、その父ラバンに仕えたように、主は私たちを愛し、私たちの霊魂を望まれるあまり、私たちに仕えられるのである。主はまたこのご模範によって、天主と隣人とに対しての私たちの奉仕を、主と同様に愛によって任意的になされるものとし、必要に際しては英雄的犠牲行為にまで至らせようとお望みになるのである。主はこのために、特に聖体の秘蹟に数多い愛すべき奉仕の特徴を与えられた。
ホスチアの中にいらっしゃる忠実で愛すべきしもべを見よう。彼は昼夜をわかたずそこにとどまり、常に謙遜で尊敬の態度を失わず、貧しい衣を着して、沈黙を守り、常に注意深く、常に準備をととのえ、熱心に私たちの命令を待ち、決してこれにそむかれず、また、躊躇されない。彼はすべての主人に仕えられる。よい者もいれば悪い者もおり、親切な者も残酷な者もいる。まことに十人十色のあるじであるのに、主は同じくその命に服され、同じく彼らに献身的に仕え、よき者の仕事を助け、あしき者のためには祈りと償いとをもってその改心をお待ちになる。主は、柔和で同情に富み、善意にあふれ、私たちに仕えるのを喜んで、私たちのしもべであることを最大の幸福となさっていることを、その御言葉から、またそのご態度から私たちに感じさせてくださる。
ああ、聖体の中にいらっしゃる愛すべきしもべよ、人々から主の聖心が理解され、賛美と愛とをお受けになられるように。

償い 主のご模範をみるとき、天主のご命令にそむくことが、いかに傲慢で憎まねばならないものであるかがわかるであろう。主の謙遜で英雄的な服従と比べるとき、私たちの傲慢と不従順とが、どんなに大きな罪であるかが明らかになる。人は天主に対し『われはなんじに仕えじ』との傲慢無礼な冒瀆の言葉を発して、その罰として悪魔という最も残忍な主人の奴隷とされた。主はこれに反して『父よ、われはなんじのしもべなり、みよ、なんじのおぼしめしをなさんがために来たれり』と仰せになった。この対照に注意しよう。イエズスの従順は、私たちの傲慢と不従順とをいっそう明白にし、私たちの刑罰をいっそう重くするものである。
しかしまた同時に、聖体の中において万人の奴隷となられるイエズスのご模範は、私たちが兄弟に仕え、彼らの多くの欠点を忍ぶために、いかに大いなる教訓であろうか。
すべてのホスチアの上には次の文字が書かれている。『なんじらはわれを師または主と呼ぶ、そのいうことやよし、われはそれなればなり。しかるに主たり師たるわれにしてなんじらの足を洗いたれば、なんじらもまた互いに足を洗わざるべからず』と。
これは非常に大切な糾明の一点である。私たちは自分のわざを反省して、これを改めるとともに、天主に赦しを願い、必要な償いをしなければならない。

祈願 聖体において、私たちのしもべ、奴隷とさえおなりになる救い主であるキリストに、いとも忠実に仕える決心をして、主に必要な恩恵を願おう。主を使役するのはよい。しかしあなたもまた主に仕えなければならない。主はこれに価し、これを待ち望んでおられる。主があなたにお仕えになるように、あなたもまた主にお仕えして、奉仕に報いるに奉仕をもってしよう。少なくとも絶えず主を眺め、主を愛する者は、いかに奉仕するかを学ぼう。

実行 絶えず聖体中においでになる主であり天主である御者に自分を捧げ、今日なすわざ、また忍ばなければならない苦痛を、主への奉仕のために用いる決心をしよう。







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