tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

カンボジアの今

2011-10-24 22:14:12 | プチ放浪 都会編

 
 

「プノンペンの一日の始まりは早い。早朝に涼しい風が吹くからだ。太陽が朝もやから顔をだしてしまうと、国じゅうがうだるような暑さになる。六時にはすでに、狭くてほこりっぽい歩道は人で埋め尽くされる。白黒の制服を着た食堂の店員がドアを開けると、おいしそうな麺の匂いが客を誘う」
「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」 ルオン・ウン (著)  小林 千枝子 (翻訳)
の書き出しだ。

ルオン・ウンが書いたのは1975年4月のプノンペンの朝。アンコール・ワット観光の拠点となるシェリムアップも、急速に観光地化されつつある。そして、9月の朝はルオン・ウンの書いた文章と似たような光景だ。洪水が引いた街中の道は、細かい赤土のほこりが舞い、日の出と同時に、家々の人々は防塵マスクをして箒で家の前の掃除をはじめる。その傍らには、子供達が裸足で遊び、幼い子の手には、食べかけの朝食が握られている。
ゆったりとした子供たちの表情には、数十年前に起こったあの悲劇の残滓は微塵も感じられない。
地雷で手足を失った人々をごくたまに見かけることで、悲劇の一部をかすかに実感するにすぎない。

シェリムアップの旧市街を歩けば、中古の携帯電話ショップが目につく。市街地に住む人口はおよそ6万ぐらいだが、携帯電話ショップは秋葉原の電気街ほどに店が密集してある。
いくらなんでも、6万ぐらいの人口に対して店の数が多すぎだろう、いったい誰が買うんだと疑問だったが、良く考えてみると、近郊の農村の人々が携帯を求めて都会にやってくる。電気や電話も通じていない村だが、これから携帯電話が爆発的に普及していくのだろう。

「カンボジアでは女の人が何日も洗っていないような髪の毛をしていたら、だらしがないと思われる。長髪の男は軽蔑されるし信用されない。何か秘密を持っていると見なされてしまうのだ」
「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」 ルオン・ウン (著)  小林 千枝子 (翻訳) より。

携帯電話ショップに次いで多いのが美容院と床屋だ。これも、あちこちに何軒もある。床屋のカット料は2USドルぐらいとのこと。カンボジア人の平均月収が60~70USドルとすると、日本の貨幣価値に換算してほぼ同額。安くはない。毎日、1人から2人の散髪をすれば、売り上げはカンボジア人の平均月収に達する勘定だ。
高めの床屋代だが、それでも、現地の人たちは短めに髪を刈り上げて、髪型をいつもきちんとしている。
かつての日本と同様に、カンボジアでは女性の髪は女性美容師が、男性の髪は男性美容師がカットするのが昔からの習慣らしい。しかし、ここ最近は時代の流れとともに、女性が男性の髪を切るケースも増えてきているという。

カンボジアの通貨は「Riel ( リエル )」だが、ほとんどの店、ホテルではUS$が流通している。街中のレストランやマーケットでさえもUS$が普通に使える。しかし、おつりはRiel。1US$は4000Rielぐらい。旅行者の買い物ではRielの使い道はほとんどなく、毎日1US$と合わせて枕銭に。

言葉はクメール語(カンボジア語)が公用語だ。だが、英語はどこに行っても通じる。カンボジアの義務教育は中学までで、語学は英語かフランス語を選択するとのこと。生徒の都合により、午前中、あるいは午後のクラスが選択できるという。
ただし、小学校には子供たちの90%が登校するが、中学校になると1/4程度しか行かないらしい。さらに山奥の農村部になると、中学校への就学率は1割に満たないという。つまり、農村部ではほとんどの子どもが小学校で教育を終えてしまっている。
理由は、中学校の数が足りないこと、家計を支えるために働く子どもたちが多いからだ。日本と同様に義務教育ではあるが、カンボジアでは教育を受けることは当たり前ではない。


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そして中国

2011-10-23 22:09:52 | プチ放浪 都会編

 
 

2000年11月の江澤民中国国家主席のカンボジア訪問は中国のメンツをかけたものだった。
中国は「われわれのポル・ポト派支援は、主権と独立を守るカンボジア人民の努力に対するもので、中国は誤った政策を支援したことはない」とし、「当時の国際社会はポル・ポトを承認していた。中国はカンボジアの主権を支持した」と主張。
プノンペンでは、この江澤民国家主席の訪問に際して、クメール・ルージュを支援していた中国を紛糾する学生デモが起こる。しかし、カンボジア政府は
「過去は水に流して我々は、カンボジア問題の未来を見つめなければならない」
との声明を発表。
かくして、中国はかつてのクメール・ルージュ支援の責任を取ることを拒否。カンボジアは経済関係の強化を取り付けただけで、中国の過去を不問に。。

イデオロギーの持つ力は、どんなに愚かしく思えることでも可能にしてしまう。それが、狂気ともいうべき集団心理に結びついた時、計り知れない悲劇が起こる。
狂人たちに武器を供給した中国。中国は支援としてカンボジアに貸した金をちゃらにすることで、この問題を終わりとした。儲けたのはどこかの国の死の商人だけ。
狂気による凶弾は、いつも弱い一般市民に襲いかかる。今一度、武器輸出に関わる国際社会のあり方、輸出入の監視の仕方が見つめなおされるべきであろう。こうした悲劇を繰り返さないために。
皆が声を大にすれば・・・今、ぼくの胸には、ジョン・レノンの「イマジン」が響いている。


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クメール・ルージュの犯罪

2011-10-22 22:18:57 | プチ放浪 都会編

 
 

国連の働きかけで、ようやく、2006年7月3日に、自国民の虐待・大虐殺の罪を問うクメール・ルージュ裁判が開始される。
起訴、審理ともにカンボジア人と外国人の司法官が共同で行うこの法廷においては、国連が関与できる部分は限られている。しかも、政府の多くの職員がクメール・ルージュ党員であるうえ、中国からの裁判の阻止活動があったことから、その開廷には27年もの長い年月が費やされた。

実は、ポル・ポト政権が崩壊した直後、カンボジア人民革命評議会の緊急命令第1号(1979年7月)により、自国によるプノンペン特別市法廷が設置され、「ポル・ポト首相、ならびに、イエン・サリ副首相らの残虐犯罪を訴追する裁判」が行われている。この裁判では、ポル・ポトとイエン・サリに対して、被告欠席のまま両者ともに死刑の判決。
だが国連は、当事者の反対勢力が主催したこの自国の裁判は政治そのものであり公正性に欠けるとし、国連に働きかけで始まるクメール・ルージュ裁判においては、「先の裁判の判決を取り上げることをしない」とした。

クメール・ルージュ裁判で恐らく訴追されるであろう対象者は、ヌオン・チア元人民代表議会議長やイエン・サリ元副首相らの元最高幹部だ。首謀のポル・ポトはすでに死んでいる。
また、カンボジアの現政府はこれらの訴追対象者と司法取引を行い、恩赦をすでに与えてしまっている。その一方で、訴追対象者は、「自分は虐殺はしていない」などと強弁し、イエン・サリの妻のイエン・シリトに至っては暴言を吐くなど、罪に対する反省の色はまったくない。

2010年7月26日、カン・ケ・イウ収容施設元所長に対して禁錮35年(求刑禁錮40年)の判決。
200万人もの命が失われた「国家テロ」とも言うべき「国家犯罪」は、その核心が追求されることなく、矮小化されてしまいつつある。。

200万人以上もの民を死に追いやった責任はだれにあるのか。国家の犯罪をうやむやにしてはならない。しかしながら、犯罪が政策そのものにあったとすれば、都市から農村への強制移動、重労働による過労死、病人の放置、栄養不足による餓死、年少者に対する虐待など、非人道性の扱いは、だれが責任をとるべきなのか。
また、個々の虐殺に対しては犯罪の立証は可能であろうが、この処刑を指示したとされる人間の特定は困難だ。30年も経ってから、2~3人が有罪・死刑になったとして、それで済む問題なのだろうか。。


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ポル・ポト(クメール・ルージュ)の終焉

2011-10-21 22:20:43 | プチ放浪 都会編

 
 

1978年12月に、反クメール・ルージュのヘン・サムリンとフンセンの一派「カンプチア救国民族統一戦線」が、累計15万を超えるベトナム正規軍を引き連れてカンボジアへ侵攻。わずか半月後の翌1979年1月にプノンペンをクメール・ルージュから解放し、カンプチア人民共和国を樹立。ようやく、カンボジアの悪夢は終りとなる。

クメール・ルージュは西へ退き、タイによって支援され、ルビーと材木の密輸による資金でタイ国境付近の領域を支配し、ゲリラ戦を開始。タイやアメリカ(レーガン政権)やイギリス(サッチャー政権)から資金援助を受け、多くの地雷を埋める。

ベトナム正規軍の侵攻により崩壊したポル・ポト政権は、その後、クメール・ルージュ派、シアヌーク派、ソン・サン派からなる反ベトナム3派連合政権に武力勢力の中核として政治に参加。
しかし、アジア地域における地域紛争を解決しようとするアジア諸国は、プノンペン政府のフンセンとシアヌークに働きかけ、カンボジア和平東京会議(1990年6月)をきっかけとして、紛争は一気に解決に向かう。東西冷戦の解体が後押しした形となった。

一方、国連総会はその間、カンボジア代表権をクメール・ルージュとしていた。この背景には、カンボジア侵攻に際して、中国がクメール・ルージュを支持していた一方で、ソ連はベトナムを支持していたことがある。すなわち、クメール・ルージュとベトナムの対立は、中ソの代理戦争ともなっていたのである。したがって、反ベトナムで結束するアメリカやタイ、および、西側諸国は、クメール・ルージュのカンボジア代表権を支持・承認した。アメリカに追従する日本もまた、カンボジアの悲惨な現実を知りながらも、なお、クメール・ルージュを支援。
このため、クメール・ルージュによる大量虐殺などの暴挙は、国際的非難から免れてしまうことになる。

1991年10月、パリ和平協定が関係18か国によって調印され、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が1992年3月に発足。制憲議会選挙が実施され、シアヌークは国王に推挙。カンボジア王国政府が1993年9月に成立。


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白骨の群れ

2011-10-20 22:30:09 | プチ放浪 都会編

 
 

1976年4月、国に学問は不要と言うクメール・ルージュは、無人になったプノンペンの学校を反革命分子を尋問しその係累を暴くための施設に転用。S21(トゥール・スレン)は、その政治犯収容所のひとつだ。2年9ヶ月の間に1万4千~2万人もの人が収容され、そのうち生還できたのはたったの8人という。

中央委員会(Angkar Loeu、クメール・ルージュが存在を秘密にした上部機構)は、共産主義になったにもかかわらず、国内の飢餓が増大するのは反革命分子によるものに違いないという被害妄想を抱いた。トゥール・スレンの看守たちは残虐行為でこれに応える。政治犯として捕えられたかつての文化人たちは、長く続く拷問から死をもって解放されるため、看守たちの望む答えをし、自ら処刑されていった。
遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になった。また、処刑時の悲鳴があたりに響く事から、処刑・埋葬場はプノンペンの南西15kmのチュンエク村(後にキリング・フィールドと呼ばれる)に移された。

過去からの一切合切を切り離そうとしていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて危険人物だったのだ。それどころか、カンボジアの土着的制度、例えば市場を中心とする経済・地域社会の温存を図ろうとするクメール・ルージュ内部の人間も粛清、処刑された。 
危険な要素は、速やかに排除しなければならない。僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者や知識人はすべて処刑の対象となった。    
また、旧体制文化の知識を全く持たない子供たちが重視されるようになっていく。子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子供看守、子供医師が次々と生み出されていく。
このため、ポル・ポト派は有為の人材を失い、皮肉にも次第に政治組織としての機能と活力を失い、武力ゲリラに転落していく。
こうして、クメール・ルージュ(=ポル・ポト派)の非現実・非科学的な原始共産制社会を理想とする極端な重農政策は、カンボジア全土になお一層深刻な食糧危機をもたらす。 

1978年1月。ポル・ポトはベトナム領内の農村に攻撃をしかけ、ベトナムやソビエト連邦と断交。ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソの対立から、中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権との対立が深まる。
1978年5月。ポル・ポトへの反乱が疑われたクメール・ルージュの幹部・兵士ら(反ポルポト派)が、ポル・ポト派から攻撃を受け、内戦に。その結果、反ポル・ポト派の幹部らが大量処刑され、ベトナム領内に十数万人の反ポル・ポト派が難民として流れ込む。
ベトナムは、ポル・ポト打倒を目指して、カンボジアからの難民をカンプチア救国民族統一戦線(KNUFNS) として組織。ヘン・サムリンを首相に擁立し、彼らは大規模な攻撃を画策していた。


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