1978年12月に、反クメール・ルージュのヘン・サムリンとフンセンの一派「カンプチア救国民族統一戦線」が、累計15万を超えるベトナム正規軍を引き連れてカンボジアへ侵攻。わずか半月後の翌1979年1月にプノンペンをクメール・ルージュから解放し、カンプチア人民共和国を樹立。ようやく、カンボジアの悪夢は終りとなる。
クメール・ルージュは西へ退き、タイによって支援され、ルビーと材木の密輸による資金でタイ国境付近の領域を支配し、ゲリラ戦を開始。タイやアメリカ(レーガン政権)やイギリス(サッチャー政権)から資金援助を受け、多くの地雷を埋める。
ベトナム正規軍の侵攻により崩壊したポル・ポト政権は、その後、クメール・ルージュ派、シアヌーク派、ソン・サン派からなる反ベトナム3派連合政権に武力勢力の中核として政治に参加。
しかし、アジア地域における地域紛争を解決しようとするアジア諸国は、プノンペン政府のフンセンとシアヌークに働きかけ、カンボジア和平東京会議(1990年6月)をきっかけとして、紛争は一気に解決に向かう。東西冷戦の解体が後押しした形となった。
一方、国連総会はその間、カンボジア代表権をクメール・ルージュとしていた。この背景には、カンボジア侵攻に際して、中国がクメール・ルージュを支持していた一方で、ソ連はベトナムを支持していたことがある。すなわち、クメール・ルージュとベトナムの対立は、中ソの代理戦争ともなっていたのである。したがって、反ベトナムで結束するアメリカやタイ、および、西側諸国は、クメール・ルージュのカンボジア代表権を支持・承認した。アメリカに追従する日本もまた、カンボジアの悲惨な現実を知りながらも、なお、クメール・ルージュを支援。
このため、クメール・ルージュによる大量虐殺などの暴挙は、国際的非難から免れてしまうことになる。
1991年10月、パリ和平協定が関係18か国によって調印され、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が1992年3月に発足。制憲議会選挙が実施され、シアヌークは国王に推挙。カンボジア王国政府が1993年9月に成立。
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