tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

クメール民族の不幸(2)

2011-10-16 21:44:47 | プチ放浪 都会編

 
 

1970年3月18日。シアヌーク国王がモスクワと北京を訪問中、下院でシアヌークの国家元首解任が満場一致で可決。アメリカが後ろ盾した軍事クーデターだ。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となる。
一方、シアヌークは中国・周恩来によって、北京に亡命政府を樹立。ロン・ノルと米国の戦いのため、北ベトナムと共同戦線をつくり武装闘争を開始。

このクーデターの数日後、デモと暴動がカンボジアのいたる所で起こる。3月29日には約4万人の農民がシアヌークの復権を要求するデモをして軍隊と衝突、多くの死傷者が出た。
ロン・ノルは激しい反北ベトナムキャンペーンを行う。そして、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への支援が疑われたカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺。シアヌーク時代に50万人いた在カンボジアベトナム人のうち20万人がベトナムに集団帰還せざるを得なかった。

カンボジアがロン・ノル政権になり、自由がきくようになったアメリカは、ロン・ノルの黙認のもと、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナム及び南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断を目的として、カンボジア領内に爆撃を開始。投下された爆弾量は、第二次世界大戦でアメリカが日本に投下した総量の実に3倍。このため、数十万人の農民が犠牲となり、さらに200万人が国内難民に。
都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行。これがゆえ、農村部ではロン・ノルに対する反感が多く、反ロン・ノル勢力である共産主義勢力クメール・ルージュの伸張を招くことになる。


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