彦四郎の中国生活

中国滞在記

春爛漫の京都市にも黄砂が飛来―立命館大学、昨年と今年の新入生の入学式―京都白川の柳並木

2021-04-03 06:47:00 | 滞在記

※前号のブログで、「宗戸の支持」とあったのは、「宗戸の指示」の間違いです。訂正します。

 収まらないコロナ禍パンデミック下だが、春爛漫の季節を迎えている京都市にも中国やモンゴルに広がるゴビ砂漠からの強烈な黄砂が3月30日(火曜日)に飛来し空を覆った。晴れの日にもかかわらず、空は一面に灰色に霞(かす)む。賀茂川と高野川が合流する出町柳周辺の橋からは河川周辺の桜並木が延々と続く。北の方面には賀茂川の向こうに丹波山系の山々がいつもは見えるのだが、黄砂のためにまったく見えない。東の方面の東山山系もわずかに山容が霞んで見えるだけ。そんな中だが、家族連れや若い人たちが水辺で過ごしていた。

 京都市の賀茂川や高野川、そして2つの川が合流して鴨川となるのだが、川の堤防や河川敷には数キロにわたって延々と桜並木や春の花々の木々が咲き誇り、「桜回廊」とも「花回廊」とも呼ばれる。だが、あいにくこの日は黄砂襲来の光景。この日、大阪や京都は黄砂のために視界は5kmまでだったとの報道が翌日31日にあった。

 私が何度か目のモンゴルのゴビ砂漠で恐竜発掘調査を行っていた2000年8月、中国との国境に近いウハー・トルゴドというところで初めて砂嵐(黄砂のもと)というものを経験した。ゴビ砂漠での砂嵐は毎年、春先の3月や4月が最も大規模に発生する。だから私が経験した夏の8月の砂嵐はまだ小規模なものだった。この時の砂嵐は高さが200mあまり、幅が数十Kmの巨大な屏風の壁のような砂嵐へと及んだようだが、これでも小規模なものだったとモンゴルの古生物学研究者たちは言っていた。

 砂嵐が進む時速は250~300kmほど、新幹線のスピードと同じくらいの速度であっという間に砂の屏風の壁が迫って来た。巨大屏風が動くという感じ。急ぎ車の中に避難し車窓を締め切る。視界は0mとなる状況が20分間ほど続いた。黄砂が行き過ぎて、近くの調査隊のテントに入ると、チャックで締め切っていたテントの中は入り込んだ砂が大量に積もり、荷物などは砂で埋まっていた。小規模な夏の砂嵐(黄砂のもと)でもこんな感じだった。

 3月30日(火)のこの日、午前中に中国の大学の学生たちとのオンライン授業を終えて、午後に京都市内の立命館大学に向かうため、出町柳近くのバス停からバスに乗った。図書館で3カ月あまり借りていた書籍の返却期限が翌日に迫っていたからだ。立命館大学に研修員としての籍があるため、100冊までを100日間借りることができるので、時々利用している。

 立命館大学はこの4月2日(金)には2021年4月新入学生の入学式が行われた。また、明日の4月4日(日)には昨年の新型コロナウイルス感染拡大にともなう全国的な緊急事態宣言の発令により、入学式が行われなかった2020年4月入学生の入学式が行われる予定。30日には大学構内の桜が例年より1週間は早く、満開の時期を迎えていた。

 欧米からの留学生たちが、桜の下で写真撮影を楽しんでもいた。しかし、留学生の中には日本に来日できない学生たちも多い。私の中国・閩江大学の教え子の一人の林瀟銘さんも、昨年の9月(秋入学―大学院)で来日予定だったが、全面的なオンライン授業が予定されていたので来日せず、中国で立命館大学大学院のオンライン授業を受講していた。そして今年の3月には来日して日本での留学生生活をするため準備していた。

 しかし、昨年度末からの日本での感染拡大第3波の状況下、留学生も含めた日本政府の入国制限措置のため、結局、来日ができていない。立命館大学大学院はこの4月からの講義・授業は全てオンライン授業ではなく、対面授業を実施する予定となっている。このため、来日できなければ、オンラインでの受講もなくなるので、休学措置を取らざるを得なくなっている。

 大学構内の桜は、夜間になるとまた夜桜となって美しい。コロナ禍発生以前の2019年度までの入学式は、ちょうど桜が7分咲きから満開になる時期で、新入生たちやその親たちの姿で入学式は華やかな光景がみられたのだが‥。

 ―京都で桜がこんなに早く満開になるのは、過去1200年で今年が最も早いとのこと―確かに今年の桜は早かった

 今年の京都の桜はなんと3月26日頃に満開となった。(気象庁発表)  これは過去30年間の平均より10日間も早い記録だったそうだ。

 京都の桜については、いにしえの人たちが日記や和歌、そして宮廷の記録などに書き記されていることが多く、大阪府立大学の青野靖之准教授が京都における観桜会や花見に関する記述を年表にまとめた研究によると、一番古い記録はなんと812年のもの。そして、桜が満開になった一番早い以前の記録は1409年の3月27日だとのこと。今年はこの記録を1日上回った。桜の開花と満開の時期は近年、だんだん早まっていてきているようだ。入学式に満開の桜で記念撮影ではなく、卒業式に記念撮影ということになりつつあるのかもしれない。

 3月31日(水)、この日は私の担当する大学の授業がない曜日なので、銀閣寺近くの娘の家に午前中から行き孫の世話の手助け。午後3時ころ、娘の家を後にして、車で京都市内の知恩院近くの白川沿いの道を通った。白川の清流と柳の並木が美しい。京都は桜の季節のあと、青もみじや新緑の季節を迎えるころとなっていく。

 同日、午後4時ころ、自宅に戻る途中に車で京都市伏見地区を車で通過する。大手筋通りにある伏見の酒蔵と堤防の菜の花のコントラストがとても美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


桜100選、琵琶湖湖北・海津大崎から葛籠尾崎の桜並木―1931年Ⅰ人の道路工事人夫が植え始めた

2021-04-02 08:07:18 | 滞在記

 3月30日(日)、この日の午後、風雨をともなう悪天候の中、妻とともに京都から故郷の福井県南越前町の実家に帰省した。翌朝の31日(月)、天候が回復し青空が見え始めていた。早朝、朝靄(あさもや)に包まれる故郷の光景。白木蓮や辛夷(こぶし)、蕗の薹(とう)の花が満開を迎えていた。

 日本列島の固有種の桜の一つ山桜(ヤマザクラ)が朝靄の山々に点在していた。故郷・南越前町の桜の開花は例年、京都市よりもほぼ1週間ほど遅れるが、今年は開花が1週間ほど例年よりも早いようだった。京都への帰路によく通る南越前町南条地区の枝垂れ桜も5分咲きとなっていた。

 南越前町の今庄地区や南条地区を流れる日野川。豪雪地帯の今庄地区の山々からの雪解け水で水量も多い。この川沿いの堤防の桜並木もまた見事な景観を見せてくれる。水田や村々を守る堤防沿いの、日本の原風景的な光景だ。土筆(つくし)が大きくなっていた。

 京都への帰路、滋賀県に入る。琵琶湖湖北の海津大崎をめざす途中、水田の水路沿いの八重桜並木が美しい。

 何十年も前から、故郷への往復路によく通る琵琶湖湖北の海津大崎だが、この桜の季節にここを通るのは初めてだった。日本の桜名所100選にもなっている海津大崎の桜並木だが、ここもまた例年より1週間早く開花し、満開となっていた。

 海津大崎(かいづおおさき)や葛籠尾崎(つづらおさき)などのある琵琶湖湖北一帯。2015年に、「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」として「日本遺産」に認定された。青く澄んだ静かな湖面に緑濃き山塊がどっしりとそびえる様は、比較的平坦な地形の多い琵琶湖におい、ここは特に神秘的な景観をかもし出している。

 海津港から海津大崎を経て大浦港までの約4kmにわたって約800本の染井吉野(ソメイヨシノ)が咲き誇り、美しい桜のトンネルが続く。さらに、大浦港から菅浦港までの約3kmの湖岸沿いの道にも、おそらく500本あまりの染井吉野が咲き誇る。つまり、約7kmの湖沿いに1300本あまりの桜並木が延々と続くという光景だった。

 ここはそれだけではなかった。菅浦の集落から塩津の集落にかけてつくられている奥琵琶湖パーク―ウエーの約5〜6kmの道にも、ソメイヨシノの並木が延々と続くのだ。

 琵琶湖特有の「エリ漁(エリ・魚偏に入と書く)」の光景。竹生島(ちくぶじま)が見える。湖北の岸辺で、おじいちゃん・おばあちゃんと小学校高学年と中学生くらいの二人の孫娘がのんびりとお弁当を食べていた。時が止まるような光景だった。

 奥琵琶湖パークウェイの葛籠尾崎展望台に行くと、琵琶湖東岸の湖北地域が一望できる。平日の月曜日にもかかわらず、たくさんの人がここに来ていた。なかには中国人らしき若い夫婦の姿も。女性の方は中国伝統の明時代の漢服、二人の幼い男の子と女の子は清時代末期からのチャイナ服。色は高貴な身分を表す黄色。中国国内では最近、漢服を着て桜などのお花見をし、写真を撮影するということが、ここ数年前から大ブームとなっている。

 国の重要文化的景観に選定されている菅浦の湖岸集落も眼下に望める。

 ここ海津港(集落)から海津大崎を経て大浦港(集落)や葛籠尾崎に近い菅浦港(集落)への約7kmあまりの湖岸沿いにながら道はなかった。古写真などを見るとそのことを物語っている。1936年(昭和11年)に海津大崎付近の数個のトンネルがつくられ、海津―大浦間の湖岸道路が完成した。そして、完全な陸の孤島だった菅浦集落も、大浦―菅浦間の道路がつくられ、長い歴史の間の陸の孤島は終わることとなった。

 今では樹齢100年を超える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで何千本もの桜が続く湖北・奥琵琶湖。この桜並木の誕生は、道路作業員(人夫)としてこの湖岸沿いの道路つくり作業に従事していた一人の男性から始まる。男性の名は宗戸清七(当時37歳)。重労働の疲れを癒してくれたのが、道から見える澄み切った琵琶湖の沖に浮かぶ竹生島の姿。自分たちが作業をしている愛着の生まれ始めた道に何か残したいと思った宗戸は、作業の合間に自費で購入した桜の若木を植えた始めた。

 3年後に若木が花をつけ始めると地区の青年団も協力をし始め、宗戸の支持で団員がリヤカーで水や土を運び、若木がしっかりと根付くよう植樹を行ったことが、後の桜並木をつくる大きなきっかけとなった。1930年代はじめのころのことであった。古写真でも十数年たって桜を咲かせる並木をみることができる。1990年、日本さくら名所100選の地に選定された。

 3月31日(月)、晴天となったこの日、湖北から安曇川沿いに朽木に至り、桜が咲き誇る鯖街道をぬけて京都大原へ。鴨川沿いの桜並木を経て、そして自宅に戻った。