彦四郎の中国生活

中国滞在記

百済寺❷信長が惚れ込んで自分だけの勅願寺とするも、可愛さあまって全山焼き討ちにされた城郭寺院

2021-04-16 21:30:10 | 滞在記

 百済寺の奥深くまで今回初めて見て廻ることとなったのだが、寺院の中心地区には300あまりの僧坊が建ち並んでとの説明のとおり、棚田や段々畑のように山の山頂に向かって坊の跡地が次々と現れる。山城の郭(曲輪)そのものだ。三椏(ミツマタ)が花を満開になり、いたるところに群生している光景。こんなにたくさんの群生を初めて目にした。三椏の群生の横で石楠花(しゃくなげ)の花が開花していた。境内の山道のいたるところに三椏が群生している。

 「桜の国、日本」では桜はどこでも見られるが、三椏のおびただしい群生はなかなか珍しい。説明版などによると、和紙の原料となる三椏、楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)の三木は繊維質がとても多いため、鹿なども食べなく食害がほとんどないようだ。

 境内のゆるい山道を登って本堂に着いた。横に鐘堂が。この百済寺は滋賀県(近江国)で最も古い寺院。開基は聖徳太子で604年(飛鳥時代)。寺伝によれば、聖徳太子は当時来日していた朝鮮・高句麗の僧とともにこの付近に来た際に、ここに寺院を建立することを決めたのだという。朝鮮の百済(くだら)国の寺院に由来した「百済(ひゃくさい)寺」と銘名。渡来系氏族の氏寺としても開山された可能性も高い。(※この時代、近畿各地に寺院が建立されている。大阪の四天王寺・京都太秦の広隆寺・飛鳥の飛鳥寺・奈良の法隆寺など)

   平安時代から中世にかけて、1000余りの僧坊をもつ大伽藍だったようだが、1498年の火災や1503年の戦乱(近江守護六角氏と近江守護代の伊庭氏との戦い)に巻き込まれて、かなりの建物が焼失。その後、建物は再建され寺勢も回復。六角氏は、琵琶湖畔に近い観音正寺のある山を城郭化し観音寺城(本城)とした。そして、ここ百済寺には坊を山城の郭(曲輪)仕様に城郭寺院への改修し、石垣も多用して城塞化。観音寺城の支城の一つとしての位置づける。観音寺城と同じく、石垣を多用して防御力を強化している。

 そのような曲輪化機能をもった百済寺の坊や主要な建物を配置した全山の模型が、本堂内に置かれていた。寺院の入り口にあたる赤門から本堂までの高低差(比高)は100mある。かってはここ本堂の裏手の山中に五重の塔もあって跡地が残る。本堂のあるところから仁王門を見下ろす。長く続く苔むした石段、周囲の杉などの大木、そして仁王門。ものすごく風情のある、幽玄な美をもつ一画だ。なかなかこのような深山の幽玄さをもつ大寺院はちよっと珍しい。

 高所にある本堂から石段を下って仁王門に、仁王門から本堂に続く石段を見る。なんという幽玄美か感嘆する。さらに参道(大手道)の石段を下って仁王門に続く道を見る。苔むした石垣に囲まれた石段が真っ直ぐに続いていた。京都市内などの寺とはまた違った自然と調和したというか、自然の中に溶け込んだ大伽藍の寺院だ。

 散り椿が参道の石段に点在している。苔むした石垣の上にも椿が散っている。1573年(元亀4年)、再び百済寺は戦乱に見舞われた。織田信長の「百済寺全山焼き討ち」である。この信長と百済寺の関係は実に興味深い。信長という人間を知るうえでも‥。なんと、戦国の覇者・織田信長がこの百済寺に魅了され、生涯で唯一の勅願寺と定めていたことが文献に残っている。ちなみに勅願寺とは、簡単に説明すると「かかりつけのお寺」のようなイメージ。

 このため、信長は「百済寺に対する租税要求や人足の要求」を禁止し、「他の者が祈願寺にすると申し出ても受け入れてはならない」との禁制を出した。ようするに、ここは信長だけの祈願所だという宣言だ。これほどまでに惚れ込んだ寺院だった。その惚れ込んだ寺院を全山焼き討ちにした。惚れ込んだ女が他の男に気を移したことに怒り、女を殺して焼き尽してしまう心理と同じだ。可愛さあまって憎さ百倍の心理。

 1571年に信長は比叡山全山焼き討ちをしている。1573年に武田信玄が死去し、長年の信長包囲網は崩れることとなる。これに安堵した信長は本拠地の岐阜城に近畿・京都より戻る途中にここ、惚れている百済寺で2~3泊逗留する。百済寺から5kmほど南西に鯰江(なまずえ)城という平城があった。愛知川の河岸段丘に築かれた城で、ここに信長に抵抗を続ける六角氏が籠っていた。この城を信長軍団の佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀などが包囲していたが城はなかなか落城しなかった。

 城がなかなか落城しないのは、実は城外に六角氏への協力者があったからでもある。それが百済寺だった。僧侶たちは、信長軍に知られないように兵糧を運び込んだり、六角軍にいる将兵や兵士たちの妻子を坊に密かに匿うなどの協力をしていたのだった。比叡山延暦寺の全山焼き討ちが2年前の1571年にあったというのに、百済寺の僧侶たちも見上げた根性というか‥。このことを知った信長は惚れて愛していた百済寺の全山焼き討ちを4月11日の挙行した。

 想像するに、百済寺側は信長からのラブコール的禁制にひどく頭を悩ませていたのではないかと思う。悩みに悩んで、信長とも、そして長年の深い付き合いと親交のある六角氏とも関係を続けることとなったのではないかと推測される。要するに、百済寺としては信長のことが好きでもなく、むしろ同じく天台宗の総本山である延暦寺を焼き討ちにして三千人を皆殺しにした憎むべき男だが、時の最高権力者のラブコールは嫌でも断れず関係をもたされたが、いままでの恋人だった六角氏とも密かに関係を続けて意地をみせていたのではないかと思う。完全な信長の片思いだったのかと思う。しかし、宗教嫌い的な面のある信長をそこまで惚れさせた魅力がこの寺院には当時もあったのだろう。

 全山焼き討ち後、百済寺の石垣の石や仏石は琵琶湖畔に新しく築かれる信長の居城・安土城の石垣として大量に運ばれた。安土城の見事なまでの大手道は、ここ百済寺の真っ直ぐなな美しい参道に着想を得て作られた。つまりは、かって愛し惚れた百済寺を怒りにまかせて焼き尽くし、この安土城に近世城郭として、新たな自分だけの百済寺として築城したとも言える。

 なにやら、この信長と百済寺との関係は、『源氏物語』で、光源氏が、幼い頃に亡くなった母・桐壺の更衣によく似ている藤壺の更衣(※源氏の初恋の人・天皇である父の後妻で光源氏にとっては5歳年上の義母、源氏は恋したい性的関係をもってしまい藤壺は子を身ごもり出産。この事実を知らず父の天皇は崩御。藤壺は出家する。)の姪で、藤壺に似た幼い紫の上を養育し理想の女性に育てて妻とする物語に似通ったところがある。藤壺の更衣は百済寺、紫の上は安土城である。

 戦国時代に来日していた宣教師のルイス・フロイトはこの百済寺のことを書簡に「百済寺と称する大学には、多数の相互に独立した僧院や座敷と庭園・築山を備えた僧房が建ち並び、まさに地上の楽園が‥」と書いている。

 全ての建物が焼き尽くされ、火は半月間消えなかった。本尊の"植木観音"とも呼ばれる 飛鳥時代に作られた十一面観音像(3.2m)は、僧侶が背負って山頂に向かって逃れ、本堂から8km離れた奥の院近くに移されて守られた。このとき、僧侶が背負って逃れた際に仏像の足が山道で引きずられ損傷した。この損傷のため、この仏像は国宝指定とはなっていないようだ。秘仏とされていて、半世紀(50年)に一度、開帳(公開)される。

 信長の焼き討ちにあった百済寺はその後、1582年に本能寺の変で信長は死去、この信長や豊臣秀吉に仕えた堀秀政によって仮本堂が1584年に建てられた。1600年代の江戸時代になり復興がされはじめ、1650年に本堂・本坊・赤門・仁王門が建立され現在に至っている。現在においてもこれらの建物以外の僧坊などはない。

 参道脇の苔むした地面に「百済寺の美を絶賛した人々」と書かれた盤が置かれていた。「鎌倉:藤原定家 安土・桃山:ルイス・フロイス 江戸:春日局 昭和:白洲正子、小林秀雄 平成:五木寛之など」の名前が。

 百済寺の境内は積雪もけっこう多く、例年50cmほどの積雪を記録する。信長の焼き討ちにあうまで、この寺では「百済樽」と名前のつけられた酒がつくられてもいたようだ。2017年にこの酒の復刻版が地元の酒造会社の蔵でつくられたと聞く。

 今年2021年の1月2日、NHKで「正月時代劇ドラマ」として、江戸時代の絵師「伊藤若冲」を描いた『ライジング 若冲—天才かくの覚醒せり』が放映された。このドラマの一場面では、ここ百済寺の仁王門とその周辺が撮影場所となっていた。

 2年ほど前に全国公開された映画『関ヶ原』では、本坊の回廊式庭園と縁側などが撮影場所になっている。また、映画『駆け込み女 駆け出し男』やドラマ『剣客商売』・『功名が辻』などの撮影場所ともなっている。

 国史跡の寺院でもある。四月上旬、三つ葉ツツジも咲き始めていた。