彦四郎の中国生活

中国滞在記

広島に行く❹―日本三景の一つ「宮島」(厳嶋神社)―厳嶋の戦いの跡

2018-08-12 09:15:32 | 滞在記

  8月8日(水)の午前11時に、JR広島駅の山陽本線で「宮島口」に向かった。30分ほどで到着。宮島に向かう「フェリー」に乗る。島に近づく。かなり大きな島だ。周囲は30kmもあるらしく、島の高い山は何か神々しい感じもする。最高峰は530mという。海峡には「牡蠣(かき)の養殖」だろうか、筏(いかだ)が並ぶ。

 厳嶋神社の朱色の大鳥居が見えてきた。鳥居の周りにはたくさんの人がいる。そうか、今は干潮時刻で、鳥居の周りは海の水が引いているんだ。残念‥‥。別のフェリーが通って行った。暑い日だが、船のデッキは風があたって気持ちがよかった。船を降りると、干潮時の浜辺が広がっていた。潮干狩りをする人の姿も見える。

  長く続く「宮島商店街」にはたくさんの人が各店を訪れていた。なかなかいい商店街だ。この宮島は鹿がたくさんいた。小さな小鹿と母親、大鳥居を背景にして写真を撮る人たち。外国からの観光客も多い。

 朱色の神殿と渡り廊下、この廊下の下まで、満潮時には海水で浸される。満潮時のこの神社はとても美しく、「東洋の美」となる世界なのだろう。1996年に世界文化遺産となった。国宝でもある。この「厳嶋神社」がある宮島は、古代より「島全体」が神の島として信仰されてきたが、593年に神社が創建された歴史をもつ。その後、1168年、平清盛により寝殿造りの様式を取り入れた神社として造営され、今日に至っている。海水の干満を利用したアイデアは、東洋の美の一つとしてなかなか素晴らしいと感じた。

 神社の入口にある狛犬は、顔を空高く上げていたのが印象に残った。この宮島で戦国時代には有名な戦いがあった。「厳嶋の戦い」である。その戦場となった史跡も残っていた。小高い丘のような「要害山」という場所にはかって「宮尾城」という砦のような城があった。この城を巡って、2万4千もの軍兵がこの狭い島で戦いをしたのが「厳嶋合戦」だった。

 1555年、毛利元就の軍勢4000と陶晴方(大内方)の軍勢20000とがここで激突した。毛利家はもともと広島の地からかなり離れた山間の地「吉田郡山」を拠点とした一豪族にすぎず、山陰地方の大勢力「尼子氏」と周防・長門などを有する「大内氏」の狭間にゆれる小さな勢力にすぎなかった。尼子の何万という軍兵に「吉田郡山城(山城)」を包囲され、これを大内氏の支援も受けて撃退した。そして、息子2人を吉川氏や小早川氏の養子となし、勢力基盤を固めて行った。

 そしてついに、1555年、大内氏の実権を握っていた陶晴方の大軍勢をこの狭い厳嶋神社のある宮島に誘い込み、村上水軍なども味方につけ、奇襲をもって5倍にもあたる大軍勢を壊滅させた戦いだった。その戦いに至るまでの情報操作戦も含めて、毛利元就の戦略とは見事なりと感嘆する。その後、周防・長門を勢力下に収め、山陰の覇者・尼子氏を「月山富田城」に追い詰め亡ぼし、中国地方の覇者となっていった。

 宮島を後にして、帰りは、広島市電に乗り、1時間あまりで広島駅に到着をした。

◆この「広島に行く」シリーズは、後日(盆明け)、「原爆と広島」をテーマに続きます。お盆のため、故郷に今日の12日から15日まで帰省をします。故郷の家には「インターネット通信機能」がありませんです。