彦四郎の中国生活

中国滞在記

東京上野❸―国立博物館②―日本の「縄文文化」の新たな世界史的位置づけが注目されている

2018-08-04 18:46:40 | 滞在記

 平成館で開催されていた「縄文JOMON」特別展に行く。7月20日あたりのNHKの番組「歴史ヒストリア」では、この縄文特別展がテーマとしてとりあげられていた。東京に行く機会があれば、ぜひに見たいと思っていた。

 「一万年の美の鼓動」、「ニッポンの、美の原点。」、「10000Years  of  Prehistoric  Art  in  Japan」、「命の力に満ちた美を、いま、この時代に感じたい。」 史上初、縄文の国宝、6件すべてが集結していた、まさに特別展だと感じた。(◆6件の縄文国宝①火焔型土器 ②土偶 合掌土偶 ③土偶 仮面の女神 ④土偶 縄文のビーナス ⑤土偶 中空土偶 ⑥土偶 縄文の女神 )//重要文化財 土偶 遮光器土偶―

 翡翠で造られたペンダント、土を焼いて造られた精巧な耳飾り、動物の土偶、縄文のさまざまな土器や土偶、などなど、縄文時代1万年の生活を彩るものが207点 展示されていた。日本各地の博物館等にある発掘品で重要なものが一堂に終結している感があった。改めて縄文時代という時代の文化性や芸術性の高さに気づかされた。(※残念ながらこの特別展は撮影禁止なので、私が館内で撮影した写真は1枚もない。)

 驚いたことの一つは「土器」のことだった。世界四大文明(中国黄河・インダス・メソポタミア・エジプト)のどの文明よりも、日本の縄文土器は古い時代に作られ始めたものだったこと、四大文明地の土器よりも数段も芸術性や精巧性にすぐれているという事実だった。この土器づくりの技法は、耳飾りやネックレスなどの装飾品にも精巧さが見て取れるものだった。

 約1万3000年前から3000年前までの1万年にも渡って続いた日本の縄文時代とは、どんな文化の時代だったのか、今 世界の考古研究者の間でも、「四大文明」に勝るとも劣らない独自の文化として、世界史的にも注目が集まってきているようだ。

 今年の始め頃に、NHKのスペシャルプロジェクト「アジア巨大遺跡」で、この縄文時代(文化)と三内丸山遺跡(青森県)が取り上げられた。豊かな巨大集落である三内丸山遺跡は、「狩猟採集」の人々の暮らしのなかで「定住」をしていた巨大移籍であった。世界史的には、農耕が始まって巨大な定住集落ができるというのが通説であったが、日本の縄文遺跡はこの定説を覆した。そして、遺跡からは高度な芸術品も多く発見された。「この1万年も永続した高度に文明的な日本の縄文文化というものを。世界史的にどう位置付ければいいのか?」と、世界の考古歴史学者は考えざるを得なかった。

 世界の研究者たちは次のように語る。「縄文は人類史上、極めて重要な位置を占めています。」「洗練されたライフスタイルは世界でも極めて珍しいものです。」「西洋の考古学的発想の枠組みを大きく変える発見だったのです。」

 文明史研究で著名なアメリカ・カルフォルニア大学のジャレド・ダイヤモンド教授は語る。「縄文人は1万年以上にわたって永続的に文化・文明をつくりました。この長さもそうですが、この文化・文明は偉業です。」「狩猟採集民族は愚かで原始的な生活を送っていたと考えるのが欧米では一般的です。しかし通常、農耕民族が行う集落の発展を すでに日本では狩猟採集民族が成し遂げていたのです。その意味で縄文人は世界で最も豊かな狩猟採集民族といえます。」

◆この1万年にもわたる永続的な縄文文化が日本列島という地で続いたわけは、1万年前に、地球の寒冷期が終わり、日本列島と朝鮮半島が陸続きだったのが離れ、今の対馬海流(暖流)が日本海に流れ込んだことの要因が大きいとされる。豊かな雨や雪が日本列島に降り、明確な四季ができて、「水と森の豊かな日本列島」ができたとされる。このため、豊かな木の実や動物が多く、植物の採集と合わせて、定住可能な暮らしと大集落ができた。これは、世界の歴史的にみても、「日本列島」だからこそ可能だった奇跡の地だったようだ。

 1996年から2002年にかけて5回、モンゴルゴビ砂漠に恐竜化石発掘調査に行った。その際、内モンゴル(中国)との国境に近いパインザク(炎の崖)に近いところで、大量の石器を見つけた。(磨製石器)  100個ほど日本に持ち帰った。このうち、「玉(ぎょく)」で造られた石器の何個かを、梅原猛(哲学者)に見てもらった。見つけた場所は、石器工房のような場所だったのだろう。「細石刃石器」という東アジア北方特有の石器も10個ほど持ち帰っていた。この石器は日本の東北でも見つかっている。1万年前の縄文人も使った石器だった。

 来日した福建師範大学の倪(ニイ)先生から、この玉(ぎょく)の立派なものを頂いた。この玉(ぎょく)は、中国では古代より尊重されている高貴な宝石だ。玉(ぎょく)に次いでは翡翠(ひすい)を中国人は尊ぶ。

◆東京国立博物館を後にして、東京駅に向かう。妻への土産に駅弁を2つ買い、京都に戻った。

 

 

 

 

 


東京上野❷―東京国立博物館に行く①

2018-08-04 11:50:56 | 滞在記

 国立科学博物館にはもう10回ばかりは行っていたが、東京国立博物館には初めて行った。本館、東洋館、平成館など5つの大きな建物があった。

 まずは、常設展が置かれている「本館」に入る。各展示室には、国宝や重要文化財などがずらりと並べられていた。

 欧米からの外国人観光客の来館も多く見られた。本館の後には、池や茶室などの日本庭園もあった。龍の上に乗る菩薩などは、中国人の最も好むものかと思った。

 高村光雲の猿の彫刻、葛飾北斎の富嶽百景の有名な浮世絵、各種浮世絵などなど、多くの重要な美術品のオンパレード。売店には尾形光琳の屏風のレプリカがあった。欲しいと思うが、値段が50万円‥。とても手が届かない。買うには1桁違っていた。


東京上野❶―台風直下、不忍池の蓮が満開、福建師範大学時代の同僚たちと会う

2018-08-04 10:21:11 | 滞在記

 まれにみる軌道をたどった台風12号が東京に最も接近した日、7月28日(土)の昼過ぎに新幹線で京都駅を出発。東海道の在来線は何箇所かの路線で運転見合わせを行っていたが、新幹線は停まらずに動いていた。午後3時頃東京駅に無事着いた。そして、JR上野駅に向かった。午後3時半頃から、台風の影響で強い風雨が降り始めた。

 上野不忍池の畔のホテルに到着し荷物を降ろす。午後4時ころから、近くの喫茶店で新しく閩江大学に新しく9月より赴任予定の鈴木さんと会った。夫の人も来ていた。1時間半ほど、「中国での生活のことや仕事に関する事」などを話す。

 不忍池の蓮が満開だった。これだけの多くの蓮がまとまって咲き誇る様(さま)は、本場の中国でもそんなに多くはない。

 28日(土)の午後6時にJR上野駅の不忍口で、福建師範大学に以前勤務していた目黒さんや藤田さん、そして現在も福建師範大学に勤めている倪(ニイ)先生(中国人)と待ち合わせをした。ニイ先生は、7月22日より研究や学会参加のために東京の大学などに10日間ほどの日程で来日していた。上野末吉町の飲食店街で会食をした。みんなと8時半ころ別れて、中国福建省出身の人が経営する飲み屋に行った。

 翌朝29日(日)起床し、不忍池近くの喫茶「黒門」に行き、コーヒーを飲みながら煙草を吸って過ごす。私はこの昭和レトロな喫茶店が好きだ。店は広く、30余りの喫煙席と30余りの禁煙席がある。台風が関西地方に去ったこの日の東京は、早朝から猛烈な暑さだった。

 上野公園の入り口にカエルの噴水がある。猛暑の中、雀が水浴びに来ていた。寝ころぶ人や朝からビールやコップ酒を飲んでいる人、パンを取り合ってい群がっている鳩など、なんかここは東京で最も心が休まるエリアだ。私は、ここ東京は大阪よりずっと好きな街だが、とりわけここ上野界隈が心落ち着く。東京人は大阪人よりはるかに知性や粋というものをもつ人が多いように感じている。

 外国からの観光客も多い。西郷隆盛像のそぱに「デェイゴ」の赤い花が咲いていた。西郷が島送りになった「奄美大島」にはよく自生している亜熱帯の花だ。しばらく行くと、たくさんの人が行列を作っていた。「なぜたくさんの人が並んでいるのですか?」と並んでいる若い女性に聞いたら、なにかの作品展の今日が最終日のためと言っていた。

 上野精養軒とばかり ずっと思っていた、ちょっと風情のあるレストランは、「GREEN PARK」というレストランだった。実際の上野精養軒のレストランに初めて行ってみたが、ホテルのようななんの風情もない建物だった。小さな稲荷社には欧米の観光客が。国立科学博物館では「昆虫しようぜ」の特別展が開催されていた。付近には、野口英世の銅像。

 「東京国立博物館」の「縄文展」を見たいので、そちらに向かう。猛暑の中、汗の流れが止まらない。