彦四郎の中国生活

中国滞在記

広島に行く❷―日本三大「平城(ひらじろ)」の一つだった大城郭―川と堀で囲まれた要害の広島城

2018-08-11 23:15:04 | 滞在記

 広島城は、かっては日本の「三大平城(ひらじろ)」の一つといわれ、壮大な城郭の城であった。本丸と二の丸を取り囲む「内堀」、三の丸を取り囲む「中堀」、そしてその周りを取り囲む「河川」や「海」。水に取り囲まれた要害の城郭だった。1589年に、山陰・山陽9か国120万石を領する毛利輝元(※毛利元就の孫)が、叔父の吉川元春や小早川隆景とともに築き始めた。太田川デルタ地帯を利用し、五重の大天守と三重の小天守のほか、45基にもおよぶ櫓(やぐら)を擁する壮大な近世城郭は、10年後の1599年に完成した。そして地名を「広島」に改めた。「鯉城(りじょう)」とも呼ばれる。広島カープの球団名の「カープ(carp)・英語」はこの城の別名「鯉城」の「鯉」(こい)という意味から由来している。

 1600年の関ヶ原の戦いに西軍方の毛利家(西軍)は敗れたため、替わって東軍方の武将・福島正則が城主となった。1615年の「大阪夏の陣・冬の陣」で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、福島正則を改易した。その後、浅野氏が城主となり幕末まで続いた。天守や櫓などは明治の破却を免れ、日清戦争の際には大本営がここに設置された。第二次世界大戦期末の原爆投下で全ての城の建物は破壊された。1958年より、広島復興のシンボルとして、本丸の天守と二の丸の櫓などが復元され、今日に至っている。国指定史跡、日本100名城の一つ。本丸と二の丸だけが城跡として残されている。また、かって城の庭園だった「縮景園」も京橋川の川沿にある。

 8月8日(水)の早朝6時半頃にJR広島駅近くのホテルを出て、広島城に徒歩で向かった。街にはいくつもの川や𣘺があった。清潔感のある街並みを歩く。30分ほどで城の内堀や櫓が見えてきた。内堀に架かる橋を渡り二の丸に入った。銃眼がある狭間の塀が並ぶ。

 被爆樹木の「ユーカリ」の大木があった。今から73年前の8月6日の原爆投下の際に被爆、命を残して再び成長した樹木の一つだった。

 広島城には何本かの被爆樹木があった。マルバヤナギやクロガネモチの樹木など。爆心地から700m〜900mからの場所だ。かって1945年8月6日の原爆投下の日まで、ここ広島城内には「中国軍管区司令部」があり、空襲に備えての「地下防空作戦室」もあった。一瞬のうちに街が壊滅したが、かろうじてここの「地下防空作戦室」の電話機と回線(軍事専用電話)だけが使えたため、この電話で「広島壊滅」の一報が、東京の大本営に初めて伝えられた。

 本丸を歩くと、いたるところに黒い瓦が落ちていた。当時、原爆で破壊されつくした建物の屋根瓦の一部なのだろうか。建物の礎石もいたるところに残っていた。夾竹桃の花が咲いていた。復元された五重層の天守閣は見事だ。本丸から内堀や市内を望む。そして、本丸と二の丸を出て、内堀越しに天守を見た。

 


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