昨日は海老蔵くんが元気に蕎麦を打った。そば打ちはイケメンにこそ与えられた天与の才か?というくらいいい蕎麦が打てた。
なんの道でも、まじめに進んでいると、急に別人のようにうまくなる時がある。
昔からそんなところを、「卒啄の機」とかいって、禅の修行などの時に使われてきた。
悟りとは、別に、お寺にこもって坐禅をしたり、滝に打たれたりすることではなく、日常
の中、お茶を飲んだり、ご飯を食べたり、くそしたりする中にこそあり、膨大な無意識の海
の中から、何かを発見し、それを意識する瞬間にある。
その後、燕京亭にいって、ぎょうざとビールを飲んでいると、選挙の開票番組が始まる。
酒がまずくなりそうな予感がきたので、紹興酒を一杯飲んで、家に帰った。
今朝は、卵かけごはんの日なので、朝いつものようにお店にいき、蕎麦を打ち、
ご飯を炊く。お寺でまかないをやる人たちのことを天座(てんぞ)という。これも立派な修行。
普賢菩薩の化身の拾得(じゅっとく)は天座で、箒をもっている。筆を持っているのが文殊菩薩
の化身で寒山(かんざん)という。昔から、禅林や絵描きが好んで「寒山拾得」を書いた。
悟れない凡夫のあこがれの姿なのかもなんばん。ふたりとも、ぼろの衣装を身にまとっているが、
こころは、とらわれもなく、大いなる自由の中に遊んでいる。水前寺清子ではないが、♪ぼろは
きてても、こころは錦・・・だ。
今、庭に四十雀(しじゅから)が遊びにきている。
♪ たのしみは 常に見なれる 鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きし時(橘曙覧)
今日の夜は「福」の会
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