長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

目で殺す   そんな女に出会ってみたい

2013-12-19 10:09:33 | Weblog

火曜日は「書をしよう会」だった。

先生の貞本さんとは、大塚の「江戸一」で知り合った。まだ若いのに

白鷹の燗を幸せそうに飲んでいる姿が印象的だ。その後、馬があい、

ぼくがやっていた組合に入ってもらったり、ヨネクラボクシングジム

にもいっしょに通ったりするようになった。押上に天真庵を結ぶ時に、

「看板」の文字をこころよく書いてもらった。そして自然発症的に「書をしよう会」

が始まり、おもしろい文人墨客たちが月に一度、書をかきにくる。なんとも自由闊達で

融通無碍な雰囲気だ。

今年没後250年になる「売茶翁」(ばいさおう)を物心両面でささえたのが、江戸時代

の代表的な文人・亀田窮楽。大酒飲みだったらしい。どうも彼と彼(貞本)と、同じ匂い

がしていて、売茶翁の映画でもつくることになったら、彼以外演じられないのでは、なんて思ったりする。

一月号の「墨」という雑誌に見開きで、貞本さんの書が紹介されることになった。

煎茶を楽しんだ文人に「頼山陽」という人がいる。教科書には「日本外史」の著者として紹介されている。

その中に「川中島」があり、ぼくの生まれた北九州では、小学校の運動会の騎馬戦のことを「川中島」という。

頼山陽は引っ越しが好きだったらしいが、最後は「山紫水明処」と名付けた家を加茂川の近くに立てた。

ちょうどぼくが通った大学の近くにあり、一度いったことがある。そのころは煎茶や文人趣味にはさほど関心

がなかったのに、不思議な縁みたいなものを感じた。その時のイメージが残っていて、天真庵の二階の雰囲気

はそんな感じがする。火曜日は少し寒かったので、「剣菱」を熱燗にして飲んだ。

実は、「剣菱」と頼山陽は深い因縁がある。「酒を愛すること妻の如く、酒を惜しむこと銭の如し」

と謳った頼山陽は、茶とお茶けとは切りはなせない人だった。剣菱酒造の当主・原佐一郎は、「老柳」

と号し、文人たちとの交流を楽しみ、清貧な彼らを援助していたらしい。そんな流れがあるのか、ぼくらが

学生のころの頑固なおでんやや居酒屋の主人たちは、「剣菱しかおかへん」というのがあまたいたような

気がする。ぼくは、おでんには「名誉冠」のぬる燗だときめていた口だけど・・・

今日は「ピアノの調律」。調律師のIさんも無類の酒好き、料理好き、器好き。

 

♪ 京都三条の糸屋の娘(起)姉は十八 娘は十五( 承) 諸国大名は弓矢で殺す(転)糸屋の娘は目で殺す(結)

これも頼山陽作。起承転結を説明するのに、中学一年の国語の福田先生が教えてくれた。大学を京都に

きめたのは、この詩の影響は大きい。